◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)

事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)

小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆岸政彦の対談記事に対する違和感

朝日新聞3月17日夕刊に売出中の社会学者・岸政彦と、芥川賞受賞作家・柴崎友香との共著による新刊『大阪』の出版について対談が掲載されています。

朝日新聞3月17日夕刊

岸いわく、「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」だそうです。

岸は、鹿砦社が取材を続けた大学院生リンチ事件の発生当時、その加害者の一人である似非反差別主義者・李信恵の「裁判を支援する会」の事務局長を務めていました。正式名称「李信恵さんの裁判を支援する会」は、広く市民からカンパを募り運営されていたようです。ところが同会は大金を集めながら未だに会計報告を公表していません。一般的に運動団体の事務局長といえば、経理面の責任も含め会の全般的な責任者です。

 

『反差別と暴力の正体』表紙

また岸は、事件直後、「コリアNGOセンター」による李信恵らの事情聴取にも立ち会っています。このような事実から岸は立場上、リンチ事件の詳細を熟知していると推認されます。鹿砦社特別取材班は、岸がリンチ事件について、どう考えているかを聞こうと、岸が当時勤務していた龍谷大学の研究室を訪ね、直接取材を行いました。

岸は取材班の質問に、ほとんど答えず逃げ回るだけでした。その様子は第2弾本『反差別と暴力の正体』(2016年11月17日発行)に掲載されています。本稿に取材時の画像を数枚掲載しておきます。その姿には、毅然とした知識人の矜持など見られません。岸は日々ツイッターで日々の出来事や思ったことなどを発信していますが、直接取材の日は、おそらく彼にとって重大事(少なくとも非日常的出来事)だったはずにもかかわらず、何もツイートしていません。

鹿砦社との民事訴訟における李信恵の本人尋問によれば、「取材班の直接取材が原因で岸は事務局長を辞めた」とのことですが、取材班の質問に対して岸は「今は事務局長をやったりやらなかったり……ちょっとややこしいんです」と答えていました。対外的に「事務局長を辞めた」とは告知されていませんので、多くの人たちは、岸が李信恵の対在特会らに対する訴訟の事務局長を最後まで務めたと思っているでしょう。

その後、岸は小説が芥川賞候補になるなど、著書も相次いで出版。龍谷大学から立命館大学に職場も移り、関西における社会学者の世界でも有力な地位を得ています。また「朝日文化人」として紙面にたびたび登場したり順風満帆です。

取材班の直撃取材に逃げ回る岸政彦

逃げ回る岸政彦

逃げ回る岸政彦

 

リンチ直後の被害者大学院生M君

一方、リンチ被害者M君は、訴訟では、勝訴したとはいえ、長い裁判闘争にもがき最低の賠償金額に抑えられ、関西では、その名を知られ教職を目指そうにもうまくいかず(地方の大学の職が決まりかけていましたが直前で断られています)物心両面にわたり苦境にあります。岸に研究者や作家としての誠実さや良心があるのならば、凄絶なリンチの様々な後遺症に苦しむM君に真正面から向き合うべきでしょう。そうではないですか? 私の言っていることは間違っていますか? 

「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」と、平然と述べる岸。であれば、われわれはあらためて岸に聞き質さねばなりません。

われわれが取材を重ねたリンチ事件は社会的な事件でした。事件そのものが社会性を帯びている上に、岸の解釈によれば「記憶というものは『公共のもの』でもある」そうですから、岸には個人としてだけではなく「公共のもの」としての「記憶」が残されているはずです。岸にとっては隠蔽し忘れたいことかもしれませんが、受けた傷の深さに苦しむM君には終生忘れることはできません。あらためてリンチ直後のM君の顔写真を見よ! 事件の「公共」性に鑑みれば、岸に研究者や作家である前に人間としての〈良心〉があるのかどうか、問いたいと思います。岸が、われわれの問いから逃避しようとしても、それは許されませんし、われわれが許しません。であるならば、みずからの「記憶」をすべて晒け出すべきです。それが、知識人としての存在理由(レゾンデートル)ではないでしょうか?

◆「しばき隊」「カウンター」内部に何が起きているのか?

ところで、「しばき隊」、「カウンター」の源流となった「反原連」(首都圏反原発連合)が、本年3月で活動を休止するということです。それはそれでいいとしても、あろうことか反原連は活動休止のために500万円の資金カンパを募り、ほぼ目標額を集めたようです。“休止のためのカンパ”が、ミサオ・レッドウルフら反原連幹部によって、どのように使われるのか、しかと注視しておいたほうがいいでしょう。社会活動を進めるためのカンパなら理解できますが、活動をやめるためにカンパを募るというのは聞いたことがありません。不自然な感が否めませんが、ミサオら反原連幹部の退職金にでもするのでしょうか?

また、反原連の初期からのメンバーで、この成功から「しばき隊」「カウンター」を始めた野間易通が「さようなら、カウンター」と題する記事を公にしました。そろそろ嫌気がさしてきたのか!? 百戦錬磨で稀代の曲者の野間の本心が奈辺にあるのか、しばらく様子を見ないとわかりません。

さらに、前述の2件も含め、くだんのリンチ事件にも連座した、「しばき隊」の中心メンバーにしてスポンサーの伊藤大介による暴行傷害事件などが表面化し、「しばき隊」「カウンター」界隈に何かが起きているようで、このところ肝心なことには口を閉ざし静まり返っています。伊藤の裁判は大阪地裁で行われるのかと思っていましたが、関東でも暴力事件を起こしているらしく、これら2件を併合して横浜地裁で行われるようです。これまでの彼らの裁判であれば、散々騒ぎ裁判期日になれば動員を図るのが普通でしたが、まったく音沙汰がありません。おそらく内部に深刻な“不都合な真実”があるものと思われます。

くだんのリンチ事件といい、沖縄に、まさに“鉄砲玉”として送られ逮捕され精神を病んだとされる、「しばき隊」内武闘派のトップだった高橋直輝こと添田充啓の不審死といい、そして直近の伊藤大介暴行傷害事件など、みずからにとって不都合なことはことごとく隠蔽する態度──これらは岸が語った「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」とのテーゼにまったく反するものです。岸のこの論をわれわれは100%首肯するものではありませんが、一面の真理を捉えているとはいえるでしょう。

さらにもうひとつ、先般出版した『暴力・暴言型社会運動の終焉』には、彼らにとって“不都合な真実”が少なからず掲載されていますが、これまでであれば「デマ本」「クズ本」等と罵倒してきたところ、今回はまったくスルー、無反応です。しかし同書の売り上げは、このシリーズの中でも際立っています。

伊藤の暴行傷害事件は、李信恵と鹿砦社の民事訴訟の尋問の後に起きました。女王・李信恵が出廷し尋問に晒されるというのですから、傍聴席に多数動員してくるのかと思っていた所、李信恵側の傍聴者は伊藤と通称「もじゃ」こと河上某だけでした。尋問が終わり夕方には伊藤、李信恵らは夕食を兼ねて飲食をしているところをSNSで発信しています。極右活動家・荒巻靖彦に対する暴行傷害事件の現場には伊藤ともう一人いたとのことですが、それが河上某なのか別の者なのか、このことを含め情報が錯綜していますが、刑事事件の捜査はわれわれの守備範囲ではありません。今後の裁判の場で明らかになるのを待ちましょう。

しかし、直前まで一緒にいた李信恵には説明責任があります。

われわれの予見通り、伊藤による暴行傷害事件は、多くの活動家、シンパらの離反を呼び、「しばき隊」「カウンター」崩壊への大きな動因になるでしょう。

◆社会的な実害と、座視できない〈負の遺産〉について

原理原則なき烏合の衆の暴走。「反原発」「反差別」「沖縄」「性差別」……。ターゲットの流転を重ねてきた彼ら・彼女らの活動はいずれも混乱を起こし、いくつかのテーマは活動を終えています。「沖縄」問題はどうなったのでしょう?「反原発」も活動休止です。「反差別」も「性差別」も、彼らが暴力・暴言を採り入れることで真面目な活動家から顰蹙を買っています。個々の問題に従前より関わり、またみずからの存在にとって避けて通ることのできない人たちには、突然首を突っ込んできた烏合の衆の「正義の暴走」は、迷惑以外の何物でもありません。

ところが連中の活動は、全国ネットのテレビ局や大手新聞社まで巻き込んでしまいました(この日の朝日新聞に顕著なように)。市民運動・活動を地道に続けてきた人々にとって、連中は害悪以外の何物も生み出すことはありませんでした。

われわれはこれまで「大学院生リンチ事件」を契機に、その発生源となった「しばき隊」「カウンター」と自他称される人々の行動や発信を取材し報告してきました。彼ら・彼女らの瓦解は当然の帰結でしたが、連中が残した〈負の遺産〉の大きさは、近い将来多くの人々に認識されるようになるでしょう。「ヘイトスピーチ解消法」は「言論弾圧法」の礎として作用するでしょう。また理念なき運動体を、目前の選挙を勝ち抜く道具として利用した結果、さらなる政治不信を招いた一部政党の罪も大きいといわざるをえません。

「しばき隊」「カウンター」は21世紀、日本全体がファシズムめく流れの中にあって、無視することのできない動きを、権力になり代わり果たしてきた、とわれわれは考えます。岸のテーゼが図らずも岸を含む連中の本質を射てしまいました。鹿砦社と特別取材班は、取材を続行しつつも、彼ら彼女らがどうして現われ、なぜ、あたかも時代の寵児のように扱われたのか。なにゆえ大手マスコミ・知識人・政治家から広告代理店までを騙し通せたのか。それらは、すぐれて社会的な課題です。泉源を解明することは、この時代の解析と、リンチ事件被害者の救済にもつながるでしょう。鹿砦社と特別取材班はその視点から考察を進める所存です。(本文中敬称略)

*対李信恵訴訟一審不当判決に対する控訴審について大阪高裁に「控訴理由書」を提出しましたが、後日あらためてご報告いたします。

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

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《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

3月17日、大阪地裁(内藤裕之裁判長)は、昨年5月18日、福井県、大阪府、兵庫県、京都府に居住する6名が申し立てた、新型コロナウイルスが収束するまで福井県の7つの原発を止めよとの仮処分の申し立てを却下した。決定は、避難計画の不備だけでは、原発差し止めの理由にならないと判断したが、弁護団は緊急声明で以下のように反論と抗議を行った。

大阪地裁の不当決定を受けて

「船舶安全法は救命ボート不備の時は、ほかの部分が完璧でもその船舶の運航を禁止し、航空法は、脱出シュート、酸素吸入器不備の時は、ほかの部分が完璧でもその航空機の運航を禁止している。原発は、それらよりもはるかに甚大な被害をもたらす。原発の運転に際して、万が一の事故に備える避難計画の実行性を求めないことは極めて不合理であり、人の生命、健康を軽視する判断である。避難計画に実行性がない場合はそれのみで原発の運転を禁止すべきことは、上記船舶安全法、航空法の精神から明らかである。(中略)本件決定が、福島原発事故を経験してもなお、住民らの命、健康に直結する避難計画の実行性の判断から逃げたことは決して許されるものではなく、強く抗議する」。

申し立て人の菅野みずえさん(左)と水戸喜世子さん

◆被ばく回避とコロナ感染防止は両立できない

今回の仮処分の申し立ては、コロナウイルスの感染拡大の危険性のみを争点にしていた。コロナウイルス感染拡大防止には、こまめな消毒、うがい、マスク着用、換気のほか、「密集」「密閉」「密接」の3つの「密」を避けることが重要とされている。申立人らは、コロナ禍で原発事故が起き、避難を余儀なくされた場合、放射能からの被ばく回避と、コロナの感染予防対策は両立できない、避難計画に実行性がないから止めるべきと訴えてきた。

3・11の教訓から、日本国内でも「5つの深層防護」の重要性が求められてきた。「5つの深層防護」とは、1979年アメリカのスリーマイル島事故や86年チェルノブイリ事故をきっかけに、96年IAEAが確立してきた原発の安全対策で、第1層、機器の故障・異常の発生を防止する。第2層、機器の故障・異常が発生したとしても設備などへの異常の拡大を防止し、事故に至るのを防ぐ。第3層、異常か拡大したとしても、その影響を緩和し、過酷事故に至らせない。第4層、維持が緩和できず、過酷事故に至っても、外部への放射性物質の漏出による影響を緩和する。第5層、過酷事故による外部への放射性物質の漏出による影響から、公衆の生命・健康を守る(避難計画)、というものだ。

IAEAはこれら5つの防護策の関係について「異なる防護策の独立した有効性が、深層防護の不可欠な要素である」としている。つまり「第3層で防護するから第4層は心配しなくてよい」と考えたり、過酷事故にならないから避難の計画をしなくてよいと考えるのは間違いで、逆にいえば、避難が安全にできないなら、それだけで原発は止めなければならないということだ。

大阪地裁の不当決定を受けて

◆通常でも困難な「避難計画」、コロナ禍では不可能

 

決定前、地裁前の公園での集会で「老朽原発再稼働を許すな」と訴える木原壯林さん

通常の原発事故での避難でも、計画通りに進まないことは、3・11の経験からも明らかだ。申し立て人の一人、福島県浪江町から兵庫県に移住してきた菅野みずえさんは、事故当日、大熊町の職場から自宅まで、普段車で45分の道のりを約3時間30分かかったこと、避難所では自分の布団と隣の人の布団の端が折り重なるほど密状態だったと話された。そこにコロナ対策が加わるのだ。

昨年6月内閣府が出した「新型コロナウイルス感染拡大を踏まえた感染症の流行下での原子力災害時における防護措置の基本的な考え方について」によれば、「自宅などで屋内退避を行う場合などには、放射性物質による被ばくを避けることを優先し、屋内退避の指示が出されている間は、原則換気は行わない」とある。「自宅など」には避難所も含まれるが、大勢の人たちが集まる避難所で換気しないということは、コロナの感染拡大を進めてくれというようなものだ。

また福井県の「新型コロナウイルスに備えた避難所運営の手引き」によれば、避難所のスペースは、一般避難者には従来の2倍の約4平方メートル(2m×2m)が必要とし、その上約2メートルの通路を確保するとある。これを美浜原発が事故を起こしたと想定した場合、美浜町のPAZ及びUPZの人口37万9,446人に必要な避難所のスペースは、東京ドーム44.6個分となる。このような避難所を確保することは、事実上不可能なのだ。

◆コロナ禍での原発運転は危険がいっぱい

昨年のコロナ発生後、各地の原発で感染者が続出したが、1月24日にはついに、玄海原発でクラスターが発生し、400人の作業員が出勤停止になった。原発は通常の運転時で1日1,500人、定期検査時には3,000人もの作業員が働くが、通勤時の車両、待機場所、脱衣場、休憩室など、いずれも3密状態を強いられる。

福井県の原発には、感染者が多発する大阪などから作業員がいくことも多いが、末端の下請け業者などでは、作業員の健康管理などまともにやれてないことが多く、感染者が一人でも紛れ込めば、感染は一挙に拡大するだろう。しかも平時でなく過酷事故が起きた有事であるならば、「工事の遅れ」などでは済まされない。事故後、緊急対策室で吉田所長が大声で作業員に指示する動画を見た人も多いだろうが、コロナ禍では、ソーシャルディスタンス2メートル取った離れた場所から、唾を飛ばさないように小声で「ベント! ベント!」「注水しろ!」などと指示しなくてはならないのだ。そんなことでは、原発の暴走は止められない。しかし、コロナ対策を無視し、マスクを外し唾を飛ばしながら、大声で作業員に指示し続ければ、あっという間に作業員間にコロナが蔓延するだろう。

◆コロナ禍で原発を動かす危険性

関電の原発は、昨年末にはすべて止まっていたが、今年に入り1月大飯原発4号機が稼働し、3月7日には高浜3号機が軌道、高浜1,2号機、美浜3号機の老朽原発の再稼働が画策されている。

今回、申立書と同時に提出された意見書で、原子力コンサルタントの佐藤暁氏は、地震など自然災害が発生した際の、コロナ対策と原発事故対応の困難さを「難度の高いジャグリング」にたとえ、こう表現した。「原子力災害の被災者、自然災害の被災者、そして感染者の3個の球を、どれも地面に落とさないよう器用に回し続けなければならないのだが、少し手元が狂うとあっというまに3個とも落ちてしまう」と。

そしてこう訴える。「パンデミックも自然災害も人間がコントロールできないが、唯一コントロールできるのは原発事故のリスクであるのだから、原発をどうしても諦めないにしても、せめて手の中にすでにパンデミックという1個の球があるとき、原発事故の発生リスクを排除し、もう1個がこれに加わるのを予防するという案に合意できないか」と。

今回大阪地裁は、この合意にノーをつきつけた訳だが、そもそも福島の事故の収束もできない国が、コロナを収束できるはずもなく、最悪の事態を回避させるには、私たちが、原発を止めさす闘いを、(昨日、菅野みずえさん、水戸喜世子さんらから何度も発言されたが)地道に地道に広めていくしかないのだ。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

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嘘つき東電ここに極まれり、とも言うべき内容だった。

「2021年の3月11日を迎えて」と題した小早川智明社長名のコメント。そこには、もはや定型文になっているであろう空虚な言葉が並べられていた。

 

東京電力が3月11日に公表した社長コメント。「3つの誓い」はもはや空虚な定型文になっている

「原子力損害賠償につきましては、『3つの誓い』でお示ししている『最後の一人まで賠償貫徹』との考え方のもと、引き続き、『最後の一人まで賠償貫徹』を実現すべく、しっかりと取り組んでまいります」

これだけでは無かった。

「福島の復興に向けては、未だ避難指示が解除されていない地域や住民の方々のご帰還が進んでいない地域等が多くある中、今後も、復興の加速化に向けて積極的に取り組んでまいります」

「これからも、事故の当事者である当社が、復興・廃炉に向けた責任を果たしていく方針に変わりはありません」

「当社は、10年を区切りとせず、福島第一原子力発電所の事故を決して風化させることなく、事故の反省と教訓を私たちの組織文化に根付かせていくとともに、廃炉関連産業を活性化し、地元企業の廃炉事業への参入を一層促進するなど、福島の地域の皆さまと共に歩ませていただき、地域に根差した活動をさらに展開してまいります」

「そして、「福島の復興と廃炉の両立」に全力で取り組み、福島への責任を全うしてまいります」

公式な場で必ず口にされる「3つの誓い」。それが言葉通りに実行されていると考えている原発事故被害者などいないだろう。

実は11日の地元紙・福島民友に、こんな記事が掲載された。

「東京電力社長、3.11取材拒否 福島来県せず、訓示はオンライン」

記事は「福島民友新聞社などは東電に対し、小早川社長に当日のオンライン取材の対応を申し入れていたが、10日に『限られた時間の中、オンライン取材に応じれば報道各社への対応に差が出る』と拒否回答があった」と報じた。

公の場では「最後の一人まで賠償貫徹」と言う小早川社長(右)だが、法廷などでは原発事故被害者を愚弄し続けている

東電の企業体質が露骨に表れているが、実は「3つの誓い」を自ら足蹴にするような言葉で常に原発事故被害者を愚弄してきたのがこの10年間だった。「民の声新聞」が各地の訴訟を取材しただけでも、それは数知れないほどあった。

2016年9月の東京地裁。「南相馬20mSv訴訟」の女性原告(南相馬市原町区)は、夫の死に対する東電の対応の酷さを意見陳述で訴えた。

自宅の放射線量を少しでも下げようと、夫は自宅周辺の木を伐った。妻が持たせてくれたおにぎりを食べながら一服していると、1本だけ残っていることに気付いた。午後には血圧の薬をもらいに病院に行かなければならない。「病院に行く前に伐っちまうか」。立ち上がり、再び作業に取り掛かった夫の首に、伐ったばかりの木が落ちてきた。夫はそのまま帰らぬ人となった。享年65。2012年2月1日のことだった。

「原発事故が無ければ木を伐る必要も無かった。私は絶対に許さない」

当然、東電に賠償金を請求した。だが、東電の答えは「ご主人の死と原発事故に関連性はありません」。暮れも押し迫ってきた2012年12月に、電話一本で申請却下を告げられた。「せめて書類ぐらい出すべきだ」と迫った。原発事故のせいで夫が亡くなった事を東電に認めさせたかった。特定避難勧奨地点に指定された自宅は、2011年6月の南相馬市職員の測定で3.4μSv/hもあった。しかし、それは玄関先と庭先だけの話で、実際にはさらに高い数値も測定されていた。だから夫は木を伐ったのだ。「原発事故が無ければ…」と考えるのも当然だ。しかし、東電はそれを完全否定した。

夫の命を軽視した東電。たった1本の電話で済まされた。東電の結論は「賠償金0円」だった。書類を提出した後、何をどう審査したのか。過程も決定理由も全く分からない。

2017年7月。福島から都内に原発避難した人々が起こした訴訟で、証人として東京地裁の法廷に立った辻内琢也教授(心療内科医、早稲田大学「災害復興医療人類学研究所」所長)に対する反対尋問。東電の代理人弁護士は「原発事故がストレス度に大きな影響を与えた」という原告側の主張を否定しようと、辻内教授にこう迫った。

「”自主避難者”の中には、原発事故を受けてとっさに逃げたというよりも、自治体も冷静な対応を呼びかけている中で、事故後に時間をかけて避難するかどうかを検討し、最終的に避難をしたという人も少なくないと思う。そういう、放射線の恐怖や死の危険を感じていない人のストレス度を測る事に意味があるのか」

「中通りに生きる会」が起こした損害賠償請求訴訟では、東電は準備書面で住民たちの精神的苦痛を全否定してみせた。

「低線量被ばくの健康影響に関する科学的知見については本件事故直後より新聞報道や専門機関のホームページなどを通じて公表されて広く知られており、原告らの被ばくへの不安については、客観的な根拠に基づかない、漠然とした危惧感にとどまるものである」

「自主的避難等対象区域は政府による避難指示の対象となっていない区域であり、そこでの空間放射線量は避難を要する程度のものではなく、通常通りの生活を送るに支障のないものであり、時間の経過とともにさらに低減している実情にある」

「客観的根拠に基づかない漠然とした不安感をも法的保護の対象とすることになりかねない」

別の準備書面でも「正しい知識を得ることにより不安が解消されるという性質の不安にとどまる(客観的危険に基礎付けられない心理状態である)」、「原告は自己の判断によって避難するかどうかを決めたものであって、中通りにとどまり生活せざるを得なかったという事実は認められない」、「原告が自主的避難を巡って逡巡したとしても、そのこと自体によって、原告の具体的な法的権利・利益の侵害に当たると解することはできない」などと言い放った。

神奈川県内に避難した人々の訴訟では、「コンビニや常磐線も再開された浪江町になぜ戻らないのか」と原告に迫る場面があった。

浪江町津島地区の住民たちが起こした訴訟では、本性をむき出しにした。

「現在の状況としては、下津島の御自宅で生活が出来ない。それと、それに伴って原発事故前に行っていたような地域での、下津島での活動も出来ない。という事だと思うんですが、この点を除けば、あなたの行動や活動自体には特に制約はありません。例えば『ふるさとを失う』と言う場合、村が丸ごとダムの底に沈んでしまうという『公用収用』がある。この場合は、物理的に水面の下になってしまう。立ち入りすら出来ない。こういうケースが世の中では現実に起こっています。物理的に村が無くなってしまうという事。仮にこういうケースと比較した場合、津島地区は帰還や居住は制限されているわけですが、立ち入りは出来ている。接点が全く無くなってしまったわけでは無い…」

こうも言った。

「まだまだ高い、怖い、危険と言うが、具体的な根拠はあるのか。例えば、国際組織であるIAEA(国際原子力機関)は20mSv/年以下、3.8μSv/h以下であれば健康に影響は無いという数字を出している」

これが美辞麗句に隠された原発事故加害当事者の真の顔、本音なのだ。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

『NO NUKES voice』Vol.27
紙の爆弾2021年4月号増刊

[グラビア]
3.11時の内閣総理大臣が振り返る原発震災の軌跡
原発被災地・記憶の〈風化〉に抗う

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《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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[報告]菅 直人さん(元内閣総理大臣/衆議院議員)
日本の原発は全廃炉しかない
原発から再エネ・水素社会の時代へ

[報告]孫崎 享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)
二〇二一年 日本と世界はどう変わるか

[講演]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
六ケ所村再処理工場の大事故は防げるのか
   
[報告]おしどりマコさん(芸人/記者)
東電柏崎刈羽原発IDカード不正使用の酷すぎる実態

[対談]鎌田慧さん(ルポライター)×柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)
コロナ下で大衆運動はどう立ち上がるか
「さようなら原発」とたんぽぽ舎の場合

[報告]大沼勇治さん(双葉町原発PR看板標語考案者)
〈復興〉から〈風化〉へ コロナ禍で消される原発被災地の記憶
   
[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
「被ばくからの自由」という基本的人権の確立を求めて

[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
10年前から「非常事態」が日常だった私たち

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈11〉
避難者にとっての事故発生後十年

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
原発事故被害の枠外に置かれた福島県中通りの人たち・法廷闘争の軌跡

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
コロナ収束まで原発の停止を!
感染防止と放射能防護は両立できない

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
柏崎刈羽原発で何が起きているのか

[報告]板坂 剛さん(作家・舞踊家)
新・悪書追放シリーズ 第1弾 
ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
コロナ禍の世界では想像しないことが起きる

[書評]横山茂彦さん(編集者・著述業)
《書評》哲学は原子力といかに向かい合ってきたか
戸谷洋志『原子力の哲学』と野家啓一『3・11以後の科学・技術・社会』

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈11〉 人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か(下)

[読者投稿]大今 歩さん(農業・高校講師)
「核のごみ」は地層処分してはいけない

[報告]市原みちえさん(いのちのギャラリー)
鎌田慧さんが語る「永山則夫と六ケ所村」で見えてきたこと

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
コロナ下でも工夫して会議開催! 大衆的集会をめざす全国各地!
《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
三月の原発反対大衆行動──関西、東京、仙台などで大きな集会
《女川原発》舘脇章宏さん(みやぎ脱原発・風の会)
民意を無視した女川原発二号機の「地元同意」は許されない!
《福島》橋本あきさん(福島在住)
あれから10年 これから何年? 原発事故の後遺症は果てしなく広がっている
《東海第二》阿部功志さん(東海村議会議員)
東海第二原発をめぐる現状 
原電、工事契約難航 東海村の「自分ごと化会議」の問題点
《東京電力》渡辺秀之さん(東電本店合同抗議実行委員会)
東電本店合同抗議について―二〇一三年から九年目
東電福島第一原発事故を忘れない 柏崎刈羽原発の再稼働許さん
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク/経産省前テントひろば)
新型コロナ下でも毎週続けている抗議行動
《高浜原発》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
関電よ 老朽原発うごかすな! 高浜全国集会
3月20日(土)に大集会と高浜町内デモ
《老朽原発》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
大飯原発設置許可取り消し判決を活かし、美浜3号機、高浜1・2号機、東海第二を止めよう
《核兵器禁止条約》渡辺寿子さん(たんぽぽ舎ボランティア、核開発に反対する会)
世界のヒバクシャの願い結実 核兵器禁止条約発効
新START延長するも「使える」小型核兵器の開発、配備進む
《読書案内》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
山本行雄『制定しよう 放射能汚染防止法』
《提案》乱 鬼龍さん(川柳人)
『NO NUKES voice』を、もう100部売る方法
本誌の2、3頁を使って「読者文芸欄」を作ることを提案

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

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東日本大震災と福島第一原発事故から10年目を迎えるの直前の今年3月5日、国と東電を相手にした新たな裁判が始まった。福島県飯舘村の村民29人が、国と東電にに対して、「原発事故で初期被ばくを強いられ、故郷を奪われた」として、一人当たり715万円の損害賠償を求めた裁判だ。


◎[参考動画]「避難指示遅れ被ばく」飯舘村29人が国と東電提訴(ANN 2021年3月6日)

原発から30キロ~50キロ離れた飯舘村は、事故が起きるまで原発とは無関係だった。しかし3月15日、飯舘村上空へ流れついた放射性物質が雨や雪とともに大量に降り落され、事態は一変。役場前のモニタリングポストは15日、毎時44.7マイクロシーベルトに跳ね上がったが、菅野典雄村長(当時)は村民に知らせることも避難させることもしなかった。

その後、村に調査に入った今中哲二氏らも、村が高線量の放射性物質に侵されている事実を知り、村長に避難を訴えたが聞き入れられなかった。あげく「笑っていれば放射能は怖くない」発言の山下俊一氏や高村昇氏など御用学者を村に呼び「安全講和」を行わせ、高線量の村に村民を住まわせ続けた。

村が「計画的避難区域」に指定されたのは4月22日、ひと月をめどに避難せよというものの、福島市内などのアパート、仮設住宅には、先に避難した人たちが入居しており、村民の避難はさらに遅れた。そしてこの間も、村民は無用で大量の初期被ばくを強いられ続けた。

 

筆者ツイッターより

2014年11月14日、村の約半数の人たちが参加し、原発ADRが申し立てられた。2017年センターは、初期被ばくの慰謝料について一人10万円と低く抑えた和解案を出したが、東電は拒否、センターの受諾勧告にも応じなかった。生活破壊慰謝料や、田畑・山林など不動産に関する「ふるさと喪失」の慰謝料について、センターは和解案さえ出さなかった。原告らは、こうした結果を不服として提訴、初期被ばくとふるさと喪失についての慰謝料の2点に絞って改めて闘うこととなった。

原告団代表の菅野哲(72)さんにお話を伺った。菅野さんは1948年飯舘村生まれ。飯舘村の開拓農家に生まれ、役場職員を定年退職した2009年以降、農業に復帰。荒れた田畑を開拓し、野菜などを栽培し、新たなシニアライフを始めた矢先、原発事故が起こったのである。

現在は福島市内に共同農園を作り、約60人の仲間と野菜作りなどを行っている。

福島市の共同農園(写真提供=菅野哲さん)

◆金が目的ではない

―― 2014年のADRへの申し立てには、私も同行させて頂きましたが、今回の提訴はADRに納得がいかないということで始まったのでしょうか?

菅野 そうですが、最初にお金が目的ではないということを知っていただきたい。ADRが終わってからどうなるか悩んでいました。世間では「10年目の節目」「10年目の節目」というが、事故を起こした原発はまだまだ収束にはほど遠く、この先何十年何百年と続くのですから、私たちに節目はない。「何が節目だ、そんなこと言っているなら、国と東電の事故の責任を明確にすべきだ」と、昨年12月に提訴を決意しました。

弁護団には前のADRの弁護士もいるので、ADRのときの80ページの資料全てを訴状にいれました。そうしないと、事故前の飯舘村がどんな村で、我々がそこで安心安全に暮らしていたんだということが理解してもらえない、そうした生活が事故で一瞬にして潰され、一からやり直す訳ですから。節目なんてないですよ。もう戻らないんだもの。前に進むしかないと意識を切り替えるしかない。ただ、それに対して行政や政治家は正しかったのかと、今回の裁判で問うていきたいと考えています。

── 原告の中に子どもさんがいましたね?

菅野 私の孫、小学6年生です。事故当時村に住んでいましたから。最高齢は、畑に来ている87歳の男性、「どうしても気が収まらない」と。いやあ、元気な方です。

同上(写真提供=菅野哲さん)

◆「被ばくしているのでは」との不安がずっと続く

―― 初期被ばくそのものを争う初めての裁判ということですが、計画的避難区域に指定され、村を出るときスクリーニングも線量検査をなかったのですね?

菅野 そうです。なぜやらなかったのか?国・県の災害対応のマニュアルには書いてあったはず。何もせずにそのまま「逃げろ」となったのだから、被ばくしているのではという不安が、生きている間ずっと消えずに続く。だから今回、その部分も提訴しました。

報道も甲状腺がんと被ばくの因果関係はないと言い続けている。今回国連のアンスケア(UNSCEAR)の報告書も因果関係はないとしてしまった。それは本当なのか、分からないだろと言いたい。

―― むしろこれから増えてくると思いますが?

菅野 そうですね。私自身、2年前前立腺癌になりましたし、今、眼に緑内障がでて治療しています。治らないし、手術もできないから、進行を送らせる薬(点眼薬)つけるくらい。でも70過ぎてると「年でしょう」と言われてしまう。

―― 被ばくの問題は福島の中では話しにくいと良く言われますが、菅野さんの周辺ではどうですか?

菅野 私の周辺では話し合いますよ。わかってくれる人がいないと話さなくなるでしょうね。周辺には、癌になって苦しんでる人、亡くなった人、若い人で亡くなった人も出てます。 

福島味噌づくりby高山(2018年4月8日)(写真提供=菅野哲さん)

◆菅野典雄元村長は村民に何をしたか?

―― 会見で菅野さんは「(村の)いたるところで真っ黒いソーラーパネルで埋め尽くされていますから、異様に見えて涙がでます」と話されていました。先日テレビで飯舘村は自分たちで電力を賄っていると「美談」で紹介されてましたが。

菅野 だって、黄金色や緑の農地に真っ黒のソーラーパネルは似合わないでしょう。飯舘村を美しい村にしたのは、菅野(典雄)元村長じゃない、それぞれの村民が手を加えて、その努力で作られてきたのだから。

―― でも「美しい飯舘村」は、菅野村長時代に作られたように宣伝されていますね?

菅野 基礎を作ったのは、菅野村長の前の前の村長からです。前の前の村長が「緑とふれあいの村」をキャッチフレーズにうちだし、お金はなくても皆が生きられる美しい村をつくろうと始めた。そしてその後の村長が「クオリティ・ライフ」、質の高い暮らしを求めよう、お金じゃないよ、経済行為だけじゃなく、もっと自分の暮らしを良く見つめてみようと続けた。その続きで菅野典雄さんが「までいの村づくり」を始めたが、まず「までい」のスペルが違うと私は言った。本当は昔からの言葉は「までえ」なんです。地元の言語がわからなかったのかも。やっぱり、高齢者と一緒に育った人でないとわからないんですよ。

―― 3・11以降菅野典雄さんのやったことをどう評価していますか?

菅野 うん、この10年、菅野村長は村民の生活再建のためになることは何をやったのかな。

 

菅野哲『〈全村避難〉を生きる: 生存・生活権を破壊した福島第一原発「過酷」事故』言叢社2020年

―― ハコモノを作って赤字だけを残した。

菅野 私は、人がいて初めて村が成り立つと思っているので、菅野村長の「戻らない人はいい。移住してきた人で、新しい村を作る」みたいな考え方は間違いだと思います。自分の家庭なら嫁でも婿でも養子で入れればいい。でも村はそうじゃない。村に住めないようにさせた人への追及もしないで、新しい村を作ろうなんておかしいと思います。それより村民がどこに暮らそうと、自立して生活出来るようにするのが行政の仕事だと思いますよ。そういうことを8年掛けて「〈全村避難〉を生きる」(言叢社2020年)という本に書きました。 

── かなり分厚いですよね。 

菅野 あれこれ忙しいので、その合間に書きました。自分の歩んできた道や村作りの部分などは書いていたので、それを出版社が上手く分類してまとめてくれました。私も東京に行って面談しましたし、出版社も私の思いを知りたい、村の現状を知りたいと何度も福島に来てくれました。
 
── 2014年ADRへ申し立てたあとの記者会見で「棄民になりたくない」と語ってましたが、今も同じ思いですか?

菅野 当時、このままでは棄民にされると思い、そう話したが、その後も全くかわらなかった。一番は自立して生活再建できる政策を求めていたが、支援は打ちきり、住宅も打ちきり、除染したから戻れというだけ。生業の施策も何もない。戻ったところで店もない、医療機関もない、買い出しに行かないといけない、戦時中みたいな話ですよ。だから今も棄民にされたくないという思いは同じです。今回東京地裁に提訴した理由は、福島第一原発事故による電気を使っている関東の人たちにも、こうした飯舘村の現状を知ってほしいとの思いがあったからです。でも、そこがなかなか理解してもらえない気がします。ネットをみると、今回の提訴について「またお金をとるのか」と誹謗中傷だらけです。

── そうですか? 私は、これからも飯舘村の村民の思い、金ではないんだ、国と東電の責任を明確にしたいんだということを、ちゃんと書いて行きます。今日はありがとうございました。


◎[参考動画]福島県民の訴え 飯舘村管野哲さん 3・11福島県民大集会(映像ドキュメント 2012年3月25日)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

『NO NUKES voice』Vol.27
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[グラビア]
3.11時の内閣総理大臣が振り返る原発震災の軌跡
原発被災地・記憶の〈風化〉に抗う

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《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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[報告]菅 直人さん(元内閣総理大臣/衆議院議員)
日本の原発は全廃炉しかない
原発から再エネ・水素社会の時代へ

[報告]孫崎 享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)
二〇二一年 日本と世界はどう変わるか

[講演]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
六ケ所村再処理工場の大事故は防げるのか
   
[報告]おしどりマコさん(芸人/記者)
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[対談]鎌田慧さん(ルポライター)×柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)
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「さようなら原発」とたんぽぽ舎の場合

[報告]大沼勇治さん(双葉町原発PR看板標語考案者)
〈復興〉から〈風化〉へ コロナ禍で消される原発被災地の記憶
   
[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
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[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
10年前から「非常事態」が日常だった私たち

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈11〉
避難者にとっての事故発生後十年

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
原発事故被害の枠外に置かれた福島県中通りの人たち・法廷闘争の軌跡

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
コロナ収束まで原発の停止を!
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[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
柏崎刈羽原発で何が起きているのか

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新・悪書追放シリーズ 第1弾 
ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
コロナ禍の世界では想像しないことが起きる

[書評]横山茂彦さん(編集者・著述業)
《書評》哲学は原子力といかに向かい合ってきたか
戸谷洋志『原子力の哲学』と野家啓一『3・11以後の科学・技術・社会』

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈11〉 人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か(下)

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[報告]市原みちえさん(いのちのギャラリー)
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[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
コロナ下でも工夫して会議開催! 大衆的集会をめざす全国各地!
《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
三月の原発反対大衆行動──関西、東京、仙台などで大きな集会
《女川原発》舘脇章宏さん(みやぎ脱原発・風の会)
民意を無視した女川原発二号機の「地元同意」は許されない!
《福島》橋本あきさん(福島在住)
あれから10年 これから何年? 原発事故の後遺症は果てしなく広がっている
《東海第二》阿部功志さん(東海村議会議員)
東海第二原発をめぐる現状 
原電、工事契約難航 東海村の「自分ごと化会議」の問題点
《東京電力》渡辺秀之さん(東電本店合同抗議実行委員会)
東電本店合同抗議について―二〇一三年から九年目
東電福島第一原発事故を忘れない 柏崎刈羽原発の再稼働許さん
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク/経産省前テントひろば)
新型コロナ下でも毎週続けている抗議行動
《高浜原発》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
関電よ 老朽原発うごかすな! 高浜全国集会
3月20日(土)に大集会と高浜町内デモ
《老朽原発》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
大飯原発設置許可取り消し判決を活かし、美浜3号機、高浜1・2号機、東海第二を止めよう
《核兵器禁止条約》渡辺寿子さん(たんぽぽ舎ボランティア、核開発に反対する会)
世界のヒバクシャの願い結実 核兵器禁止条約発効
新START延長するも「使える」小型核兵器の開発、配備進む
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山本行雄『制定しよう 放射能汚染防止法』
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『NO NUKES voice』を、もう100部売る方法
本誌の2、3頁を使って「読者文芸欄」を作ることを提案

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

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3.11大震災・原発事故10周年に、『NO NUKES voice』Vol.27が発行された。2014年の創刊から6年半、日本で唯一の反原発雑誌が持続していることは、そのまま反原発運動の持続力あってのことだ。そして運動の持続性に応える版元の努力も讃えられてしかるべきであろう。

 

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

おやっ、と思ったのは、本誌表2(編集用語で表紙裏です)に東洋書店新社という出版社の広告が入っていることだ。書名は『原発「廃炉」地域ハンドブック』(尾松亮・編)である。ロシア・東欧をテーマにした版元のようで、出版物をみると版元のこだわりが感じられる。版元の親会社をみると、わたしのような編集者には「あぁ、なるほど」とわかるわけだが、何にしても出版不況のなかで、こだわりを持った版元が頑張っているのは心強いというか、かたちだけでも応援したくなる。

『紙の爆弾』の先行誌ともいうべき『噂の眞相』も暴露雑誌ゆえに、とくに編集長の岡留安則氏(故人)の周辺や、編集部行きつけの居酒屋の広告は入っても、一般企業や出版社は限定的だった。その事情は『紙の爆弾』も本誌『NO NUKES voice』も同じで、なかなか広告取りはかなわない。万単位の配本があるのに比してである。

一般に雑誌の採算が取れるのは、紙広告の衰退(ネット広告の全盛による)にもかかわらず、最低限の編集費・製作費はAD(広告)でまかなわれる。ないしは現在ではコンビニ販売を取り付けて、安価大量販売(といっても2万部前後)をはかる以外に、なかなか雑誌の販路は開けない。

そんな中で、運動関係であれ反原発書籍限定であれ、本誌を広告が支えていくのであれば、さらに持続力は増すであろう。

◆読み応えがある菅直人、孫崎享、小出裕章の論考

前置きが長くなった。本誌の中身に入ろう。

巻頭カラーは「双葉町原発PR看板標語」運動の大沼勇治さんの10年を写真で追う。そして菅直人元総理による、原発事故からの10年をふり返って、である。さすがに読みごたえがある。

とくに「原発から再生エネルギーへ」「農地を利用した営農型太陽光発電」の提言は、この10年間の省エネ発電の普及、長島彬さん考案の「ソーラーシェアリング」など、具体性があって良いと思う。

※長島さんの『日本を変える、世界を変える!「ソーラーシェアリング」のすすめ』(発行:リックテレコム)に詳しい。

オンカロを視察する菅直人元首相(写真提供=菅直人事務所)

孫崎享さん(東アジア共同体研究所所長)の「二〇二一年 日本と世界はどう変わるか」は、国民の決定権の問題、報道の自由など、民主主義の根幹にかかわる問題を提起する。アメリカの衰退のなかで、世界はどう変わっていくのか。左派のシンクタンクともいえる分析に加えて、いくつかの提案も含まれている。

たんぽぽ舎で講演する孫崎享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)

小出裕章さん(元京都大学原子炉実験助教)は「六ヶ所村再処理工場の大事故は防げるのか」として、六ヶ所村で事故が起きたとのシミュレーションである。講演録をもとにしているので、パワーポイントの図表がわかりやすい。さてその仮定の結果は、本誌をお読みいただきたい。その悲劇的な結末は、思わず人に話したくなるものだ。

大阪で講演する小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)

◆コロナ下で大衆運動はどう立ち上がるか
「さようなら原発」鎌田慧×「たんぽぽ舎」柳田真の対談

鎌田慧さんと柳田真さんの対談は、コロナ下で制約されている大衆運動について、運動の内部まで検証するものになっている。内部の弊害では、先行する運動体の前衛意識と防衛本能。運動もまた、人間の縄張りなのである。

もうひとつは、若者の参加が一時的にはシールズのようなものはあったが、やはり少ないということだろう。鎌田さんは労働運動の弱体化をその原因のひとつに挙げ、いっぽうで生協運動の大きなプラットホームの有効性を語っている。今後の課題は、やはり対面の集会、小さくてもいいから顔を合わせる活動の再開であろう。

左から鎌田慧さん(ルポライター)と柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)

◆哲学は原子力といかに向かい合ってきたか

板坂剛の「新・悪書追放シリーズ 第1弾」の歯牙にかかるのは、ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』である。この本に「真実」がないことを揚げ足取り的に、完膚なきまでに論破する。一服の清涼剤である。

拙稿「哲学は原子力といかに向かい合ってきたか」は、『原子力の哲学』(戸谷洋志)と『3.11以降の科学・技術・社会』(野家啓一)を扱った。哲学書(今回は解説書)を簡単に読む方法、お伝えします。

同じく、哲学の歴史的考察から、その現代への適用をわかりやすく解読したのが、山田悦子さんの「人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か」である。この論考は前号(Vol.26)の後編である。よく勉強しているなぁ、という印象だ。

SDGs(持続可能な開発目標)も人類の欲望の亜種にすぎず、地球の尊厳を歴史の理念基盤にするべきだとの主張は、もうすこし具現化されるべきであろう。男女二項対立の図式も、やや古いリブの思想に見えてしまう。おそらく生産力主義を批判するあまり、論者の人類の将来が多様性の視点に欠ける(抽象化される)からであろう。とはいえ、その男性社会への批判的視点には正当性がある。

最後に、乱鬼龍さんの「読者文芸欄」をつくる提案は良いと思う。ただし、運動の表現としてのみ、川柳や俳句を扱ってしまうと、運動への芸術文化の従属という、古い課題に逢着するはずだ。文化活動に尊厳を持つ選者や評者があっての文化コーナーではないだろうか。この批評の冒頭にあげた、雑誌の持続力が読者参加にあるのは言うまでもない。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

『NO NUKES voice』Vol.27
紙の爆弾2021年4月号増刊

[グラビア]
3.11時の内閣総理大臣が振り返る原発震災の軌跡
原発被災地・記憶の〈風化〉に抗う

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《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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[報告]菅 直人さん(元内閣総理大臣/衆議院議員)
日本の原発は全廃炉しかない
原発から再エネ・水素社会の時代へ

[報告]孫崎 享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)
二〇二一年 日本と世界はどう変わるか

[講演]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
六ケ所村再処理工場の大事故は防げるのか
   
[報告]おしどりマコさん(芸人/記者)
東電柏崎刈羽原発IDカード不正使用の酷すぎる実態

[対談]鎌田慧さん(ルポライター)×柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)
コロナ下で大衆運動はどう立ち上がるか
「さようなら原発」とたんぽぽ舎の場合

[報告]大沼勇治さん(双葉町原発PR看板標語考案者)
〈復興〉から〈風化〉へ コロナ禍で消される原発被災地の記憶
   
[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
「被ばくからの自由」という基本的人権の確立を求めて

[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
10年前から「非常事態」が日常だった私たち

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈11〉
避難者にとっての事故発生後十年

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
原発事故被害の枠外に置かれた福島県中通りの人たち・法廷闘争の軌跡

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
コロナ収束まで原発の停止を!
感染防止と放射能防護は両立できない

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
柏崎刈羽原発で何が起きているのか

[報告]板坂 剛さん(作家・舞踊家)
新・悪書追放シリーズ 第1弾 
ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
コロナ禍の世界では想像しないことが起きる

[書評]横山茂彦さん(編集者・著述業)
《書評》哲学は原子力といかに向かい合ってきたか
戸谷洋志『原子力の哲学』と野家啓一『3・11以後の科学・技術・社会』

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈11〉 人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か(下)

[読者投稿]大今 歩さん(農業・高校講師)
「核のごみ」は地層処分してはいけない

[報告]市原みちえさん(いのちのギャラリー)
鎌田慧さんが語る「永山則夫と六ケ所村」で見えてきたこと

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
コロナ下でも工夫して会議開催! 大衆的集会をめざす全国各地!
《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
三月の原発反対大衆行動──関西、東京、仙台などで大きな集会
《女川原発》舘脇章宏さん(みやぎ脱原発・風の会)
民意を無視した女川原発二号機の「地元同意」は許されない!
《福島》橋本あきさん(福島在住)
あれから10年 これから何年? 原発事故の後遺症は果てしなく広がっている
《東海第二》阿部功志さん(東海村議会議員)
東海第二原発をめぐる現状 
原電、工事契約難航 東海村の「自分ごと化会議」の問題点
《東京電力》渡辺秀之さん(東電本店合同抗議実行委員会)
東電本店合同抗議について―二〇一三年から九年目
東電福島第一原発事故を忘れない 柏崎刈羽原発の再稼働許さん
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク/経産省前テントひろば)
新型コロナ下でも毎週続けている抗議行動
《高浜原発》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
関電よ 老朽原発うごかすな! 高浜全国集会
3月20日(土)に大集会と高浜町内デモ
《老朽原発》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
大飯原発設置許可取り消し判決を活かし、美浜3号機、高浜1・2号機、東海第二を止めよう
《核兵器禁止条約》渡辺寿子さん(たんぽぽ舎ボランティア、核開発に反対する会)
世界のヒバクシャの願い結実 核兵器禁止条約発効
新START延長するも「使える」小型核兵器の開発、配備進む
《読書案内》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
山本行雄『制定しよう 放射能汚染防止法』
《提案》乱 鬼龍さん(川柳人)
『NO NUKES voice』を、もう100部売る方法
本誌の2、3頁を使って「読者文芸欄」を作ることを提案

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

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『七つの大罪』などのヒット作を手がけた講談社の元編集次長・朴鐘顕(パク・チョンヒョン)氏(45)が妻・佳菜子さん(事件当時38)を殺害した容疑で検挙された事件について、私は4年前(2017年1月13日)、当欄で次のような記事を配信した。

◎妻殺害容疑で逮捕された講談社編集者に「冤罪」の疑いはないか?
 
記事のタイトルからわかる通り、私は朴氏が逮捕された当初、報道の情報から冤罪の疑いを読み取り、そのことを指摘したのである。

その後は正直、この事件の動向を熱心にフォローしていなかった。しかし先日、無実を訴える朴氏が裁判で懲役11年を宣告された一審に続き、二審でも有罪にされたというネットメディアの記事を一読し、心にひっかかるものがあった。そこで、公立図書館の判例データベースで一審判決を入手し、目を通してみたのだが――。

結論から言おう。本件はやはり、冤罪を疑わざるをえない事案である。それをここでお伝えしたい。

◆創作できるレベルを超えていた被告人の公判供述

一審判決によると、朴氏は2016年8月9日午前1時過ぎ、東京都文京区の自宅において、殺意をもって妻・佳菜子さんの首を圧迫し、窒息死させたとされる。朴氏は佳菜子さんが亡くなった原因について、「妻は自殺した」と主張したのだが、一、二審共に退けられたのだ。

だが一方で判決によると、佳菜子さんが生前、朴氏にあてていたメールの内容などに照らすと、佳菜子さんは育児などに追われて相当のストレスを抱え込んでいたことが認められるという。さらに事件の際、佳菜子さんは包丁を持ち出したうえで朴氏に対し、「お前が死ぬか、私が死ぬか選んで」と迫るなど尋常ではない状態にあったことが否定できないという。

このような事実関係からすると、「妻は自殺した」という朴氏の主張は特段おかしくない。

さらに上記のような「尋常ではない状態」にあった佳菜子さんが亡くなった原因などに関し、朴氏は公判で以下のようにずいぶん詳細な説明をしていたようである。

「妻の手には包丁が握られていたため、私は2階の子供部屋に避難して妻が入ってこないようにドアを背中で押さえていたのです。すると、数回『ドドドドドン』という音が聞こえた後、静かになったため、子供部屋から出て階段の下を見ると、妻が階段の下から2番目の手すりの留め具にくくりつけた私のジャケットに首を通して自殺していたのです。上から見ると、妻が階段上にうつ伏せで寝そべっているか座っているかのように見えました」(一審判決にまとめられた朴氏の公判供述の要旨を読みやすくなるように再構成)

この供述は全般的にリアリティがあるが、とくに(1)佳菜子さんが首を吊って自殺するのに使った道具が「私のジャケット」だったという部分や、(2)亡くなっていた佳菜子さんについて「階段上にうつ伏せで寝そべっているか座っているかのように見えました」と説明している部分については、創作できるレベルを超えている。

これはつまり、朴氏が本当に自分の経験したことを供述していると考えるのが妥当だということだ。

◆被害者遺族が「加害者」の無罪主張に沿う言動をとる理由とは?

私が今回、心に引っかかるものがあったというネットメディアの記事についても言及しておきたい。それは、以下の記事だ。

◎「講談社元編集次長・妻殺害事件」 “無罪”を信じて帰りを待つ「会社」の異例の対応(デイリー新潮)
 
この記事が私の心に引っかかったのは、佳菜子さんの妹が朴氏のことを擁護していたり、佳菜子さんの父が「佳菜子は病気で亡くなったと思っている」と言っていたりするように書かれていたからだ。

被害者遺族が「加害者」の無罪主張に沿う言動をとること自体が珍しいが、そんな事態になったのは、佳菜子さんが事件前、遺族に「自殺してもおかしくない」と思われるような言動をとっていた可能性があるからに他ならない。

ところが、一審判決を見る限り、佳菜子さんが亡くなった経緯に関する事実関係は、もっぱら佳菜子さんの遺体や、現場の痕跡(血痕や尿班など)に基づいて争われており、佳菜子さんの生前の言動に関する遺族の証言が審理の俎上に載せられた形跡が見受けられない…。

これはつまり、無罪を主張する朴にとって有利な証拠が見過ごされた可能性があるということだ。

朴氏にとって、裁判での無罪主張のチャンスは最高裁の上告審を残すのみとなったが、果たしてどうなるか。この事件については、改めて事実関係を調べてみたいと思うので、何か有意な情報が得られたらまた報告したい。

無実を訴え続ける朴氏は最高裁に上告中

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

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北九州市議選挙における自民党の惨敗の詳報、7月都議選がダブル選挙になるかもしれない観測記事が目を惹いた。

 

2021年もタブーなし!月刊『紙の爆弾』4月号

青木泰の「山が動く──政権交代の足音」、山田厚俊の「7月『都議選ダブル』解散」である。

北九州は元来、旧社会党時代から革新系が強い場所でもあった。高齢率も政令指定都市のなかで日本一高いことも、根づよい反自民の地盤を象徴している。その北九州で1月末の市議選の結果、自民党候補22人(定数57)のうち、現職の6人が落選した。野党では立憲民主党が5人から7人、維新が0から3人、無所属が7人から10人。明らかに自民批判の有権者の動きである。これが政権交代を占うバロメーターになるかもしれないことは、本通信でも指摘してきたところだ。

北九州市議選では「お前も自民やろ!」(罵倒するときに関西弁風の訛りが入る北九弁特有のもの)などと、自民党候補が街頭でヤジられる事態が頻発したという。何が起きているのかは本誌の記事を参照して欲しいが、11選をめざした県連副会長、をふくもベテラン議員の落選は、個々の議員ではなく自民党批判が鮮明になっている。1月24日投開票の山形知事選挙でも、前回衆院選挙で3小選挙区を独占した自民が、3割も取れない惨敗。加藤鮎子(加藤紘一の娘)が県連会長を辞任する事態となった。

◆1989年、2009年と酷似している

青木はこの流れを、1989年に社会党の参院選挙での大勝、いわゆる「山が動いた」減少となぞらえる。このときは、4カ月前の小金井市議選挙での社会党の上位独占、参院新潟補選での社会党女性候補の当選と、ここから衆参逆転のマドンナ旋風が想起される。

当時はリクルート問題で竹下政権が崩壊し、宇野新総理の愛人問題で、自民党がカネとスキャンダルにまみれた政治危機にあった。

政権交代となった2009年の総選挙では、民主党が選挙前を大幅に上回る308議席を獲得し、議席占有率は64.2%に及んだ。単一の政党が獲得した議席・議席占有率としては、現憲法下で行われている選挙としては過去最高である。

その前年の都議会選挙で、民主党が圧勝していることも見逃せない。当時は消えた年金問題で、これ以上自民党にまかせていたら、老後の生活がおぼつかないという、年金生活を目前にした団塊世代の危機感があった。

今回は言うまでもなく、モリカケ桜疑惑の隠ぺい、コロナ禍での無策・手詰まりに、もうこれ以上自民党ではダメだろう。という空気が支配的になっている。安倍長期政権の経済政策が、経済(生活)を何とかしてくれるはずだったのに、けっきょく株主しか儲からない社会だったと、その正体が顕わになったのである。

国民はまだこの「政権交代」空気にあまり気づいていないが、自民党の危機感たるや凄まじい。青木がレポートした西東京市長選挙では、ヘイトまがいの「違法ビラ」で個人中傷を行なっているのだ。記事には反自民候補だった平井竜一氏のインタビューも収録されているので読んでいただきたい。

◆都議選とのダブルの可能性

山田厚俊のレポートは、自民党議員の取材から都議選(衆院)ダブル選挙が30%ありうるという情報だ。どうやら現在の自民党に「菅おろし」をする体力はない。たしかにそうかもしれない。派閥が金力と人脈、そして一応の政治理念で抗争していた時代とはちがい、官邸一極集中で総じて自民党政治家が小粒になっている。派閥の力が自民党の活力を生み出していた時代とは違うのだ。

それにしても、「ネクラ」の菅では総選挙は戦えない。自民党総裁は選挙に勝ててなんぼである。あれほど身びいきと政治の私物化で、なおかつネオファシスト的な反発を買っていた安倍晋三が「安倍一強」だったのも、選挙に勝てたからにほかならない。思い返してみれば、安倍晋三は中身はともかく、見てくれだけは国際政治のどの舞台に出しても、他国の政治家と遜色がなかった。

安部は一流の政治家一族に生まれ、秀才とはいえないまでもアメリカ留学して英語を磨き、それなりの二枚目であり、かつ長身でスマートな体躯。これらはぎゃくに、菅義偉総理にはないものばかりなのだ。いわば日本のアッパーミドルの期待と上級国民たちの熱烈な支持、そして排他的なネトウヨに支えられてきた。そしてその政治の私物化・お友だち優遇という醜い側面を暴露されていくなかで、引き時を誤らなかったのも政治センスなのであろう。

さて、山田レポートでは選挙の「新たな顔」に、河野太郎と野田聖子を挙げている。順当なものだと思う。あとは公明党(ダブル選挙に反対)との関係の変化である。解散の時期をどうするのか、菅総理にとってそこが正念場であるのは変わりない。

◆令和の「奴隷島」

パソナ竹中平蔵の「奴隷島」のレポートは衝撃的だ。いよいよ日本の階層分化が「奴隷島」を作ってしまったのだ。

抽象的な意味での「資本主義の賃金奴隷制」とかではない。竹中が淡路島に新型の貧困ビジネスを作ろうとしているのだ。パソナグループの新卒学生対象(契約社員)が「日本創成大学校ギャップイヤープログラム」というものだ。小林蓮実のレポートである。そのプログラムの内実は惨憺たるものだ。

小林によると、週40時間労働で手取りは12万ほど。受講費2万8,000円のほかに寮費が2万6,000円、食費が5万4,000円。ここまでで、手元に残るのは1万円ほどになってしまう。これでは島から外に出ることもできない。SNSで「奴隷島」「貧困ビジネス」と揶揄されるゆえんだ。読むほどにオドロオドロしい実態だ。悲惨な体験レポートとか、その実態を生々しく暴露する追加記事に期待したい。

「コロナワクチンの現実と『ワクチン後』の世界」(西山ゆう子取材・文、中東常行協力)は、ロサンゼルスの動物病院で働く西山のレポートだ。これから始まるはずの、日本のワクチン接種の参考にしたい。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

◆通信教育でスタート

高谷秀幸(たかや・ひでゆき/1963年8月31日、東京都大田区出身)はタイトル歴は無いが、「目立ってやろう精神」は好奇心旺盛に団体と時代を渡り歩いた名脇役であった。全日本キックボクシング連盟ではリングネームを兜甲児としてリングに上がった。

空手会場で演舞を披露していた頃もある高谷秀幸(20歳頃)

幼い頃から活発で、ブルース・リーなどを見様見真似のアクションで遊んでいたが、15歳で空手を始めた。そんな頃、雑誌ゴングの広告で見た、みなみジムのキックボクシング&マーシャルアーツの通信教育に興味を持って申し込み、日々テキストに従った練習に励んだ。

一定の通信過程を経て実技審査に入る際はスクーリング制度で、みなみジム宿舎泊まり込みで技術を披露。

元々から充分鍛えていた高谷は何一つ劣ることなく体力テストもクリアし修了審査を終えると、「じゃあまた連絡するから!」と南会長に言われてジムを後にし、10日ほど経ったある日、電話が入った。

「オイ高谷、デビュー戦決まったから入門しろ!」

「えっ、デビュー戦? 入門前にデビュー戦って決まるもんなの?」という疑問は聞ける雰囲気ではなく「ハイ、分かりました!」と応えるのみ。

入門したのは1981年10月1日、デビュー戦は10月25日だった。これが当時、日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会で分裂が起こって設立された日本プロキックボクシング連盟の設立記念興行だった。ライト級デビュー戦同士で鈴木庄二(西川)と対戦した高谷は勝つよりも目立ってやろうという意識が強く、バックハンドブローを炸裂させたことが判定勝利に結び付いた。これで自信を持った高谷は後々の得意技となっていった。

デビュー戦のリングに立った日(1981年10月25日)

◆夜逃げ

みなみジムでは1戦のみだったが、会長は「もっと左ミドルキック蹴らなきゃダメだ!」といった試合のダメ出しが多く、何かと威圧的に煩いこと言われ続け、傍から見ればどちらも血気盛んな性格なだけだったが、高谷は突然の退会を申し出て、後は夜逃げ同然のように宿舎から去った。

高谷は千葉県内に移り住んでいたが、一度やったキックボクシングは簡単には止められない魔力に憑りつかれていた。やがて千葉県内のキックボクシングジムを探し出すと、総武線の稲毛駅付近で車窓から見えたのが「TBSで放映中!キックボクシング千葉ジム」の古い看板。迷わず稲毛駅を降りてすぐに向かった。

当時はテレビも離れ、分裂も繰り返し起こったキックボクシング業界低迷期で、ジムは閑散としたもの。戸高今朝明会長も「こんな時代だが、やりたい奴はやればいい」と、過去の経歴は拒むことなく高谷を迎え入れた。みなみジムとは難なく話は纏まっていた様子だったという。ジムのバラック小屋には後々、中二階が作られ宿舎スペースと高谷はそこで暮らすことになった。

再デビューもライト級で1982年10月3日、三浦英樹(西川)に判定勝利。

1984年3月31日には、あのベニー・ユキーデと戦った新格闘術ライト級の内藤武(士道館)と対戦(5回戦)。高谷は映画・四角いジャングルや梶原一騎の影響を受けた世代として、憧れの内藤武には上を行く変則ファイトに翻弄され判定負け。

この頃は10kg以上あろうと格上だろうと堂々とマッチメイクするのが千葉ジム流。というのもキックボクシング創生期からそんな大雑把なこと当たり前の時代の名残りだった。

甲府での北島利秋(西川)戦(1983年9月18日)

日本キックボクシング連盟設立興行での西純猛(渡辺)戦(1984年11月30日)

千葉ジムでの練習。今時少ないパンチングボール(1985年頃)

翌1985年6月、ここでも思わぬマッチメイクも発生した。

日本フェザー級タイトルマッチ、渡辺明(渡辺)vsロバート高谷(千葉)と書かれたポスター。「ロバートって誰だ?」と思った途端、自分の顔写真に気付いた。

「えっ? 渡辺明と? フェザー級? 無理だろ!」

ここには1ヶ月前に起こった日本キックボクシング連盟の分裂からくる皺寄せが来ていた。そのもう一方の団体ならフェザー級は充実したランカーが揃っていたが、こちら側の団体では閑散としたもの。知らぬ間に一階級下のフェザー級でマッチメイク、更に格上過ぎる勢いある渡辺明。キック人生初のタイトルマッチだったが、バックハンドブロー炸裂で渡辺明が鼻血を流すシーンを見せるも、無理な減量も影響し、ヒザ蹴り猛反撃を食らった高谷は1ラウンドもたずの2分55秒KO負けを喫した。

こんな減量が響く無理なマッチメイクがあったり、千葉ジムにはしっかり指導できるトレーナーが居ないことからこれで引き際と決意し、次の試合が決まったと聞きながら、そっと千葉ジムを離れた。二度目の夜逃げ同然だった。

◆兜甲児となって

暫く空手などの試合に出場していたが、やがてまた「もう一度キックボクシングをやってみたい」という憑りつかれた魔力には勝てず、新空手の試合会場で山梨県の不動館・名取新洋会長に会うと、「現役を離れて5年のブランクがありますが、キックをやらせて頂けないでしょうか!」と入門を願い出ると、かつて不動館の興行に出場したことある高谷のことを知っていた名取会長は難なく了承。

この時期はキックボクシング低迷期を脱し、徐々に若い世代が台頭してきた時代で、各階級で充実したランカーが揃っていた。再起のリングとなった全日本キックボクシング連盟で、高谷はマジンガーZの主人公・兜甲児の名をリングネームとして3回戦(新人戦)からやり直すことになった。

ここから対戦した相手は後々、チャンピオンとなる選手が多かった。再々デビュー戦は1991年4月21日、林亜欧(SVG)に左フックでKO勝ち。松浦信次(東京北星)にバックハンドブローでKO勝ち。金沢久幸(富士魅)には判定負け。全日本キックで最後の試合となったのが1994年3月26日、小林聡(東京北星=当時)に僅差の判定負け。5回戦に上がることは無いままだったが、対戦相手には恵まれた3年間を送って30歳で引退を決意。最後は綺麗な引き際で不動館を後にした。

[写真左]再々デビュー戦となった林亜欧(SVG)戦(1991年4月21日)/[写真右]勝山恭二(SVG)戦(1991年10月26日)

[写真左]松浦信次(東京北星)戦(1992年3月28日)/[写真右]松浦に勝利した兜甲児(高谷秀幸)(1992年3月28日)

レフェリーを務める高谷秀幸(2006年12月10日)

◆引退してもキックとは腐れ縁

引退後はアマチュアキック・空手関係の試合でレフェリーを務めていたが、日本ムエタイ・レフェリー協会を発足させていたサミー中村氏から「プロでもやってくれないか」と誘われた。好きなキックとは腐れ縁で、なるがまま新日本キックボクシング協会でレフェリーを務めた。ちょっとユニークな動きを見せるレフェリーとして異質な存在感を見せたが、新日本キックで審判団入れ替えの事態が起きた2014年11月に終了となった。

高谷は2008年頃には35歳以上が参加出来るアマチュア枠のイベント「ナイスミドル」にも何度か出場しKO勝利を収めている。

タイへ観光に行った際には、田舎やお祭りのリングで余興にも出場。バックハンドブローを元・ラジャダムナン系ランカーにヒットさせると、そこから物凄い首相撲で何度もひっくり返されヘロヘロになったという仕打ちも「キックボクシング第4の人生の楽しい経験」と笑って言う。

高谷のバックハンドブローは、怯んだフリをして相手に背中を向け、向かって来たところを迎え撃つ手法で、チャンスと見た相手はガードが下がり気味でヒットし易いという。

新人戦から元・ムエタイランカーにまでヒットさせた、バックハンドブローの名手・高谷秀幸だった。

2017年3月にこの鹿砦社通信で掲載されたテーマ「試合から逃げた選手たち」に挙げた一人は高谷秀幸だった。しかし高谷は試合から逃げたのではなく、会長から逃げたパターン。若気の至りだった。

完全引退してから千葉ジムを訪れた際、「そんな昔のこと忘れちゃったよ、元気だったか!」と言ったのは戸高今朝明会長である。

みなみジム・南俊夫会長には、高谷がまだ現役時代にリングサイドで、「押忍、御無沙汰しております!」と元気よく挨拶すると「オウ、久しぶりだな、元気にやっとるか!」と返す南会長の笑顔があった。爽やかさが残るのが高谷秀幸という男。

現在は依頼があれば指導、演舞などをこなし、公園や体育館で空手やキックボクシングを、歳に合わせた自己練習の日課を今も続ける少年の心を持ったオッサン高谷秀幸57歳である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

すでに歴史上の人物だから、その人となりから紹介すべきところだが、やはりこの人については、戦争責任というテーマは避けがたい。

とりたてて国家主義的であったり、議会や国民をないがしろにした人ではない。むしろ天皇機関説を是認していた(美濃部達吉への軍部の干渉のときに)ように、立憲君主制をよく理解していたと評価すべきであろう。

だがしかし、昭和天皇の「戦争指導」は、かれが尊敬する明治大帝と同様に、みずから大本営を仕切るものだった。いやそれ以上に謁見と上奏、そして下問のみならず意見、そして提案をするものだった。その意味では、道義的責任をこえて戦争指導責任が問われてしかるべきである。

◆最高責任者という意味では、超A級戦犯である

 

1975年10月31日に行なわれた日本記者クラブ主催の「昭和天皇公式記者会見」において、太平洋戦争の戦争責任について問われたとき、昭和天皇は次のように答えている。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」

ここでいう文学方面は、生物学や食品学を専門とする学者天皇としての、研究ジャンルに関する摂理ともいえる。あるいは戦後の文学的・歴史学的なテーマとしての「文学者の戦争責任」を意識してのものとも考えられるが、少なくとも「法律論的」なものではなく、道義的なものも明言しなかった。

だが、昭和天皇は陸海軍の大元帥、つまり最高責任者として将官を任命し、正規軍艦には菊の御紋を冠する立場にあった。

いや、立憲君主制のもとでは「お飾りにすぎなかった」と擁護する法律家や歴史家も少なくない。一時期の古代王朝を除いて、天皇は形式的に律令制を統治したに過ぎず、時々の政権に利用されてきたのだと、歴史を知る人は言うかもしれない。

だがそれも、本連載で明らかにしてきたとおり、時の為政者と対立・協商・抵抗をくり返しながら、天皇制(禁裏と政治の結びつき)を維持してきたのである。そして昭和天皇は、ほぼ完全に天皇親政となった明治の法体系のもとで、主権者として君臨した人物なのである。

◆昭和天皇の戦争指導

昭和天皇は『独白録』や『昭和天皇実録』、あるいはマスコミインタビューなどで、自分が判断をしたのは2.26事件の反乱軍鎮圧(勅命)と終戦の御前会議(いわゆる聖断)の二度であると言明している。

なるほど、御前会議においては政府側から、あるいは枢密院から「発言をしないように」、政策決定の責任を天皇に負わせない「配慮」があり、黙って臨席するだけだった。

しかし大本営会議においては、皇居(御学問所・御書斎)における上奏と下問と同じように、天皇の質問は歓迎されている。上奏も大本営会議(天皇臨席時)も、いわば作戦計画を天皇に説明する場なのだから、天皇からの質問があって当然である。

この「質問」がしばしば「疑問」となり、さらには質問が「なぜ陸軍は南方に飛行機を出せないのか」などという作戦上の要求に変わったとき、大本営は作戦計画の再検討を余儀なくされた。

ここにわれわれは、昭和天皇の戦争指導を見ないわけにはいかない。これは後述して、詳しく解説したい。天皇の名によって戦争が行なわれ、国民が大君の召集令状によって徴兵され、そして現人神への忠勤で戦死した「道義的責任」だけではない。軍人としての戦争指導責任が、問われなければならないのだ。

◆天皇の叱責と人事権

 

天皇は政策決定・変更権はもとより、実質的に人事権をもにぎっていた。

日中戦争勃発時の関東軍の専横を、昭和天皇は「下剋上だ」と批判していたという。初代宮内庁長官の田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した『拝謁記』には、その息づかいにいたるまで、天皇の軍部と政府への不信が明らかにされている。

以下の例は、張作霖事件の処置(犯人不明のまま、責任者を行政処分)への疑問である。張作霖爆殺事件が関東軍の謀略(下剋上)であることは、東京でもわかっていた。問題はその処分をできない、東京政府のだらしなさである。

公文書たる『実録』においてすら、田中義一総理に「齟齬を詰問され、さらに辞表提出の意を以って責任を明らかにすることを求められる」とある。

ようするに、お前が責任者なのだから、犯人を究明できないようなら総理大臣を辞めろ、と言っているのだ。このあと、田中義一内閣は弁明に務めようとするが、天皇に「その必要なし」と返され、そのまま総辞職する。天皇は最高権力者として、人事権を握っていたばかりか、冷厳に執行していたのだ。

帝国議会においては、総理大臣(首班指名)は枢密院(西園寺公望が取り仕切る)が推薦し、天皇が「大命」をくだす。つまり任免権そのものを体現していたのである。

太平洋戦争前、軍部のとりわけ陸軍にたいする不信感は大きかった。

昭和天皇による、張鼓峰事件(ソ連兵に対する威力偵察)の際の言葉が残されている。

「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖事件の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」(『西園寺公と政局』)。

昭和14年(1939)の陸軍大臣板垣征四郎の上奏に対する下問を覗いてみよう。

「山下奉文、石原莞爾の親補職への転任につき、御不満の意を示される。またドイツ国のナチス党大会に招聘された寺内寿太郎の出張につき……不本意である旨を伝えられる」

昭和天皇がナチス嫌いだったことが、この寺内寿太郎の一件でわかる。皇太子時代(18歳)で初めて外遊(訪欧)したとき、日英同盟下にあったイギリス(およびイギリス領・香港やシンガポール、エジプトなど)が歓待してくれたこと、ドイツは第一次大戦の敵対国であることから、好感を持っていなかったと思われる。

山下奉文には天津租界封鎖問題という別件があり、石原莞爾には東条英機との対立により、勝手に任地をはなれた件が問題にされたのだ。ちなみに、東条英機は天皇のお気に入りだった。

昭和15年の上奏・下問においては、中国戦線での作戦計画に積極的な発言をしている。奏上した杉山元参謀総長への下問である。

汪兆銘政権(親日派)承認後の対中国(蒋介石政権)戦争に関して「重慶まで進行できないか否か、進行できない場合の兵力整理の限度と方法、占領地域の変更の有無、南方作戦の計画等につき御下問になり、また南方問題を慎重に考慮すべき旨を仰せになる」(実録)。

重慶まで行けないか、重慶を陥落させよというのは、蒋介石政権を打倒するという意味である。かなり無理な要求だ。

そして「南方作戦」「南方問題」とは、アメリカが中国を支援する援蒋ルート(インドシナ)を断つために、南部仏印(ベトナム)に進駐した件である。けっきょく、これがアメリカを硬化させ、日本の中国権益からの撤退を要求されることになる。

◆対英米戦争は、7月には天皇に説明されていた

 

昭和天皇に対英米戦争が避けがたいと説明(永野修身海軍軍令部総長)されたのは、少なくとも昭和16年の7月末だとされている(『木戸幸一日記』)。

政府および陸海軍においては、その8月に、若手将校や若手の官僚を100名以上あつめて(総力戦研究所)の講評を行なっている。そこでは、日米総力戦の軍事・外交・経済にわたる分析研究(机上演習)の結論が出ている(『昭和16年夏の敗戦』=猪瀬直樹の名著である)。

その結果、日本の戦争経済の破綻とアメリカの増産体制の確立。すなわち、日本の完全な敗戦が明確となるのだ。この研究では、戦争末期のソ連参戦まで割り出されている。講評を聴いた東条英機は「やはり負け戦か」と呟いた。

その前年5月には、軍部独自の対米図上演習研究会において、アメリカによる石油禁輸から4~5か月以内に会戦するべし、という結論が先にあった。

日米開戦は不可避という軍部の説明に、昭和天皇はその場合の見通しを要求している。

有名な「支那事変は一カ月で片付くと言ったが、4か年の長きにわたり、いまだ片付かんではないか」「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって5カ月と申すか?」(杉山参謀総長への下問『平和への努力』)という言葉である。

すくなくとも、この時点で昭和天皇は日米開戦、対英米戦争に懐疑的だった。
しかるに、じょじょに覚悟を決めたものか。あるいは覚悟を要する戦争に、あたかも呑み込まれたかのごとく豹変するのだ。(つづく)

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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