◆第一次全日本キック時代

少白竜(=田中正一/元・全日本バンタム級1位/1962年3月9日、神奈川県平塚市出身)は、戦績を37戦18勝(18KO)17敗2分とする、5回戦ではラストラウンド終了のゴングを聞いたことが無かった。アグレッシブに攻めるがスタミナ切れで負けるパターンは多く、勝っても負けても早い回のKO決着必至の男だった。

再デビュー戦で水越文雄と対戦。旧・全日本キック経験者同士(1989年9月24日)

少白竜というリングネームはデビュー戦前の予定表を見て「これ誰だろう?」と思ったら自分だったという少白竜。当時のジムのトレーナーが付けたもので、合気道の創始者、植芝盛平師範から由来するものという。

現役を引退して数年後に再起する選手は何人も存在するが、少白竜は昭和50年代の全日本キックボクシング協会と平成の全日本キックボクシング連盟で戦い、その中間を跨いだ選手である。

キックボクシングを始める切っ掛けは高校一年の時、ブルース・リーや空手バカ一代を見た影響で格闘技に興味を持ち、少年マガジンの「紅のチャレンジャー」という漫画でキックボクシングに憧れ、伊勢原市にあった萩原ジムに入門。

1978年(昭和53年)2月10日、ライセンス制度も確立しない時代で、16歳になる1ヶ月前のデビューだった。1年半で5連続ノックアウト勝利を含め10戦程すると、すでに注目を集め、全日本フェザー級3位にランクされていた。

ランカーらは殺伐とした時代に合ったパンチパーマや強面が多かった。少白竜は内向的ながら、強面猛者達に初回から猛攻をかけ、とても内向的とは思えないという周囲の評判だった。

そんな強面の中では、高樫辰征(みなみ)に1ラウンドKO負け。小池忍(渡辺)には1ラウンドに2度ノックダウンを奪いながら、転んだところを蹴られて負傷TKO負け。甲斐栄二(仙台青葉)とはライト級で2ラウンドにパンチ強打で倒されるKO負け。

1981年元日には酒寄晃(渡辺)の持つ全日本フェザー級王座に初挑戦。さすがに50戦を超える獰猛なゴリラみたいなベテランの強打に屈した。

「酒寄さんはとにかく強かった。パンチ避けられたと思ったら、素早く違うとことから蹴られ重いパンチでわずか2分あまりで倒されました!」というが、この時点でまだ18歳。この先が有望視されるのは当然だった。

少白竜は後列左から2番目。赤土公彦を倒したことで年間最優秀殊勲賞獲得(1992年1月25日)

[写真左]赤土公彦と2度目の対戦。少白竜はやっぱりラッシュも同じ手は食わない赤土(1992年1月25日)/[写真右]交流戦で、時代の流れを感じさせる室戸みさき戦(1992年3月28日)

成長著しい東海太郎(=川野辺顕啓)のセコンドに付く少白竜(1992年11月21日)

◆目指す方向の違いとブランク

しかし、この年の竜馬暁(我孫子)戦でKO負けした際、胸にパンチ貰ってから咳が止まらず試合後入院。思わぬ肺結核に罹っていた為、長期休養を余儀なくされた。幸い安静にするだけで短期で完治したが、体重はかなり落ち込み、パワー不足で引退を決意。しかし再起が不可能ではなく、当時の全日本キックボクシング協会が低迷を脱する計画でマーシャルアーツ(全米プロ空手)化してしまい、方向性が変わったことでモチベーション低下したことが一番の要因だった。

たまたま引退前にはそのマーシャルアーツルール試合は2度経験していた。韓国選手欠場による代打出場での翼五郎(正武館)戦は、1ラウンド2分制の6回戦。ヒジ打ちヒザ蹴り禁止で、腰から上に8本以上蹴らないと段階的に減点で、パンタロン風ロングパンツを穿くシステム。ルールに関係なく乱打戦になると思われたとおり、パンチでノックダウン取って取られての判定、ルールが影響したが、少白竜にとって珍しく引分けた試合だった。

韓国に遠征した試合では、行ってみればWKA東洋フェザー級王座決定戦。李子炯に、これこそ慣れぬルールに阻まれKO負け。目指したキックボクシングを戦えぬ引退後は業界と疎遠になり、トラック運転手で一般社会に溶け込む生活を7年過ごしていた。

[写真左]新開実と対峙。中央のレフェリーは山中敦雄氏(1993年1月17日)/[写真右]一度倒している新開実には倒されてラストファイトとなった少白竜(1993年1月17日)

最後の試合となった新開実戦へのリングイン(1993年1月17日)

◆第二次全日本キック時代

1989年(平成元年)1月、萩原ジムを引き継いでいた東京町田金子ジムから「今度ウチの選手の指導に来てよ!」と金子修会長から誘われ、久々にキックボクシングの匂いに誘われジムを訪れた少白竜は、地元近くの伊勢原市に谷山ジムがあることを聞き、後に谷山ジムに素人のフリしてさりげなく見学に訪れた。

それでも何となく格闘技経験者のオーラは分かるもの。谷山歳於会長に「昔、何か格闘技やってたの?」と聞かれたことで昔話が弾み、家が近いこともあり早速コーチを頼まれてしまった。

だが、その3ヶ月後の7月には、後楽園ホールのリングに上がっていた。練習生より動きが良く、スパーリングでも3回戦選手に負けなかったことから谷山会長に「一回でいいから試合に出てくれないか!」と言われて「一回だけですよ!」と約束して、以前よりウェイトは落ちていたが、無駄なぜい肉の無いバンタム級での再起となった。

その聖竜(武州信長)戦では打ち合いに挑む姿は以前と変わらずも2ラウンドKO負け。すると悔しさから「もう一丁!」と申し出て2ヶ月後、水越文雄(東京町田金子)と対戦。これもKO負けながら勘は戻りつつあった。

翌年1月、元・チャンピオンの亀山二郎(正心館)をパンチとヒジ打ちで初回に豪快KO勝利。1990年7月、チューテン・シッサハパン(タイ)にはヒジ打ちで倒される敗戦も動きは全盛期に戻っていた頃だった。

1991年4月には世代も代わった若い新開実(岩本)を1ラウンドKO勝利。同年9月には全日本フライ級チャンピオンの赤土公彦(ニシカワ)とノンタイトルで対戦。長期王座に君臨する赤土公彦と戦えることに光栄に感じ、これをラストファイトと決めての一戦だった。だが開始からアッパーを強烈にヒットさせて猛ラッシュ。スリーノックダウンを奪って初回KO勝ちのベストファイトと言える内容。これで完全燃焼と思っていたところが、この結果で周囲の期待も高まると次はタイトルマッチを組まれてしまい、辞めるにも辞められなくなってしまった。

翌1992年1月、再び赤土公彦と空位の全日本バンタム級王座決定戦を争った。ハードな本業の疲れから胃潰瘍に罹り練習量も減っていたが、また早いラウンドで倒そうという猛攻は赤土に読まれ、カウンターを食ってKO負け。酒寄晃戦以来の全日本王座挑戦はまたも1ラウンドで逃した。

ラストファイトは1993年1月。一度倒している新開実(岩本)に初回KO負け。谷山ジムの看板選手として現役継続して来たが、後輩の東海太郎が育ってきたこの時期、ようやくリングを去る選択肢を選び、正式に引退となった。

◆リングが呼んでいる

引退後はレフェリーの大ベテラン、サミー中村氏に「次の試合いつだ?」と聞かれ、「やっと引退しました!」と応えると「じゃあレフェリーやってよ!」と誘われ、リングが俺を呼んでいるといったような因果に身を任せ、全日本キックボクシング連盟でレフェリーとしてデビュー。

画像の主役はレフェリー。身のこなしは抜群の少白竜の裁き(2019年11月9日)

後には団体が細分化されると交流戦が増え、昔から所属団体に偏る裁定が起こりがちだった為、2006年に山中敦雄レフェリーを中心にJKBレフェリー協会を発足した。確立したJBCには程遠いが、公平忠実な外部組織として要請があれば各団体へ派遣され、審判団として活動している。

少白竜はノックアウト必至の激闘を繰り広げた時代のトレーニングを今も欠かさない。

「ジムでもミット蹴りだけじゃつまらないんで、まだまだマススパーリングとかやってます。キックは飽きないんですよ。楽しくて!」と語る。

「新空手やオヤジファイトに出場しませんか?」という問いには「もう試合はやりませんよ、痛いの嫌いですから!」と笑うが、戦う本能は現役のように若いまま。心の中の生涯現役を貫く元・選手はここにも居たようだ。

現在はベテランレフェリーの高齢化に対し、自ら好んで批判を受け易いレフェリーを希望する者がいないのが現状。レフェリーを志す信念を持った若者を発掘し育て上げるまで、まだまだリングに立ち続けなければならない少白竜氏である。

裁く側となって中央に立つ少白竜(2019年12月11日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

戦後に天皇の戦争責任が本格的に問われるのは、1975年を待たねばならなかった。しかし当の昭和天皇は、みずからの政治責任・戦争指導責任に敏感だった。昭和24年12月19日の拝謁では、田島道治宮内庁長官が当時の皇太子を早く外遊させるべきだという昭和天皇に理由を尋ねたところ、昭和天皇はこう語っているのだ。

【皇太子への譲位の意志】
「講和ガ訂結(ていけつ)サレタ時ニ 又退位等ノ論が出テ イロイロノ情勢ガ許セバ 退位トカ譲位トカイフコトモ 考ヘラルヽノデ ソノ為ニハ 東宮チャンガ早ク洋行スルノガ ヨイノデハナイカト思ツタ」と語ったと記されている。

これから自分の退位や譲位も考えられるが、そのためには皇太子(明仁)が海外訪問をして、即位するための準備をすることが必要なのだ、というのである。皇太子への譲位を考えているよ、という意味にほかならない。

ところが一方で、昭和天皇はこの直後にこうも語っている。

「東宮ちやんは大分できてゝいゝと思ふが、それでも退位すれば私が何か昔の院政見たやうないたくない腹をさぐられる事もある。そして何か日本の安定ニ害がある様ニ思ふ」と述べ、

当時まだ若い皇太子に位を譲れば「院政」と言われ、日本のためにならないのではないか。というのだ。ようするに、退位や譲位はまだ早いと。退位を迷いながらも、皇太子の成長に頬をゆるめる。父親としてのまなざしも感じられるところだ。
いっぽう国民からの視線は、やはり隠忍自重を旨としているようだ。以下は静養に御用邸を使うこと、宮殿がうしなわれた宮城での住まいについてである。国民の苦しい境遇が「ひがみ」を持つのではないかと言うのだ。その「ひがみ」が自分の信用を落とすのではないかと心配している。

【別荘での静養】
昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論など唱へる人達、生活ニ困った人 特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「それは境遇上のひがみと思ふが、そういふ人のある事を考へても行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されている。

【住まい】
昭和24年8月30日の拝謁では、昭和天皇は御文庫(住居として使っている防空施設)の改築・新築について、こう述べている。
「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘リ(あま)皆ワルク思ツテナイ様デ 一部ニハ退位希望者アルモ 大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ 私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ 私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハ ツマラヌト思フ」

【終戦の詔勅の本意】
そして田中道治は、戦争責任に関する天皇の本音を聞いてもいる。昭和26年8月、静養先の那須御用邸で拝謁したさいに、昭和天皇は「長官だからいふのだが」と前置きしたうえで、終戦の日に放送された「終戦の詔勅」の内容に触れたというのだ。
「あれは私の道徳上の責任をいつたつもりだ。法律上ニハ全然責任ハなく又責任を色々とりやうがあるが、地位を去るといふ責任のとり方は私の場合むしろ好む生活のみがやれるといふ事で安易であるが、道義上の責任を感ずればこそ苦しい再建の為の努力といふ事ハ責任を自覚して 多少とも償ふといふ意味であるがデリケートである」と述べたとされる。

そのまま理解すれば、退位して楽な生活をするのもいいが、道義上の責任を感じるからこそ、天皇の地位にとどまって責任を償うのだ。ということになる。見た目はカッコいいが、かなり体裁を意識した発言という印象だ。

昭和26年12月13日の拝謁では、独立回復を祝う式典で述べるおことばの文案を検討する中で、昭和天皇はこう語っている。

「国民が退位を希望するなら少しも躊躇(ちゅうちょ)せぬといふ事も書いて貰ひたい」と述べ、田島長官が「それは織り込みますれば結構でございますが、余程六ケ(むつか)しいと存じますが、どこかに其意味ハ出なければならぬと存じます」と返している。じつは退位をしないかわりに、天皇と田島は、国民への公式の謝罪を検討していたことがある。

◆発見された天皇による、国民への謝罪(草稿)

天皇の「国民への謝罪詔書草稿」を、田島が起草していたのだ。書かれたのは昭和23年前後と推定されるが、それは東京裁判の判決が下った時期でもある。草稿が発見されたのは2003年のことだ。

 

【原文】
朕、即位以来茲ニ二十有余年、夙夜祖宗ト萬姓トニ背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ 勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能ク支フルナク、先ニ善隣ノ誼ヲ失ヒ延テ事ヲ列強ト 構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終ワリ、惨苛今日ノ甚シキニ至ル。屍ヲ戦場ニ暴シ、命ヲ職域ニ致シタルモ算ナク、思フテ其人及其遺族ニ及ブ時寔ニ忡怛ノ情禁ズル能ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或イハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ、剰ヘ一般産業ノ不振、諸価ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル 億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃トイウベク、静ニ之ヲ念フ時憂心 灼クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ。身九重ニ在ルモ自ラ安カラズ、心ヲ 萬姓ノ上ニ置キ負荷ノ重キニ惑フ。
然リト雖モ方今、希有ノ世変ニ際會シ天下猶騒然タリ身ヲ正シウシ己レヲ潔クスルニ急ニシテ國家百年ノ憂ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸ムガ如キハ眞ニ躬ヲ責ムル 所以ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽ヘ敢テ挺身時艱ニ當リ、徳ヲ修メテ禍ヲ嫁シ、善ヲ行ツテ殃ヲ攘ヒ、誓ツテ國運ノ再建、國民ノ康福ニ寄與シ以テ祖宗 及萬姓ニ謝セントス。全國民亦朕ノ意ヲ諒トシ中外ノ形成ヲ察シ同心協力各 其天職ヲ盡シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ國威ヲ恢弘センコトヲ庶幾フ。

【訳】
 私が即位してこの二十数年、朝起きて夜寝るまで歴代の天皇や祖先、国民の期待を裏切るようなことがないよう、勉めてきたが、時勢の流れに支えきれず、周辺諸国との善隣平和な関係を失い、列強諸国と戦争状態となった。そして、遂に悲痛な敗戦となり、そして今日の見るに耐えない災難が甚だしい状況になってしまった。
 国民が死体を戦場にさらし、命をその職や受け持ちの範囲で散らしたが、そのかいもなく敗れてしまった。その本人やその遺族の皆さんのことを思うと、まことに憂いに痛む思いが止められない。
 戦闘で傷つき、戦災を被り、あるいは、身柄をまだ外国に抑留され、財産を外地で取り上げられたりする例もまた、数えきられない。おまけに、一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住が困窮して、膨大な苦痛は、日本が始まって以来の災難と言ってもいい、ひとり静かにこの事を思うと、憂い心が焼ける思いだ。
 私の徳が無い為にこのような結果となり、深く天下に謝罪するものです。身は皇居に在るのだけれども、とても落ち着いてはいられない。心を国民のもとに置き、責任の重さに心惑う。
 しかし現在まだ、歴史始まって以来の変化に遭遇して、世間はまだ騒然としている。自分だけ潔く退位することは、責任から逃れるだけで、逃げ出すことは責任をとることにならない。
 現在の国内世界情勢を考えると、国家国民の為に挺身し、その時代の難問題に当たり、徳を修めて禍を寄せ付けず、善を行って災いを掃い、国の再建国民の幸福に寄与することを誓い、それをもって、歴代天皇や国民に謝罪することにさせて下さい。
 国民の皆様、再び、私の誠の意思を理解し、国内国外情勢を察して、一致協力 それぞれの仕事に励み、この非常事態の世の中を乗り越え、国の力を広げ回復することをお願いしたい。

ここでも、退位して責任を投げ出すのは無責任であるから、国民のために挺身したい。国民も一致協力して国の再建に尽くしてほしい。というものだ。

◆原爆はしかたなかった

そのいっぽうで、昭和50年には「国民への謝罪」の内実が問われる事態も起きた。記者会見で「原爆は仕方なかった」と口をすべらせたのである。記者会見は昭和50年10月31日に日本記者クラブが主催し、皇居宮殿内の「石橋(しゃっきょう)の間」で行われたものだ。

このシリーズの冒頭に挙げた「(戦争責任という)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。」につづく答弁になる。

秋信記者 天皇陛下にお伺いいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年と都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、お伺いいたしたいと思います。

昭和天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。

軍部および天皇が原爆投下を知っていた(テニアン方面への諜報活動)という説については、別稿に改めたい。戦後天皇制はやがて、皇太子(明仁)の民間人との婚儀という、幸福のオブラートに包まれながら、象徴として定着していくことになる。そのさいに始まった宮中守旧派との暗闘は、今日もなお皇室を覆っている。(つづく)

◎[カテゴリー・リンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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大きな扉が閉まっている横のインターホンで、中にいる者の親族だと告げる。アルコールで手を洗い、マスクを着用して、「防護服」というのはおおげさではあるが、滅菌処理が施された薄い布をまとう。

まいにち何回か訪れているからか。医療従事者の皆さんは、わたしの姿を確認すると、はじめてこの場所に入るひとに向けるような、細かい注意を口にすることはなく、お互い会釈を交わしながらベットに向かう。

◆集中治療室に踏み入れるたびに

20ほどあるベットに横たわっている患者さんは、いっときも目が離せない状態のかたばかりだ。だからここは「集中治療室(ICU)」であることを、毎回足を踏み入れるたびに実感させられる。

心電図、血中酸素濃度、心拍数を測定するモニターの警報音が、あちこちで間断なく聞こえる。わたしが到着したベットの上の、もうかれこれ10日近く意識のない身内の血圧も、相変わらず怪しげだ。首、手首、横腹など数えたら7か所に管や点滴が入っている。

警報音が鳴る。また血圧が落ちている。ブランケットを持ちあげて、手先と足先を触ってみたら、猛烈に「むくんで」いる。ずいぶん昔に一度だけ偶然接した、水死体の姿とそっくりだ。手のむくみはすさまじい。

「むくんで」いるから、還流を促すために「さする」、「なでる」などすれば改善する状態ではない。腎臓を中心とする代謝機能の低下が末端の「むくみ」となっていることは、二日前にお医者さんから説明をうけた。口には酸素を効率よく肺臓に運ぶための管もはいっている。こんな状態で言葉を発することなどはできるはずもないことをわかりながら、「どうや?」、「しんどいか?」と声をかける。

◆「承諾書」にサインをする

きのうの深夜、病院から電話があり、「腎臓の機能が落ちているから『透析』をはじめたい。異存はないか?」と聞かれた。「もちろん異存はありません。お任せします」とこたえた。そうだ、透析がはじまっているはずだから、「承諾書」にサインをしなければならない。ICUの看護師さんはいつも大忙しだから、部屋を出てから、事務の人に相談することにしよう。

怪我、病気、加齢。理由は様々な命の淵にいるひとたちが、必死の看病を受けている。失礼に当たるのでなるべく視線を向けないように注意しているつもりだが、ここで亡くなったかたは、看護師さんたちがからだをきれいに清めている。もう何人この部屋で亡くなったかたの姿に接しただろう。ICUは大部屋だから、親族の方々は、周りを気にしている。身内が亡くなっても大声で声をあげる場面には接したことがない。

どちらにせよ、ここは「のっぴきならない場所」だ。わたしが日に何度もおとずれたからといって、できることはなにもない。ただそばにいてやりたい、と思うだけで、近くにいるしかない。

◆毎日のように気を失いかける

また慌ただしくなった。気管切開ははじめてだ(隣のベットの患者さん)。手術室までの移動の余裕がないのだろう。カーテンで仕切られているが、見舞いの目の高さから、緊急処置の様子を伺おうと試みれば、みることができる。不謹慎だからこの場は辞すべきだろう。「また来るからな」。返事が返ってくるはずもない身内に声をかけてICUから外に出た。

わたしは妙な体質の持ち主で、この体質と付き合うの長年苦難している。若いころは、意識すればオン/オフの切り替えができたのだが、いまはほおっておくと、体調の悪い人や、精神がつらい人の症状の一部が、勝手にわたしの中に一定時間侵入してきてしまう。病棟に行けばたいてい38度近い発熱をしてしまうし、ICUに入ると、毎日のように気を失いかける。当然体温も上昇し、発疹がでることもある。けれどもわたしは感染症に罹患しているわけではない。病院からはなれてしばらくすると、、発熱も下がり、発疹も消える。これはどこの病院に行っても同じなのだ。

上記の備忘録のようなものを記したのは、一昨年の1月だった。まだ、わたし自身の疾病よりも、身内の看病に忙しい日々だった。あの病院に入院しているひとを、いまは見舞うことはできない。もちろん理由はコロナ感染予防のためである。ほんのしばらく前の記憶のように思われる、あの日々は現実から遠くなった。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない
テーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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都議会選挙はおおかたの見方をくつがえし、自民党は議席を伸ばせなかった。結果的に、自公両党で過半数に及ばなかった。

惨敗を予想された都民ファーストは、小池知事の土壇場パフォーマンス(入退院後、即座に始動)によって自民と第一党の座を争い、地域政党としての地位を不動のものにしたのである。

大阪維新の会(大阪府)や減税日本(愛知県)、沖縄社大党(沖縄県)などとともに、日本における地方政党の意義を刻印したといえよう。

その結果、ぎゃくに小池都知事が都民ファ・立民・公明・無所属による議会多数派を形成することになったのだ。

【自民党の独自調査による選挙予測】
解散前 予想   選挙結果  2013年の議席
自民   25  48~55   33      59
公明   23  14~23   23      23
都民ファ 46   6~19   31     ――
立民    9  20~26   16      18
共産   18  17~23   19      17
維新    1   1~1    1       2
無所属   5   2~3    4       1
※立民は生活者ネットの1議席をふくむ。

それにしても自民党は何をどう間違えて、上掲のごとき予測の錯誤をおかしたのだろうか。そもそもメディアの意識調査(下掲)では、都民の2割の支持も得られていなかったはずだ。

自民党 19.3%
立憲民主党 14.0%
共産党 12.9%
都民ファーストの会 9.6%
公明党 3.4%
日本維新の会 3.4%

平時の選挙であれば、町内会などの組織独占力にまさる自民党が、投票に行く少数者という支持基盤で、難なく勝てたかもしれない。

その平時の選挙戦術が「結果を出せる政治」「国会議員と首長、地方議員の三位一体」という、いわば田舎選挙でしかないことは、選挙当日の速報(《速報》2021年都議会選挙 都民ファーストの善戦、自民党の復活は不十分に)で解説したとおりである。自民党はオリンピックの是非やコロナ禍対策が問われる、政治の「風」に弱いのだ。

そして麻生太郎の「(小池知事の入院は)自分でまいた種でしょうが」、安倍晋三の「反日的な人たちが東京オリンピックに反対している」という発言が、文字どおり「墓穴を掘った」のである。

いっぽう、メディアや論者の大半も「都民ファーストの大敗」「小池の密約による国政復帰」論に流されてしまった。

自民党二階俊博幹事長との密会、水と油だった菅総理との会談など、じつは東京五輪の打ち合わせでしかないものを、すべて政局と読み取ったがゆえの誤報であり誤導である。

はては「小池知事が都議選公約で、オリンピック中止をぶちあげる」という奇説まで飛び出すありさまだった。あまりにも政治センスがなさすぎる。

今回の都議選の焦点は、6月28日付の記事(小池都知事「入院」の真相と7月4日都議会選挙・混沌の行方)で述べたとおり「都議選挙に応援演説も何もせず、このまま様子見をするのか。都議選挙の見どころは、小池知事の動静に決まった。」だったのである。

しかしながら、政治は何幕もつづく劇場である。

小池知事が「わたしは国政に復帰するとは、ひと言も言っていません。どうして、みなさんが書くのだろうと」(6日の記者会見)と本人が否定したからといって、国政復帰の線がなくなったわけではない。

希望の党の失敗があるとはいえ、国務大臣をつとめたベテラン政治家である。そしていったんは都議選挙での勢いを駆って、旧民主党などを糾合しながら、近い将来の総理候補に登りつめた人である。都知事と地域政党の顧問で、その野心がとどまるはずがない。

そこで、今後の小池百合子が日本初の女性宰相に登りつめる道すじがあるとすれば、どのようなものだろうか。秋の政局とあわせて解説していこう。

『紙の爆弾』最新号(8月号)には、山田厚俊の「9月解散の菅戦略を明かす」が掲載されている。この記事の「小池百合子の自滅」は、執筆時期から上述した読み違いを踏んでいるが、9月解散が自民党内の焦点をとしている。

山田の立論はオリンピック・パラリンピックの成功をうけて総選挙に踏み切り、その勝利をもって総裁選挙に臨むというものだ。菅の政権維持戦略は、まさにこれしかないのだ。

だがこの戦略も、都議選の結果をうけて公明党の山口那津男代表から「解散は遅い方がいい」という注文が入った(7月6日)。

総選挙の前に総裁選がくると、山田が指摘するとおり、菅が選挙の顔では戦えないという党内議論が出てしまうのだ。

かといって、総選挙での敗北はそのまま、菅を退陣に追い込むのは間違いない。安倍晋三が空前の長期政権をたもったのは、選挙に強かったからにほかならない。選挙に勝てない総裁など、政党にとっては鴻毛よりも軽いのだ。

それが東京オリパラの失敗によるものか、コロナ禍の再度のパンデミックによるものかは、今のところわからない。

だが、9月の上旬までにコロナ禍がワクチンによって収束し、オリパラが成功裏に終了しないかぎり、もはや菅の続投はないだろう。それが総選挙(衆議院選)における自民党の大敗によるのか、総裁選による「菅おろし」によるものかはともかく、確実に菅政権は崩壊する。

問題はすでに、菅退陣後のことである。

『紙の爆弾』最新号には、横田一の「重要選挙4連敗・菅政権に近づく終焉」が掲載されている。この記事の後段の「枝野幸男が五輪中止の旗振り役になるのか」「次期衆院選挙での構図」に興味をひかれた。

横田によれば、いくつかの先制的な要件を政府に突き付けることによって、オリンピックの強行開催への政治責任を仕掛けているという。くわしくは本誌を読んでいただきたいが、菅政権にとっては致命的である。そして政権交代が起きるとしたら、枝野首班は間違いないところだろう。

いずれにしても、9月には任期満了解散にともなう特別国会・臨時国会が開催される。そこに菅義偉総理がいるのか、それとも新しい首班がいるのか。

ここでは自民党が辛うじて議会多数を保ったとき、それが自民・公明・維新ほかの党派との連立政権となりかけたときの想定もしておこう。

そこには、小池百合子が推す何人かの衆議院議員がいるのかもしれない。二階俊博が五輪の打ち合わせと称して、小池と何度も会っているのはその布石にほかならない。

場合によっては、コロナ禍による政治危機を突破するための、それは立憲民主もふくめた大連立(挙国一致内閣)になるのかもしれない。その光景が今年なのか、それとも数年後なのかはわからないが、大連立の頂点に女性宰相が君臨するのを、個人的には歓迎したい。そこから、少なくとも男性支配の政治に変化が起きるからだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

わたしが東京での活動を継続しており、そのなかで「よど号」メンバーの支援もしていることを以前お伝えした。彼らは朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌直轄市の端に「日本人村」をかまえて暮らしながら、帰国に向けた活動をおこなっている。そんな彼らから、『紙の爆弾』6月号に寄稿した「地方で考える この社会と私たちの生活の行く先」の感想が送られてきた。今後このコーナーに、彼らとの「往復メール書簡」を時々、アップしたい。

左から魚本公博さん、森順子さん、小西隆裕さん、若林盛亮さん、赤木志郎さん、若林佐喜子さん

◆「地方で考える この社会と私たちの生活の行く先」に対する魚本さんからのメッセージ

「よど号」ハイジャックで朝鮮に在住する魚本公博です。

私は地方出身ということもあって、地方問題に関心があるのですが、『紙の爆弾』6月号に掲載された小林蓮実さんの「地方で考える この社会と私たちの生活の行く先」、大変面白く読ませていただきました。

政府の地方政策は、2017年に地方制度調査会が打ち出した「中枢都市圏連携構想」に端的に示されているように、新自由主義的発想で各地の中核都市を中心に都市圏を形成し、そこにカネとヒトを集中して効率化を図るというものでした。

問題なのは、そこに米系外資を入れ、彼らに、その効率経営を任すということにあり、地方自治体が管理する水道事業などの運営権を民間に譲渡するコンセッション方式の導入が奨励されたことです。

菅政権も、この方式を踏襲し、「活力ある地方を創る」としながら、「大企業で経験を積んだ方々を、政府のファンドを通じ、地域の中堅・中小企業の経営人材として紹介」とか「コーポレーション・ガバナンス(企業統治)を進める」などとしています。すなわち、これは地方の銀行や企業の新自由主義的改革を進めながら、地方自治体自体を企業統治の方法で経営し、それを外資に任すということであり、こうなれば、地方自治は消滅し、地方は米系外資に牛耳られることになり、更には大阪維新が言うように、これが「地方から国を変える」ものとして、日本自体が米系外資・米国に牛耳られるものとなります。

しかし地方・地域は、必死に努力しているのであり、そうした策動を乗り越え、地域住民自身の力で、衰退を克服し、地方・地域を守っていくと私は思っています。

小林さんのルポは、その思いを証言するもので、非常に元気づけられました。取り上げられた南房総市・大井区の区長をされている芳賀裕さんの見解や努力もそれを垣間見させるもので、とくに「顔の見える関係を育むことが重要」との意見は大事なことだと思います。いずれにしても、「地方・地域」は自民党の売国的策動に対決する最前線の1つであり、今後とも、地方・地域に根を下ろした小林さんの現地報告を期待しています。

平壌「日本人村」にて、カラオケで「いい日旅立ち」を熱唱する魚本さん

◆「連携中枢都市圏構想」の罠

わたしは水道民営化の問題も、『紙の爆弾』に寄稿したことがある。

2015年に都市圏の名称が「地方中枢拠点都市圏」から「中枢都市圏連携構想」に変更された。総務省は次のように説明する。「『連携中枢都市圏構想』とは、人口減少・少子高齢社会にあっても、地域を活性化し経済を持続可能なものとし、国民が安心して快適な暮らしを営んでいけるようにするために、地域において、相当の規模と中核性を備える圏域の中心都市が近隣の市町村と連携し、コンパクト化とネットワーク化により『経済成長のけん引』、『高次都市機能の集積・強化』及び『生活関連機能サービスの向上』を行うことにより、人口減少・少子高齢社会においても一定の圏域人口を有し活力ある社会経済を維持するための拠点を形成する政策です。本構想は、第30次地方制度調査会『大都市制度の改革及び基礎自治体の行政サービス提供体制に関する答申』を踏まえて制度化したものであり、平成26(2014)年度から全国展開を行っています。」

そもそも、もはや経済成長を求めることに現実味はない。2019年の1人当たりGDPは33位だ。また、高次都市機能とは、行政・教育・文化・情報・商業・交通・娯楽など、サービスを提供する都市がもつ、広域的に影響力のある高いレベルの機能とされている。これは実態としては、市町村でまかなえない部分を近隣が補い、それでも不足する部分をやや遠方のエリアが補っている。千葉県南部でいえば、千葉県の左寄り真ん中のエリアまでいけば、ほぼ不足はない。それでも足りなければ、北部、それでも足りなければ東京という感じだが、日常的には南部で事足りる。芳賀氏は「スーパーシティは不要」とも述べていた。あとは、「生活関連機能サービスの向上」でもSDGsでもそうだが、資本主義や経済の文脈で語られ、実際には利権と搾取、格差拡大に結びつけられがちだ。そこに、地方の資源をむさぼろうとする企業や人が群がる。パソナが淡路島を乗っ取る様子についても、わたしは同誌に寄稿した。マンモニズム(拝金主義)の魔の手は現在、地方を握りつぶそうとしている。

それに対し、行政の対応はさまざまだ。だが、現場では対抗し、自分たちにとって本当に心地よい社会をつくろうと奔走する人が多くいる。仲間とつながろうと活動しているわたし自身も、その1人であるつもりだ。金銭ばかりに頼らずとも、野菜を作り、田んぼを手伝い、物々交換をする。作れるものは作る。このようなライフスタイルに参加するメンバーを拡大し、支え合いながら、私たちは食べて生きていくことができるはずだ。

ちなみに、3回の訪朝経験が、現在に生きている部分もある。たとえば、共産主義国が何を重視し、何を目指し、どこまで人々を支えているのか。(国内では地元の小商いによって)「外貨」を獲得して地元に還元する発想も、そこから学んだものでもある。

機会があれば、自分が生活するエリアの活性や理想的な社会を現場から実現しようとしているローカリゼーションの実践者の方々とさらにつながり、情報交換や連携をしたい。Facebookなどから連絡をもらえると、うれしい。

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。個人的には、労働組合での活動に限界を感じ、移住。オルタナティブ社会の実現を目指しながら日々、地域に関連する、さまざまな人の支援などもおこなっている。月刊『紙の爆弾』2021年8月号には「『スーパーホテル』『阪急ホテルズ』ホテル業界に勃発した2つの『労働問題』」寄稿。Facebook https://www.facebook.com/hasumi.koba/

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

カレンダー上ではついに7月に突入した。今年、7月のカレンダーは判読するのが難しい。「東京五輪」開催を前提に、休日がいくつかずらされているからだ。鹿砦社が龍一郎氏に依頼して作成しているカレンダーでは、19日が「海の日」で休日となっているだけであるが、ことしに限っては「東京五輪」開催に合わせてほかの月の休日を含め、大幅な変更が行われるらしい。馬鹿げているからそのいちいちは検証しないが、読者諸氏もあと2週間ほどすれば、急な休日発生に驚かれることであろう。

◆われらの内なる奴隷根性

それにしても、人間という生物がここまで愚かで、退化の速度が速いとは想像もしなかった。日本だけに焦点を当てれば「知性」、「想像力」、「理性」、「科学的態度」の劣化はさまざまな局面で著しく、「この国民は長くは持つまい」と感じてきた。

しかし、わたしのなかにも欧米信仰のような幻想は残っていたのだ。たとえば「東京五輪」開催については、欧州のいずれかの国あるいはWHOだか何だか知らないけども、国際機関のいずれかが「感染拡大の危険性があるから開催すべきではない」との態度を示してくれるのではないか、との甘い期待があった。

やはりそれば、欧米信仰であり、わたしの奴隷根性の発露であった。深く自己批判せねばならない。よくよく考えるまでもなくWHOのまとう政治性やIMFやWTO、UNICEF、UNESCOなどの欺瞞についてはとうの昔に気が付いていたではないか。20世紀最後半に発生したアジア通貨危機は、結果としてIMFの指導下で収束を図られることとなったが、当時IMFの重責を担っていた人物の中にアジア通貨をコントロールできる人間が複数入り込んでいた事実は、既に数多くの書物や研究で判明している。

UNICEFはいつからあんなにも派手に、駅前広場やショッピングモールで募金活動を始めていただろうか。世界中のテレビに公告を出し、ネット上でも猛烈な広告を展開するあの団体は、これまでの地域紛争の際にどのような役割を果たしてきたのだろうか。ボスニアヘルツェゴビナ紛争の際、UNICEFの責任者の中に、軍事産業と関係のあるものが居なかったか? 「世界遺産」の看板商法に忙しいUNESCOは、本当のところ何を目指す団体なのか? まったくその価値がわたしには理解できない「SDGs」の推進に熱心なようだが、彼らの功罪を測ったら、思わぬ方向に天秤が振れはしないか。

極めつけは「G7」だ。かつて「先進国首脳会議(サミット)」と自称したことのある、この思い上がり集団を、批判する人たちは「帝国主義者どもによる戦争準備会議」、「帝国主義者の分配割合調節会議」と批判したものだが、先に英国で行われた「G7」を見るにつけ、批判する人たちの表現は、あながち外れているとはいえないようだ。

一国として「東京五輪」の開催に疑問を呈したり、ましてや反対する国などなかった。それどころか共同声明で「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の克服に向けた世界の団結の象徴として、安全で安心な形」での東京五輪開催を支持するとした。

ドイツやフランスも「G7」には入っている。こんな連中に何かを期待してしまった己の不明を再度恥じねばならない。極東の島国で行われる「五輪」の直接影響は「G7」加盟の他国には深刻には及ばないだろう。「なら次の冬季五輪は北京だから、牽制の意味でもトウキョウにやらせようよ」との白人どもの本音が聞こえてきそうだ。

◆21世紀は「背理の世紀」

21世紀は「背理の世紀」と名付けても良いのかもしれない。毎年のように震度7クラスの地震が発生し、豪雨災害が各地で起こる国。そして10年前には人類史上初の「原発4機爆発事故」を起こした国。その事故現場から250キロほどの場所で、まもなく「東京五輪」が開催される。

東京から少し西に行った神奈川や熱海では、20名以上の犠牲者が懸念される豪雨災害がまた発生した。そんなことはお構いなしに「東京五輪」への参加者は続々入国している。後世(もし、「それ」があればだが)今次の「東京五輪」は、わたしたちが大日本帝国による、第二次大戦突入の無茶苦茶さを指摘するように、その愚をなじられるだろう。歴史に顔向けのできない行為へ加担することは、人間として恥ずべき行為だ。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

惨敗を噂された都民ファーストの善戦のいっぽうで、都議会自民党の復活は不十分なものだった。自公あわせて過半数の確保という、最低限の目標も果たせなかった。

※7月4日23時半現在の議席予想(報道各社の予測をもとに分析)
自民  25~43
都民  25~35
立民  ~17
公明  ~23
共産  18~
国民  0~
維新  ~2
れいわ ~1
嵐   0~

◎7月4日23時半時点の開票速報(東京新聞特設サイトより)

◎都議選2021(東京新聞)https://www.tokyo-np.co.jp/senkyo/togisen21

◎東京都議会選挙特設サイト(NHK)https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/togisen/2021/

投票率は18時段階で25%と、前回よりも7ポイント少なかった。事前投票は99万票こえと過去最高になったが、結果的に低迷したといえよう。都議会選挙の得票率はもっとも低いときで40.80%、高いときで58.74%である。

事前の自民党調査によると、自民党は現有議席25から51まで回復。都民ファースト(以下、都ファ)は46議席から13議席と、大敗の予測だった。この予測だけを見るならば、選挙戦は自民の敗北といえるかもしれない。

都民ファが踏みとどまった理由は、オリンピック強硬開催とコロナ対策への是非を問うたからにほかならない。オリンピックそのものの中止を訴えた共産党善戦にも、それは顕著である。

共産党の関係者によると、街頭演説への大量動員を追求せずに、電話による投票依頼に集中したという。その結果、東京五輪中止を訴えているのは共産党だけです、というフレーズに反応が多かったとのことだ。

都民ファは「無観客なら開催、有観客の開催には反対」というもので、いまひとつ鮮明さを欠いたが、それでも演説会での「無観客」という大きな旗は、都民の投票行動に結びついたのではないか。開催反対論よりも、現実的な施策と映ったはずだ。


◎[参考動画]【LIVE】都議選 開票速報!NewsPicksコラボ特番「東京UPDATE」(TBS)

◆都民ファーストの善戦

都民ファが凋落するだろうという予測は、党の特別顧問である小池百合子東京都知事の「入院(退院後も公務は医師と相談しながらのテレワーク)」にみられる自滅、実質的な党首の戦線放棄によるものとみられていた。機を見るに敏な小池都知事は、選挙応援に「参戦」しないことによって、自民党二階俊博幹事長との「密約」を守ったのだ、と。

その「密約」とは、東京オリンピック・パラリンピックの強行開催、および選挙後の自民党との議会提携を担保に、知事の政策遂行を保証するものだ。この裏には1月の千代田区長選挙において、都民ファーストの元都議が自公候補を破ったことに二階が不快感を表明し、その関係修復の過程で交わされたものといわれている。いずれにしても小池知事の入院(寝たふり)は、都ファの凋落を意味すると考えられていた。

ところが、そうではなかった。小池知事は退院の挨拶をした翌日(選挙最終日)に、選挙戦の最前線に立っていたのだ(後述)。

その決断の理由も明白である。前述したとおり、オリンピックの開催が決定的になった段階で、無観客の選択肢が「現実の政治過程」に顕われたからだ。

「公務を離れている都民ファ特別顧問の小池知事の支持率は59%で、前回調査(5月28~30日)の57%から、ほぼ横ばいだった。前回は知事支持層の投票先で最も多かったのは自民の29%で、都民ファは19%にとどまっていたが、今回は都民ファ26%、自民26%と並んだ。」(6月28日、日刊ゲンダイ)。

この調査では、都民の6割近くが「東京五輪の開催を評価しない」と回答していることから、都ファの「無観客開催」「有観客なら中止」に賛意をしめしていると分析できる。開催が決定的な段階での「有観客」への批判的な反応は、都民の冷静さを示していたといえよう。

そしてここで、小池知事が動いたのだ。

◆選挙の組織戦術とは──電話掛けによる支持者の固め

ふり返ってみれば、都ファの大敗を予測するうえで、選挙戦術の常識がその背景にあった。プロの選挙党と素人の選挙党の違いである。

低い投票率のなかで、政党の支持率の基盤となる組織票の実体とはどのようなものか。東京は過去(70年代)に革新都政が実現したほど、全国規模の政党支持率と大幅にちがう。

総じて、政治意識の高さが特徴である。東京新聞・東京MXテレビ・JX通信社が、6月22、23日に合同で行った「都民意識調査」では、
自民党 19.3%
立憲民主党 14.0%
共産党 12.9%
都民ファーストの会 9.6%
公明党 3.4%
日本維新の会 3.4%

これがほぼ、都民の政党支持率といってもよいであろう。ただし、実際の選挙においては、コアな支持層による凌ぎ合いが焦点となる。党派の支持基盤、およびそれを固める活動家である。

自民党の組織基盤は、基本的に町内会(自治会)と商店会、そして青年会議所(JC)などである。このうち町内会は神輿会や神社の崇敬会、お寺の盆踊り、子供会などを外延部に、地域住民の日常生活をほぼ網羅している。

ためしに自分が所属する町内会の新年会に出てみるとよい。自民党の町議や市議が挨拶におとずれ、その自治体の首長が非自民系である場合は、公然とその首長を批判するものだ。

民主党系(旧社会党・民社党)が、労働組合と生活消費組合などを基盤にしているのと好対照である。共産党の場合は、労働組合にくわえて民商(零細経営者の共同組織)になる。公明党はいうまでもなく、創価学会という信教団体(宗教団体)である。

これら支持団体の組織力こそ、政党の生命力といっていいだろう。したがって、支持団体の活力を、選挙政党はくり返し刷新している。

立憲民主党は労働組合の代弁者から市民政党への脱皮をめざし、民主党時代からサポーターシステムを導入してきた(現在は立憲民主がパートナーズ、国民民主がサポーター制度)。

これに対して、都ファはまったく政党としての支持団体を形成できなかった。支援団体は議員の個人的な努力に任されているのが現状なのだ。

選挙はポスター貼りに始まり、街頭演説(聴衆動員)にせよ電話掛け(人海戦術)にせよ、組織で取り組まなければ勝てない。筆者も選挙支援は何度も体験したが、そのたびにダメ押しの電話の重要性を、選挙のプロみたいな人たちから強調されたものだ。

たとえば市議選レベルで、ふたつの陣営の電話掛けを見たこともある。一見して政党色がつよい陣営の、ヘッドホンマイクで電話掛けをする選挙活動家のそれと、素人市民運動家の電話での執着力のなさが、候補者の明暗をわけたものだ。

にもかかわらず、都ファは組織力以上の結果を出したのである。街頭演説会のレポートからも分析しよう。

◆組織力を誇るしかない演説

選挙の華ともいえるのが、街頭演説である。

たまたま麻生太郎の街頭演説(墨田区)を見学できたので、その内容のなさを披露しておこう。自公ともに今回は、都ファ叩きのシフトで臨んだ選挙だった。

したがって、国政につながらない(国会議員のいない)党ではダメだ。首長(区議)のいない党もダメだ。国会で予算割りを実行できて、さらに自治体(東京都)レベルで予算を獲得できる区長、および都議がいなければならない。さらには、その区長と都議をささえる区議がいなければ党のシステムとはいえない。というのが、その主な論調である。政策の内容ではなく、結果を出せる「政治力」ということになる。

だがこれは、政治家をありがたがる地方の選挙区ではともかく、意識の高い東京では相変わらずの「田舎選挙」に映ってしまうものだ。麻生の演説を楽しみにしている聴衆の、少なくない人々が彼の「失言」を心待ちにしていたとしたら、もはや田舎選挙どころか、お笑い選挙だったということになる。

そしてもうひとつは、麻生太郎は選挙における「風」を極度に怖れていた。55年体制下でもマドンナ旋風や新党ブームによる「風」が自民党政権を危機にさらし、実際に政権交代は実現された。自民党自身も小泉「郵政選挙」において、自民党を「ぶっ壊す」ことで「風」を実現した。

2009年の政権交代は、消えた年金問題と安倍政権の自壊的な閣僚ドミノによる「風」であり、2017年は小池旋風であった。そこにあるのは、無党派層の存在である。今回、無党派層はNHK調査で30%、朝日調査で21%となっていた。

◆自民を驚嘆させた小池出馬

その無党派層を動かす「風」を、今回も瞬間的に創出したのが小池都知事だったのである。

小池都知事は7月2日に都庁で記者会見し、執務中に「倒れても本望」と宣言したその翌日、都議会選挙の応援に電撃出撃したのだ。

これに対して「お涙ちょうだい的な話」(舛添要一)と批判するのは簡単だが、その批判には「悪意」や「冷血」「サイコパス」な雰囲気がただよってしまう。つまり、かりに仮病であれ、病人を批判するのは、日本人の感性に合わないのだ。ぎゃくに公用車を公私混同し、ナイフのコレクションが趣味というサイコな一面(元妻片山さつきの証言)が覗いてしまう。

小池知事は7月3日午前10時半ごろ、東京都中野区の都民ファ代表の荒木千陽候補の事務所前に、ガラス張りの選挙カーで登場した。

都ファのイメージカラーである緑のジャケットに同色の手袋という姿で、街頭演説こそしなかったが、荒木候補者と商店街を練り歩いたのである。激戦の中野区にサプライズ登場したことに、自民党幹部も驚きを隠せなかったという。

けっきょくこの日、小池知事は中野区、豊島区、練馬区(2候補陣営)、板橋区、西東京市、三鷹市、調布市(北多摩第3)、港区、墨田区、千代田区など、10カ所の応援に駆けつけた。

激務のなかで疲労困憊し、都議会でも青息吐息。そして入院生活をへて政務復帰という、絵に描いたように同情を煽るながれの中で、選挙応援に駆けつける。これ以上効果的な政治劇場はないであろう。これは3日夜の報道番組でも報じられ、都民はサプライズに圧倒されたのである。

負ける選挙を一日で巻き返し、素人政党を持ちこたえた手腕は、さすがというべきであろう。これで自民復党、国政復帰というメディアの観測は崩れたわけだが、劇場型政治である以上、まだこのさきに何が待っているのかはわからないと指摘しておこう。

そして最後に、組織選挙でしか戦えない自民党の凋落が、東京五輪の成否やコロナ禍の帰趨によって、凄まじい風にさらされることを予言しておこう。


◎[参考動画]テレ東BIZ #都議選生配信〜国政選挙への影響を考える〜

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』8月号

YETI達朗は4月11日に新日本キックボクシング協会興行で、リカルド・ブラボ(伊原)に1ラウンドTKO負けして以来の試合は、またもTKO負けとなり3連敗。険しい復活の道程が続く。

S-1レディースジャパン・バンタム級チャンピオン.SAHOと対戦予定だったルスター・シッチョー(タイ)が、新型コロナウイルス陽性者の濃厚接触者と判断され活動が制限された為、来日不可能となり、当初予定のS-1世界戦は中止(6月7日発表)。

SAHOは大田拓真と一航の兄弟とエキシビジョンマッチ(1ラウンドずつ計2ラウンド)を披露。

女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメントのもう一つの準決勝は、9月19日(日)に梅尾メイ(B9)vs KOKOZ(LEGEND)が対戦。年内に4人トーナメントの決勝戦となります。

珍しい男女のチャンピオン同志のエキシビションマッチ、SAHOと大田拓真

◎NJKF 2021 2nd / 6月27日(日)後楽園ホール17:30~20:33
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF) / 認定:NJKF

◆第7試合 70.0㎏契約3回戦

YETI達朗(キング/69.95kg)
     VS
チャンスック・バーテックスジム(23歳/タイ/70.0kg) 
勝者 チャンスック / TKO 1R 2:23 / ヒジ打ちによる鼻骨骨折
主審:宮本和俊

YETI達朗は第4代WBCムエタイ日本スーパーウェルター級チャンピオン(2018.2.25獲得~2019.2.24陥落/防衛1回)。チャンスックは元・タイラットTVライト級チャンピオン。

チャンスックの右ミドルキックを受けるYETI達朗

初回、両者蹴りの探り合いから組み合う展開に移った後、チャンスックが左ヒジ打ちを振るってきた。それまでの攻防で相手の技量が解る曲者テクニシャンと言われる実力を見せたチャンスック。すぐにYETI達朗の鼻が“くの字” に曲がり、鼻血が勢いよく吹き出す。その鼻の脇も切れた上、レフェリーはドクターの勧告を受入れ試合をストップ。

右ミドルキックから1秒程でチャンスックの左ヒジ打ちがYETI達朗の顔面ヒット

◆第6試合 NJKFライト級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.鈴木翔也(2018.6.24獲得/OGUNI/61.0kg)
     VS               
挑戦者3位.吉田凜汰朗(VERTEX/61.2kg)
勝者:鈴木翔也 / 判定2-0
主審:少白竜
副審:多賀谷48-47. 竹村48-48. 宮本48-47

タイミングで吉田凛太朗の右ストレートがヒット、鈴木翔也はノックダウン

鈴木翔也がやや上回る蹴りとパンチの繋ぎ技で攻勢を続けながら、第4ラウンドに吉田の右ストレートで軽いノックダウンを喫してしまうもダメージはほぼ無く、第3ラウンドまでの公開採点がジャッジ2名が2点差、1名が1点差で鈴木優勢の採点。

これで吉田が有利となった訳ではなく、第5ラウンドは両者が懸命の打ち合い勝負に出て、鈴木が攻勢をかけたわずかな僅差で勝利を拾った形となった。鈴木翔也は引分け初防衛に続く、辛くも2度目の防衛。

打ち合いとなっても鈴木翔也は持ち前のしぶとさで前進

王座戴冠してのマイクアピールは格別、涙を浮かべての語りだった日下滉大

◆第5試合 NJKFスーパーバンタム級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.久保田雄太(2019.6.2獲得/新興ムエタイ/55.65→55.25kg)
     VS
挑戦者1位.日下滉大(OGUNI/55.3kg)
勝者:日下滉大 / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:多賀谷47-50. 少白竜46-50. 宮本46-50

日下滉大が第8代チャンピオン。3年前に対戦時は日下滉大が判定勝利。今回も初回の様子見からパンチとローキック連係から日下がリズムを作っていく中、蹴りを受ける久保田は態勢を崩しバランスが悪い。

日下は勢い付くと飛び蹴りも見せ、後半はヒザ蹴りも加えて追い打ちをかけ、攻勢を保った日下が大差判定勝利で念願の王座獲得となった。

「新人時代は連勝し、王座は近いと思ったけど簡単には獲れないものだった。」と語った日下滉大。そんな反省を経た下積み努力を重ねての王座戴冠となった。バンタム級では3度の挑戦は実らず、スーパーバンタム級でようやく奪取となった。

まだ団体タイトルに過ぎない段階で、国内だけでもまだ上位があるチャンピオンの座。有名なビッグイベント興行に呼ばれるには、これからがより大変になる。

日下滉大が勢いづいて攻撃力が増していく中のハイキック

終盤は飛びヒザ蹴りも繰り出す日下滉大

◆第4試合 NJKFスーパーウェルター級暫定王座決定戦 5回戦

3位.Vic.YOSHI(OGUNI/69.65kg)vs 4位.佐野克海(拳之会/69.35kg) 
勝者:Vic.YOSHI / TKO 4R 1:26
主審:竹村光一

序盤は的確さの無い攻防からVic.YOSHIがやや攻勢に傾き、次第に佐野のスタミナ切れが目立っていく。第4ラウンドにボディーへヒザ蹴りから顔面にヒザ蹴りが入ると、レフェリーがスタンディングダウンをとり、カウント中のレフェリーストップとなった。

正規チャンピオンの匡志YAMATO (大和)が7月11日、名古屋での大和ジム興行で、上位王座のWBCムエタイ日本王座獲得すれば、Vic.YOSHIがNJKFの正規王座に昇格予定。匡志が獲得成らなければ、後にNJKF王座統一戦、正規チャンピオン匡志vs 暫定チャンピオン.Vic戦が行われる。

暫定ながら王座戴冠したVicYOSHI、佐野克海を倒す

◆第3試合 女子キック46.0kg契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級チャンピオン.Ayaka(健心塾/45.55kg)
     VS
同級3位.奥脇奈々(エイワ/45.75kg) 
勝者:Ayaka / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:多賀谷30-27. 竹村30-27. 少白竜30-27

◆第2試合 女子S-1ジャパン・スーパーフライ級トーナメント準決勝3回戦(2分制)

ミネルヴァ・スーパーフライ級1位IMARI(LEGEND/51.7kg)
     VS
同級2位.ルイ(クラミツ/52.05kg)
勝者:ルイ / 判定0-3
主審:宮本和俊
副審:中山29-30. 竹村29-30. 少白竜28-30

◆第1試合 フライ級3回戦

嵐(キング/50.6kg)vs 悠(GRABS/50.7kg)
勝者:嵐 / 判定3-0 (30-27. 30-28. 30-27)

《取材戦記》

YETI達朗は、「まだ戦える気持ちはありました」と言うも、レフェリーストップ(ドクター勧告による)となっては覆ることは無く、仕方無いところだった。昔はYETI達朗の師匠、キングジム向山鉄也会長が、鼻が“くの字”に曲がっても戦い続けたが、レフェリーが止めない時代でもあった。先月は額の陥没した試合もあり、脳震盪や裂傷だけではない早めのストップは、難しい見極めでもあります。

YETI達朗にTKO勝利したチャンスックは、元・タイラットTVライト級チャンピオンの肩書はあるも、ムエタイ二大殿堂から比べた下位組織のチャンピオンには、とてつもなく強者も居れば、箔付けに過ぎない三流以下も居て、見てみなければ実力が判らない選手が多いが、チャンスックはその技量を発揮し、存在感を示す。

国崇(拳之会/41歳)は4月24日(土)岡山での拳之会興行で、翔平(SHINE 沖縄)をヒジ打ちで下す勝利で100戦目を達成。戦績は100戦56勝(37KO)41敗3分。
昭和の時代は100戦超えは幾らか居ましたが、平成以降で100戦達成はおそらく国崇が最初でしょう。昭和の過密なスケジュールで怪我も完治しないまま5回戦を戦った藤原敏男さんらの時代とは環境が違うが、長く戦い続ける継続力は凄いものです。

暫定王座が幾つか誕生している現在。コロナウイルス蔓延の影響で、当初6月20日に名古屋で予定された大和ジム50周年記念興行は7月11日に延期され、WBCムエタイ日本スーパーウェルター級タイトルマッチがズレ込んだ為、暫定王座制定と二つのタイトルマッチ予定が絡み合っています。

次回興行は9月19日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.3rd」が行われます。ここでのタイトルマッチ予定はまだ確定してしていませんが、暫定王座が早く消えて欲しいところです。

100戦達成表彰額を持った国崇(=くにたか/藤原国崇)、表彰後役員に囲まれて撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

先月までは「東京五輪中止」の文字を時々メディアでも見かけたが、いつの間にか問題がすり替えられて「観客を入れるか・入れないか」との不毛テーマに議論が集中しているように感じられる。社風も誌面も主張も異なるはずの、新聞各紙のなかで、明確な「五輪中止」を掲げ続けるものはない(機関紙や個人発行のミニコミを除いて)。

これぞまさに、私たちが懸念してきた「大本営発表」状態の再来と言わねばならない。新聞記者はなにを見ているのだ? なにを取材している? 目の前でデルタ株が猛烈な勢いで広がっているのではないか。空港検疫はほぼ機能せず、「五輪」を錦の御旗にすれば、ほとんど海外からのひとびとは入国してくることができる。

通常時であれば、入管体制は煩くないのが良い。しかし今は特別な時ではないのか。全国各地に常時は発着している国際線航空機の8割以上は運航取りやめになっていて、一般人は日本に居住する人も、海外から来る人も日本を発着点にした「海外旅行」などはできない。

海外旅行どころではなく、東京など大都市をはじめとする飲食店の多くは長期間休業を余儀なくされ、しかしいまだに補償金を手にすることができず休業から、廃業に追い込まれる非常に厳しい状態の真っただなかに置かれている。大手のホテルでも都市部での休館や廃業は出始めており、コロナが仮に終息したとしても、この傷から人々が癒えるのにはどのくらいの時間と、お金が必要なのか想像すらできない。

蒸し暑い梅雨の時期にあっても、マスクをして街を歩く姿は普通であるし、多くの大学ではいまだに半数以上の講義をオンラインによってのみ実施している。つまり、政府が宣言を出そうが出すまいが、市民の(とりわけ都市部に居住したり通勤通学する人々)生活はこの2年ほど常に「非常事態」なのである。入学試験に合格したのに、2年も大学に通えない学生の群れなど今まで私たちは目にしてことがあっただろうか。

新型コロナは次々と変異を繰り返してゆき、どうやら「90%以上有効」とされていたファイザー社のワクチンも変異株の前にはそれほどの効果を発揮できないことが露呈されてきた。世界一接種スピードが速かったイスラエルで、デルタ株が急増しだし、イスラエル政府は解除していた屋外でのマスク着用義務だけではなく、屋内でのマスク着用を再び国民に命令したことから、この事実は伺い知ることができる。

議論を原点に戻そう。感染症に対する基本的な防御措置は「人の流れを止める」ことだ。東京だけではなく、日本のあらゆる都市は今、海外の人々との交流を我慢しなければいけない。

私たちが身勝手にそのように言っているのではなく、政府や各都道府県も相当額の広告費を使い、「感染予防の徹底」を宣伝しているではないか。ならどうして「国策」としてそれに真反対のことを強行しようとするのだ。私たちはことあるごとに「東京五輪」を1945年の日本に例えてきた。7月に入り「観客を入れるか・入れないか」との本末転倒した議論には、心底あきれ返り、再度「東京五輪」は絶対に中止すべきだと、繰り返す。

1945年8月6日、午前8時15分、広島の空は晴れ上がっていた。その後の地獄図絵など誰も想像できないくらい。しかし私たちは「地獄図絵」が予見できるのだ。ならばどこまで行っても「東京五輪反対」を叫び続けるしかない。「観客を入れるか・入れないか」の議論は前提からして間違っている。

『NO NUKES voice』Vol.28 《総力特集》〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

『NO NUKES voice』Vol.28
紙の爆弾2021年7月号増刊 2021年6月11日発行

[グラビア]「樋口理論」で闘う最強布陣の「宗教者核燃裁判」に注目を!
コロナ禍の反原発闘争

総力特集 〈当たり前の理論〉で実現させる〈原発なき社会〉

[対談]神田香織さん(講談師)×高橋哲哉さん(哲学者)
福島と原発 「犠牲のシステム」を終わらせる

[報告]宗教者核燃裁判原告団
「樋口理論」で闘う宗教者核燃裁判
中嶌哲演さん(原告団共同代表/福井県小浜市・明通寺住職)
井戸謙一さん(弁護士/弁護団団長)
片岡輝美さん(原告/日本基督教団若松栄町教会会員)
河合弘之さん(弁護士/弁護団団長)
樋口英明さん(元裁判官/元福井地裁裁判長)
大河内秀人さん(原告団 東京事務所/浄土宗見樹院住職)

[インタビュー]もず唱平さん(作詞家)
地球と世界はまったくちがう

[報告]おしどりマコさん(漫才師/記者)
タンクの敷地って本当にないの? 矛盾山積の「処理水」問題

[報告]牧野淳一郎さん(神戸大学大学院教授)
早野龍五東大名誉教授の「科学的」が孕む欺瞞と隠蔽

[報告]植松青児さん(「東電前アクション」「原発どうする!たまウォーク」メンバー)
反原連の運動を乗り越えるために〈前編〉

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
内堀雅雄福島県知事はなぜ、県民を裏切りつづけるのか

[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
「処理水」「風評」「自主避難」〈言い換え話法〉──言論を手放さない

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈12〉
避難者の多様性を確認する(その2)

[報告]本間 龍さん(著述家)
原発プロパガンダとは何か〈21〉
翼賛プロパガンダの完成型としての東京五輪

[報告]田所敏夫(本誌編集部)
文明の転換点として捉える、五輪、原発、コロナ

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
暴走する原子力行政

[報告]平宮康広さん(元技術者)
放射性廃棄物問題の考察〈前編〉

[報告]板坂 剛さん(作家・舞踊家)
新・悪書追放シリーズ 第二弾
ケント・ギルバート著『日米開戦「最後」の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
五輪とコロナと汚染水の嘘

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈12〉
免田栄さんの死に際して思う日本司法の罪(上)

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク(全12編)
コロナ下でも自粛・萎縮せず-原発NO! 北海道から九州まで全国各地の闘い・方向
《北海道》瀬尾英幸さん(泊原発現地在住)
《東北電力》須田 剛さん(みやぎ脱原発・風の会)
《福島》宗形修一さん(シネマブロス)
《茨城》披田信一郎さん(東海第二原発の再稼働を止める会・差止め訴訟原告世話人)
《東京電力》小山芳樹さん(たんぽぽ舎ボランティア)、柳田 真さん(たんぽぽ舎共同代表)
《関西電力》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
《四国電力》秦 左子さん(伊方から原発をなくす会)
《九州電力》杉原 洋さん(ストップ川内原発 ! 3・11鹿児島実行委員会事務局長)
《トリチウム》柳田 真さん(たんぽぽ舎共同代表/再稼働阻止全国ネットワーク)
《規制委》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク、経産省前テントひろば)
《反原発自治体》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
《読書案内》天野惠一さん(再稼働阻止全国ネットワーク事務局)

[反原発川柳]乱鬼龍さん選
「反原発川柳」のコーナーを新設し多くの皆さんの積極的な投句を募集します

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しらじらと雨降る中の6・15 10年の負債かへしえぬまま (橋田淳「[創作]夕陽の部隊」より)

6月26日、旧知の長崎浩さんが来阪され「樺(かんば)美智子と私の60年代」の演題で講演をされるということで参加しました。主催は「山﨑博昭プロジェクト」。「山﨑博昭プロジェクト」というのは、1967年10月8日、佐藤訪ベト阻止闘争(第一次羽田闘争)で亡くなった京大生・山﨑博昭さんを偲び、没後50年に際し記録集編纂・出版、墓碑建立、各種イベント開催などを行う目的で、実兄の建夫さんを筆頭に、元東大全共闘代表で高校(大阪・大手前高校)の先輩にあたる山本義隆さん、高校の同級生で詩人の佐々木幹郎さんや作家・三田誠広さんらが発起人となって設立されたものです。私が16年前に「名誉毀損」容疑で逮捕された時に主任弁護人を務めてくれた中道武美弁護士も大手前高校の後輩ということで当初から賛同人に名を連ねておられます。

これまで分厚い記録集『かつて10・8羽田闘争があった』(全2巻)を出版、亡くなった現場の近くのお寺に墓碑を建立したり、山本義隆さんらを中心としてベトナムを訪問し親睦を深めたりしています。

本年、6月12日東京、同26日大阪で長崎浩さんの講演会を開催し激闘の時代・1960年代から70年代はじめにかけての学生運動や反戦運動、反安保闘争の歴史的意義、その過程で権力の弾圧で斃れた犠牲者を弔うと共にこの意味を探究しようということです。東京、大阪、どちらも100人近い参加者でした。私にとってはいまだに直立不動的存在の山本義隆さんも、わざわざ東京からみえられていました。

長崎浩さん(山﨑プロジェクトのサイトより。これは6・12講演会のもの)

◆60年安保闘争と第一次ブントとは? そして樺美智子さんの死

長く読み継がれてきた樺美智子遺稿集『人しれず微笑(ほほえ)まん』

長崎さんは、60年安保闘争ではリーダー格として闘い、その後東大闘争、70年安保闘争に至る歴史の証人として名著『叛乱論』はじめ多くの著書を上梓されています。1960年6月15日、国会前で機動隊に虐殺された樺美智子さんを「引率」(本人談)して共に闘っています。長崎さんはデモ指揮だったとのことです。冒頭に挙げた一句にある「6・15」とは1960年6月15日のことです。6・15は反日共系の全学連主流派に領導された闘争ですので、日本共産党の歴史には記載されていません。実際に当時の全学連主流派は、「全世界を獲得するために」とのスローガンを叫び日本共産党から脱党し結成したブント(共産主義者同盟)、日本共産党が憎しみを込めて言う、いわゆる「トロツキスト」で、「唯一の前衛党」を実戦的に乗り越えましたから、「唯一の前衛党」を自認する日本共産党としては、この歴史的闘いは認めることができないということでしょうか。

しかも、樺さんの葬儀は多くの団体で実行委員会を作り「国民葬」としてなされたということで、今では考えられません。

私たちが学生の頃は、この6・15から、沖縄戦の6・23を「6月闘争」として集会・デモをやったものです。日本共産党は6・23には記念集会・デモをやっても6・15はその歴史にはありませんから、なにかをやるということはしません。

6・15樺さんにしろ10・8山﨑さんにしろ、後続の私たちの世代にとっては、高貴な存在でした。「樺さん、山﨑さんの死を乗り越えて闘おう!」ということです。樺さんの遺稿集『人しれず微笑(ほほえ)まん』は読み継がれ、私たちにとっては必読書の一つでした。

その後、新左翼運動は、対権力闘争で少なからずの死者を出しましたが、遺憾ながら樺、山﨑さんの二人ほど長く高らかに語り伝えられる人はいません(こういうことで山﨑プロジェクトに続き69年安保決戦で機動隊に虐殺された糟谷孝幸さんの当時の仲間によって「糟谷孝幸プロジェクト」が作られ「山﨑プロジェクト」の協力と連携により記念出版がなされました)。私は、山﨑、糟谷両プロジェクトに、身がすくむ想いでささやかながら協力させていただきました。当然です。

樺さんの死亡と権力の暴虐を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(全4ページのうち3ページを掲載)

同上

◆出版を本格的に始める際に、長崎浩さんの本を最初に出した!

やはり「山﨑プロジェクト」の発起人で、このかんは反原発雑誌『NO NUKES voice』でたびたびお世話になっている水戸喜世子さん(夫の水戸巌さんと共に救援連絡センターの創設に奔走されその初代事務局長)もお越しになっていてご挨拶すると「長崎さんをご存知だったんですか」と言われましたが、実は、長崎さんとの関係は古く、私が10年近い会社勤めを辞め出版を生業とする1984年、最初に出した書籍が『革命の問いとマルクス主義』で、その後対談集『70年代を過(よ)ぎる』(88年)を出しました(別掲案内参照)。東京の集会で、司会をされた佐々木幹郎さんとの対談も収録されており、このことに触れられたということでした。もう30数年も経ってしまったのか、と感慨深いものがあります。

前述したように、6・15樺さんにしろ10・8山﨑さんにしろ、後続の私たちの世代にとっては、忘れてはならない記念日であり人物でしたが、「トロツキスト」にことごとく敵対する「唯一の前衛党」を自認する日本共産党には存在しません。

私が出版を生業として始めた頃には、「第一次ブントに返れ!」との想いと、これを下敷きにみずからが関わった運動を検証・総括せんとの目的から、この60年安保闘争と第一次ブントについて性根を入れて研鑽、小冊誌『季節』にて連続して掲載したり、書籍も『敗北における勝利──樺美智子の死から唐牛健太郎の死へ』(85年)、『未完の意志──[資料]六〇年安保闘争と第一次ブント』(同)を上梓しました。あまり評価されませんでしたが、今、あらためて紐解くと、「なかなかいい本じゃないか」と心の中で自画自賛しています。

俗に「新左翼」と言いますが、この起点は、60年安保闘争の前夜、「唯一の前衛党」を自認する日本共産党のスターリン主義を否定し訣別、その内部から「共産主義者同盟(通称ブント)」の結成にあり、60年安保闘争は、僭越な言い方ですが、新左翼の急進主義の最初の派手なお披露目舞台だったといえるでしょう。

他方、主にトロツキーの生き様とこの理論をもって出発した太田竜、黒田寛一らの「日本トロツキスト連盟」、これが解体した後に結成された「革命的共産主義者同盟」(革共同)などがありますが少数派だったようです。その後、革共同から「第四インター」(四トロ)が独立、勢力を増やしていきます。日本共産党からは構造改革派などが除名、脱党し、その左派(「フロント」「プロ学同」)、また社会党から「社青同解放派」(「反帝学評」「革労協」)が出、それらは新左翼に合流していきます。10・8闘争を担った、いわゆる「三派全学連」の「三派」とは、「日本トロツキスト連盟」から出た革共同中核派、日本共産党から出たブント、社会党から出た社青同解放派ということで、10・8闘争は、違う三つの源流を持つ「三派」の勢力の共同闘争でした。構造改革左派(フロント、プロ学同)や四トロなども合流し、新左翼は、この周囲に膨大なノンセクト層も巻き込み60年代後半から70年代初頭にかけてのベトナム反戦運動、安保─沖縄闘争、大学闘争、三里塚闘争をラジカルに闘うことになります。

また、理論的にも水準は高く、長崎さんはじめ、姫岡玲治(ペンネーム)こと青木昌彦さん(故人。京都大学名誉教授)はノーベル経済学賞の候補になったり、哲学者の廣松渉さん(故人。東京大学教授)はマルクス研究、特に『ドイツ・イデオロギー』研究で世界的に評価されています。特に廣松さんには、私のような浅学の徒に対しても気安くお付き合いいただきましたが、廣松さんは左翼活動で福岡の伝習館高校を退学になり、大検で高卒の資格を取得し東大に入学、その後も学生運動に没頭し東大教授にまでなったという異色の経歴で、私たちなどとは別格の頭脳を持たれています。

長崎さんの『70年代を過ぎる』ほかの案内

◆「遅れてきた青年」だった私にも、振り返って語るべき時が来た!

私は、この時代の同伴者・大江健三郎の小説のタイトルを借りれば「遅れてきた青年」として1970年大学入学で、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を追体験し、60年安保から10年ほどの間に、10・8はじめ発生した多くの歴史的な出来事を見てきました。そうして変革や革命を希求し、全力で闘い、しかし敗北、絶望感を味わいました。とはいえ、この〈二つの安保闘争〉をメルクマールとする時代は、この国の転換点だったと思います。

あれから半世紀余り──尊敬する先輩方も続々鬼籍に入られています(ちなみに先に名を出した廣松さんは、世界的に認められるような学問的業績を挙げていますが、なんと60歳で若くして亡くなられていることを、あらためて知りました)。私も、先輩らに比して、若い若いと思っていましたが、そうでもなくなり、当時を振り返ってもいい歳になりました。

こういうことを自分なりに悟り、みずからの非才を顧みず数年前から1年に1冊ですが、当時を振り返り語る本を出しています。『遙かなる一九七〇年代‐京都』(2017年)。『思い出そう!一九六八年を!!』(18年)、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(19年)、『一九七〇年 端境期の時代』(20年)で、今年も11月に続編『絶望と地獄の季節71~72年』(仮)を出す予定です。長崎さんも寄稿予定です。

「懐古趣味」だとか言われれば、それでも構いませんが、私(たち)も先がそう長くはありませんから、生来鈍愚、たとえ拙くてもみずからの言葉で書き綴り、自力で編纂していきたいと考えています。

冒頭に挙げた「橋田淳」さんは大学の先輩(全学闘争委員会を形成する文学部共闘会議)で、今は児童文学作家をされていますが、この「夕陽の部隊」は、彼にとっては特異な作品(短編小説)です。しかし私に言わせれば、彼の作品群の中で5本の指に入る秀作です。

「俺は、虚構を重ねることは許されない偽善だと言ったんだ、だってそうだろう、革命を戯画化することはできるが、戯画によって革命はできないからな」(「夕陽の部隊」より)

つまるところ、60年安保闘争から60年代、70年代の闘いの高揚と挫折を経て現在に至る〈生きた総括〉とは、そういうことだろうと思われます。

*「[創作]夕陽の部隊」は『季節』6号初出、その後『敗北における勝利』『遙かなる一九七〇年代‐京都』に再録されています。

68年~70年の総括シリーズの案内

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