明治元年(1968)10月12日に即位したとき、天皇は14歳であった。孝明天皇の第二皇子、母親は権大納言中山忠能の娘中山慶子とされている。中山慶子は典侍(ないしのすけ=側室)であるから、女御(正室)の九条夙子(英照皇太后)を実母と公称した。

女児のごとき祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王から、後年の男性的な明治天皇となった落差。この落差ゆえに「明治天皇はすり替えられた?」(前回掲載記事)とする説が生まれたのである。それほど落差が感じられるのを、ゆえなしとはしない明治天皇の「雄々しさ」とは、どのようなものなのだろうか。

 

明治天皇

◆調停機関から大元帥へ

20歳になった天皇の事績はすぐれて明快である。

征韓論をめぐって起きた明治6年政変では、勅旨を発して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ、政権内部の対立を調停している。

同時期に全国で起きた自由民権運動に対しては、漸次立憲政体樹立の詔を出してこれを慰撫。これらの背景に三条実美、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允ら政権主流派の動きがあったのは明白だが、政権調停機関としての役割をそこに見出すことができる。

明治15年には軍人勅諭を発し、大元帥としての性格を明確にしていく。さらに明治22年2月11日、大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇大権を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった。

翌明治23年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を明記する。殖産興業・富国強兵政策の先頭に立つ、近代天皇の姿を明確にしたのである。

そして、いよいよ明治27年(1894)、日本は大元帥のもと日清戦争に踏み切る。このとき天皇は大本営において、直接戦争指導に当たっている。

明治37年(1904)の日露戦争も同様に、大本営にあって戦争を指揮している。

日露戦争後は韓国併合と満州経営をすすめ、日本を植民地支配する帝国主義に押し上げた。ぎゃくにいえば、侵略と併呑、寄生性と腐朽化への道(レーニン)である。これらの「偉業」をもって、天皇は後年「明治大帝」「明治聖帝」と呼ばれる。

だが、その覇業は古代いらいの帝としての皇統継承事業、すなわち子づくりにおいても発揮された。いや、近代天皇制を古代的な親政において実現する志向は、子づくりや華族の縁戚化、そしてのちには皇族の拡大という宮中第一政策において実行されてゆくのだ。

 

一条美子

◆片っ端から女官に手をつける

とにかく、女には手が早かった。皇后は一条美子という、のちに昭憲皇太后と称せられる女性だが、この人との子はなかった。

以下、側室となった女性たちである。

葉室光子は19歳のときに宮中に入り、翌年には天皇の第一子を出産するも死産。光子も産後に亡くなった。

橋本夏子も17歳のときに女子を身ごもったが死産、自身も産後の経過不良のため死去。

千種任子も二人の女子をもうけるが、夭折する。

のちに大正天皇を生む柳原愛子も二人の男子と一人の女子を幼くして失っている。こうなると、側室とその子供たちの地獄というべきか。

じつはこの事態には、日本社会を覆った感染症の影響があったと考えられる。天然痘とコレラである。

孝明天皇は1866年12月11日に発熱し、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、親王(明治天皇)に完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこしたという。

 

柳原愛子

「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」(中山忠能日記)という最期であった。いったん快方に向かい、そこから再度悪化したことで、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介しているのだ。

これが前回紹介した毒殺説であるが、ともあれ天然痘による疱瘡が確認できることから、これ以降も種痘を受けなかった幼子、女官たちが相次いで感染し、命を落としたことは容易に想像される。

多産だったのは、園祥子という女官である。彼女はわずか13歳で女官となっている。明治18年、19歳の時に初産に失敗(女子死亡)し、翌年も女子を失っているが、21歳の時に天皇の11子を生むと、6人の子をつくり(うち2名死亡)、合計8人もの皇子を身ごもったことになる。

明治天皇最後の女は、小倉文子(伯爵家)という女性だったが、子をなさなかったことから公式の記録には残っていない。

けっきょく、明治天皇は5の皇子と10人の皇女をなしたのである(成人したのは5人、男子は大正天皇のみ)。慧眼なる読者諸賢は、男子5人、女子10人という比率の中に、近代天皇家における男子出生率の低さを読み取るであろう。しかし大正天皇には4人の皇子はあっても、女子はいなかった。昭和天皇においては、男子2人、女子5人である。平成天皇は男子2名、女子1名、令和天皇は女子1人である。

もっとも、伊藤博文や松方正義など、明治の元勲とよばれる人たちの女好きは有名で、明治天皇がとりたてて女癖が悪かったというものでもない。

◆60歳の若さで崩御

当時はじゅうぶんに生きた年齢だったのかもしれないが、享年60であった。

晩年は歩行も困難なほど体調を崩し、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いていたという。じっさいに糖尿病だったようだ。枢密院の会議中に、寝てしまうことも多かったという。

写真撮影を極度に嫌ったので肖像画でしか往時を偲べないが、べつに西洋文明を否定したり「写真は魂を抜き取る」などの明治人に特有の迷信ではない。食事は西欧風の肉食や牛乳を奨励し、明治6年にはみずから断髪して、国民に西欧風の生活習慣を率先垂範している。

天皇は酒をたしなみ、乗馬や和歌、刀剣蒐集、レコード鑑賞を好んだという。それにしても、60歳は若すぎる。相当なストレスに見舞われる日々があったのだろう。

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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◆昔は同一色

試合で使われるボクシンググローブ、昔は赤色(赤茶色のような深い朱色)グローブが主流。古くはもっとドス黒い赤紫色もあった。日本製(Winning社製)グローブを使用する日本のプロボクシングやキックボクシングはそれが普通だった。それしか無かったとも言える。それが今や外国製で何色も揃い特注も可能、グローブもファッション化してきた時代である。

新日本キックでは主にタイトルマッチで黒vs黒を採用した

モノクロでは明暗差のみ。色は分からない

◆色分け、なぜ始まったか

22~23年程前、取材で訪れたプロレス系の異種格闘技マッチで、両選手のグローブが赤と青に振り分けられていた。このシステムはK-1から真似したものだろうとは推測。

両者を見分け易いなと思ったが、すぐに違和感を覚えた。打撃競技で直接相手の顔面をヒットさせるグローブが、両者の色が違っては公平性は保たれていないではないかと思った。それは色彩によって心理的影響があると思ったからである。

それまでにアメリカ製、メキシコ製といった外国製は何色もあったと思うが、両者のグローブの色の振り分けすることは殆ど無かった。それがK-1から始まり、後にキックボクシング各団体が採用し始めた。更には、後発のイベントものの真似はしないだろうと思っていたプロボクシングも遅れて始まった。そんな疑問を当時のJBC役員に聞いて見たことがあった。

当然、色彩的影響も把握しているというもので、当初は振り分けは行なわなかったが、やっぱり見分け易いという意見が大半で採用に至ったようであった。

実際の試合で選手がそんなグローブの色で有利不利があるかと言えば、色の好み自体はあるだろうが、ほとんどの選手が気にしない、意識しないのだろう。

1990年代までは赤vs赤が主流

最近、リングサイド関係者の意見を10数名に聞いて見たが、「観客や審判団が見てもグローブの色が違うと両者を見分け易いと思う。」と語り、反対意見は一人も居なかった。

選手側の意見では、「最近のWOWOWエキサイトマッチを見ると試合は勿論ですが、グローブの色とメーカーをチェックしてしまいます。」といった声や、「相手の動きを見て戦うので、試合中にグローブの色は意識したことはないですが、タイの先輩トレーナーが、黒のグローブはパンチが見え難いという意見を聞いたことがあります。」といった声を聞くことができた。

これは世界的にも定着し、ムエタイに於いても定着してきた色分けシステムである。
大方の意見も試合に与える不利な影響は無いと考えられるが、さすがに白と黒の振り分けは明暗差が大き過ぎるので止めた方がいいかもしれないとは思う。

◆違和感持つ選手、プロモーターもいる

それでも業界の中には色の影響を察する選手やプロモーターも居たのも事実である。派手な色と地味な色のグローブが同等の強さとヒット数があった場合、審判(副審)から見て派手な色に意識が働くのではないか。それは見た目の判断より、潜在意識からくる錯覚。

また照明やリングマットの色によってグローブの色にも心理的に影響するのではないかといった総合的な不平等性を鑑み、グローブの紐を縛る手首部分に赤と青のテープで振り分ける対処をする団体やプロモーターが現れた。

ある総合格闘技系の試合で、両者同意の下、2色の好きな方のグローブを選べるルールの試合では、色彩による影響を考える選手は「青いマットのリングでは青のグローブを選ぶ。」という選手が居た。対戦相手から見れば多少でも見難くなる心理作戦であった。

現在の主流、両陣営コーナー色

現在、NJKF興行で採用されている赤と青はDONKAIDEE製

黄金色もあるWinning社製(画像提供:TEAM KOK代表 大嶋剛)

◆全身カラフルな時代

昔はトランクスの色を義務付け両者が振り分けられていた。しっかり徹底されていた訳ではないが、赤コーナーは赤系統と白、青コーナーは青系統と黒。しかし、トランクスも選手の希望するデザインが流行りだしたことで、次第に強制し難くなり、グローブの色分けは止むを得ないと改訂されてきたことも否めない。

昔は名前が売れていない前座の新人選手に対し、「赤パンツ頑張れ、青パンツガード上げろ!」といった声援もあったものだ。今や名前の縫い取り部分以外は赤地や青地、白地や黒地一色のトランクスが懐かしい。

更には「最近の派手派手なグローブに合わせて御洒落を施したトランクスは、観ている方はテンション上がって楽しい。」という意見もある。

グローブについては品質向上により各メーカーも黄金色、迷彩柄、スポンサーのロゴ入りなどデザイン化され多彩に進化してきた。魅せるファッションも重視されるような時代になったものである。

20年以上前に問題継起(新聞のコラムにも掲載)したこのグローブの色分け問題はより一層不要のものとなってきた。

前回の計量後のリカバリーに於いて、選手にとっていかに体力回復させるかのコンディション調整が一番で、グローブの色など些細なこと過ぎてどうでもいい話だろう。遠めの観客席から見ても分かりやすく、テレビ映りも良く、審判団から見ても誤審に繋がらない等の最もな意見で賛成者多数。

キックボクシングにとってもう一つ御洒落に魅せることが出来るものにアンクルサポーターがある(プロボクシングに於いてはボクシングシューズ)。これも派手派手なカラフルな色で登場した選手が居るが、更に髪型も拘ることが出来るアイテムで、今後も茶髪にギンギン色トランクス、ギラギラ色アンクルで登場する選手はいるだろう。戦後のプロボクシングから見れば派手な時代(良く言えば進化)となってしまった。時代の流れとは、ロートルの意見では止められない勢いがあるものなのである。

昔懐かしい昭和のWinning社製グローブ

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆濃姫が「毒殺」を使嗾

最後は巧くまとめるんだな、という印象である。少し早いが、次回(2月7日)が最終回ということで、ネタバレ情報も入ったので解説しておこう。とんでもないことが起きない限り、これで最終講評としたい。

前回の講評では朝廷黒幕説、正親町帝が「信長が天下を乱すようなら、見届けよ」。つまり「信長追討の密勅」が暗に行なわれたという解釈で、トンデモないことを云うものだと批判した。そもそも織田家の陪臣の身では、帝に拝謁できない時代考証の誤り。

しかるに、43回「闇に光る樹」は京都で濃姫(帰蝶)と密会し、濃姫をして「父道三ならば、信長に毒を盛る」と言わせるのだ。

NHK大河ドラマ・ガイド『麒麟がくる 後編(2)』

以前の批評で「誰でもいいから黒幕説」のひとつとして、森乱丸黒幕説と並列していたトンデモ説が、にわかに浮上してきたのだ。陰謀の陰にオンナありのドラマとしては秀逸な展開だが、濃姫と光秀がおなじく道三を父と仰ぐような関係ではないことを確認しておこう。

すなわち「麒麟がくる」のコンセプトそのものに関わることだが、光秀が信長に仕えるようになるまでの前半生はほとんど謎、消息不明なのである。

土岐一族系の明智氏の出であることは、たぶんその名乗りから疑いないかもしれない。そんな程度の出自なのである。明智城や明智の荘に係る、同時代史料があるわけではないのだ。

足取りがわかっているのは、越前朝倉家に何らかのかたちで関係していたことぐらいである。この点は「麒麟がくる」も史実考証に忠実で、朝倉氏に仕官したとはしていない。したがって「信長さまに拾われるまでは浪々の身であった」という史実を踏襲したことになる。

いっぽうの濃姫(帰蝶)も、足取りがよくわからない人物である。濃尾同盟の証しとして信長に嫁いだのはまぎれもない史実だが、その後がよくわからない。

複数の史料に「安土殿」「信長公御台」「北の方」などの記述があるので、信長没後まで生存していた可能性は高いが、早世説もある人なのだ。それも信長の子を産まなかったからにほかならない。

信長には生駒吉乃をはじめ、11人の側室があり、12人の息子と9人の娘、6人の養子があった。悲しい話だが戦国女性は子を産まなければ、よほどの内助の功がない限り存在感は希薄となる。

◆イラスト合戦

今回の大河がふざけているのは、時代考証のいい加減さだけではない。合戦シーンがじつに断片的で、その大半が歴史解説番組なみのイラストなのである。これほど歴史ファンを莫迦にした脚本があるだろうか。

光秀の場合は単独で戦った大きな合戦といえば、丹波制圧のほかには天王山の合戦(山崎の合戦)ぐらいしかなく、重点を置ききれなかったのは了解できる。

しかし、比叡山焼き討ちとともに武田征伐では恵林寺での快川紹喜の「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」などは欠かせない見せ場で、信長の残虐性を際立たせるには格好のネタであったはずだ。長島合戦や越後での一向宗狩りなど、信長を悪者にするシーンは豊富にあったはずだ。

松永久秀の最後について前回も解説したが、北陸戦線で織田軍が上杉謙信に敗北した事情(秀吉の無断離脱)など、当時の緊迫感のある政治情勢を欠いてしまったために、ドラマ自体がふぬけた印象となった。

◆最期を描かないラスト

さて、問題はラストである。これまで大河ドラマは主人公の最期まで描き切ることで、偉大な人生の達成感を視聴者にもたらしてきた。

もちろん例外もないではない。上杉謙信の生涯をえがいた「天と地と」では、第4次川中島合戦の「勝利」(実際の歴史家の評価は、引き分けであろう)でジエンドとなっている。その後のエポックを欠く関東出兵や北陸での織田氏との争いなど、とうてい長すぎて描き切れないという事情がみとめられる。

しかし、今回は光秀の情けなさを象徴する「三日天下」(実際には11日)と天王山の合戦を、簡略シーンかイラストで済ませてしまおうというネタバレ情報なのである。

天王山の合戦の敗因は、秀吉が「信長さまは生きている」と吹聴したために、光秀方に兵が集まらなかった、とするものだそうだ。

本能寺で信長の首が見つからなかったのは史実である。信忠(信長の息子)の首も二条御所の縁板を剥がして遺体を隠したという説があるとおり、織田父子の深謀遠慮が感じられる。

だが、史実は本能寺の変後の政治工作が朝廷方面に手間取り、一向宗(根来寺)や長曾我部元親、上杉景勝、武田遺臣団など反織田勢力への工作が不足したのである。

本能寺の変後、北陸から柴田勝家が撤退、信濃からも森長可が撤退、川尻秀隆が武田遺臣団に殺され、滝川一益も北条氏に攻められて敗走するという、各地の織田勢が総崩れ(天正壬午の乱)するなかで、光秀は政治工作の不足で求心力を得られなかったのだ。

光秀の人望のなさも挙げざるを得ない。前回の講評で紹介したとおり、フロイスの「みんなからは嫌われていたが、信長だけには気に入られていた」という人物評価が当たっているのだろう。あてにしていた細川藤孝も筒井順慶も、光秀に味方しなかったのだから。

肝心の最期のシーンはどうなるのだろうか。

小栗栖の田の細道を十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されたとする『別本御代々軍記』(「太田牛一」のが正確なところと考えられる。そこで切腹するというのが江戸時代の歴史本だが、実際にはその後斬首された斎藤利三とともに、粟田口に首と胴体をつながれて晒されたという(「兼見卿記」)。

ともあれ配役の演技陣諸氏には、最後の熱演技を期待したい。

[関連記事]
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈1〉 人物像および本能寺の変に難点あり!(2020年8月28日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈2〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 謀略の洛中(2020年9月6日)
◎「麒麟がくる」の史実を読む〈3〉本能寺の変の黒幕は誰だ? 朝廷か将軍か(2020年9月13日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈上〉光秀は帝に会える立場だったか? 朝廷陰謀説を採ったNHK──本当にいいのか?(2021年1月23日)
◎最終講評「麒麟がくる」〈下〉天王山の合戦は省略 朝廷・濃姫黒幕説で、最終回はイラストで終了か?(2021年2月5日)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

◆法律にもとづかない「お願い」

《スポーツジムの時間短縮営業は、本当に危険だ。3日ほど前から近所のジムが夜8時で閉まるようになった。閉まる直前に人が集中し、ほとんどコロナ前と同じ感じ。夜11時まで営業のときは、人が分散してまばらだった。なぜ人が密になるようなことをするのか。夜8時まで営業という同調圧力のせいだろう》

これは、新型コロナウイルスに感染リスクを心配した筆者が1月17日にFacebookに投稿した内容である。

2月2日、栃木県を除く10都府県を対象に緊急事態宣言を1か月延長すると政府は決めた。1月7日に11都府県に緊急事態宣言が出され、2月7日まで昼も夜も外出自粛を要請し、飲食店を中心に営業を夜8時までに短縮するように要請してきた。

なぜ、8時で営業を止めると感染者が減り、それ以降営業していると感染者が減らないのか。「なるほど」と納得するような根拠がわからない。

時短営業の対象者は主として飲食業である。とくに酒類を提供する事業者は夜7時にアルコール提供を止め、8時には店を閉めろという要請内容だ。

このほか、スポーツジムやパチンコ店、雀荘、映画館等にも営業時間短縮の「お願い」をしている。しかし、こうした業種に対しては、法律に基づかない「お願い」なので、協力金などの補償は出さない。

だから、飲食店ばかりか、広範囲のサービス業従事者が相当な打撃を受けるだろう。肉体的には生存していても、社会的・精神的に死ぬ人は膨大になると思う。


◎[参考動画]緊急事態宣言延長で分科会 「対策強化」提言(TBS 2021年2月2日)

◆8時営業停止でスポーツジムは人が密集

「8時以降の営業中止」に疑問を感じていた1月11日か12日の18時50分ころ、筆者は近くのスポーツジムに行った。受付で熱を測り会員カードチェックを経て館内に入ったとたん、いつものと違うとすぐ気づいた。

ロビーに人が多いのである。ロッカールームに行くとさらに驚いた。空いているロッカーをすぐ探せなかったのである。

というのは、感染拡大防止策として、一つおきにロッカーを封鎖し、隣どおしで利用できないようにしてあるからだ。空いている場所がほとんどなく、一番隅にある不便な場所のロッカーをようやく確保した。

トレーニングマシンやスタジオ、フリーウエイトのスペースがある階に行ってみると「いつもと景色が違う」とハッとした。

ランニングマシーンは、9割がた人で埋まっており、エアロバイクも空いているのは一つか二つ。

ダンベルやバーベルを使用するフリーウエイト・ゾーンに行くと人が多く、ダンベルなどを扱っているとほかの人にぶつかりそうで危ない。

ウエイトトレーニング・マシーンも、機械が空くのを待っている人がいる。

これは完全にコロナ以前の日常風景だ。というより、筆者が通っている時間帯に関しては、コロナ以前より混んでいる。いまこの時期にはありえない“幻影”を見ているようだ。

運動を終えて風呂に行ってみると「ああ、ダメだ」と思わず声に出しそうになった。カランは全く空いていないし、サウナの前には次に入ろうとする人が待っている。

浴槽も入るスペースがない(詰めて入れば可能ではあるが)。腰かけることもできず、浴槽にも入れない数人が、ただ立っている。

翌日以降も、同じような状態だった。政府や自治体の要請にしたがって営業時間短縮を実施したことで、感染リスクは高まったのだ。これは、他のスポーツジムでも同じだろう。

◆夕方5時から8時に顧客が集中

どの施設でもそうだと思うが、筆者が通っているジム(東急スポーツオアシス)では、新型コロナウイルス感染拡大のため、大変な努力をしてきた。

冬でも数か所の窓を開けて換気するのに加え、機械を使って室内の空気を外に出す。ロッカーは一つおきにしか使えない。あらゆる場所にアルコールとペーパータオルが用意され、スタッフや会員が頻繁に使用した器具や場所を吹いてウイルスを除去するようになっている。

もちろん、ランニングマシーンやエアロバイクは透明のパーテーションで区切ってある。スタジオを利用したレッスンも時間帯や人数を制限は当然のこととして行われてきた。風呂場には風呂内のマスクなしでの会話禁止を訴えるノボリも。

定期的に館内放送で、感染拡大防止のための具体的な行動を呼びかけ、利用者もこれに応じてきた。

せっかく、スタッフと利用者ともども創意工夫と努力を重ねてきたのに、8時営業終了によって、どう考えても感染リスクが高まってしまったのである。

おかしいと思っていたら、1月27日、スポーツジムから会員向けメールが届いた。2月1日から7日までを通常営業に戻すという内容である。

《ご利用状況を調査した結果、特に17時以降の利用率が顕著に高くなっておりました。 社内で検討した結果、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、混雑緩和へ向けた取り組みとして、ジム、プール、ロッカー、浴室のご利用を通常営業時間に変更させていただきます》(送信されたメールより抜粋)

きわめて妥当な判断だろう。日経電子版(1月8日付)によれば、スポーツジム大手のコナミスポーツ、ティップネス、セントラルスポーツ、RIZAPグループなども夜8時までの営業時間短縮を実施するとされていた。

スポーツジムにおける営業時間短縮は、経済的被害を拡大さるばかりか、感染拡大防止の観点からも誤りだったとみていいだろう。さっそく各社は方針転換をはかるべきではないか。

▼林 克明(はやし まさあき)
 
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

私たちは2016年春先から「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」「M君リンチ事件」)に関わり続けてまいりました。早いものでもう5年が経とうとしています。

 

2021年鹿砦社が最初に投下する爆弾!『暴力・暴言型社会運動の終焉』2月4日発売!!

そうして昨年からその「検証と総括」の作業に努めてまいり、これはきちんと一冊にまとめ形のあるものとして残すことにしていました。こういう事件が再び起きないようにとの願いを込めてのことです。

想起すれば、5年近く前に本件が持ち込まれ、この被害者M君のリンチ直後の写真を見、リンチの最中の録音を聴いた際に、素朴に「これは酷い」と感じ、加えて被害者M君はリンチ後1年余りも、わずかな友人・知人を除いて孤立無援の状態にあったことも聞き、少なくとも人道上放置はできないと思い、本件に関わり続けて来ました。若い大学院生が、これだけの凄絶な集団リンチを加えられ、藁をも摑む気持ちで助けを求めているのに突き放すことは、私の性格からして到底できません。爾来、昨年広島原爆投下75年に際し被爆二世をカミングアウトした田所敏夫をキャップとして取材班と支援会を発足させ、微力ながら被害者救済・支援と真相究明に携わってきました。この選択は間違ってはいなかったと今でも思っています。

当初、M君に話を聞き、提供された資料を解読し、「今の成熟した民主社会の社会運動内に、いまだにこうした野蛮な暴力がはびこっているのか」と驚きました。しばらくは半信半疑で取材を進めましたが、仮にM君の話がデマや虚偽であったならばすぐに撤退するつもりでした。

リンチの加害者とされる李信恵ら5人には一面識もありませんでしたので、私怨や遺恨などありません。

しかし、取材を進めるうちに、いろいろな事実が判ってきました。李信恵という人が、この国の「反差別」運動の象徴的な人物として名が有ることは知っていましたが、こういう事件に多かれ少なかれ関わっていることに驚きました。ちょうど極右・ネトウヨ勢力によるヘイトスピーチ華やかりし頃で、いわゆる「ヘイトスピーチ解消法」制定も企図される頃でした。

「反差別」の錦の御旗を立て、極右・ネトウヨ勢力の跳梁跋扈を阻止しヘイトスピーチに反対するという大義名分の蔭で、このような悲惨な事件が起きていたことに驚きました。

かつて、私たちの世代は、反体制運動における「内ゲバ」や「連合赤軍事件」を知っています。これらにより一時は盛り上がった学生運動や反戦運動、社会運動が解体(自壊)していった歴史を見て来ています。実は私自身、早朝ビラ撒き中に対立勢力に襲われ激しい暴行を受け病院送りにされ5日ほど入院した経験があり、また、ジャーナリストの山口正紀さんも、M君の訴訟で大阪高裁に提出した「意見書」(今回の『暴力・暴言型社会運動の終焉』に収録)の中で、やはり学生時代に暴行を受けたことを記述されています。山口さんは重篤なガンで闘病中ながら、今回その「意見書」も含め長大な渾身の論考として寄稿いただきました。

M君リンチ事件の被害者支援と真相究明に関わり始めた当初、「この問題は奥が深いな」と感じたのが正直のところです。やはりその予想通りでした。

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

M君リンチ事件関係では、関連の訴訟も含め5件の民事訴訟が争われました。M君が野間易通による暴言の数々を訴えた訴訟(M君勝訴)、M君が李信恵らリンチに連座した5人を訴えた訴訟(M君勝訴)、鹿砦社が李信恵による暴言を訴えた訴訟(鹿砦社勝訴)、そして李信恵がこの反訴として鹿砦社を訴えた訴訟(一審鹿砦社敗訴→これから控訴審)、それに「カウンター/しばき隊」の中心メンバーにして元鹿砦社社員を訴えた訴訟(係争中)です。上記3件、判決内容や賠償金額などに不満はあるものの当方(M君、鹿砦社)の勝訴で確定しています。神原弁護士は「正義は勝つ!」などと全てみずからの側の勝訴と嘯いていますが事実ではありません。

ちなみに「正義は勝つ!」というのであれば、神原弁護士が事務局長を務める『週刊金曜日』植村隆社長の訴訟では、確定判決で負けてしまったことをどのように言い訳なさるのでしょうか? 世の中、必ずしも「正義」が勝つとは限りません。ここに悲劇があったり喜劇があったり不条理があったりします。殊に、裁判所における「正義」はえてして市民感覚とは異なります。

ついでながら、植村社長は、一昨年(2019年)、鹿砦社創業50周年記念の集いにお越しいただきご挨拶賜りました。また、社長就任後に会食も共にしたこともあります。最近も「上京されたらご連絡ください」とお誘いを受けていますが、神原弁護士との関係に配慮し、あえて連絡をしないでいます。『週刊金曜日』今週号(2月5日発売)に『暴力・暴言型社会運動の終焉』の1ページ広告が掲載される予定です。

こうして、この5年間のM君リンチ事件に関わってきた「検証と総括」作業を進め書籍の編集過程にあった中で、突如起きたのが、M君リンチ事件にも連座した伊藤大介による暴行傷害事件です(昨年11月25日午前1時30分頃)。前日24日、今般判決のあった訴訟の本人(証人)尋問が終わり、深酔いし、複数で極右活動家・荒巻靖彦を呼び出し暴行に及んだところ、無抵抗だったM君とは違い逆襲に遭い刃物で刺され、双方負傷した事件です。この事件は、伊藤らが仕掛けたものですが、6年前のM君リンチ事件と同じパターン(裁判が終わり酔って相手を呼び出し暴行に及ぶ)です。「歴史は繰り返す」とはよく言ったものです。これが現在の「反差別」運動というのであれば、あまりに悲しいです。

この事件もあり、編集途上のところ、すでに原稿が届き編集も終わっていたものを中心に急遽まとめ発行したのが『暴力・暴言型社会運動の終焉』です。

これまでのM君リンチ事件に関する本は、M君対李信恵らとの訴訟のポイント、ポイントで発行されてきましたが、今回は関連訴訟(対李信恵第2訴訟)の判決直後の発行となりました。

一審判決は、残念な結果になりましたが、控訴審で、心機一転捲土重来を期します。一審判決には決定的な間違いが散見されます。一つ目についた箇所を挙げれば、当該の書籍にて取材した者のインタビューを記しているにも関わらず、その者に取材して確認していないなどと判断(誤判)していたり杜撰なものです。

李信恵は鹿砦社取材班の取材や書籍、「デジタル鹿砦社通信」などの記事で「苦しめられた」などと申し述べていますが、本件での最大の被害者は、言うまでもなくM君です。裁判所は、リンチ直後のM君の顔写真をしかと見よ! 1時間にもわたる凄絶なリンチの阿鼻叫喚を聴け! いまだにPTSDに苦しむM君の心身共にわたる苦しみに比べれば、さほどのことはないと言わねばなりません。

昨年11・24の本人尋問で、リンチ直後のM君の画像を李信恵に見せ、「これを見てあなたは人間としてどう思いますか?」と問い質す松岡。李信恵は沈黙を通した(赤木夏・画)

私たちの闘いはこれからも続きます。確かに一審は負け(今のところは)賠償金を背負うことになりましたが、M君がリンチによって負った傷に比べれば大したことはありません。

今後とも、更なるご支援をお願い申し上げます。M君訴訟では皆様方のカンパにより訴訟費用をまかないましたが、鹿砦社訴訟では自弁ですので、『紙の爆弾』や多種多様な書籍などを買ってご支援ください。

ちなみに、M君訴訟のカンパの約6割は在日コリアンの方々で、その他、情報収集や取材などにもご協力いただきました。これは明かしてもいいかと思いますが、第4弾書籍『カウンターと暴力の病理』でリンチの最中のCDを付けようとしたところ、これも「私に任せてください」と在日の方が韓国でプレスしてくださいました。さすがに日本国内ではやれませんから。そうした方々のご協力で、これまでやって来ましたが、これに報いるためにも私たちは挫折するわけにはいきません。

◆皆様方へのお願い!◆

M君リンチ事件、及び本件訴訟判決についてご意見(「デジタル鹿砦社通信」や次回本に掲載)、あるいは裁判所(大阪高裁)への「意見書」(今回の『暴力・暴言型社会運動の終焉』掲載の山口正紀さんのような)を執筆いただけるような方がおられましたら松岡までメール(matsuoka@rokusaisha.com)にてご連絡お願いいたします。

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08VBH5W48/

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

裁判期日が終わる→仲間と飲みに行く→散々飲んで気が大きくなる→気に入らない人間を呼び出す→暴行に及ぶ。

 

2021年鹿砦社が最初に投下する爆弾!『暴力・暴言型社会運動の終焉』明日4日発売!!

この定型式にどこかで既視感はないだろうか。鹿砦社がこれまで出版した「M君リンチ事件」に関する5冊の書籍をお読みいただいている方であれば、瞬時に気がつくことだろう。

そうだ。「M君リンチ事件」発生時とまったく同じ展開で、またしても暴行事件が発生したのだ。この日は、鹿砦社対李信恵第2訴訟の本人(証人)尋問の日だった。これが終わり、事件発生前には李信恵と、のちに逮捕される伊藤大介が、飲食を共にしている写真が、李信恵発信のツイッター、フェイスブックにより確認できる。時刻は11月24日18:30頃だ。

その後、日付が変わった25日深夜1時30分頃、この間、かなり飲み食いしたのだろうか、伊藤は酔った勢いで、極右活動家荒巻靖彦を呼びだした。どのようないきさつでもみあいになったのかまではわからないが、新聞報道によれば伊藤らが荒巻に殴り掛かり、荒巻は逆襲、刃物を持っており伊藤はその刃物によって、全治1週間の怪我をさせられている(一方荒巻は伊藤に顔面を殴る蹴るされており、左手小指を骨折している)。場所は大阪市北区堂山町。監視カメラが張り巡らされ、人目の多い場所でもある。怪我をした伊藤、もしくは周囲にいた人物が110番通報をした模様で、駆け付けた警察官に荒巻は現行犯逮捕されている。

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

刑事事件については、推定無罪を適用すべきだと、われわれは考えるので、荒巻並びに、伊藤の処分についての詳述は避ける(荒巻は罰金刑で、伊藤はこれから傷害容疑で公判にかかる模様である)。

しかしながら、伊藤自らが「しばき隊」であると公言しているので「しばき隊」特有の行動については本文の中で詳述した。「しばき隊」の人間は、どうしてこのように「混乱必至」な行為に及ぶのであろうか。暴力を振るい暴言を虚偽発信し、これを繰り返す「しばき隊」の行動パターン、とりわけこの日伊藤が事件に手を染める前の様子から、詳しいレポートをお届けする。取材班は法廷内の傍聴席でも伊藤らを包囲し(おそらく伊藤らはその存在には気づかなかったであろう)、注意深く伊藤の行動をも観察していたのだ!

そして、事件発生後しばらくの沈黙期間をおいて発表された伊藤擁護を企図したC.R.A.C.と「のりこえねっと」の「声明」の筋違いについても、徹底的に分析を行なった。どうして「しばき隊」は同じ間違いを繰り返すのか? どのような思考回路がそれを誘引するのか? 心理学専門家の意見も参考に、「しばき隊」のメンタリティー分析にも是非ご注目を!

『暴力・暴言型社会運動の終焉』には各方面からご寄稿も頂いた。ご自身が被害者となり、その後一時期はかなり熱心に「しばき隊」との言論戦(といってもかなり楽しそうではあったが)を繰り広げた合田夏樹さん。LGBT問題で「しばき隊」に絡まれ、仕方なく応戦した(今もしている)作家の森奈津子さん。このお二人は直接「しばき隊」と言論戦や法廷戦を闘われた方でもあるので、経験談を中心に原稿を書いていただいた。特に合田さんは直接に伊藤大介から脅迫を受けている。

 

尾﨑美代子さんには、「反原連」時代から連中が包含した根深い問題点を、体験と考察を元に分析していただいている。M君とも親しく、「反原連」の問題を知り尽くした尾﨑さんは、当初カウンター活動に参加を試みたこともあったが、やがてそのヘゲモニーが「しばき隊」に握られるようになることを察すると、手を引いたという。慧眼の持ち主はこの問題をどのように総括するのであろうか。

昨日の本通信でお伝えしたように、「M君リンチ事件」ならびに鹿砦社が李信恵を訴えた事件は、すべて司法記者クラブの手で握りつぶされた(記者会見開催を拒否された)。この問題については、フリーライターで大手新聞の「押し紙」問題に詳しい黒薮哲哉さんが、論考を寄せてくださった。

元読売新聞記者の山口正紀さんは、「M君リンチ事件」裁判における一審から控訴審、上告審までの判決の不当性について、精緻かつ長大な分析を頂いた。山口さんは「M君リンチ事件」裁判控訴審に「意見書」を提出いただいたこともあり、本事件に対して司法が果たした(果しえなかった)役割について、厳しい分析を展開してくださった。

 

松岡は「平気で嘘をつく人たち」と、黒薮さんとの合作で「危険なイデオローグ‐師岡康子弁護士」を執筆。そして「M君」自身が「リンチ事件から六年──私の総括」を寄稿した。

このように紹介すると総花的で、散漫なムック本(紙の爆弾増刊号)のようにお感じになる向きもあるかもしれないが、そうではない。現場からのレポートと、直接関係者の体験談、客観的な立場からの観察ならびに分析、2021年における「反差別」と「反差別運動」についての問題提起や方針を示したのが『暴力・暴言型社会運動の終焉』である。この本は、編集部が筆者に編集方針を伝え、それに沿うように原稿を依頼していない。完全に自由で制約のないご意見を異なる立場の方々から頂いた。その結果われわれが幸いであったのは、当初の予想以上に問題の本質に多角的な接近を実現することができたことである。

コロナ禍の中で、大切な問題が埋もれてしまいがちな日常にあり、しかしながら決して度外視することのできない人類の大命題に直接取り組んだ『暴力・暴言型社会運動の終焉』はどなたにとっても、示唆に富む内容であることをお約束する。

◆皆様方へのお願い!◆

M君リンチ事件、及び本件訴訟判決についてご意見(「デジタル鹿砦社通信」や次回本に掲載)、あるいは裁判所(大阪高裁)への「意見書」(今回の『暴力・暴言型社会運動の終焉』掲載の山口正紀さんのような)を執筆いただけるような方がおられましたら松岡までメール(matsuoka@rokusaisha.com)にてご連絡お願いいたします。

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〈差別〉に反対し〈暴力〉を嫌悪する、すべての読者の皆さん!鹿砦社特別取材班が「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」「M君リンチ事件」)の取材を開始し最初の出版物『ヘイトと暴力の連鎖』を出版したのが2016年7月。もちろん取材は出版前に開始したので、われわれがこの問題にかかわり、まもなく5年を迎える。

 

『暴力・暴言型社会運動の終焉』2月4日発売!!

「M君リンチ事件」は単に、ある集団内で発生した、偶発的な事件ではなかったことがのちに判明する。有田芳生参議院議員筆頭に、師岡康子、神原元、上瀧浩子ら弁護士。中沢けい、岸政彦、金明秀ら大学教員・研究者。安田浩一、西岡研介、朴順梨、秋山理央などフリーの発信者。そして中立を装い、事件を仲裁するように見せかけながら「M君」を地獄に突き落とした「コリアNGOセンター」の幹部ら。

数え上げればきりのないほどの著名人が寄ってたかって、事件隠蔽とM君に対するセカンドリンチと村八分に奔走した。「事件隠蔽加担者」は上記個人だけではなく、すべての大手マスコミ(~関係者)も参加して悪辣極まるものであった。

本通信をきょう読んでおられる方の中に、M君が「しばき隊」の実権者、野間易通を名誉毀損による損害賠償を求める裁判で訴え、勝訴した事実をご存知の方はどれくらいいるだろうか。M君は提訴の際、大阪地裁で勝訴した際、いずれも司法記者クラブ(大阪地裁・高裁の中にある記者クラブ)に記者会見の開催を申し入れたが、一度も実現したことがない。あれこれ理由にならない言い訳を並べたが、結局大手マスコミの記者連中は「M君リンチ事件」を闇に葬ろうとする勢力に加担したのであり、上記隠蔽加担者らと同等もしくは重い役割を進んで背負った。

松岡と裁判前に喫茶店で「偶然の遭遇」をしたという李信恵の虚偽のツイート

だから、本来であればテレビや新聞で大々的と言わぬまでも、報じられて当然のこのニュースが、事件発生後マスメディアで取り上げられることはなかったし、その事実に居座って、事件に関係した連中は、ついぞ反省をすることはなかった。M君と加害者が対峙した証人調べの際に、口頭で謝罪を述べた者はいたが、その後の行動を見れば到底反省したとはいえない。

M君支援と事件関連書籍の出版を進めるうちに、李信恵をはじめ多数の人物が鹿砦社を誹謗中傷し始めた。ただし、われわれは出版を重ねるにあたり、事実関係は徹底的調査し尽くし、関連人物への取材も可能な限り直接行ってきたので、誹謗中傷に熱を上げるものどもは、具体的な批判ができない。幼稚な表現で罵詈雑言を浴びせるか、連中お得意の「ありもしない事実」をでっちあげそれを拡散させる、という卑怯な手法が用いられた。

今日、振り返って痛感することの一つに、「Twitterは人を壊す」ことが挙げられる。限られた文字数に感情の発露と、偽りの「繋がり」や「絆」を求める行動は、エスカレートすることが多く、本件以外にも数々の災禍を引き起こしてきた。李信恵は鹿砦社に対して再現するのも憚られるような、幼稚で下劣な言葉を用いて、幾度も鹿砦社を攻撃してきた。当初われわれは顧問弁護士を通じて、「そのような書き込みを止めるように」警告したが、それでも李信恵のわれわれに対する罵倒は止まらなかった。致し方なく鹿砦社は李信恵に対して名誉毀損による損害賠償を求めた民事訴訟を提起し、裁判所は李信恵の不法行為を認め、われわれは全面勝訴した。

さて、それではどうしてこの時期にわれわれが「2021年最初の爆弾」を投下しなければならないのか。理由は明快である。われわれが取材、出版を続ける中で懸念していた「M君リンチ事件」のような暴力事件の再来──それが現実のものとなってしまったからだ! しかも鹿砦社と李信恵の裁判が行なわれたその翌日未明に!

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

大阪地裁では鹿砦社が全面勝利した(李信恵が全面敗訴した)裁判の最終盤で李信恵側から「反訴」の意向が示された。しかし裁判長はそれを認めなかったために、仕方なく李信恵は別の裁判を提起し鹿砦社に550万円の支払いと、あろうことか「出版の差し止め」を求めてきていた。2020年11月24日。大阪地裁では、原告・被告双方の本人(証人)尋問が行われていた。その模様についてはすでに本通信でお伝えしてあるのでご参照頂きたい。

事件はその日の裁判終了後に発生した(正確には日付が変わり25日午前1時30分頃)。裁判中には傍聴席にその姿があった「カウンター」の中心メンバー・伊藤大介が極右活動家・荒巻靖彦を深夜電話で呼び出し、双方負傷。伊藤が110番通報したことで荒巻は「殺人未遂」の現行犯で逮捕された。だが,衝撃はほどなくやってきた。伊藤大介が12月6日大阪府警に傷害容疑で逮捕されたのである。

われわれは、この事件発生直後から綿密な取材を開始し本年1月末か2月初頭の出版を目標に、正月返上で準備を進めてきた。しかし 『暴力・暴言型社会運動の終焉』出版については、本日まで完全部外秘とし、ごく一部の人間しかその情報を知りえなかったはずである。販売促進の観点からは、発売日が決まっていれば早い時期から広告を出したり、周知活動を行うのが定石であるが、われわれはあえてそうはしなかった。

 

 

連中はすでにカルト化している。というのがわれわれの見立てである。しかもその中には複数の弁護士もいる。連中が『暴力・暴言型社会運動の終焉』出版に対して出版差止めの仮処分を打たない保証はない(仮処分とは通常の裁判と異なり、緊急性を要する判断を裁判所に求めるものである。通常出版物の仮処分による「出版差止め」は元原稿(ゲラ)などの直接証拠がなければ認められることはないが、上記の通り民事訴訟の中で李信恵は「出版差止め」を求めている。われわれは記事内容には確実に自信を持っているが、それでもどんな主張を展開してくるのかわからないのが連中だからである)。

そうだ! 敵に隙を与えないためには、読者諸氏にも本日までお知らせすることができなかった。そういった理由であるので無礼をなにとぞお赦しいただきたい。書籍の内容? 下記の案内をご覧ください。鹿砦社(メールsales@rokusaisha.com、ファックス、HP)、もしくはアマゾン、書店などで、今すぐご予約を!

◆皆様方へのお願い!◆

M君リンチ事件、及び本件訴訟判決についてご意見(「デジタル鹿砦社通信」や次回本に掲載)、あるいは裁判所(大阪高裁)への「意見書」(今回の『暴力・暴言型社会運動の終焉』掲載の山口正紀さんのような)を執筆いただけるような方がおられましたら松岡までメール(matsuoka@rokusaisha.com)にてご連絡お願いいたします。

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B08VBH5W48/

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《2月のことば》俺を倒してから世界を動かせ(鹿砦社カレンダー2021より/龍一郎・揮毫)

鹿砦社が、私の大学の後輩で書家の龍一郎に揮毫・製作を依頼しているカレンダーですが、今月は「俺を倒してから世界を動かせ」の文字が踊ります。通常、月ごとの言葉はすべて龍一郎に任せてあるのですが、今月だけは私のわがままでこの言葉としてもらいました。

といっても、いったい何を意味する言葉かと不思議に思われる方も少なくないことでしょう。今を遡ること約半世紀(正確には49年)前、1972年2月1日を頂点に同志社大学で闘われた「学費値上げ阻止闘争」に私は主体的に参加し最後まで闘いました。同大今出川キャンパスの中央に在り、この前で幾多の集会が行われた、われわれの世代にとって象徴的建物「明徳館」(Mとも揶揄される)の屋上に仲間と共に籠城し、掲げたメッセージの一つがこれです。私が発案し書いたものですが、その様子は新聞報道にも写真で掲載されました。機動隊が導入され、あっけなく落城となりましたが、20歳そこそこの学生たちは真剣に闘い、籠城組のわたしたち以外に、約300名の支援部隊が結集し、120数名検挙、43名逮捕、10名起訴となりました(なんと支援に来てくれた京大生M君は無罪を勝ち取りました)。

同志社大学はその後に、大規模な「田辺移転構想」に着手し一説には500億円以上の資金を投入したそうですが、「田辺移転」が失敗に終わったことは明らかでしょう。一度は田辺に移された(それも2回生までだけ)同志社大学の文系学部が、すべて今出川校地(もともと大学のあった場所です)に戻されたのですから。いっとき東京・大阪・京都など都市部の大学の郊外移転が流行りましたが、その多くが再び都心地への回帰を強めている様子を見ると、やはりあの「学費値上げ」は不要なものではなかったのか……との想いが拭えません。

あるライターが「俺を倒してから世界を動かせ」を評してくれました。

《ふつう、運動のスローガンは複数なんですよね、「われわれ」とか「俺たち」あるいは「仲間」などです。なのに全学の学費値上げを問うた行動の主語が「俺」になっている。一応申し訳程度に「同大全学闘」とありますが。組織的な運動ではなかなか目にしないスローガンですよ。主語が単数なのですから。松岡さんに聞いたら籠城組は4人いたそうですし、支援の部隊も300名あまりいたそうです。そこに「俺」はないでしょう(笑)。
 ところが、書いた本人もそうでしょうが、これを見た仲間は、一瞬きょとんとするかもしれませんが、「そうか、俺が動かないと状況は動かない」と感じたはずです。数多くのスローガン、特に学生運動におけるそれを見てきましたが、いい意味でこんなに「わがまま」で「独立した意思」を表明した言葉は目にした記憶がありません(東大安田講堂攻防戦のあと安田講堂に書き残された、「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」にも共通のエッセンスがあります)。党派指導の組織だったら絶対に考えられません。同志社の学生運動が懐の深いものであったことを示す、一つの例でしょう。
 そして松岡さんは当時からこういった「とんでもない」発想をする素養があったことを示す好例だとも分析できます。警察権力に対して「俺を倒せ」とは! このアナーキーさと闘争精神が、のちに出版に関わってからの彼の仕事を象徴しているともいえます。時に人々から首を傾げられても、また騙されたりすることがあっても、最後は「主語一人称」で闘いきる。性根の強さというか太さは熊本人気質なのでしょうか。往々にして「個」が確立されていない、日本社会にあって、示唆に富むスローガンだといえるでしょう。そしてその精神は今日ますます重要性を増しているように感じます》

このライターさんが評してくださったように、大仰なものではありませんが、たしかに指摘される通り、当時も今も〈革命的敗北主義〉が私の中には染み付いているのかもしれません。「最後の一人になっても闘う」決意があったからこそ「無茶」もできたし、逆に言えば支援してくださる方々に恵まれたとも思います(もっとも近年は〈革命的敗北主義〉だけではなく「論争における止揚から真実の探求」路線の重要性も認識しています)。

大衆運動も政治闘争も反差別運動も、結局のところ「個人」の集合体であるわけですから、個人が資質や能力、人間的な成熟を高めてゆくことが、結果としては社会の好ましい変化に繋がるのではないでしょうか。菅首相をはじめとする閣僚や役人、「個」を持ちえない人々による社会の劣化に直面するにつけ、昔の気持ちが蘇ります。

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

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