◆バンドからダイエットへ

北沢勝(1968年10月10日、東京都大田区出身)は26歳でプロデビューし、あまり注目される存在ではなかったが、頑丈な体格とバンド時代からの得意技の気合と根性で日本ウェルター級チャンピオンに上り詰めた。

北沢勝は高校時代にコピーバンドを始め、後にSHELL SHOCKというバンドに誘われ、ドラマー担当をした。卒業後もアルバイトしながらスタジオでレコーディング。ライブをして全国をツアーするという生活だった。

「ライブが終わったら飲み会。そんな生活をしていたら太り始めて80kg超え。何かダイエットしなくてはと思いました。」という北沢は元々プロレスファンで、当時UWFに夢中だったが、テレビで安生洋二と対戦するチャンプア・ギアッソンリットのミット蹴りを見た衝撃でムエタイこそが最強と確信し、これがキックボクシングを始める切っ掛けとなった。

SHELL SHOCKのリリースされたCDの一枚、いちばん右側が北沢勝(提供:北沢勝)

◆ムエタイから学ぶ

1993年4月、ダイエットにはキックボクシングをと、家から近くのジムを探すと目黒ジムが見つかったが、そこは名門といった歴史は知らないまま入門。

それまでスポーツというスポーツはやったことは無かったという北沢は腹筋が割れるほどの筋肉質のダイエットに成功。こうなると目指すはプロデビュー。チャンプアの蹴りの影響から始まった本場ムエタイの体験を希望すると、先輩に勧められるがまま翌年2月、バンコクのソー・ケーッタリンチャンジム(後々ゲーオサムリットジムへ移行)での修行に向かった。バンドは我儘を言って辞めた後だったが、辞めた以上は強くならねば恰好がつかない追い詰められた立場でもあった。

渡タイ目的の一つはムエタイ観戦だった。週に三日は夕方の練習が終わると一人でスタジアムに向かって、出来る限り間近で一流の試合を観て、技を真似て練習で実践して、またそこで一流のトレーナーに修正してくれたことが後々役立っていった。

1994年11月25日、ライト級でデビューすると10戦目に日本ライト級1位の今井武士(治政館)に判定負けするまでは、一つの引分けを挟み8連勝(3KO)。26歳でデビューは年齢的には遅いデビューだが、ランキング上昇は努力と研究の賜物。身体が頑丈でコツコツ頑張る気持ちのある努力型という周囲の見方が多かった。

デビュー1ヶ月前のタイでの練習(1994年10月17日)

伊東マサル戦に備えた目黒ジムでの練習(1996年1月24日)

伊東マサル(トーエル)戦は判定勝ち(1996年2月9日)

1998年8月には元・ラジャダムナンスタジアム・ウェルター級チャンピオンだった第一線級から離れて間もないパヤックレック・ユッタキットと68.0kg契約で対戦の話が舞い込んだ。人生最大の危機……いやチャンス。これを逃せば悔いが残ると思うと断る理由は無かった。結果は重い蹴りを受け続けた判定負け。無事生きて帰れたと安堵するが、下がらぬ戦いに周囲の評価は高い。

北沢は身長が170センチには至らず、周囲から「ライト級でも低い方!」と言われたり、体格を活かす為にも1998年末まではライト級登録のままリミット超えの契約ウェイトで頑張ったが、鷹山真吾(尚武会)との日本ライト級挑戦者決定戦は、走っても利尿剤を使っても体重はリミットまで落ちず、ウェイトオーバーという屈辱的な失態は残酷な展開で判定負け。

後日、偶然前回対戦のパヤックレックと会うと、「アナタ、私と試合したのに何、この前の酷い試合は! 今後はウェルター級でやりなさい!」とダメ出しされ即答で承知。小野寺力先輩方にも諭されていたが、「後々思えば無理してライト級でなくてもよかった。ムエタイボクサーにもいろいろなタイプが居た。そこから背が低くてもその戦い方があるのだ」と悟った。「スーパーライト級があればいいのにね。」という声にも「ウェルター級では俺が一番強いからスーパーライト級なんて必要ないですよ。」と笑って返していた。

武田幸三から健闘を称え合う笑顔(2000年1月23日)

武田幸三(治政館)戦、アッパーが鼻をかすめる、棒立ちで次に繋げない(2000年1月23日)

◆チャンピオンへ上り詰める

北沢勝はウェルター級に上げ、適正階級となると3連勝し、2000年1月23日、日本ウェルター級タイトルマッチに挑んだ。チャンピオンはタイ・ラジャダムナンスタジアム王座に挑む前の武田幸三(治政館)。「武田を倒せばラジャダムナン王座挑戦権は俺のもの!」という図式は成り立たないが、全てを奪いに行く覚悟で挑むも、武田の蹴りは速くて上手かった。武田を苦しめ善戦はしたが「武田には負けると思っていたけど、よく頑張ったな!」と言われるのもそう思われるのも嫌いだった。

「あそこまでの引き出ししか無かった。もっと頭使って技を出していればと思います。アッパー当たっても棒立ち状態で、次に繋げていない。」と反省の弁は多いが、「やっぱり北沢は凄いよ!」という声は多かった。

2002年1月27日、次のチャンピオンとなっていた米田克盛(トーエル)から王座奪取。チャンピオンにはなったが、国内無敵の武田幸三を倒せなかったことが心残りも再戦は叶わなかった。

北沢は新日本キックボクシング協会が年一回行なっていたラジャダムナンスタジアム興行「Fight to MuayThai」にはチャンピオンとして2回出場。

2002年のラジャダムナンスタジアム初出場の際には「ビデオで見てた計量のシーンとかに自分が居る。感慨深いという言葉では表せないような舞い上がりでした。」という大舞台に立つ感想。

更に「相手のフェートサヤームはゴツゴツした腹筋は無く、三流のタイ人を連れて来たなと思っていたら、ゴングが鳴った瞬間に貰った蹴り、パンチのあまりの重さにイヤな予感がした瞬間にヒジ打ちを貰って流血。日本人観戦ツアーもいる中、もう死ねるもんなら死にたい、でもその前にお前を殺す。と立ち向かったタフネスさで、最後はフェートサヤームが諦めるように倒れ込んでKO勝ちはしたけど、誰が一番強かったかと言われたら、武田幸三でもパヤックレックでもなくフェートサヤームでした!」というラジャダムナンスタジアム初出場の感想だった。

[左写真]米田克盛(トーエル)から王座奪取(2002年1月27日)/[右写真]初のチャンピオンベルトを巻いた北沢勝(2002年1月27日)

庵谷鷹志(伊原)をKOし初防衛(2003年1月26日)

2003年1月26日、北沢は庵谷鷹志(伊原)にKO勝利で初防衛後、ヒジ関節を手術する時期はあったが、リハビリも順調に進み、ブランクを空けるつもりもなく試合出場の準備は整えていたが、出場停止でもないのに試合が組まれない時期が9ヶ月続いた。その間にランキング1位の米田克盛がムエタイ王座挑戦となれば、やりきれない気持ちになるのも当然だった。ブランク明けの外智博(治政館)とのノンタイトル戦は凡戦の引分け、2年目「Fight to MuayThai」は判定負け。翌2004年1月25日には米田克盛に判定負けで王座を奪回されてしまう。

最終試合が2004年5月8日、阿佐見義文(治政館)戦は1ラウンドKO負けで、不甲斐ない試合が続くに至ったと悟り、リングを去る決意をした。

◆ジム経営を任せられる

引退後は小野寺力氏のRIKIXジムや現役時代にお世話になったジムでトレーナーとしてお手伝いを続けていたが、現役時代のスポンサーで応援団長だった「がぜん」という全国規模の居酒屋チェーン店のオーナーからジム経営を任された。「まさか自分がジム経営なんて!」と戸惑う間もなくジム会長として、ジム名は幾つも候補が却下される中、西岡利晃が対戦したレンドール・ムンローの腹筋が6パック割れより凄いと言われていたことや、タイでは9がラッキーナンバーというこじつけが認可され“ナインパック”に決まり、2011年3月1日、足立区関原の東武伊勢崎線西新井駅から近い地域にオープンとなった。

キックボクシングはチャンピオンになっても生活が成り立たない職業。チケット売りながら将来のことも考えながら暮らしていたら勝てるものも勝てない。そんな苦労を経験した北沢は「毎日お酒を飲んでも腹筋は割れるよ!」という誰でも出来るダイエットや健康増進をモットーに、「プロで教わったパンチや蹴りの効果を教えて、会員さんが試合観ても技の解説できるような楽しめる教え方をしたい。」と語る。現在は会員数が150名ほど。入会が増えたと思っても退会も多かったり、関わってみてわかるが、経営は難しい部分が多いという。

ジムへ務める今はバンドのSHELL SHOCKからも復帰の声も掛かるという。新たな展開が見られるかもしれない北沢勝のバンドの活動にも進展があるならば注目したいものである。

ナインパックジム会長北沢勝 M-150(タイで有名、エナジードリンク)を持つ(2021年1月7日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」