◆バイク事故で運命を変えた新人時代
小野瀬邦英(1973年6月27日、茨城県水戸市出身)は、高校入学後、地元の茨城県水戸市で平戸ジム入門。倒すか倒されるかの躍進で日本キックボクシング連盟のマイナー的存在から逆襲へ流れを変えた革命児である。
「学生時代は何をやっても長続きしない人間でした」という小野瀬だが、中学の野球部ではサードで4番、勉強も常に学年トップ。でも途中で飽きて不登校になったという頭脳明晰、運動神経抜群の変わり種。
中学3年頃、テレビでマイク・タイソンの試合を見て、その強さに憧れてボクシングを始めようと思うも、水戸市には平戸ジムしか無かったことから高校入学と同時に入門。当時はボクシングとキックの違いも分からないまま練習を始めたというが、次第にキックボクシングに目覚めていった。
高校2年の1990年10月13日、フェザー級デビュー戦は2ラウンドKO勝利するも、同年12月、バイクの交通事故で左足踵断裂、アキレス腱がパックリ飛び出す重傷を負ってしまった。これでくっつく迄手術を繰り返すも、左足が満足に使えなければ選手生命は絶たれたも同然だった。
1992年3月、高校卒業すると鍼灸専門学校入学の為上京。学校に通いつつ、身体を持て余していた小野瀬は身体慣らしに運動できればと学校の近くにあった渡邉ジムを訪れ、プロではなく、足のリハビリ目的で入門を申し出た。
現在のキックボクシングジムでは、フィットネス目的での入門は多いが、当時の渡邉ジムは、そんな目的での入門はほぼ受け入れなかった。受入れたとしても、渡邉信久会長がハードな練習を強制するから、あっという間に去ってしまう。
だが、渡邉会長にとって平戸ジムの平戸誠会長はかつての後輩だった縁から「平戸の弟子ならまあいいだろう!」と特別に小野瀬の入門を許した。
しかし折角のジムワーク。リハビリは解るが、キックボクサーとしての恰好ぐらい付けてあげられないものかと周囲の協力体制が芽生えていった。左足のアキレス腱や脹脛に衝撃を与える蹴り禁止。小野瀬は左回し蹴りはフリか軽く蹴るといったフェイントで形を作り上げていくことになった。
半年程経って、現役のチャンピオンだった先輩の佐藤正男とのマススパーリングが増えていった。小野瀬は速い動きと、他の技、更に右・左とスイッチを繰り返す対応で攻撃もディフェンスも出来るまでになっていた。
通算5戦して5勝(4KO)だったが、ガルーダ・テツは好敵手だった(1996.2.24)
◆戦うスタイル、渡邉ジムで開花
その辺りを見計らい、渡邉会長は「小野瀬、試しにリングに上がってみろ!」と試合出場を促した。当然不安はあるところ、「左足は使わなくてもいいから!」と促されて出場。
再デビュー戦を3ラウンドKO勝利。2年程で7~8戦した中、負けもあるが幾つかKO勝利出来たことは自信に繋がっていた。
渡邉会長は「ここまでやれたんだから、もっと上を目指せ!」と叱咤激励。
小野瀬は後に「ローキックのカットは出来ますが左の蹴りは無し。その分、他の攻撃力を上げればいいと思っていたので現役時代は苦にはなりませんでした。」と自信を語る。
新人時代を経て、倒すか倒されるかの攻防は大阪からやって来たガルーダ・テツ(大阪横山)とは互いの発言も過激で、東西対抗戦的話題性は新風を巻き起こした。
1997年2月23日、日本キックボクシング連盟ライト級王座決定戦で、小野瀬は根来侑市(大阪真門)に1ラウンドKO勝利で王座獲得したが、他団体交流に備えた肩書では、選手層が厚かった他団体に比べ、注目を浴びる存在ではなかった。
[左]初めてのチャンピオンベルトを巻いた根来侑市戦後、飛躍はここから(1997.2.23)/[右]佐藤孝也には苦しんだが、しっかり打ち合えた戦いだった(1997.4.29)
チャイナロンにやられた顔面、鼻は折られ腫れ上がる(1999.12.12)
日本キックボクシング連盟は1984年11月の設立当初、統合による人材豊富な活気があった。その後の分裂で他団体勢力には押され気味の時代が10年以上も続く中、渡辺明(渡邉)、佐藤正男(渡邉)らが連盟代表的エース格の時代はあったが、団体そのもののメジャー化には程遠かった。
時代の流れは、1996年8月に設立したニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)との交流戦が始まった。小野瀬は、すでに多くのトップ対決を経験していた佐藤孝也(大和)には苦戦の辛勝だったが、実力が計れる対戦相手との対戦はより存在感を増すことには成功した。
1999年には、日本で実績を残していたチャイナロン・ゲオサムリット(タイ)を1ラウンド、ヒジ打ちで下し、プライド傷つけられたチャイナロンは再戦で猛攻、小野瀬は鼻は折られるも、2ラウンドボディーブローで逆転KO。小野瀬の実力は紛れもないトップクラスという証明をもたらした。
「チャイナロンとの2戦目が現役中一番しんどい試合でした。でも勝ったことで、より私の評価は上がりましたが、今も鼻は曲がったままです。」と負った痛々しい勲章を語る。
◆やり残した武田幸三戦
2000年にはNJKFウェルター級チャンピオン青葉繁(仙台青葉)や元チャンピオン松浦信次(東京北星)、上位ランカーの大谷浩二(征徳会)との計4選手によるトップオブウェルターリーグに出場すると、ライト級の小野瀬はやや押される展開も見せたが、「体格の圧力は特に無く、何発か当てれば絶対倒せる」と確信していたという小野瀬が3戦3勝(2KO)の?日本キックボクシング連盟ここにあり”をもって示した優勝を果たした。
優勝者に約束されていたムエタイチャンピオンとの対戦は、同年9月24日、ムエタイ殿堂スタジアムで長く人気を博したオロノー・ポー・ムアンウボンとの試合が組まれたが判定負け。
「ハードパンチャーとの謳い文句でやって来たオロノーは打ち合いを避けて首相撲で来ました。やはり首相撲は地味だが疲れます。ムエタイとキックボクシングの競技性の違いを痛感しました。」と語る小野瀬の、目指す先は限られてくる難しさも見えてきた。
[左]松浦信次戦、体格差凌いで豪快にKO(2000.4.22)/[右]オロノーもムエタイ技で打ち合いを凌ぎ、追い詰める小野瀬(2000.9.24)
同門対決と言われた職場の後輩、石毛慎也に敗れる(2002.6.29)
この時代はより細かく乱立する8団体の中の、柵(しがらみ)の無い4団体が統一的なNKB(日本キックボクシング)タイトル化を進め、トーナメントを経て2002年には各階級チャンピオンが誕生した。
6月29日、ウェルター級決勝で小野瀬は動きが悪く、若い石毛慎也(東京北星)のヒジで斬られるTKO負け。隆盛を極めた小野瀬の終焉を迎える時期でもあった。
その後、小野瀬は引退宣言をし、「最後に我儘を言わせて貰えるならば、ラストファイトには武田幸三さんと対戦したい。」という公言は、周囲は実現に動くかと期待が膨らんだ。
しかし、どうしても拭えない古い柵に取り憑かれた中では、この対戦は実現に至らなかった。
同年12月14日、小野瀬のラストファイトに相応しい最強として用意された、ラジャダムナンスタジアム・ライト級チャンピオン、マンコム・ギャットソムウォンは、やはり打ち合いに来ないテクニシャンタイプで判定負け。そのリング上で引退式を行ないリングを去った。
小野瀬にとって最も噛み合う、倒されるにしても完全燃焼させてくれる相手と願っていた元・ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン武田幸三(治政館)が激励に駆け付け、リング上でのツーショットに収まるのが精一杯の対峙となった。
小野瀬は後に「バイク事故でもう元通りには回復しないほど足を痛めてしまい、キックボクシングはもう無理と諦めていました。縁もあって渡邉会長に特別な指導を受け、周りのサポートもありここまで来れました。心より感謝してます!」と何はともあれ、現役を続けられたことへの感謝を語っていた。
[左]武田幸三とは夢の対決ではなく対峙(2002.12.14)/[右]引退試合でのマンコム戦、倒せなかった(2002.12.14)
引退式の後、渡邉会長から労いの言葉を掛けられる(2002.12.14)
◆次代を担う立場
小野瀬は新人の頃、自身の腰の故障治療の為に受けた経験から上京後、鍼灸専門学校を経て柔道整復師、鍼灸師、マッサージ師の資格を取得し、現役時代の1999年1月7日、江戸川区葛西に「まんぼう・はりきゅう整骨院」を開業。自らの事故と試合での負傷経験から、傷みの分かる治療が施されている評判良い整骨院である。
引退後は同じ葛西にSQUARE-UP道場を開設。倒しに行く、自分で勝ちを掴めという教えで、夜魔神、大和知也、安田一平をNKBチャンピオンに育て上げている。
2014年には日本キックボクシング連盟で興行担当と成り、古い柵からの改革が始まった。斬新なプロデュースを行ない、新たにフリーのジム所属選手との交流戦を始め、高橋三兄弟の活躍の場を広げ、NKBの活気が増してきたところで小野瀬は2017年12月末で、諸事情により興行担当とSQUARE-UPの会長職を円満に辞任し後輩に託したが、キックボクシングの底上げの努力に後退は無い。平成時代に戦った世代の小野瀬邦英は、同じ世代の会長、プロモーター達とキックボクシング競技確立へ、今後の時代を担う一人である。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」
タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号