◆7.6事件 ブントの分裂

7.6事件といっても、一般の方には何のことなのか、ほとんどわからないであろう。新左翼の一派(第二次共産主義者同盟)の分裂騒動にすぎないのだが、のちの赤軍派および連合赤軍事件、日本赤軍の原点がここにあるといえば、その影響力の大きさが計り知れるかもしれない。

ブント(共産主義者同盟)の分裂という意味では、日本の学生運動のみならず、社会運動全体の混乱がここに発生し、集約されているのだともいえる。

なぜならば、死者100人以上を殺した内ゲバの中核派や革マル派も、その指導部の多くがブント(第一次共産主義者同盟)の出身であり、その他の新左翼党派も安保ブント、二次ブントに大きな影響を受けているからだ。

尊大な言いかただが、日本階級闘争の混乱は、ブントの混乱なのである。などと、70年代のブント系の活動家たちは云いなしたものだ。逆にいえば、その責任は大きいものがある。

そのブントの末裔の一員であり、7.6事件の舞台となった明大の出身者であるわたしに、7.6事件の謎解きの入り口までご案内させていただきたい。社会運動史研究である以上に、それがミステリーの世界であるからだ。

望月さんの死を伝える当時の新聞記事

◆記憶の迷宮

7.6事件は、今日もその全容が不明瞭な「謎の事件」である。

昨年の『一九七〇 端境期の時代』に掲載された「7.6事件に思うこと」(中島慎介)について、重信房子さんが書評をリベラシオン社のサイトに寄稿し、中島さんの「記憶違い」を指摘した。今回はそれへの反論となっている。※重信さんの当該の書評も収録されている。

その要点は、重信さんが7.6まで中島氏と面識がなかったこと。したがって、現場で言葉を交わすはずがない。この事件後に望月上史さんが中大に拉致された時間帯の違い、あるいは事件後に重信さんが京都に行ったとき、遠山美枝子さんを同道していたかどうか。重信さんと中島氏の主張(記憶)は大きく食い違っている。

重信さんも中島さんも、意図的に嘘をつくような人物ではない。どこかで記憶違いが生じたのであろう。

 

掲載されなかった『追想にあらず』

そればかりでない。中島慎介さんは、旧赤軍派の人たちが一昨年に発行した本に寄稿しようとしたところ、編集サイドが彼の原稿を「ズタズタにしたり、削除した」というのである。これも事件の事実関係をめぐってであろう。

謎はまず、事件が起きた時間帯である。

当時の新聞によると、赤軍派フラクがブントの会議が行なわれる明大和泉校舎に殴り込みをかけた(衝突)のは、9時25分頃で、その後二度目の衝突が1時間後に起きた、とされている。

対する中島氏の主張は、深夜に偵察行動をおこない、6時頃に侵入したというものだ。この時間差が「誰の創作か分かりませんが、警察か『7.2ブント通達』を発行したグループではないか」と、中島氏は指摘するのだ。

※9時半ごろといえば、明大和泉校舎を撤収した赤軍派フラクが、御茶ノ水の東京医科歯科大で中大ブントの逆襲をうけ、主要部隊が拉致されている時間帯である。この衝突を、記者が誤認して書いた可能性があるかもしれない。

そしてここが重要なのだが、そもそも赤軍派フラクの明大侵入は、自分たちを除名するかもしれない会議を開かせないように、明大学館を内側からバリケード封鎖するというものだったのだ(中島氏)。それが仏議長をはじめとする中間左派へのリンチ事件になってしまった。これは果たして偶発的なものか、何者かが意図したものか。

いっぽう、赤軍派の公式記録ともいえる2冊の本『赤軍派始末記』(塩見孝也)『世界革命戦争への飛翔』(共産主義者同盟赤軍派編)は、2時頃の明大和泉校舎侵入である。

中島氏は「この『四時間の空白』が、その後、赤軍派を含めたブント内各派の“秘め事”を生み出している」「研究中でもあります」と云う。なぜ事実関係がいい加減なのか、隠されていることがあるとすれば何なのか? 事件はミステリー、それも陰謀的な謎に覆われているかのようだ。

『毎日新聞』1969年7月7日朝刊

◆指は潰されていたのか?

論点となった「謎」はもうひとつある。

『遥かなる一九七〇年代──京都』において、松岡利康編集長が7.6事件(新左翼最初の内ゲバによる死者)に触れたところ、中大ブントを「代表する」神津陽さんらによって「リンチはなかった」「指は潰していない」という批判が起きた。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に掲載された「死者を出した『7.6事件』は内ゲバではないのか?『7.6事件』考」をもって、鹿砦社編集部のこの謎にたいする検証が始まったのである。

監禁された中大本館(法学部)4階からの転落事故が原因で、亡くなった望月上史さんをはじめ、赤軍派の4人は本当に「指を潰されていた」のか。

この「指を潰された」は通説となっていたが、中島氏によれば塩見さんが「生爪を剥がされていた」ということになる。上記のごとく、中大派(叛旗派)は、「リンチはなかった」という立場である。

塩見さんの『赤軍派始末記』によれば、中大の地下室で素っ裸にされて殴られた。とあるので、リンチ(暴行)はあったのだろう。そもそも、暴行抜きで拉致・監禁できるはずがない。

指を痛めつけられていた、というのは殴り合いではよく起きるものだ。相手を殴るだけで拳を痛めるので、単3電池を握れとか、50円玉(エッヂが丸っこい)を握って、しっかりした拳で殴れ、などとゲバルトの時にはよく「指導」されたものだ。

『聞書き〈ブント〉一代 』(石井英禧・市田良彦)には、赤軍派フラクを拉致したのは、情況派系の医学連指導部だったとある。ここでも「指を潰す」ようなリンチはなかった、という証言である。

※中島氏は『情況』2008年6月号(130~131頁)に「指を潰した」とある、としているが、神津陽さんの当該の文章は、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』に描かれた指を潰すエピソードが「嘘である」との批判なのである。ここは明らかに中島氏の誤読である。しかし、塩見さんの生爪が「回復は順調のようで、薄いけど新しいツメが生えて来ていました」(中島氏『端境期』)と現認しているので、こちらも説得力がある。真実はどっちなのだろう。

 

1969年9・5全国全共闘結成集会にてブント連合派とゲバルト

◆事件をめぐる暗い影

さて、今回『世界革命戦争への飛翔』が部分的に再録されたので、気づいたことがある。4.28(沖縄デー)から6.9のアスパック闘争の過程で、赤軍派フラクが形成されたわけだが、とくに右派からの「リンチ事件」があったという記述に注目しておきたい。

二次ブントは統一ブントとも呼ばれ、統一した集会の後のデモ出発では、党内各派が竹竿でゲバルトをするという、連合党だったのである。7個師団とも呼ばれたものだ。それぞれが地区委員会ごとに機関紙を出し、フラクションとして活動していた。党内派閥や党内党が、公然と存在していたのである。まるでかつての自民党みたいだ(笑)。

●最左派  赤軍派フラク(京大・同志社)
●左派   関西地方委員会(烽火編集委員会)
●中間左派 神奈川・東京南部・専修大(鉄の戦線編集委員会)
●中間右派 戦旗編集部・主流派(早大・明大・北海道・九州)
●右派   叛旗派(中大・三多摩地区)・情況派(明大)

したがって赤軍派フラクからの7.6事件までの経緯は、いわば反右派闘争(ブントの党内闘争)なのである。分派闘争になったのは、その後のブント中央委員会での赤軍フラク除名決議によるものだ。8回大会(68年12月)で主導権を握れなかった関西派が、69年4月以降党内闘争に打って出たのが、7.6事件の全体的な位置づけといえよう。

だが、その前後には、じつに奇怪な事件が起きている。

 

赤軍派結成後の政治集会

6月末に赤軍フラクの藤本敏夫(加藤登紀子と獄中結婚)が何者かに拉致され、数日間行方不明だったのだ。この事件は藤本さんが何も語らなかったことから、いまも「謎の失踪」とされている。おなじく赤軍派フラクの森恒夫(のちに連合赤軍の委員長)が、6月末にテロられているという(大阪市大の西浦隆雄氏の証言)。

定説では森恒夫(故人)が7.6前に赤軍派フラクから脱落し、負い目を感じていた事件であるとされている。花園紀男(早稲田の赤軍派)の証言では、森が「黒ヘルに追いかけられたので」ブントの集会に参加できなかった、と言い訳をしたが、ありえないとしている(『連合赤軍とオウム』)。だが、この「ありえない」は推論にすぎないであろう。藤本と森を襲ったのは何者なのか?

「当日の技術的・軍事的作業を遂行した人物が、一度も表面に出ることなく、消えてしまった」(中島氏)のは、なぜか?

神田氏が中島氏に語った「同日・同時刻・同じ場所で」「もうひとつの7.6事件」があったこと。そして「聞かなかったことにしてください」という言葉が気になる。何としても当事者たちによる、全容の解明が必要である。(おわり)

赤軍派結成直後の大弾圧、1969年11・5大菩薩峠事件

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

石棺のような窓のない建築物。出入口に配備された警備員。

 

最高裁判所(出典:ウィキペディア)

外界とは厚い壁で隔てられ、通信手段は郵便だけに限定され、メールもファックスも通じない。

最高裁判所には不可解なグレーゾーンがある。その中で何が進行しているのか──。

今年に入って、わたしは最高裁の実態を調べるための一歩を踏み出した。情報公開制度を利用して、複数の「役所」から最高裁に関連する情報を入手した。

◆元最高裁長官らが退官後に宮内庁参与に

最高裁長官を退任した寺田逸郎氏と竹崎博允氏が、宮内庁参与に就任したことは、人事に関する新聞記事などから判明している。両氏とも安倍晋三内閣の時代に宮内庁参与の「職」を得ている。今後も「最高裁長官から宮内庁参与」へのコースが準備されていく可能性がある。

筆者は、情報公開請求により、元最高裁長官の寺田・竹崎の両氏と宮内庁の関係を調査した。

ちなみに宮内庁参与とは、天皇家の相談役である。宮内庁の説明によると、内庁参与は国家公務員ではないが、賜与(日本国語大辞典:〈しよ〉、 身分の高い人が下の者に、金品を与えること)というかたちで内廷費の中から相談料を受け取っている。

【内廷費】皇室経済法に基づき天皇及び内廷にある皇族[1]の日常の費用その他内廷諸費[2]に充当されるため支出される費用。より具体的には、第4条第1項の条文を根拠とする。(ウィキペディア)

 情報公開請求の内容は、次の3項目である。

1、寺田逸郎宮内庁参与の就任から、2021年8月までの勤務実態を示す資料

2、竹崎博允(元宮内庁参与)の在任期間中の出勤実態を示す資料

3、宮内庁参与に対して内廷費から支給された経費が分かる文書。期間は、2011年度から2020年度の10年間

 宮内庁によると、「1」と「2」に関連した資料(勤務実態に関するもの)は、存在しないとのことだった。宮内庁参与と宮内庁との間には雇用関係がないからというのがその理由だ。あくまでも、「陛下」から宮内庁参与にプライベートに相談をお願いする形式を取っているという。従って宮内庁が、宮内庁参与の勤務実態を把握することはできないという論理である。

 

書面の例(令和2年6月の書面)

が、勤務実態がないにもかかわらず宮内庁は、次に示すように宮内庁参与に対して報酬を支給してきた。「3」については公開したのである。

◆支給日が不明なケースが多数

宮内庁が公開した資料は、稟議書の類である。各書面に次のような記述がある。

「天皇皇后両陛下から、下記のとおり賜ってよろしいか、お伺い申し上げます」

しかし、「決裁日」と「施行日」の欄の大半は空白にしている。他の箇所については、その大半を黒塗りにしている。これでは開示資料とはいえない。参考までに「令和2年」6月のものを紹介しよう。

●書面の例(令和2年6月の書面)
http://www.kokusyo.jp/wp-content/uploads/2021/11/R211127p.pdf

日本国憲法8条は、皇室関連の賜与に先立って、「国会の議決に基かなければならない」と述べている。従って国会議事録の中に金銭に関する記録が残っている可能性もある。

参考までに賜与の「提案日」「決裁日」「施行日」を一覧で示そう。ただし、日付けの混乱を避けるために、ここでは開示された資料で使用されている元号を例外的に使用する。

皇室の相談料の「起案日」「決裁日」「施行日」

なぜか年に2回、ほぼ定期的に相談会を開催している。支給された金額は、黒塗りで処理しているが、通常の日当(3万円程度)であれば公開できるのではないか。金額が尋常ではないから、宮内庁は、この部分を黒塗りにしたと考えるのが自然だ。

上記の資料に加えて、宮内庁参与のだれかが内廷会計主管に対して金銭請求をしたことを示す資料の存在も判明した。ただし、宮内庁は、請求者も請求額も黒塗りにしている。請求日は、「令和2年6月16日」である。

今後、筆者は宮内庁に対して、宮内庁参与に金銭を支払ったことを証明する書面の情報公開を求める方針だ。たとえば領収書である。領収書の有無を確認するのも金銭の流れを確認する上で不可欠だ。

◆「報告事件」の存在が判明

最高裁判所の実態調査の中で、筆者は最高裁事務総局に対して「報告事件」の存在を示す文書の情報開示を請求した。以下は、筆者のブログに掲載した内容だが、再度、その中身を紹介しておこう。

「報告事件」というのは、最高裁が下級裁判所(高裁、地裁、家裁など)に対して、審理の情況を報告させる事件のことである。それにより、下級裁判所で国策の方向性と異なる判決が下される可能性が浮上すると、最高裁事務総局は人事権を発動して、裁判官を交代させるなどして、国策と整合した判決を導き出すことができる。

原発訴訟などがその対象となると言われているが、本当に「報告事件」が存在するのか否かは現時点では不明だ。そこで「報告事件」の有無を確認するために、筆者は情報公開請求に踏み切ったのである。

請求内容は次の通りである。

「最高裁が下級裁判所に対して、審理の報告を求めた裁判の番号、原告、被告を示す文書。期間は、2018年4月から2021年2月。」

11月8日、わたしは最高裁判所の閲覧室で、A4判用紙で15センチほどに積み上げられた開示文書を閲覧した。次に示すのが、最高裁事務総局が開示した書面の一部である。結論から言うと、筆者は「報告事件」の存在を大量に確認することができた。しかし、最高裁事務総局は、それらの事件の事件番号については黒塗りにしていた。
 

読者に特に注目していただきたいのは、「3、勝訴可能性等について」の箇所である。最高裁が下級裁判所に対して、勝訴の可能性について報告させていることを示している。この部分についても、最高裁事務総局は黒塗りにして開示した。

従って報告内容を受けて、実際に下級裁判所の裁判官が交代させられたかどうかは判断できない。

今回の調査で、最高裁事務総局が報告事件に指定しているのは、国が被告、あるいは原告になっている裁判であることが分かった。それ以外の事件は、開示された資料には含まれていなかった。しかし、最高事務総局が全部の関連文書を開示したか否かは分からない。

半年ほどの調査で、最高裁のグレーゾーンから不可解なものが輪郭を現わし始めた。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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◆重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」

『抵抗と絶望の狭間』には、重信房子さんの「遠山美枝子さんへの手紙」が収録されている。書下ろしの力作である。

手紙のあてさきの遠山美枝子さんは、連合赤軍事件で亡くなられた女性活動家で、重信さんの明治大学での親友でもあった。いい文章だと思う。わたしは明るく華やかな、そして内省のある重信さんの文体が好きだ。今回の文章にもその一端はあるものの、やはり哀しみをもって読むしかない。

 

日活花の十代3人娘(別冊『近代映画』1964年6月上旬号)

あまり知られていないことだが、当時の明大の二部文学部には女優の松原智恵子さんが在籍していて、やはり学生運動に参加していた。

その松原智恵子は、吉永小百合、和泉雅子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、中でもブロマイドの売り上げは1位だったという。明治大学では重信房子、遠山美枝子とあわせて「明大ブント三人娘」ということになるが、ビラの受け取りも断トツだったという(重信さんの友人談)。学生運動に参加していたのは、おそらく西郷輝彦と交際していた時期とかさなる。

亡くなった人はどこか美化されるもので、遠山美枝子も美人活動家だったと言われている。一般に流布しているのは、バセドー氏病が持病の永田洋子に責め殺されたというイメージがつよい。それも山に指輪(夫のT氏からではなく、母親から渡されたもので、困ったときはそれをおカネに替えて帰宅できるように着けていた)をしてきたことを批判されたことで、美人だから殺されたという印象になっているのではないか。

じっさいには「素敵な女性だったけど、重信房子の引き立て役みたいなものだった」というのが、加藤登紀子事務所の女性秘書の個人的な感想だ。今回、彼女の学生時代の写真(一般にネットで拾えるものは、警察の逮捕写真)を見て、素敵な女性という印象がえられた。

◆共産同赤軍派と日本共産党革命左派

さて、その連合赤軍である。今年で結成から50年となる。結論的な部分から、簡単に解説しておこう。まずは赤軍派である。本書の副読本として予習的に読んでいただければ幸いである。

69年7月6日の明大和泉校舎で起きたブント(共産主義者同盟)の党内クーデターによって、赤軍フラクは中央委員会で除名処分を受けた。※この7.6事件については、書評(その4)で詳しく触れることにしたい。

除名されて共産同の分派となった赤軍派は、秋の大阪戦争・東京戦争の不発後、公安当局の猛烈な弾圧をうける。そこで、国際根拠地論(政治亡命)が検討されるいっぽう、本格的な武装闘争(爆弾闘争)に着手する。幹部の一部が70年3月に日航機(よど号)をハイジャックして北朝鮮に、その他の幹部もあいついで逮捕される。そして71年2月に、重信房子がアラブへ飛ぶ。

じつはこれも、あまり知られていないことだが、赤軍派の国際根拠地はキューバへの渡航、およびアメリカでブラックパンサーなどの左翼と合流して、世界革命戦争を「攻撃的につくり出す」ことだった。じっさいキューバには、ボランティアをふくむ多くの学生が渡っている(のちに強制送還)。元赤軍フラクの藤本敏夫が関与していたキューバ協会がその窓口だった。

主要な活動家が海外に出て、獄中に捕らわれるか指名手配となった赤軍派は、日共革命左派(京浜安保共闘)と接触するようになる。そのとき、赤軍派の指導者は森恒夫、革命左派の指導者は永田洋子となっていた。二人とも、組織の指導経験はきわめて浅い。

革命左派は、ブントML派とマル戦派の元幹部がつくった「警鐘」グループが、日本共産党左派神奈川県委員会(毛沢東派)と合同し、その後分裂した組織である。革命左派は70年12月に交番を襲撃し、一名が射殺されている。その後、銃砲店に押し入って猟銃を強奪する(71年2月)。

いっぽう、赤軍派は複数の銀行強盗によって、多額の資金を獲得していた。銃を手に入れた革命左派、資金を手にした赤軍派は、相互の利害から武装闘争という一点で、結びつきを強めることになるのだ。

そして革命左派が、山岳ベースからの脱落者2名を処刑する。これもあまり知られていないことだが、それ以前に革命左派は内部の論争からスパイではないかとされる女性労働者(実際にはスパイではなかった)の処刑を検討していた。脱落者2名の処刑は、ある意味で必然的な成りゆきだったのだ。

いっぽう、赤軍派はM作戦の部隊に帯同していた女性シンパの処刑を決定したものの、成し遂げないまま組織から追放するにとどまっていた。この時点では指導者の森恒夫は、女性シンパを殺さなかったことにホッとし、革命左派の処刑に憤っていた。だが、それが彼の負い目となるのだ。

◆山岳ベース事件

ほぼ全員が指名手配され、山岳を拠点にするしかなくなった赤軍派と革命左派は、獄中指導部の反対を押し切って組織合同をはかる。ここに赤軍派の爆弾と資金、革命左派の銃が結びついた。連合赤軍の結成である。

山を拠点に武装訓練をかさね、爆弾闘争では果たせない「敵を銃でせん滅する」戦いをめざす。

だが、その訓練の過程で「兵士と銃の高次な結合」すなわち「共産主義化」が課題とされた。その方法は、自分の活動を総括(反省)し、共産主義の兵士へと高めるというものだった。しかし総括は告白(告解)であり、総括が成しとげられる規準は、指導者の森恒夫と永田洋子による恣意的なものにすぎないのだ。

ある者は総括の態度を批判され、ささいな過去の瑕疵を「総括できていない」と批判された。そして「総括を支援」する暴力が行使される。

もちろん疑問を抱く者もいた。
「こんなことをやってもいいのか?」(植垣康博)
「党建設のためだ。しかたがないだろう」(坂東国男)
この党建設、軍建設という呪縛が、連合赤軍を奈落へと導くのだ。

リンチのすえに、酷寒のなかで食事を与えられず、餓死もしくは凍死した者は「敗北死」とされた。殺人ではなく「総括できずに敗北した」と、政治的に評価された。かくして、12名の同志が山中で殺されたのである。その後の銃撃戦(あさま山荘事件)は国民の注目を集め、平均視聴率50%(最大90%)を記録した。銃撃戦によって、警官に2名の殉職者、民間人1名が犠牲となった。

毎日新聞(1972年2月28日夕刊)

 

毎日新聞(1972年3月10日夕刊)

◆長崎浩さんの視点──左翼反対派からの脱却

この連合赤軍問題を、ふたつの論攷から読み解いていこう。

「『何が何だかわからないうちに(小熊英二)』彼ら全員を追い立てていたものがあった。私はここであえて連合赤軍と事件の政治的な過去物語を提示しておきたい。彼らの上に跳梁していたのは党という観念であった」

連合赤軍を呪縛したものが「党」であると、「連合赤軍事件──何が何だか分からないうちに」で長崎浩さんは云う。

まずは、長崎さんの妖艶なともいうべき文体を愉しみながら、政治的論理の山脈に分け入るのがよい。

上記の「過去物語」とは、共産主義者同盟(再建準備委員会=情況派)の自己批判にまつわることである。その自己批判とは「連合赤軍派事件に対する共産主義者同盟の自己批判──暴力・党・粛清について」(ローテ第14号)なのだ。当時、ブント右派とされた情況派が、その機関紙上で連合赤軍事件を「自己批判」したのだ。これが「党の態度」なのであろうか。

その要旨は、大衆の暴力に依拠する事業である革命を、連合赤軍は武器と兵士の問題に矮小化した。党と革命を二重写し(混同)する組織論・革命論の伝統が、リンチ(共産党・革マル派・連合赤軍)をもたらした。というものだ。

唯銃主義・党共同体主義と批判された論調の、きわめてラディカルなものであろう。そして新左翼運動の終焉を告げるものでもあったとする。ほどなく、長崎浩とその同志たちは、ブントを解消して地方党へと越境する(「遠方から」)。

私党論をベースにした長崎さんの党概念は、初めて読む人には難解かもしれないので、簡単に解説しておこう。

新左翼(ブント)は、共産党と社民にたいする左翼反対派であるとともに、大衆運動の担い手であった。この左翼反対派とは、社共に代わる革命党建設である。いっぽう、大衆運動の担い手としてのブントは、組織建設に拘泥しない。いわば大衆運動がすべて、ということになる。このブントの伝統が掘り崩された(大衆を裏切った)以上、新左翼は終焉しなければならないというのである。

いっぽう、社共に対する左翼反対派だった新左翼が、唯一の党として立ち現れてくるのが70・71年だった。内ゲバの時代の始まりである。長崎さん流にいえば、多重の左翼反対派の「革命の独占と孤独」である。いまなお革命(批評)家である長崎さんは、その出口をもしめしている。

「左翼反対派の革命の独占と孤独とを、叛乱の大衆政治同盟の同志たちを媒介にして、叛乱へと解放しなければならない」この「大衆政治同盟」とは、任意の固有の党であり、「同志たち」とは大衆のことである。フロイトの『文化への不満』からの引用(連赤事件への適用)がじつに秀逸なのだが、本書を買ってからのお楽しみにしてください。

◆党至上主義と批判の自由

「破防法から五十年、いま、思うこと」の松尾眞さんは、わたしが大学に入った当時の中核派の全学連委員長である。

すでに全共闘世代としてベテランの活動家で、71年の沖縄決戦で「機動隊の命はあと三日!」と劇画的なアジテーションをして、破防法で逮捕されたのは有名な話だ。当時の風貌は黒縁メガネに端正な顔で、いまの白井聡さんによく似ていた。白井さんと初めて会ったとき、おっ、松尾眞さん。と思ったものだ。

とにかくアジテーションがうまくて、全学連委員長の座を堀内日出光さんに譲ったあとは、北小路敏さんに代わって、革共同代表として演説をすることが多かった。破防法で下獄の後、学究活動に入られ、大学教員をへて現在は地方議員である。

ちなみに、当時の革マル派全学連委員長は長谷さんという東大の方で、こちらも指導者としては迫力があった。京大同学会の委員長が市田良彦(神戸大教授)、浅田彰(ニューアカの先駆者)と、優秀な人たちが学生運動の指導部にいた時代である。

さてその松尾さんが、自分の経歴と共に「党組織至上性」を、内ゲバが発生する問題点として抽出されている。もともと無党派の活動家で、京大全共闘の指導部になっていたことは、森毅さんの『ボクの京大物語』で知っていたが、中核派にオルグされる経緯は意外だった。一本釣りなのである。

その松尾さんが、獄中で何を考え、どういう契機から学究活動に入られたのかは知らない。京都精華大学の人文修士課程の論文は「非権力志向連帯社会」だったという。

山村暮らしから得られたエコロジーと地域復興へのこころみ。そして議員活動をつうじて痛感した、批判の自由・言論の自由。じつに面白く読んだ。

関西の革共同の分派のひとたちが、レーニン主義(本多延嘉さん=中核派書記長)の路線から決別したという。ブント系では荒岱介さんの系譜の組織が、ネットワークとして存続しつつも、事実上の党派解散をしている。党に代わる何ものかの組織形態を、発見する世紀に入っているのだといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

いよいよ29日(月曜日)発売!

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

観衆はまだ50パーセントの入場制限中ながら、観衆の声援に活気が増した会場。

瀧澤博人は見せ場を作ったヒジ打ちと左フックでノックダウンを奪うインパクトを残した判定勝利。

永澤サムエル聖光は自信を持ったパンチで出て、一発で仕留めるインパクトを残して本日のMVP賞。

今野顕彰はベテランムエタイ戦士を攻略出来ず。

前座で若い選手を起用したマッチメイクは、他団体選手に勝利を持って行かれる結果も好ファイトが展開されました。

◎KICK Insist.11 / 11月21日(日)後楽園ホール17:30~20:46
主催:ビクトリージム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第10試合 メインイベント 56.5kg契約3回戦

接近戦で右ヒジ打ちをヒット、ウィサンレックの唇下をカットさせた

瀧澤博人(ビクトリー/1991年2月20日埼玉県越谷市出身/30歳/56.5kg)
     vs
ウィサンレック・MEIBUKAI(1982.2.24タイ出身/56.2kg)
勝者:瀧澤博人 / 判定3-0
主審:椎名利一
副審:桜井30-27. 仲30-28. 松田30-28

瀧澤博人はWMOインターナショナル・フェザー級チャンピオン。ウィサンレックは元・タイ国ルンピニー系フライ級、バンタム級チャンピオン。ウィサンレックはトレーナーとして来日後、日本人戦を8戦ほど経験。国内トップクラスには負け越しているが、日本人の壁となる存在。

長身の瀧澤博人が自分の距離を保った蹴りとパンチ、前進するウィサンレックに離れた距離からの左ジャブが伸びる。組み合えばウィサンレックの技量発揮だが、その展開は短く、終盤にウィサンレックが接近するタイミング合わせて瀧澤の右ヒジ打ちで唇下辺りをカットする。傷幅は小さいが深さはありそうな鮮血が流れた。

残り時間少ない中、出て来るウィラサクレックと相打ち気味の左フックでノックダウンを奪うが、再開の時間は無く試合終了。「出て来るのが分かっていた」というチャンスを逃さなかった瀧澤博人の存在感アピールとなった試合。

瀧澤博人は33戦21勝(12KO)8敗4分。

瀧澤博人の左ジャブが主導権を奪う

相打ち気味の左フックでウィサンレックを倒した瀧澤博人

◆第9試合 62.0kg契約3回戦

永澤サムエル聖光(ビクトリー/1989年11月10日埼玉県吉見町出身/61.8kg)
     vs
トーンミーチャイ・FELLOW GYM(タイ/26歳/61.85kg)
勝者:永澤サムエル聖光 / KO 2R 1:50 / 主審:少白竜 

永澤サムエル聖光はWBCムエタイ日本ライト級チャンピオン。トーンミーチャイは元・タイ国東北部バンタム級チャンピオンで、FELLOWジムでトレーナーを務める在日タイ選手。

永澤サムエル聖光は蹴りからパンチへ相手との距離を計って打ち込むチャンスを狙う。第2ラウンド、永澤はトーンミーチャイの圧力に下がらず、左フック一発でノックダウンを奪うと、辛うじて立ち上がるトーンミーチャイは足元がフラついたところでレフェリーがテンカウントを数え終えた。

MVP賞を獲得した永澤サムエル聖光は33戦21勝(9KO)9敗3分。

永澤サムエル聖光が優るパンチでトーンミーチャイを追い詰めていく

左フックでボディーブローをヒットさせる永澤

◆第8試合 73.0kg契約3回戦

今野顕彰(市原/千葉県出身/38歳/72.8kg)vs ボーイOZ GYM(タイ/29歳/72.8kg)
勝者:ボーイOZ GYM / 判定0-3
主審:桜井一秀
副審:椎名29-30. 少白竜28-30. 松田28-30

今野顕彰はジャパンキックボクシング協会ミドル級チャンピオン。ベテランのオーラが漂うボーイだが、ふっくらした体格は第一線級から退いて年月が経った印象を受けるが技量は侮れない。そのボーイの蹴りで今野の脇腹を赤く染める。

組み合えばムエタイ技発揮で上手さが光るボーイだが、今野を圧倒するには至らない。今野のパンチも急所を外すディフェンスが上手いボーイは蹴り返し、ポイントを失わない巧みさには今野も攻め倦み、判定に縺れ込んだ。

今野顕彰は42戦22勝(14KKO)16敗4分。

ボーイの巧みな駆け引きに掴まえきれなかった今野顕彰

◆第7試合 51.0kg契約3回戦

細田昇吾(ビクトリー/1997年 6月 4日埼玉県出身/51.0kg)
     vs
阿部晴翔(チーム・タイガーホーク/宮城県仙台市出身/22歳/50.9kg)
勝者:阿部晴翔 / TKO 2R 0:53 / 主審:仲俊光

蹴りとパンチの攻防は、阿部がペースを掴んだ打ち合いの中、右ヒジ打ちで細田をグラつかせ、赤コーナー近くで右ストレートでノックダウンを奪う阿部。第2ラウンドに入ってもダメージ残る細田に右ストレートで倒すとカウント中にレフェリーが試合を止めると同時にタオルが投入。

細田昇吾は15戦9勝(2KO)5敗1分。阿部晴翔は18戦6勝(5KO)12敗。

阿部晴翔の右ストレートで仰け反る細田昇吾

◆第6試合 62.0kg契約3回戦

興之介(治政館/東京都出身/32歳/62.0kg)
     vs
吉田凛汰朗(VERTEX/栃木県出身/21歳/61.8kg)
勝者:吉田凛汰朗 / TKO 3R 1:13 / 主審:松田利彦

興之介はこの団体、ジャパンキックボクシング協会ライト級4位。吉田凛太朗はニュージャパンキックボクシング連盟から出場したNJKFライト級1位。

序盤の様子見から徐々に積極的に打って出た吉田凛太朗が第2ラウンド、右ストレートでノックダウンを奪うと、飛びヒザ蹴りからパンチ連打し、ニュートラルコーナーに下がった興之介に右ストレートで2度目のノックダウンを奪う。第3ラウンドには蹴りで出て来る興之介に右ストレートでノックダウンを奪うとレフェリーがほぼノーカウントで試合を止めた。

興之介は20戦11勝(3KO)8敗1分。吉田凛太朗は17戦8勝(2KO)7敗2分。

吉田凛太朗の右ストレートで劣勢に陥る興之介

◆第5試合 スーパーバンタム級3回戦

西原茉生(治政館/埼玉県出身/18歳/55.34kg)vs 拳大(OGUNI/東京都出身/20歳/53.25kg)
勝者:拳大 / 判定0-3 (28-29. 27-30. 27-29)

序盤、拳大がパンチラッシュで西原を追い詰めると鼻血流す西原。拳大が更に左フックで西原はノックダウン。西原は鼻血が止まらない様子も蹴りで出て態勢を整える。蹴り中心になりがちな流れもパンチの交錯でノックアウト狙うアグレッシブさが伺えるが、ヒットは無く判定まで縺れ込んだ。

西原茉生は5戦2勝(1KO)3敗。拳大は3戦2勝1分。

◆第4試合 ウェルター級3回戦

正哉(誠真/18歳/65.9kg)vs 鈴木凱斗(KICK BOX/24歳/66.5kg)
勝者:鈴木凱斗 / 判定0-3 (29-30. 28-29. 28-29)

蹴り中心の様子見から鈴木凱斗が右ストレートで青コーナーに詰めて連打。凌いだ正哉は蹴りからパンチで巻き返した第1ラウンド。第2ラウンドも互いに倒しに行く姿勢も見られたが、ノックダウンには繋がらず鈴木が僅差判定勝利。

正哉は3戦2勝1敗。鈴木凱斗2戦1勝1敗。

◆第3試合 女子(ミネルヴァ)アトム級3回戦(2分制)

ピン級6位.藤原乃愛(ROCK ON/17歳/46.0kg)
     vs
アトム級5位.ほのか(KANALOA/22歳/46.26kg)
勝者:藤原乃愛 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-28)

藤原乃愛はスピーディーで的確に蹴るテクニックを持ち、左ハイキックで何度か軽々ほのかの頭部をヒットする巧みさが目立った大差判定勝利。

藤原乃愛は今年5月29日にデビューし3戦3勝。ほのか12戦4勝7敗1分。

高校2年生の藤原乃愛の鋭いハイキックが、ほのかを追い詰める

◆第2試合 53.0kg契約3回戦

花澤一成(市原/17歳/52.0kg)vs 笠原秋澄(ワンサイド/29歳/53.0kg)
勝者:笠原秋澄 / TD (テクニカルデジション) 2R 0:49
負傷判定0-3 (19-20. 19-20. 19-20)

股間ローブローによる試合続行不可能となった花澤一成。そのラウンドも含めた負傷判定となった。

花澤一成は2戦1勝1敗。笠原秋澄は1戦1勝

◆第1試合 58.0kg契約3回戦(デビュー戦同士)

大武ジュン(治政館/29歳/57.6kg)vs 布施有弥(KIX/25歳/58.0kg)
引分け 1-0 (29-29. 29-29. 29-28)

《取材戦記》

コロナ禍で、現役バリバリのタイ選手は呼べない中、在日タイ選手が頑張ってくれました。

第7試合、阿部晴翔が勝利した途端、「やっと勝った!」と声を漏らした船木鷹虎会長。詳しくは聞けませんでしたが、仙台から出陣しての阿部の勝利は苦労があったかもしれません。チーム・タイガーホークは鷹虎ジムが母体で、船木氏が会長。古くはヤンガー舟木として名を馳せたチャンピオンです。

第2試合は偶然のアクシデント、故意ではない股間への蹴りで、花澤一成が立ち上がれないほどのダメージとは珍しい負傷判定でした。プロボクシングでは最大5分間のインターバルを与えられ、続行不能であればTKO負けとなります。

またよく「ノーファールカップの装着が下手なのではないか。しっかり縛ってないからズレるんだ」という意見も聞かれます。

ムエタイのノーファールカップは一人で装着できるものではなく、熟練したタイのトレーナーなどからしっかり縛り方を学ばないと、たかがノーファールカップでも大怪我に繋がる大事な部分でしょう。これはまたしっかり学んで記事で公開したい事案でもあります。
ジャパンキックボクシング協会2022年新春興行は1月9日(日)、後楽園ホールに於いて治政館ジム主催「Challenger.4」が開催されます。

JKAバンタム級1位.麗也JSK(治政館)vs NJKFスーパーバンタム級チャンピオン日下滉大(OGUNI)戦の他、馬渡亮太(治政館)、モトヤスック(治政館)、渡辺航己(JMN)の出場が予定されています。

MVP賞を獲得した永澤サムエル聖光。左は授与したアジアグループ会長の新沼光氏

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』12月号!

『抵抗と絶望の狭間』(鹿砦社)の書評の第二弾である。

71年は学園闘争の残り火、爆弾闘争の季節であると同時に、東映と日活がポルノ路線へと舵を切った年でもあった。

高部務さんの「一九七一年 新宿」(作家・ノンフィクションライター。著書に『馬鹿な奴ら──ベトナム戦争と新宿』)によれば、東映が7月に『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)でピンク映画へ路線転換した。主演女優は、のちに東映スケバン映画で一世を風靡する池玲子である。

それから四カ月遅れて、日活がロマンポルノ路線をスタートさせる。第一弾は『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)と『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)である。

左から『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督、主演女優池玲子)、『団地妻 昼下がりの情事』(西村昭五郎監督、主演女優白川和子)、『色暦大奥秘話』(林功監督、主演女優小川節子)

高部さんの記事には、70年代のピンク映画、ポルノ映画の裏舞台があますところなく紹介されている。

爾来、ポルノ映画はレンタルのアダルトビデオが普及する80年代初期まで、エロス文化の王道として君臨したものだ。やはり71年は戦後文化の転換点だったといえるのだろう。

わたしの記憶では、『イージー・ライダー』の日本公開が70年で、その洋画ブームの時期にスクリーンでバストの露出がOKになったと思う。ついでフランス製の性風俗ドキュメント映画『パリエロチカNo.1』の公開があって、思春期のわれわれはフランスのエロスに驚いたものだ。そして海外ポルノの浸食。

その意味では海外作品によって、71年のポルノ路線は道がひらけていたというべきであろう。68年公開の『卒業』(ダスティン・ホフマン主演)では、アン・バンクロフト(恋人の母親)の色っぽいシーンがコラージュのようになっていたものだ。

引用したのはDVDのパッケージだが、映画館のポスターや看板(手描き)はバスト露出がなく、公序良俗が守られていたようだ。

◆SM小説の黎明

板坂剛さんの「一九七一年の転換」によれば、三島由紀夫が団鬼六の『花と蛇』を絶賛したという。覆面作家沼昭三の『家畜人ヤプー』を激賞した三島なら、当然の評価であろう。羞恥と悦楽に苦悶する美女、緊縛という肉刑は三島にとってど真ん中の素材であっただろう。

 

団鬼六『花と蛇』(主演女優谷ナオミ)

その団鬼六は教員時代に、63年ごろからSM小説を書きはじめ、70年には芳賀書店から『天保女草紙耽美館』を、71年には同じく芳賀書店から『団鬼六SM映画作品集 1-2 耽美館』を出版している。ちなみに芳賀書店は、小山弘健やいいだもも、滝田修ら新左翼系の書籍を出版していた版元で、新左翼とエロスの親和性の高さを、何となく反映しているような気がする。

したがって団鬼六は、もう71年には谷ナオミ主演映画の原作者として、確固たる地位を占めていたことになる。じつは谷ナオミのデビュー前から、彼女を買っていたという。

その谷ナオミと吉永小百合を、板坂さんは「この時代の二大女優」だと評している。わたしもそれには賛成だ。ちなみに、谷ナオミの芸名は、谷崎潤一郎の「谷」と彼の作品『痴人の愛』のヒロイン「ナオミ」との組み合わせとされる。いかにも60・70年代らしい、文芸エロスである。

板坂さんによれば、全共闘世代の大半がサユリスト(吉永小百合ファン)だったという。三島は『潮騒』に出演した吉永小百合を「清純なピチピチした生活美の発見」と評し、戦前の薄幸な肺病型の美人との対比を強調している(本文での引用)。ここに板坂さんは「一九七一年の転換」をみるのだが、非常に興味深いのは、吉永小百合と谷ナオミの類似点である。それは女優としては陽と陰でありながら、純真無垢な目つき顔つきだという。

 

吉永小百合

なるほど、吉永小百合の清廉な健康美にたいして、谷ナオミは大きな乳房に象徴される肉体美であろう。そして純真無垢というのはおそらく「穢される美」なのではないだろうか。

吉永小百合を穢すものは、スクリーンに描かれる社会的かつ日常生活の困難であり、谷ナオミを穢すのはサディズムとマゾヒズムの凌辱である。

とくに谷ナオミの場合、高貴な財閥夫人が凌辱される被虐の美は、いかにも戦後的なロマンだが、そこに若々しい戦後日本の欲望と活力を見ることができる。ハードなSM小説が読まれなくなり、男たちがむき出しの欲望をなくした今は、日本の衰退期なのかもしれない。むしろコロナ禍の不況は吉永小百合的な、日常生活の困難があたらしい女優をもとめるのかもしれない。

ところで、吉永小百合と谷ナオミの両者を分けるのは、バストの大きさだと板坂さんは指摘する(笑)。女優でありながら早稲田の文学部を卒業した知性派の吉永小百合と、肉体派という表現が最もふさわしい谷ナオミのどちらが、みなさんは記憶に残っているでありましょうか。また、若い人たちはどう感じますか?

◆炸裂する板坂節

前回の書評が長くなりすぎた関係で、扱えなかった板坂剛さんの対談シリーズは今回も健在だ。

『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の日大闘争左右対決は、両者が高校時代の同窓生だったこともあって「話はもういいから、外に出て決着をつけようか」など、とくに秀逸だったが、今回は相手が民青だった人である。面白さ爆裂にならないはずがない。

この元民青氏は6.11(最初の右翼との激突)の現場にいて、全共闘のバリケードづくりをともに担いながら、なぜか闘争の渦中に民青に転じるという異例の経歴をもっている。しかも父親の会社を継いで、社長として人生を乗りきってきたという。

マジメな話もしている。ちょっと引用しよう。

S 「僕の価値観からすれば、日大全共闘は正しいと評価するけど、東大全共闘は間違っていたと評価する。従って日大が東大に行ったことは間違っていたという方程式が、僕の頭の中では成立しているんだ」
板坂「一応筋は通っているね。もう今後は日大も東大もひっくるめて『全共闘運動はああだったこうだった』っていう論じ方はやめて欲しい」

視点はともかく、これはわたしも正しいと思う。雑誌で日大闘争の特集をやったさいに、元日大生から言われたものだ。「三派系の学生は六大学が主流だから、地方出身者が多いでしょう。日大全共闘は、そうじゃないんです。日大は東京の学生が多いですからね、慶応や一橋、東京四大学の入試で落ちた人たちが、日大全共闘には多いんですよ」

おそらく地方出身者(六大学+中大)には、この「東京四大学」が何のことなのか、わからないであろう。旧制7年制高校、もしくは財閥系の大学。ということになる。具体的には、武蔵大学(東武財閥)、成蹊大学(三菱財閥)、成城大学(地元財閥)、そして学習院大学(旧華族系)の四大学である。この四大学は野球にかぎらず、年に一度の体育会の対抗戦をやっている。※関西では甲南大学が旧制7年制で、東京四大学と提携した学生募集活動を行なっている。

この四大学には入れなかったが、すこし裕福な家庭の子弟が入学したのが日本大学なのである。そして、そのあまりにもマスプロで劣悪な教育施設(教室に募集人員が入りきれない)に愕き、憤懣をかかえていたところに、不正問題(使途不明金)が発覚したのだ。

最初はひとにぎりの活動家たちの蹶起に、ふつうの学生が賛同してこれに参加した。どちらかというと、秩序派のむしろ右翼的な発想を持っていた学生たちが参加したからこそ、地をゆるがす巨万のデモが実現されたのである。

いっぽう、東大闘争の発端は医学部の処分問題であり、医学部の主流派はブント(社学同)。駒場はフロント(社会主義学生戦線)が教養部自治会の執行部、そして文学部自治会が革マル派。駒場反帝学評(社青同解放派)も勢力を持っていた。ようするに、最初から党派活動家による闘いだったのだ。

全共闘運動は全国に波及したが、バリケード闘争は日大闘争と東大闘争の真似事にすぎない。したがって、雑誌のキャッチを「全共闘運動とは日大闘争のことである」に決めたのだった。その位相は、板坂さんとSさんの論調にも顕われているといえよう。(つづく)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B09LWPCR7Y/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

◆サウジアラビアの半分以下に転落した日本の女性議員比率

衆院選2021は、野党はマスコミ予測を下回る伸び悩みでした。それとともに、わたしがショックを受けたのは「ただでさえ低い」女性議員比率の低下でした。

ご承知のとおり、女性議員比率は前回衆院選2017の10.1%から9.7%の45人に下がってしまいました。世界平均は23.9%。男尊女卑が激しいとされるサウジアラビアでさえ、19.9%で日本の2倍以上です。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。

広島では比例復活を含めた初めての女性衆院議員誕生はなりませんでした。それどころか、広島3区は野党が前回につづいて女性の候補を出しながら、前回より得票を減らしてしまいました。

わたくし、さとうしゅういちは、国政・地方を関係なく、全国の女性政治家の選挙応援に入ってきました。とくに県庁マン時代に山間部での介護に関する行政に従事。女性がおおい、あるいは、女性の仕事とみなされるがゆえに、低賃金、劣悪な労働環境にある介護・福祉現場の状況に憤り、将来を憂えていたことがあります。やはり、女性の議員を増やすことが、問題解決の近道だと考え、自主的にこうした活動を続けてきました。ときには当時所属していた労働組合「連合」の方針に反してまで、わたしが女性の候補を応援したことが、わたしと連合の長きにわたる確執につながったことは否めませんがやむを得なかったと考えています。

広島市では男女共同参画審議会の委員も公募に応募してさせていただきました。

こうした経験から今回も、小選挙区では3区の立憲民主党新人と1区の社民党新人の応援に入り、1区では短時間ですが社民党のマイクも握りました。1区は総理の選挙区ですから、正直、「どこまで追い上げるか」という状況であるのはわかっていました。他方で3区は河井克行受刑者の選挙区ですから必勝の意気込みでとりくみした。それだけにわたし自身の中でのダメージも大きく、しばらく、心の整理がついていませんでした。

◆時期尚早だった性別非公表 現段階での「男女関係ない」は「現状固定化」に

衆院選で全国の選挙管理委員会は、候補者の性別を非公表としました。「これからは男女関係ない」という選管のメッセージと受け止めました。

結論から申し上げると時期尚早でした。「これからは男女関係ない。またLGBTへの配慮も必要だ。」というのは正論に見えます。しかし、そういう理屈を実行するのは、議員の比率が男女ほぼ同数の状況が定着し手からで良いのではないでしょうか?
 
サウジアラビアさえよりも女性議員比率の少ない現状で、「男女関係ない」というのは、サウジアラビアより少ない現状をもたらしている制度的、文化的背景を軽視した議論です。ひいては、そうした制度的、文化的背景を変えることを妨げ、固定化してしまいます。

◆女性議員比率を低くしている制度的・文化的背景

女性議員比率は、昔はどの国でも低かったのですが、日本において、とくに低い原因は制度的には以下でしょう。

1.高すぎる供託金
日本の立候補に際しての供託金は極めて高い。国政選挙比例区で600万円、選挙区は300万円。女性の平均所得が男性より低い、すなわち「カバン」がないことを考えれば、この制度は女性をとくに排除する方向に働くでしょう。

2.小選挙区制
比例代表制中心の制度なら、各政党が比例名簿に女性をあらたに付け加えればよいだけの話です。しかし、小選挙区制では男性の現職を女性の新人にすげ替えることは現実的には難しいでしょう。

文化的には以下のことが考えられます。

1.選挙までは支えても終わると知らんふりで女性・若手候補者使い潰し
わたし自身も反省しないといけないのですが、選挙までは支えても終わると知らんふり、ということを支持者もやってしまいがちです。男性でも大変ですが、とくに、女性はとくに様々なハラスメント含めたストレスにさらされがちです。男性では問題にならないことも、批判の対象になりがちです。きちんと支える体制がないと、せっかく当選した女性議員が1期でやめてしまい、定着しません。

2.政策・政治姿勢以外がモノをいう文化
政策や政治姿勢ではなく、そのほかの三バン「地盤、看板、カバン」地縁で選挙結果がきまってしまうような政治文化は決定的に問題です。女性の場合はとくに結婚を機に、他の地域へ転出するケースも多いのです。そうなると、地盤もできにくい。参院選の場合、衆院より比較的女性議員比率が高いのは、参院選のほうが、有権者から遠いぶん、政策や政治姿勢で選ぶケースが多いからでしょう。

3.男性のエライ人が夜中に酒席で勝手に決めてしまう文化
コロナ災害で廃れ気味とはいえ(実際は緊急事態宣言中もエライ人が宴会をして時々バレていますが)、日本の悪いところは、極論すれば、夜中に男性のエライ人が酒席で何でもきめてしまうことです。与野党関係なく、こういう文化はあります。こういう場所にはそうはいっても現状では家事や育児、介護の負担がまだまだ重い女性は参加しにくい。男性でも若手はこういうのは苦手な人は多いので、参加しにくいでしょう。女性が仮に要職に登用されたとしても、こうした男性のエライ人に従順な人(俗に言う「名誉男性」)が真夜中の酒席で選ばれるわけです。

◆野党の気迫不足 女性議員を本気で増やしたいのですか?

今回の衆院選で自民党はともかく、野党は「女性議員を増やす!」という気迫に欠けていたのではないですか? とくに野党第一党の立憲民主党さん。そして、野党共闘を主導した日本共産党さんに申し上げたい。

立憲民主党さんは、いわゆるジェンダー平等に熱心なイメージはあった。しかし、女性候補の割合はわずかに18%でした。ここまで低いと「やる気があるのですか?」と申し上げたい。否。ここまでくると、立憲民主党さんの「ジェンダー平等」とは、LGBT問題のことで、「男女差別撤廃」はあまりやる気がないと疑わざるをえない。

2010年、当時は消費者大臣だった福島瑞穂社民党党首とともにデモに参加して。筆者はれいわ新選組支持だが社民党さんの政党で唯一、女性候補を半数以上出す方針は高く評価している

現実には立憲民主党さんの支持基盤は、連合組合員であるところの大手企業正社員や正規公務員の男性が中心ですからそうなるのも必然か、と邪推してしまいます。たとえば、広島県では、立憲民主党系の県議はいらっしゃいますが、女性はゼロです。

今回の衆院選2021で広島では立憲の女性候補は6人の県内候補のうち、広島3区のライアン真由美さんだけでした。もっと「広島では、はじめての女性衆院議員を!」と叫びつつ、広島3区に広島県内、いや中国地方のリソースを集中させるべきだったでしょう。

傍目に拝見していて、立憲民主党さんは、「必勝区」と表向きは叫びつつも、3区にそんなにリソースを割いているようには思えませんでした。与党は斉藤鉄夫候補を国交大臣に任命するなど必死なのに。それこそライアン真由美さんを比例中国ブロックの1位にもしておけばいい。そうすれば、斉藤鉄夫さんだけでなく、ライアン真由美さんにも天秤をかけるような団体・組織も現れたことでしょう。序盤の優勢の報道で油断はあったかもしれないが、つくづく惜しかった。

日本共産党さんもジェンダー平等を熱心に叫ばれた。女性候補比率も35.4%と社民党に続き2位でした。しかし、たとえば、比例東京ブロックでは池内沙織さんを比例名簿の3位にした。本気で池内さんを当選させたいなら1位におく。そして、3位に下がった現職男性議員は当選するために必死で票を稼ぐ。そういう構図をつくったほうがよかったのではないか? 次回以降はご検討くださいますようお願いします。

◆そもそも「女性差別撤廃」ないし「男女・女男平等」でよかった

そもそも、若い方はともかく、年配者で「ジェンダー平等」と言われてもピンとこない人が多いでしょう。

いや、「ジェンダー平等」自体が実は意味不明な言葉です。ジェンダーとは、性別に対して社会的に押し付けられた規範ですよね? 男性は外で仕事、女性は家事育児、でないといけない、などはその典型例です。あるいは、男性は化粧したりスカートをはいたりしたらおかしい、というのもジェンダーでしょう。

しかし、「社会的に押し付けられた規範」の平等とは何ですか? 日本国憲法第24条などに照らせば推進するべきは、「ジェンダー平等」ではなく「ジェンダー解消」でしょう。

ただ、「ジェンダー解消」といっても、多くの年配者にはピンとこない。普通に「女性差別撤廃」「男女平等」、すこしラジカルに言えば、「女男平等」でいいでしょう。

ともあれ、とくに広島県内のように、女性衆院議員そのものが存在しない現状で、野党が「なんとしても広島で初めての女性衆院議員を!」ではなく「ジェンダー平等」を声高に叫ぶことは、女性議員の比率の低さをふくむ男女不平等を結果として覆いかくしてしまった。そして、ピンボケをもたらしました。ジェンダーはもちろん大事な問題だが、打ち出し方を立憲民主党さんや日本共産党さんは誤った。女性議員を少しでも出すことに本気でなければ、ブーメランとして自分たちに突き刺さってしまいます。

れいわ新選組のように、財政出動により、女性が多く、女性の仕事として財務省などに軽んじてこられた介護や保育の給料を10万円アップする、女性が多い非正規公務員を正規化するなどをガツンと前に打ち出したほうがよかったのではないか?この方が(少なくとも懐具合の面で)実効性のある女性差別撤廃ではなかったのか?悔やまれてなりません。

もちろん、わたくし、さとうしゅういち個人としては、参院選広島2022へ向けてねばりつよく活動を続けているところです。現状では、介護・保育や非正規公務員など「女性の仕事だから」と自民党や財務省などの「男性のエライ人」に軽んじられてきた分野への財政出動をガツンとメインのひとつとして訴えていくことになるでしょう。他方で、参院選広島再選挙2021でも自分自身が公約に掲げた小選挙区制の廃止と比例中心の選挙制度への改革とクオータ制の義務化、供託金の引き下げ、さらには、政策・政治姿勢本位の政治文化の確立にコツコツと取り組んで参ります。

◎[参考]衆院選2021における女性候補比率
自民   9.8%
立憲  18.3%
公明   7.5%
共産  35.4%
維新  14.6%
国民  29.6%
社民  60.0%
れいわ 23.8%
N党  33.3%

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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◆シラケ世代

71年に思春期や青春時代を迎えた世代は、総称して「シラケ世代」と呼ばれたものだ。ほかにも三無主義・四無主義という呼称があった。

 

『木枯し紋次郎』(中村敦夫事務所提供)

つまり、無気力・無責任・無感動・無関心というわけである。わたしもその一人だった。

無感動や無関心には、それなりの理由がある。少年期に戦後復興の象徴であるオリンピックや高度経済成長を体感し、努力すれば成功するという勤勉な日本人像を抱いていた。にもかかわらず、60年代後半の価値観の変転が、その神話を打ち崩したのである。

一所懸命努力しても、成功するとは限らない。背広を着た大人の言うことは信用するな。正義が勝つとはかぎらない。へたに政治運動に首を突っ込むと、とんでもないことに巻き込まれる。闘っても、負ければ惨めだ。巨人の星飛雄馬は挫折したし、力石徹も死んでしまった。若者たちは政治の汚さや正義の危うさを知ってしまったのだ。

前ふりはここまでにしておこう。そんなシラケ世代のど真ん中に、突如として現れたのが「木枯し紋次郎」だった。

『抵抗と絶望の狭間』の巻頭は、その木枯し紋次郎を演じた中村敦夫さんのインタビューである。

胡散臭いことを「ウソだろう」という感性は、まさに演じた紋次郎のものだ。アメリカ留学の件は、あまり知られていない個体史ではないか。中村さんのシンプルな発想は、いまの若い人たちにも参考になるはずだ。

俳優座への叛乱を報じる朝日新聞(1971年10月28日朝刊)

◆その時代が刻印した「傷」と「誇り」

シラケ世代は68・69年の学生叛乱の延長で、それを追体験する世代でもあった。シラケていても、いやだからこそ叛乱には意味があった。もはや戦後的な進歩や正義ではない、世界が変わらなくても自分たちが主張を変えることはない。

 

「俺を倒してから世界を動かせ!」1972年2月1日早朝 封鎖解除 同志社大学明徳館砦陥落

松岡利康さんら同大全学闘の「俺を倒してから世界を動かせ!」という スローガンにそれは象徴されている「私にとって〈一九七一年〉とはいかなる意味を持つのか」(松岡利康)。

革命的敗北主義とは妥協や日和見を排し、最後まで闘争をやりきることで禍根を残さない。そこにあるのは学生ならではの潔癖さであろう。

善悪の彼岸において、革命的(超人的)な意志だけが世界を変え得る(ニーチェ)。

学費値上げ阻止の個別闘争といえども、革命の階級形成に向けた陣地戦(ヘゲモニー)である(グラムシ)。

71年から数年後、松岡さんたちの『季節』誌を通してそれを追体験したわたしたちの世代も、ささやかながら共感したものだ。その「傷」の英雄性であろうか、それともやむなき蹶起への共感だったのだろうか。いずれにしても、進歩性や正義という、戦後の価値観をこえたところにあったと思う。

松岡さんの記事には、ともに闘った仲間の印象も刻印されている。

◆抵抗の記憶

71年を前後する学生反乱の体験は、文章が個人を体現するように多様である。掲載された記事ごとに紹介しよう。

眞志喜朝一さんはコザ暴動のきっかけとなった「糸満女性轢死事件」からベ平連運動に入ったことを語っている(聞き手は椎野礼仁さん)。沖縄戦で「日本国の盾にされてウチナンチュが死ぬ」のを、二度と繰り返さないために、馬毛島から与那国島まで要塞化するのは許せない。そのいっぽうで、日本国民(ヤマトンチュにあらず)として、中国が沖縄の地にやってきたらレジスタンスとして戦うというアンビバレンツなものを抱えざるを得ない。そしてB52が出撃した基地として、ベトナムにたいする加害者である意識を否定できないという。

田所敏夫さんが書いた「佐藤栄作とヒロシマ――一九七一年八月六日の抵抗に思う」にある抗議行動は、当日のニュースで見た記憶がある。

この女性が「糾弾」ではなく「佐藤首相、帰ってください」という訴え方をしたので、視ているほうも親身になったのではないかと思う。すくなくとも、わたしはそう感じた記憶がある。

被爆二世としての田所さんの思いのたけは、ここ三年間の8月6日のデジタル鹿砦社通信の記事として収録されている。

山口研一郎さんの「地方大学の一九七一年――個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い」も貴重な証言である。被災した長崎天主堂が、本来ならば原爆の悲劇の象徴として保存されるべきところ、当時の田川市長によって取り壊された。被爆者でもある田川市長が訪米後のこと、アメリカの核戦略に従ったものといえよう。

長崎には大村収容所もあり、山口さんの問題意識は被爆者問題にとどまらず、入管問題、沖縄返還問題、狭山差別裁判、三里塚闘争へとひろがる。そして長崎大学では、右翼学生との攻防がそれらの問題とかさなってくるのだ。周知のとおり、長崎大学の学生協議会は、現在の日本会議の中軸の活動家を輩出している。

◆内ゲバの前哨戦と機動隊の壁を突破

眞志喜朝一さんをインタビューした、椎野礼仁さんの闘争録「ある党派活動家の一九七一」は前述した「文章が個人を体現する」がピッタリ当てはまる。

もうこれは、学生の運動部の体験記に近い。党派というスポーツクラブに所属した体験記みたいだ。しかし実際には「通っていた大学に退学届けを出して、シコシコと、集会やデモ、その情宣活動を中心とした“学生運動”に勤しんでいた」のだ。

その学生運動の党派とは、「悪魔の第三次ブント」を標榜した戦旗派である。

第二次ブント分裂後のブント系最大党派で、その組織リゴリズムから「ブント革マル派」と悪評が高かった。ようするに「前衛ショービニズム」(荒岱介)で、ゲバルトがすこぶる強かった。分派後のブント系は、反戦集会などがあれば、かならず内ゲバが前哨戦として行なわれていた。その内ゲバの様子が、まさに「運動部の体験」のごとく活写されている。戦記ものとして読めばたのしい。

叛旗派には13戦全勝だったというが、判官びいきもあって、デモに参加する群衆の人気は、圧倒的に叛旗派だった。

当時を知る人によれば「叛旗がんばれー!」という歓声があがったという。

その叛旗派は、吉本隆明がゆいいつ「ブント」として評価していた党派である。吉本の人気とゲバルト闘争にはいまひとつ参加できない、新左翼シンパ層の支持にささえられていた。そして12.18ブントや赤軍派とのゲバルト。荒岱介さんによれば、キャッチマスクを着けたゲバルト訓練は、九十九里海岸の合宿で行なわれたはずだ。

71年6.17の全国全共闘分裂のデモでは、上京した同志社全学闘(松岡さんら)の闘いと交錯する。こちらは内ゲバではなく、機動隊に押し込まれて「もうアカン」(松岡さん)という状態のときに、背後から火炎瓶が投げられて機動隊が後退。「同大全学闘の諸君と共にここを突破したいと思います」(戦旗派)というアジテーションがあり、スクラムを組んで突破したのである。

内ゲバもするが、機動隊を前にしたときは共闘する。そこがブント系らしくていい。

そして72年5月の神田武装遊撃戦、ふたたびの組織分裂と困惑。まさに華々しく駆け抜けた青春のいっぽうで、ひそかに行なわれた非合法活動。語りつくせないことが多いのではないか。

よく太平洋戦争の戦記もので、書き手によっては悲惨な戦いも牧歌的に感じられるものがある。椎野さんには改めて、闘争記を書いてほしいものだ。

『戦旗』(1972年5月15日)

『戦旗』(1972年5月15日)

◆新左翼のお兄ちゃん

芝田勝茂さんの「或ル若者ノ一九七一」は、当時のノートをもとに回顧した文章である。現在の上品な児童文学者の風貌からは想像もできなかった、新左翼のお兄ちゃん然とした芝田さんにビックリさせられる。

文章も主語が「俺」なので、当時の雰囲気をほうふつとさせる。長い髪とギターを抱えた姿は、まさにフォークソングを鼻歌にしそうな、当時の新左翼のお兄ちゃんなのだ。

だが、内容は牧歌的ではない。芝田さんや松岡さんが参加した同志社大学全学闘は赤ヘルノンセクトだが、いわば独立社学同である。

東京では中大ブント、明大ブントが第一次ブント崩壊後(60年代前半)の独立社学同で、その当時は関西は地方委員会がそっくり残っていた。

 

キリン部隊

そして二次ブント分裂後、同志社学友会を構成する部分が全学闘であり、対抗馬的な存在が京大同学会(C戦線)であった。

芝田さんの記事では、同大全学闘と京大C戦線、立命館L戦線の三大学共闘が、並み居る新左翼党派に伍して独自集会を行なうシーンが出てくる。

「同志社のキリン部隊や!」「やる気なん?」と参加者から歓声が上がり、解放派から「こいつら無党派じゃない! 党派だ!」という声が出るのも当然なのである。

※キリン部隊 ゲバルト用の竹竿の先端に、小さな旗を付けたもの。折れにくい青竹が主流で、竹竿だけだと凶器準備集合罪を適用されかねないので、先端に申し訳ていどに付ける。

◆三里塚9.16闘争

松岡さんと芝田さんの手記にも三里塚闘争への参加(京学連現闘団)と逮捕の話は出てくるが、当時高校生だった小林達志さんが「三里塚幻野祭」と第二次強制代執行阻止闘争のことを書いている。

激闘となった、71年9.16闘争である。このとき、八派共闘の分裂によって、三里塚現地の支援党派も分裂していた。中核派と第4インターが駒井野と天浪の砦(団結小屋)で徹底抗戦。椎野さんたちの戦旗派もそれに対抗して砦戦だった。

いっぽう、解放派と叛旗派、情況派、日中友好協会(正統)、黒ヘル(ノンセクト)、京学連などが反対同盟青年行動隊の指導の下、ゲリラ戦で機動隊を捕捉・せん滅する計画を練っていた。

おそらく9.16闘争の手記が活字になるのは、初めてのことではないだろうか。それだけに読む者には、生々しいレポートに感じられる。

すでに裁判は86年に終わり(第一審)、無罪(証拠不十分)をふくむ執行猶予付きの判決で終結している。つまり9.16闘争とは、上記のゲリラ部隊が機動隊を急襲し、警官3名の殉職者を出した東峰十字路事件なのだ。※東峰十字路事件(Wikipedia)

同志社大学では当日の実況中継を計画していたが、さすがに機動隊員が死んだという知らせをうけて急遽中止したという。

70年代は「第二、第三の9.16を」というスローガンが流行ったものだが、この事件では三ノ宮文男さんがたび重なる別件逮捕のすえに自殺している。警官の殉職者もふくめて、いまは哀悼の意を表すしかない。

硬派なタイトルの紹介ばかりとなったが、この書評は連載となることを予告しておこう。71年は日活ロマンポルノ元年でもあり、銀幕にバスト露出が始まった年である。そのあたりは元官能小説作家として、たっぷりと紹介したい。(つづく)

朝日新聞(1971年9月16日夕刊)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。3月横堀要塞戦元被告。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』
紙の爆弾12月号増刊
2021年11月29日発売 鹿砦社編集部=編 
A5判/240ページ/定価990円(税込)

沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈一九七一年〉──
歴史の狭間に埋もれている感があるが、実はいろいろなことが起きた年でもあった。
抵抗はまだ続いていた。

その一九七一年に何が起きたのか、
それから五十年が経ち歴史となった中で、どのような意味を持つのか?
さらに、年が明けるや人々を絶望のどん底に落とした連合赤軍事件……
一九七一年から七二年にかけての時期は抵抗と絶望の狭間だった。
当時、若くして時代の荒波に、もがき闘った者らによる証言をまとめた。

一九七一年全般、そして続く連合赤軍についての詳細な年表を付し、
抵抗と絶望の狭間にあった時代を検証する──。

【内 容】
中村敦夫 ひとりで闘い続けた──俳優座叛乱、『木枯し紋次郎』の頃
眞志喜朝一 本土復帰でも僕たちの加害者性は残ったままだ
──そして、また沖縄が本土とアメリカの犠牲になるのは拒否する
松尾 眞 破防法から五十年、いま、思うこと
椎野礼仁 ある党派活動家の一九七一年
極私的戦旗派の記憶 内内ゲバ勝利と分派への過渡
芝田勝茂 或ル若者ノ一九七一年
小林達志 幻野 一九七一年 三里塚
田所敏夫 ヒロシマと佐藤栄作──一九七一年八月六日の抵抗に想う
山口研一郎 地方大学の一九七一年
──個別・政治闘争の質が問われた長崎大学の闘い
板坂 剛 一九七一年の転換
高部 務 一九七一年 新宿
松岡利康 私にとって〈一九七一年〉という年は、いかなる意味を持つのか?
板坂 剛 民青活動家との五十年目の対話
長崎 浩 連合赤軍事件 何が何だか分からないうちに
重信房子 遠山美枝子さんへの手紙
【年表】一九七一年に何が起きたのか?
【年表】連合赤軍の軌跡

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◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000687

コロナ第5波は、日本ではようやく感染者数が落ち着いてきたようです。しかしオランダなど欧州ではすでに、次なる感染拡大の情報もあり、気を許せない状況に変わりはありません。

さて、コロナはわたしたちが生きる世代では、初めて経験する世界的なパンデミックですが、感染症以外の各種疾病は、コロナ流行の有無にかかわらずつねに目前にあります。なかでも「がん」は「国民の2人に1人」が罹患するといわれる病気として、誰しもが無縁ではいられない疾病です。かつて「がん」の響きは陰鬱に重く、医師が患者の「がん」を発見してもそれを「告知」するかどうか、が議論になった時代がありました。それほど回復が困難で、治療法が今日のように確立されていたかったため、「がん」=「死に至る病」の語感が社会的に共有される時代がありました。

「がん」は発現部位や、「がん」の種類(悪性度)により、さまざまな性質があることがかなり解明され、治療法も多岐にわたり日進月歩で確実に進歩しています。ですから今日「がん」は罹患しただけで「致命的」な疾病とは言えない病気ですが、それでも罹患した患者さんご自身やご家族の苦悩や心配、治療法の選択などは相変わらず、重い課題が残されているといえるでしょう。

男性特有ながら、近年罹患者数増加が止まらない「がん」に「前立腺がん」があります。このたび前立腺がんに自らも罹患し、治療を経験された安江博理学博士が、鹿砦社から『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』を著されました。筑波大学の医学部で教鞭をとった経験もある安江博士は、ご自身が前立腺がんに罹患していることが判明したとき、やはりかなりショックを受けられたようです。しかし、医学分野の知識と見識を活かして、「前立腺がんとはなにか?」をまず徹底究明されたそうです。そして現在日本ではどのような治療が行われているのか? 治療法ごとのメリット・デメリットなどを詳細に検討し、最終的にご自身が受けることとなった、治療法を確信をもって選択されたようです。

『一流の前立腺がん患者になれ!』は安江博士がご自分の前立腺がん治療のために、集められた情報を更にアップデートして、2021年末時点での最新の医学的知見を紹介した本といえるでしょう。前立腺がんについて心配を抱く患者さんやご家族、さらには前立腺がん患者の予備軍の皆さんへの科学的見地からのメッセージであり、アドバイスの書です。(鹿砦社取材班)

11月24日発売! 安江 博『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』 定価1,650円(税込)

一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために

“治療法の選択こそがあなたを救う!”
国内外の最新医学論文から予後の驚くべき違いを解説! 
前立腺がん患者と予備軍のあなたへ
前立腺がんを経験した筆者から贈るメッセージ

目 次
第1章 日本における前立腺がん治療の現状
第2章 前立腺とは
第3章 前立腺がんの予兆
第4章 前立腺がんの見つけ方
第5章 病期の判断(進行度の判断)
第6章 前立腺がんの治療法の種類
第7章 監視療法
第8章 全摘出手術
第9章 放射線治療
第10章 トリモダリティー治療
第11章 男性ホルモン遮断治療(ホルモン療法)
第12章 抗がん剤治療
第13章 放射性医薬品をもちいた治療法
第14章 治療法の選択 その1
第15章 治療法の選択 その2
第16章 公表された治療成績のまとめ
第17章 治療により発生する障害
第18章 今後の展望

四六判/カバー装 本文128ページ/オールカラー/定価1,650円(税込)

著者プロフィール
安江 博(やすえ・ひろし)
1949年、大阪生まれ。大阪大学理学研究科博士課程修了(理学博士)。
農林水産省・厚生労働省に技官として勤務、愛知県がんセンター主任研究員、
農業生物資源研究所、成育医療センターへ出向。
フランス(パリINRA)米国(ミネソタ州立大)駐在。
筑波大学(農林学系)助教授、同大学(医療系一消化器外科)非常勤講師。
現在(株)つくば遺伝子研究所所長。
これまでに公表した査読付き学術論文205本。
◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846314359/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000686

5Gの普及に伴って、通信基地局の設置をめぐるトラブルが急増している。通信に使われるマイクロ波による人体影響を懸念して、基地局の設置・稼働に反対する住民。これに対して、あくまでも基地局を設置・稼働させる方針を貫く電話会社。両者の対立が水面下の社会問題になっている。基地局が稼働した後、自宅からの退去を検討せざるを得なくなった家族もある。これはマスコミが報じない深刻な社会問題にほかならない。

◆沖縄県読谷村のケース、「命どぅ宝」

読谷村は沖縄本土の中部に位置している人口4万人の地区である。村の36%を米軍基地が占める。その読谷村で楽天モバイルと住民の間で紛争がおきている。今年4月、読谷村字高志保にある賃貸マンションの屋上に楽天モバイルが通信基地局を設置する計画を打ち出したところ、マンション住民と近隣住民らが反対運動を立ち上げた。

無線通信に使われるマイクロ波に安全性のリスクがあるからだ。総務省は、自ら定めた電波防護指針(規制値、1990年に制定)の安全性を宣言しているが、海外の動物実験や疫学調査で、マイクロ波に遺伝子に対する毒性などが指摘されるようになっている。またマイクロ波による神経系統などの攪乱が引き起こすと思われる体調不良も問題になっている。

その結果、たとえば欧州評議会は、マイクロ波について、日本の規制値に比べて1万倍も厳しい勧告値を設けている。

読谷村住民の反対の声を受けて楽天は一旦、計画を延期したが、10月の終わりになって、工事の再開を告知した。そして11月8日に、抗議に集まった住民たちの声を押し切って工事に着手したのである。

基地局設置に反対する沖縄県読谷村の人々

 
◆埼玉県鴻巣市、欧州評議会の勧告値の約10倍を超える数値を観測

埼玉県鴻巣市でも、楽天の基地局設置をめぐるトラブルが起きている。

今年1月、Bさん(女性)の自宅の直近に、楽天モバイルは通信基地局を設置した。Bさんは事前説明を受けていなかったので、事業主がどの電話会社なのかも分からなかった。幸いに設置場所の地主が楽天の基地局だと教えてくれた。

しかし、地主に電磁波による健康被害についての認識はなく、基地局が住民トラブルの原因になるとは考えていなかったようだ。地主の自宅も基地局の直近にあり、基地局が稼働するとマイクロ波を被曝する。

Bさんは、インターネットで「電磁波からいのちを守る全国ネット」(以下、全国ネット)のウエブサイトをみつけ、同会の運営委員をしているわたしに相談してきた。わたしは基地局を撤去させる方向で、署名を集めるようにアドバイスした。そして署名用紙のひな型を提供した。

しかし、Bさんの住む地域では、住民運動や社会運動に対する偏見が強く、署名は集まったものの「反対運動」を活性化するまでには至らなかった。そこで「全国ネット」が、楽天モバイルの山田善久社長に対して、「すみやかに計画を中止して、基地局を撤去する」ように書面で申し入れた。

Bさんも、楽天モバイルの山田社長に私信を送るなどして、基地局の撤去をお願いした。しかし、山田社長は、撤去に応じなかった。回答すらしていない。

幸いに設置当初は、基地局の操業はペンディングになっていたようだ。Bさんは、マイクロ波の測定値からそう判断した。

賃貸住宅の場合、物件に基地局が設置されたら、転居することによって、マイクロ波に直近で被曝する住環境から逃れることができる。「退避」は積極的な対処方法ではないが、マイクロ波の被曝から逃れる最終手段である。

しかし、分譲マンションの屋上や、一戸建て自宅の近くに基地局が設置された場合、住民はそう簡単に転居するわけにはいかない。自宅を別の場所に購入することなど、普通の市民は簡単にはできない。泣き寝入りしたあげく、延々とマイクロ波の被曝下におかれる。健康被害が起きても、マイクロ波と体調不良の関係が医学的に立証されない限り、電話会社は何の補償もしない。被害者は泣き寝入りするしかない。

10月の終わりから11月にかけた時期に、楽天はBさんの自宅直近の基地局の稼働を開始したようだ。楽天は、この点についての事実関係を明らかにしていないが、Bさんが電磁波の値を測定したところ急激に高くなっていた。総務省の電波防護指針の範囲内だったとはいえ、欧州評議会の勧告値の約10倍を超える高い数値が観測された。

◆早稲田大の調査、日本人の場合3%から5.7%が電磁波過敏症

俗に「電磁波過敏症」と呼ばれる身体症状がある。 国際疾病分類(I C D10)には、含まれていないために、公式には存在しないが、電磁波によって人体が病的に反応する人々が一定の割合で存在する。人間の神経細胞はごく微弱な電気で制御されているわけだから、それ自体に不思議はない。

たとえば早稲田大学の応用脳科学研究所「生活環境と健康研究会」は、「電磁波過敏症」の有症率は、日本人の場合3%から5.7%であるとする研究結果を公表している。(『京都新聞』2017年2月7日)。問診による調査なので、数値そのものは慎重に検討する必要があるが、「電磁波過敏症」そのものは客観的な症状である。重症になると、電磁波の発生源が多い都市部では生活に困難をきたすこともある。

◆楽天モバイル、5度にわたる内容証明に応えず

群馬県〇〇市に住むCさんは、重度の「電磁波過敏症」である。 みずからの症状について、地元紙に次のような記事を投稿している。

「私は電磁波を発生する物に対して、頭痛やめまい、吐き気、動悸、胸の圧迫感などのさまざまな症状がでます。そのため、スマートフォンやパソコン、テレビ、炊飯器などが使えなくなりました。また、電線の下や携帯電話基地局の近くにもいられなくなりました。症状の改善に努めていますが、発症から約4年たった現在も、ほとんど変化は見られません」

電磁波・放射線の分類

そのCさんの自宅から130メートルほど離れたところに、楽天モバイルは、昨年の秋、基地局を設置した。Cさんは体調が急激に悪くなって、基地局の設置に気付いたという。ただしその時点では、基地局が本当に稼働していたかどかは確認できなかった。

その後、今年の6月になって、Cさんは、地主の奥さんから、「今年の4月から基地局が稼働している」と告げられたという。従って、現在は稼働している可能性が高い。

Cさんは、2020年11月を皮切りに、これまで5回に渡って、楽天モバイルの山田善久社長宛てに、基地局を撤去するように内容証明郵便で申し入れた。その中で、電磁波過敏症により耐えがたい苦痛を味わっていることを繰り返し述べている。たとえば、次の引用は8月31日付けの内容証明である。

「私は、ゴールデンウィークの頃から体調が極端に悪くなっていることを自覚し、自宅の東側周辺には長時間居られなくなりました。胸の圧迫感、動悸、特に目の痛みはひとく、目の奥をカミソリで切られたような痛みを感じ、家の中でもサングラスをし、カーテンを閉め切ったままで過ごしていました。」

山田善久社長宛ての署名も提出した。「携帯電話基地局撤去のお願い」が169筆で、「Cさんが現在住んでいる自宅で生活を続けていくための携帯電話基地局撤去のお願い」が272筆である。しかし、山田社長が方針を変更することはなかった。自社の事業を優先しているのである。

◆高市早苗議員とマイクロ波兵器

自民党総裁選の最中に高市早苗議員が、防衛政策としてマイクロ波で敵基地を無力化する必要性を説いた。軍の関係者は、古くからマイクロ波を兵器に転用する技術を秘密裡に研究してきた。マイクロ波が人体に有害な電磁波であるからにほかならない。旧ソ連は1970年代には、既にマイクロ波の武器を開発している。いわばマイクロ波は曰くつきの電磁波なのである。

マイクロ波による人体へのリスクは、「電磁波過敏症」だけではない。マイクロ波が遺伝子を傷つけて、癌を発症させる可能性も指摘されている。

住人の意に反して、自宅上に基地局が設置される悲劇が後を絶たない。(本文とは関係ありません)

電磁波・放射線は、図が示しているようにエネルギー、あるいは周波数の違いに基づいて、さまざまな種類に分類されている。周波数が高いものとしては、原発のガンマ線やレントゲンのエックス線がある。低いものでは、家電や送電線からもれる電磁波がある。紫の部分がマイクロ波である。

光も電磁波である。可視できる唯一の電磁波である。そのせいなのか、太陽を浴びすぎると人体への影響があるとする認識は定着している。しかし、それ以外の電磁波・放射線は可視できないので、ガンマ線やX線を除いて、そこに潜んでいるリスクはほとんど認識されていない。

マイクロ波も含めて、電磁波や放射線の安全性に関する論考は、近年、大きく変化している。40年ぐらい前までは、エネルギーが高い放射線は危険だが、エネルギーの低い電磁波は安全という常識が広く普及していた。(ただしマイクロ波を使った兵器開発は、それよりもはるか以前から始まっており、軍関係の専門家らは、その危険性を認識していた。)

1980年ごろからこの定説が変化してきた。最初に変電所や高圧電線などからもれる超低周波の電磁波が問題になった。変電所や高圧電線の近くで小児白血病などの発症率が高いことが分かったのだ。

最近ではすべての電磁波・放射線に遺伝子毒性があるとする考えが、欧米では主流になっている。

こうした学術上の見解の変化に応じて、欧州では無線通信で使われるマイクロ波の規制値を厳しく規制する動きが顕著になってくる。国に先立って自治体などが、独自の規制をはじめたのである。そのために国が定める基準値と、自治体などが定める基準値がダブルスタンダードになる傾向が見られる。それは人命を優先するのか、それとも産業を優先するのかの違いでもある。

日本の総務省は、規制値の更新を30年以上も怠っている。その結果、現在では米国と並んで世界一ゆるい電波防護指針になっている。たとえば次の数値を比較してほしい。日本の規制値は、欧州評議会の勧告値に比べて1万倍もゆるい。実質的にはまったく規制になっていない。

欧州評議会:0.1μw/cm2
日本:1000μw/cm2

ただ、実際に1000μw/cm2の数値で稼働している基地局は存在しない。たとえばわたしが住んでいる埼玉県朝霞市の中心街で、マイクロ波を測定したところ、1μw/cm2程度だった。

それにもかかわらず、なぜ異常に高い数値が設定されているのだろうか。わたしの推測になるが、それはひとつには将来、無線通信技術が更新されても、電波防護指針が開発の足枷にならないための配慮である。

たとえば「空間伝送型ワイヤレス電力伝送システム」と言う技術である。これは電波を無線通信だけでなく、スマホなどの充電にも利用するものだ。マイクロ波よりもさらにエネルギーが高いミリ波の使用が想定されている。

【参考記事】ソフトバンクも参入、10m級無線給電が21年度に国内解禁

◆深刻になる複合汚染

ちなみに電磁波による人体への影響を考える場合、電磁波だけを単独で捉えるのではなく、複合汚染との関連の中で考慮しなければならない。複合汚染とは、「2種類以上の汚染物質が環境中や生体内で,相乗的・相互干渉的に影響し合い,被害を大きくする汚染」(ブリタニカ国際大百科事典)である。

米国のケミカル・アブストラクト・サービス(CAS)が登録する新しい化学物質は、1日で1万件を超えると言われている。無論、そのすべてが有害というわけではないが、複合汚染を起こしている可能性が極めて高い。さらにそこに電磁波被曝が加わる。その電磁波も5Gが進化するにつれて、エネルギーの高いものへ更新される。複合汚染は一層複雑になる。

こうした状況下で総務省は、「予防原則」を優先して、基地局の設置を厳しく規制する必要があるのだ。沖縄の人々が使う「命どぅ宝」という言葉は、「命こそ宝」という意味である。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

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◆問題発覚

タイ国に於いては、もうどれくらい長い間、八百長問題でムエタイ業界を騒がせているだろう。他国の問題ながら、日本が目指してきたムエタイ越えとしては軽視できない問題である。

コロナ禍の規制の中で、やっと無観客試合の形で再開することができたタイ国内のムエタイ興行。地域によっては規制も緩み、再開から1ヶ月も経たない10月8日に、ブリラム県で開催された興行で八百長問題発覚。

過去にも発覚する事案は幾らかあるが、闇は深いと言われる八百長問題。業界の自浄能力はどれぐらいあるだろうか︎。

今回の問題を起こした選手の業界内での噂は、過去には麻薬に手を出すなど、今までの行動にも問題が多かっただけに、今後の復帰への機会は難しいと言われています。

悪名高き存在となってしまったファーワンマイ・チョー・タイセー

◆当事者の供述

10月8日のライブ中継されていたミニフライ級の、ラーンヤーモー・ウォー・ワッタナvsファーワンマイ・チョー・タイセー戦で、ファーワンマイ優勢で第4ラウンドに入ると、ラーンヤーモーの右縦ヒジ打ちでファーワンマイが倒れTKO負け。ノックダウン後のアクションがオーバーだったことでギャンブラーが騒ぎ、八百長と疑われました。

ファーワンマイは試合直後は認めずも、後日の興行役員、関係者の追及に八百長だったことを認めました。ファーワンマイは63戦44勝17敗2分。ナコンサワン出身の19歳の選手。

「今までのキャリアの中で、今回の試合を含めて4回の八百長試合をしてきた」と言う。

ファーワンマイは後日、八百長を依頼してきたという元ムエタイジム会長を管轄の警察署に告発。スポーツ庁ムエスポーツ委員会からも呼び出しを受けて事情聴取を受けました。

10月13日にはタイ民放局3chの番組生放送に出演を促され、一連の流れを説明。

ファーワンマイの供述によると、個人で販売していたナムプリック(chilidip唐辛子)5kgを販売額より高い金額で買い取ってくれた客が居て、2回目の購入時、「近くに来たので発送費が勿体ないだろうから直接取りに行く」との連絡があり、直接手渡すことになったが、その際に次の試合の八百長案を持ちかけられてしまい、「自宅場所も分かったから口外したり八百長を受けなかったら危険な目に遭うぞ!」と脅され、50万バーツ(約170万円)を提示された内、前金として3万バーツを受け取った。

KO負けするラウンドまで指定されたとおりの、第4ラウンドでKO負けしたが、試合後に問題が表沙汰になると、その依頼者という元ムエタイジム会長とは連絡が取れなくなった模様(ファーワンマイ本人の供述の為、どこまで真実かは不透明)。

プロモーターのスィアボート氏

同席した興行の主催者であるペットインディープロモーション、プロモーターのスィアボート氏(先代スィアナオ・ペットインディー氏の子息)は、「いろいろ経歴に傷のある選手だが、将来有望だったのでチャンスを与えて助けてきたが、こんな形で裏切られてしまい、怒りと悲しみで残念だ。」と心情を話しました。

スィアボート氏の説明では、ファーワンマイは以前、ランシットスタジアムで観戦中、お金を持っていないのにギャンブラーらとの賭けに参加していたが、負けて賭け金が支払えず、スタジアム内でギャンブラーらに取り囲まれ騒動となって問題化されてしまった。

それに救いの手を出して、復活の手助けをしたのがスィアボート氏で、復帰からわずか4戦目での恩を仇で返す裏切り行為だった。

ムエタイに於いての八百長に対する罰則は、1999年に制定されたムエスポーツ法に明確に定められており、八百長依頼者、実行した選手共に5年以下の禁固刑または10万バーツ以下の罰金、もしくはその両方と定められています。

但し、今までに厳格に執行された例が少なく、”紙上だけの法律”と揶揄されてしまっていることから、スィアボート氏は番組の中で、「法律がありながら、厳格な刑の執行を実施していかないと同じことの繰り返しとなり、ムエタイ界が発展していかない。」と警鐘を鳴らし、ムエタイ界の更なるクリーン化を主張しました。

古い話だが、ランシットスタジアムでドーンライされた赤いトランクスの選手(真相は不明)(1989年1月23日)

◆闇の深さ

ムエタイではほぼ実力拮抗した者同士がマッチメイクされ、多彩な技と駆け引きの中、勝負の読めない展開から賭けが成立。しかし、真剣に激しく戦えばノックアウトも負傷も起こり、スタミナ切れしたり、薬を仕込まれていて失速する場合もあるといいます。

毎月定期的に試合が続く選手は、体調不良で戦えば劣勢を招くことは明確で、それを八百長の疑いを掛けられ、試合途中でドーンライ(追放)となって仮に6ヶ月間出場停止となったら大変な減収となる為、体調不良が理由の試合キャンセルはよくある回避手段でしょう。

しかしこれではプロモーターに迷惑をかけるのは確かなので、会長やトレーナーは選手の体調管理にはかなり気を遣うと言います。メインスタジアムに出る一流選手は常に、“強さ、上手さ、頑丈さ”を求められるので、弱気な素振りやスタミナ切れのアクションは見せられません。

過去には、八百長だったのに発覚していない場合もあれば、八百長ではないのに試合前に噂が広まって、動きがおかしいとギャンブラーたちが騒ぎ始めてドーンライを促されるケースがあり、これらはプロモーター、ジム会長、トレーナー等側近が複雑に関わってるケースもある中、ややこしい闇の深さがあります。

◆ムエタイのリーダーとして

これまで述べた八百長とは、一方の選手のみが実行する“片八百長”という意味になります。

ドーンライされるそのリング上では、厳密に言えば八百長と決めつけた裁定ではなく、“ム
エタイ戦士としての威信にそぐわない試合”という意味で、“マイソムサクシー”と呼ばれます。

両者がそれぞれ全く違う人物から片八百長を持ち掛けられ、自分だけと思って片八百長をやりながら、実際は両者がやっていたことは稀にでも有るようです。

互いが手を抜き始めてダラダラした試合は、傍から見ればドッキリ企画のような笑うに笑えない展開も、明らかに威信にそぐわない試合で、両選手ともドーンライとなるようです。

元々から賭博禁止であればこんな問題も起きなかったと考えられますが、ムエタイ公式スタジアムでは法的に賭博の認可を受けており、2階席から後方まで有料観客による賭けは許されています。

このギャンブラーが居なければ大半の集客が見込めないのも事実で、賭博禁止とは言い切れない業界の存続が掛かってきます(一部改革案も有り)。

しかしここでは個人間の賭けなので全て自己責任。「賭けただろ、賭けてない!」のトラブルから客席後方で喧嘩が起こることも珍しくはありません。

10月19日にはタイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会主導で役員など50名程集められ、解決策などの会議も行われた模様で、世間からは「“改善策を議論してますよ”といったアピールだけだろ!」と揶揄されながらも、社会的問題になり、改善策が議論されるだけムエタイ業界の歴史、伝統が偉大であることの証でもあり、八百長がやり難い環境に努めて世間にアピールしていくことは重要でしょう。

世界に広まったタイ国技ムエタイとしてのリーダーシップを持って進んで欲しいところです。

殿堂旧・ルンピニースタジアム(通常)。ここでもドーンライとなった試合は少なくない(1990年7月)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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