三島由紀夫の最後の長編『豊饒の海』第一部『春の雪』のモチーフのひとつには、正田美智子(上皇太后)との縁談があった。
聖心女子大からの推薦で、歌舞伎座で隣り合わせに座るかっこうで面会し、その後、料亭で歓談したという。そして三島は母倭重江とともに、正田美智子の卒業式を見学に行っている。
当時も今も、聖心女子大はハイソサエティー女子のメッカである。三島の作品では『お嬢さん』のヒロインが聖心の在学生という設定だ。
そして、明仁皇太子(平成上皇)と正田美智子の自由恋愛を装った縁組が、これを前後して行なわれている。旧華族の北白川肇子に決まりかけていたところ、小泉東宮参与、黒木東宮侍従らが水面下で正田美智子嬢を皇太子妃にしようと画策し、偶然をよそおった軽井沢テニスコートでの出会いが準備されたのだ。昭和天皇の「東宮の嫁は、民間から」という意向がはたらいたという説もある。
三島家はどうだったのだろうか。三島の祖母のなつが「商家の娘は(ダメ)」という反対派で、三島家から断ったとされているが、真相はよくわからない。いずれにしても、三島が「『春の雪』はフィクションというわけじゃないんだよ」と語ったのは、このことである。
◆三島の円照寺取材
『豊饒の海』の作品全体をつらぬくモチーフとして、阿頼耶識(大乗仏教)と唯識論、いいかえれば唯心論の中心には、綾倉聡子が出家する月修寺(円照寺)があった。
円照寺は臨済宗妙心寺派だが、作品中の月修寺は法相宗という設定である。法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、法相宗でなければならなかったのだ。
円照寺の縁起からも解説しておこう。円照寺は後水尾天皇の第一皇女・文智女王が開いた寺院(当時は草庵)である。
後水尾天皇による山荘(修学院離宮)の造営にともなって、圓照寺は移転を迫られた。明暦2年(1656年)、継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により、大和国添上郡八嶋の地(奈良市八島町)に移り、八嶋御所と称す。さらに東福門院の申請により、幕府から200石の寄進を得て、寛文9年(1669)に八嶋の近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した。爾後、門跡寺院として皇女が入寺し、山村御所と呼ばれた。
その円照寺門跡、山本静山尼が提唱天皇のご落胤、もしくは三笠宮親王との双子で、したがって昭和天皇の妹であるという説については、前回解説したとおりだ。
三島由紀夫が河原敏明説(1979年発表)を知らないのは言うまでもないが、取材を思い立ったのは、いったい何の機縁であろうか。何かが導いたとしか思えない偶然である。三島由紀夫と正田美智子、そして山本静山尼。
作品(春の雪)から解説しよう。物語の結末を暗喩する、唯心論のくだりである。
松枝家の築山の滝に、死んだ犬が落ちていた。来訪していた月修寺の門跡がこれを供養する。
そのとき月修寺門跡(先代)がした講話は「元暁の髑髏水」であった。「心を生ずれば則ち種々の法を生じ、心を滅すれば則ち髑髏不二なり」。
ようするに、元暁という僧侶が暗闇のなかで見つけて、ありがたく飲んだ水が、髑髏の中に入っていた(思わず吐き出してしまう)という顛末である。心しだいで水は美味であり、吐き出したくもなるという寓話だ。
そのとき、作品中の狂言回しである本多繁邦は、主人公の松枝清顕にこう語りかける。
「純潔な青年は純潔な恋を味わう」しかし「相手がとんだあばずれだと知ったのちに、もう一度同じ女に、清らかな恋を味わうことができるだろうか?」「できたら素晴らしい」と。要するに、唯心論なのである。
三島は円照寺を二度おとずれ、二度目の訪問で門跡山本静山に会っている。三島はその印象を、「この世のものとも思えないほどの気品で、ただ絶世の一語につきる」と語っている。自身の創作物である綾倉聡子が、そこに現出したのであろうか。そして月修寺(円照寺)は、物語を反転させる場になる。
◆『豊饒の海』謎の結末の解釈
従来『豊饒の海』の結末の謎は、さまざまに解釈されてきた。悟りの末の「空(何もないところ)」に色即是空を当てはめてみたり、禅宗的に「無」の風景をそこに想定する。哲学的なイデアで解釈する。世界の崩壊をそこにアナロジーするなど、恣意的な解釈であることに変わりはない。文学論とはそもそも、評者の勝手な読み込みにモチーフがあるのだから。
しかし、三島作品をそれほど読んでいない批評家の作品論には、わたしのように全作品、全評論を通読してきた者には違和感がある。夭折にあこがれ、英雄的な死にふさわしい肉体を耕し(『太陽と鉄』)、憂国という舞台建てのなかで切腹死したことと、この作品の結末は無縁ではない。
作品の文章から引用しよう。長く美しい文体がわざわいして、この作品は読者に通読を許さない難解さがある。その例証として、わたしが久住純の筆名で書いた『情況』(2020年秋号「芸術としての政治の完成」)からである。
道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。この、全くの静けさの裡(うら)の、隅々まで明瞭な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。しかし、これほど澄み渡った、馴染(なじみ)のない世界は、果たしてこれが住み慣れた「この世」であろうか。
どうです? 禅宗寺院の門前の風景、一気に読みくだせましたか? 松枝清顕が出家した綾倉聡子との叶わぬ逢瀬のために通う、六回目の月修寺訪問のシーンである。そこが何もない場所である物語の結末への暗喩が、長文の末尾にほのみえている。
『豊饒の海』の結末とは、月修寺の門跡となった綾倉聡子が、松枝清顕の存在を否定することで、物語全体を否定することになる。いわば夢オチである。
推理小説において、主人公(探偵や刑事)が真犯人であるのは規則違反とされる。夢オチも禁じ手とされている。いずれも魅力的な手法だが、それをやってしまうとストーリーが破綻するからである。
『豊饒の海』の結末は、じつにこれなのだ。三島は月修寺の門跡(綾倉聡子)に、禁断の恋の相手である松枝清顕の存在を否定させることで、この禁じ手をみごとにやってのける。飯沼勲の転生であるタイの王女ジン・ジャンが、子供のころの記憶(前世が勲であった証言)を「何もおぼえていません」と言うのとはわけがちがう。
門跡(聡子)の言葉が真実であれば、主人公の本多すらも存在しなかったことになるのだ。門跡が言う「それも心々」とは、唯心論の真骨頂である。市ヶ谷蹶起の秘密は、じつはここに隠されている。
市ヶ谷蹶起の日に、担当編集者に最終原稿を渡した意味もここにある。それは、すべてを「なかったこと」にする企みだったのである。原稿2000枚、創作ノート23冊におよぶ大作を、夢オチで何もなかったことにする。すべては作りごとにすぎないというものだ。
どうだ、すべてお釈迦にしてやった、お前らに出来るものならやってみろ、である。この地点からは、到彼岸で高笑いしている作家の相貌が浮かぶ。三島の創作活動のすべては虚構に過ぎず、現実にあるものは割腹死だというものだ。それも、三島由紀夫であった亡骸(生首)にすぎない。作品の完結とともに、作家も居なくなってしまったのだ。われわれを置き去りにしたまま、世紀の天才はレジェンドになった。
※三島の市ヶ谷蹶起の真相については、『紙の爆弾』(2020年12月号)の「三島の標的は昭和天皇だった」を参照されたい。
※円照寺は観覧不可だが、奈良交通が年に3回、日帰りのツアーを実施しているという。↓
https://www.tripadvisor.jp/ShowUserReviews-g298198-d8149900-r352575521-Enshoji_Temple-Nara_Nara_Prefecture_Kinki.html
「じゃらん」の案内 https://www.jalan.net/kankou/spt_29201ag2130015879/
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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。