◆新人時代
斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。
キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。
だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。
「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。
この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。
「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。
◆試練続きの現役生活
デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。
藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。
この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。
統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。
ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。
その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。
◆エース格として、常に上を目指す戦い
1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。
1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。
心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。
◆引退後もなお新たな挑戦
引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。
1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。
2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。
2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。
小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。
現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」