◆キックの貴公子
松本聖(まつもとさとる/1953年12月16日、鳥取県出身/目黒)は沢村忠、富山勝治に次ぐ、日本キックボクシング協会系最後のエース格に上り詰めた選手だ。
スロースターターで独自の悲壮感を漂わせながら、忍耐と強打で勝利を導き、後々語り継がれる多くの名勝負を残した。
1972年(昭和47年)春、鳥取県の地元の高校を卒業するとすぐに上京。
キックの名門、憧れの聖地だった目黒ジムに入門した。
当時は入門者が後を絶たない中でジムは溢れかえり、その中では松本聖は無口で社交性も無く、存在感は薄かったと藤本勲(当時トレーナー)氏が語る。
だが練習には毎日通い、受ける指導の素直さ根気強さで成長は早く、同年12月、19歳になってすぐデビュー戦を迎えた。
一見、弱々しくもパンチは強く、勝利を導く試合運びは上手かった。
色白の二枚目で女性ファンも増えたことは、すでにスター候補生だったと言うのは藤本氏。
テレビ放映ではTBSの石川顕アナウンサーから「キックの貴公子」と呼ばれ、更に存在感を増した。
◆松本頼み
デビューから勝ち進むとランキングはジワジワ上昇し、3年後には日本フェザー級1位に定着。チャンピオンは同門の大先輩・亀谷長保だった為、長らく待たされた王座挑戦は、1977年(昭和52年)1月3日、2度のノックダウンを奪われ判定負け。翌年も正月決戦で再挑戦。第1ラウンドに亀谷からパンチでノックダウンを奪うも第3ラウンドに逆転のKO負け。亀谷にブッ倒された衝撃は放送席に白目をむいての失神状態だった。
亀谷長保がライト級に転級後の同年10月、松本聖は日本フェザー級王座決定戦で、河原武司(横須賀中央)に判定勝利し、念願のチャンピオンとなったことで松本の役割はより重大となっていった。
翌年(1979年) 1月、野本健治(横須賀中央)を4ラウンドKOで破り初防衛後、10年半続いていたTBSテレビのゴールデンタイム放映は4月から深夜放送に移行し、そして打ち切りへと業界低迷期へ突入していく中、野口プロモーション・野口修氏は成長著しい松本を起死回生のビッグマッチに起用していった。
野口氏が東洋と日本王座活性化を図り、同年5月、松本は東洋フェザー級王座決定戦に出場。タイの現役ランカーのジョッキー・シットバンカイに圧倒される展開も、右ストレート一発で逆転KOし、日本から東洋への飛躍となった。
王座獲得後の7月30日、東洋チャンピオンとしてタイ国ラジャダムナンスタジアムに乗り込むと、当時のランカーでムエタイの英雄と言われた、パデッスック・ピサヌラチャンに左ミドルキックで圧倒され2ラウンドKO負け。パデッスックはこの年、タイのプミポン国王から直々にムエタイNo.1(最優秀選手)の称号を与えられるほどの名選手だった。本場で惨敗ではあるが、松本にとってキック人生最も栄誉ある経験を残した。
同年秋、キック黄金期へ再浮上を目指す初のトーナメント企画、500万円争奪オープントーナメントが中量級(63.0kg~58.0kg)枠で行なわれ、松本は初戦で亀谷長保と対戦。雪辱を果たすチャンスと見えた3度目の対戦は、立場逆転した勢いで圧倒的松本有利の声が多かった。しかし亀谷の意地のパンチの猛攻で松本は1ラウンドKO負け。結局松本は先輩亀谷には一度も勝てなかったが、下降線を辿ることなく、亀谷から勝ちへの貪欲さを学んでいった。
東洋王座はタイ人選手に2度防衛。1980年6月28日には樫尾茂(大拳)の挑戦も退けて3度防衛とここまでは短い試合間隔でのタイトル歴とビッグマッチを残していた。
ここからキック低迷期を上昇に導くチャンピオンの責任を背負って戦い続け、1982年(昭和57年)の1000万円争奪オープントーナメントでは56kg級に出場し、苦戦しながらも決勝に進出。酒寄晃(渡辺)との事実上の国内フェザー級頂上決戦では、キック史上に残る名勝負を展開。第1ラウンドに3度のノックダウンを奪われながら、ひたすら反撃のチャンスを待ち、第5ラウンド逆転KOでフェザー級域国内最強の座を手に入れ、年間最高試合に値する激戦を残した。
業界はせっかくのオープントーナメントでの上昇気運も終了と共に再び沈静化に戻ってしまい、松本聖もスーツ姿で会場には姿を見せるが、燃え尽きたかのようにリングに上がることは無くなり、時代の変わり目に立った松本の活躍は見られなくなってしまった。
◆強打の秘訣
松本聖の強打の特徴は手首のスナップにあった。中学時代から器械体操での鉄棒運動で自然と握力が強化されたという。当たる瞬間、手首のスナップを利かした衝撃が多くのKO勝利を生んだ。“スナップを利かせたパンチ”とは実際に他のパンチより効くのか素人には分からないが、当時、別団体のあるジム会長が「松本のパンチはこう打つんだよ!」と若い選手を見本に、アゴに軽く手首のスナップを利かせて打って見せてくれたことがあった。確かに松本氏のパンチは拳を小さく捻るという印象だった。
松本聖と対戦したうちの一人、玉城荒次郎(横須賀中央)氏は、試合の3ヶ月後に「ほんのこの前まで頭の奥が痛かったの取れなかったよ」と語っていた。
また野口ジムのトレーナーは、「松本の打ち方はボクシングの七不思議だな、何であんな打ち方であんな威力出るんだ?」と語ったり、松本聖とスパーリングやった経験がある鴇稔之(目黒/格闘群雄伝No.1)氏は、「ヘッドギアー越しにストレート喰らって、スパー終わって見たら、額に凄いコブができていてびっくりしたのは今でもよく覚えています。松本さんのパンチは豪快さは無く、コンパクトに打つから見た目では凄さは分からないですね!」と語る。
1984年(昭和59年)11月、統合団体設立による定期興行の充実により、キック業界が息を吹き返した翌年夏、松本聖が目黒ジムで練習する姿が見られた。
31歳となったが、その動きは悪くなく強打は健在。再起へ確信が持てたのだろう。周囲の要望に応え、2年半ぶりの復帰戦を行なったが、嵯峨収(ニシカワ)と凡戦の引分け。ムエタイスタイルで打ち合いに出て来ないタイプにはやり難さはあったかもしれないが、本番では松本聖の強打は不発。かつての輝きは見られなかった。団体は移り、すでに東洋の松本ではなく、時代が大きく流れた感もあったのも事実。豪勢な引退式に送られることはなく、静かな去り際だったが、観る側が手に汗握る「松本の試合が観たい!」と言う声は絶えることはなかった。
◆最後のエース格
日本系やTBS系とも言われた野口プロモーション主催興行は事実上1982年4月3日まで。このメインイベントを務めたのは松本聖だった。轟勇作(仙台青葉)に2ラウンドKO勝利した試合はテレビ東京で放映されていた。団体は移り変わり、後々も目黒ジムから多くのチャンピオンは誕生したが、野口プロモーションが育てた、一時代を担うエース格に成長したスターは松本聖までという区切りとなった。
生涯戦績を見れば日本人とは対戦が多いが、新人時代に村上正悟(西尾)に判定負けと、亀谷長保には3度、あと2人のタイ人との少ない敗戦を含め、63戦54勝(37KO)6敗3分の戦績を残した。
松本聖は引退前から大田区蒲田で妹さんとスナック(=チャンプ)を経営していたという関係者の話。チャンピオンベルトやパネルも飾ってあったとか。その後、松本聖氏は出身地、鳥取に帰郷された様子。
2005年4月に目黒ジムを継承した藤本ジムが元々の下目黒の聖地でジムを建替え、落成懇親会パーティーを開いた際、過去の目黒ジム出身者が集結。松本聖氏も姿を見せ、紹介されていたが、私(堀田)はあの独特の強いパンチの秘密を聞き逃してしまった。指導者となる道には進まなかったが、技術論を語らせればテレビ解説者として技量を発揮しそうな松本聖氏。そんなキックボクシングとの関わりを見てみたいものである。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」