明治元年(1968)10月12日に即位したとき、天皇は14歳であった。孝明天皇の第二皇子、母親は権大納言中山忠能の娘中山慶子とされている。中山慶子は典侍(ないしのすけ=側室)であるから、女御(正室)の九条夙子(英照皇太后)を実母と公称した。
女児のごとき祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王から、後年の男性的な明治天皇となった落差。この落差ゆえに「明治天皇はすり替えられた?」(前回掲載記事)とする説が生まれたのである。それほど落差が感じられるのを、ゆえなしとはしない明治天皇の「雄々しさ」とは、どのようなものなのだろうか。
◆調停機関から大元帥へ
20歳になった天皇の事績はすぐれて明快である。
征韓論をめぐって起きた明治6年政変では、勅旨を発して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させ、政権内部の対立を調停している。
同時期に全国で起きた自由民権運動に対しては、漸次立憲政体樹立の詔を出してこれを慰撫。これらの背景に三条実美、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允ら政権主流派の動きがあったのは明白だが、政権調停機関としての役割をそこに見出すことができる。
明治15年には軍人勅諭を発し、大元帥としての性格を明確にしていく。さらに明治22年2月11日、大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇大権を明記し、立憲君主制国家確立の基礎となった。
翌明治23年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民道徳を明記する。殖産興業・富国強兵政策の先頭に立つ、近代天皇の姿を明確にしたのである。
そして、いよいよ明治27年(1894)、日本は大元帥のもと日清戦争に踏み切る。このとき天皇は大本営において、直接戦争指導に当たっている。
明治37年(1904)の日露戦争も同様に、大本営にあって戦争を指揮している。
日露戦争後は韓国併合と満州経営をすすめ、日本を植民地支配する帝国主義に押し上げた。ぎゃくにいえば、侵略と併呑、寄生性と腐朽化への道(レーニン)である。これらの「偉業」をもって、天皇は後年「明治大帝」「明治聖帝」と呼ばれる。
だが、その覇業は古代いらいの帝としての皇統継承事業、すなわち子づくりにおいても発揮された。いや、近代天皇制を古代的な親政において実現する志向は、子づくりや華族の縁戚化、そしてのちには皇族の拡大という宮中第一政策において実行されてゆくのだ。
◆片っ端から女官に手をつける
とにかく、女には手が早かった。皇后は一条美子という、のちに昭憲皇太后と称せられる女性だが、この人との子はなかった。
以下、側室となった女性たちである。
葉室光子は19歳のときに宮中に入り、翌年には天皇の第一子を出産するも死産。光子も産後に亡くなった。
橋本夏子も17歳のときに女子を身ごもったが死産、自身も産後の経過不良のため死去。
千種任子も二人の女子をもうけるが、夭折する。
のちに大正天皇を生む柳原愛子も二人の男子と一人の女子を幼くして失っている。こうなると、側室とその子供たちの地獄というべきか。
じつはこの事態には、日本社会を覆った感染症の影響があったと考えられる。天然痘とコレラである。
孝明天皇は1866年12月11日に発熱し、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、親王(明治天皇)に完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこしたという。
「最後に二十三日から膿の吹き出しがおさまってかさぶたを結んで乾燥し、次第に熱が下がり、大体において全快に向かった。ところが病状は二十五日に至って急変し、激しい下痢と嘔吐の挙げ句、夜半に至り『御九穴より御脱血』」(中山忠能日記)という最期であった。いったん快方に向かい、そこから再度悪化したことで、宮中勤仕の老女の「悪瘡発生の毒を献じ候」という手紙を、中山忠能は日記に紹介しているのだ。
これが前回紹介した毒殺説であるが、ともあれ天然痘による疱瘡が確認できることから、これ以降も種痘を受けなかった幼子、女官たちが相次いで感染し、命を落としたことは容易に想像される。
多産だったのは、園祥子という女官である。彼女はわずか13歳で女官となっている。明治18年、19歳の時に初産に失敗(女子死亡)し、翌年も女子を失っているが、21歳の時に天皇の11子を生むと、6人の子をつくり(うち2名死亡)、合計8人もの皇子を身ごもったことになる。
明治天皇最後の女は、小倉文子(伯爵家)という女性だったが、子をなさなかったことから公式の記録には残っていない。
けっきょく、明治天皇は5の皇子と10人の皇女をなしたのである(成人したのは5人、男子は大正天皇のみ)。慧眼なる読者諸賢は、男子5人、女子10人という比率の中に、近代天皇家における男子出生率の低さを読み取るであろう。しかし大正天皇には4人の皇子はあっても、女子はいなかった。昭和天皇においては、男子2人、女子5人である。平成天皇は男子2名、女子1名、令和天皇は女子1人である。
もっとも、伊藤博文や松方正義など、明治の元勲とよばれる人たちの女好きは有名で、明治天皇がとりたてて女癖が悪かったというものでもない。
◆60歳の若さで崩御
当時はじゅうぶんに生きた年齢だったのかもしれないが、享年60であった。
晩年は歩行も困難なほど体調を崩し、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いていたという。じっさいに糖尿病だったようだ。枢密院の会議中に、寝てしまうことも多かったという。
写真撮影を極度に嫌ったので肖像画でしか往時を偲べないが、べつに西洋文明を否定したり「写真は魂を抜き取る」などの明治人に特有の迷信ではない。食事は西欧風の肉食や牛乳を奨励し、明治6年にはみずから断髪して、国民に西欧風の生活習慣を率先垂範している。
天皇は酒をたしなみ、乗馬や和歌、刀剣蒐集、レコード鑑賞を好んだという。それにしても、60歳は若すぎる。相当なストレスに見舞われる日々があったのだろう。
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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。