平野義幸さん(当時38歳)は、2003年1月16日、京都市下京区の自宅で火災が発生し、女性が焼死した事件で、その後殺人と現住建造物放火の罪で逮捕されました。平野さんは一貫して無実を主張しましたが、検察は無期懲役を主張、2005年京都地裁は、懲役15年の判決が下しましたが、2006年大阪高裁は審理を行わないまま、平野さんが「反省していない」などを理由に一審判決を破棄し、無期懲役を言い渡しました。その後上告も棄却され、現在、平野さんは徳島刑務所に服役中です。
◆「恩人」を殺せるわけがない!
焼死したМさんは平野さんの交際相手でした。三池祟史監督「荒ぶる魂たち」「新・仁義の墓場」などに大地義行の芸名で出演した俳優の平野さんは、事件前の1年間に、兄貴分の男性、親友の俳優(菅原文太さんのご長男、踏切事故で死亡)、妻を立て続けに亡くし、自暴自棄に陥っていました。そんなとき「あんたは絶対俳優やらないとあかん」と励ましてくれたのがМさんで、背中を押された平野さんも再び俳優をやる気になっていました。
火災が起きた日、平野さんは午後から東京で行われる深作欣二監督(2003年1月12日死去)の告別式に出席予定で、その際、映画関係者に自身をプロモートしようと、1階で準備をしていました。平野さんがМさんのいる2階に上がると、階段上付近に灯油ストーブのカートリッジが倒れ、そばにМさんが座り込んでいました。平野さんが「何をしているのか?」と尋ねると、Мさんは「あんた、誰?」などとおかしな様子でした。実は、当時平野さんもМさんも覚せい剤を使用することがあったため、平野さんはМさんがいつのまにか覚せい剤を使用し、おかしくなったのではと考え、何かしでかすとまずいとМさんの手足を縛り、舌をかまないように口にハンカチを詰め、上にガムテープを貼りました。
その後、平野さんが1階で用事をしていると、2階でドーンと音がしたので慌てて上がると、南側ベッド付近でМさんが倒れていました。平野さんはМさんが苦しくて倒れたと思い、口のガムテを取り手足も緩め、こぼれた灯油を拭くため布とごみ袋を取りに1階に降りました。
◆一瞬で「熱傷死」したМさん
1階で準備していた平野さんが、Мさんのなんともいえない声を聞き、慌てて2階に上ると、Мさんのいた南側ベッド付近に火が見えました。平野さんはМさんをベッドに引き上げようとしましたが重くて上げられなかったため、燃えている物を取り上げ斜め後ろに放り投げ、火を消そうと布団を火に被せましたが、逆に燃え上がってしまいました。平野さんは、1階に下り、風呂の水をバケツに入れ、階段の途中からかけたり、消火スプレーで消そうとしましたが効果がないため、表に駆け出し救助を求めました。その後も、平野さんは、燃えさかる家に何度も入ろうとしたため「このままでは義くん(平野さん)の命が危ない」と、近所の人が数人で「膝カックン」(膝の後ろを押して膝をつかせる)して止めたことが裁判でも証言されていますし、一緒に救助に入ろうとしたWさんら2名の検面調書も存在します。
しかし、検察は、灯油を撒き火をつけ、手足を縛られ動けないМさんを焼死させることができるのは平野さんしかいないと主張、そのため出火場所を、Мさんのいた南側ベッドから「離れた」北側ベッド北西角付近としました。その付近は1階へ降りたり、上の洗濯場に上る階段があり、風通しがよいためよく燃えてはいますが、さらに燃えていた場所がありました。それがМさんの遺体が発見された南側ベッド付近です。
Мさんの遺体は真っ黒に炭化しており、解剖の結果、血中の一酸化炭素ヘモグロビンが105と極端に低く、気管などに煤片などもほとんど混入していないことなどから。出火と同時に瞬時に亡くなった「熱傷死」とされました。無残な亡くなり方ではありますが、一審判決のように「迫りくる炎の恐怖となぜ被告人からそのような目に逢わされなければならないのかという混乱の中で命を落と」した状態でなかったことは明らかです。
◆自殺をほのめかしていたМさん
平野さんと弁護団は、裁判でМさんが覚せい剤を使用していたことから精神的な錯乱状態を起こし、発作的に焼身自殺を図ったのではないかと主張しました。というのも、Мさんは平野さんと交際しながらも、「目の前から消えます」「タブーを犯してしまった」「私は死にました。今の私は来世に向かって生きているのです」などと、自殺をほのめかすような言葉を多数ノートなどに書いていたからです。
検察はМさんの遺体が、炎から身を守ろうとする「ボクサースタイル」をとっていないことについて、Мさんの手足が縛られたままだったからと主張しました。しかし、遺体を解剖した安原正博教授は「死に至る時間があまりにも短く、瞬時だったので、そういうスタイルをとっていなくても不自然ではない」と証言、また「手の曲がり方が縛られていたため」という検察の主張についても、「(もしなんらかの形で両手が緊縛されていれば)曲がり方が制約される」と否定的な所見を述べています。さらに「このような熱傷死の場合は、焼身自殺の場合を除外すると極めて少ない」とМさん自殺説を裏付けるような証言も述べていました。
◆自己矛盾した検察の主張で「無期懲役」とは?
検察は、冒頭陳述では、出火点は北側ベッド北西角とし、出火前Мさんがいた南側ベッドと「離れている」から、平野さんにしか放火できないとしていました。しかし「論告求刑」では、Мさんが出火前にいた場所を北側ベッド北西角付近に変更しました。炭化したМさんの遺体から、火災発生から瞬時に焼死したことが鑑定でも明らかになっているからです。検察は、出火点と出火前、Мさんがいた位置は「離れているがゆえに、Мさんの着火行為は否定できる」とした冒頭陳述を、自ら否定せざるをえなくなったのです。
そもそも平野さんに、長年住み思い出の詰まった自宅を放火したり、新たな映画のオファーを投げうってまで、Мさんを殺害するような「動機」はありません。火災後、平野さんも覚せい剤使用で逮捕されましたが、その件で平野さんを担当した検事は、現場検証を何度も行ったうえで「放火で逮捕はない」と断言していました。にも関わらず、その後代わった若い検事がいきなり平野さんを凶悪な「放火殺人犯」にしたてたのです。
確かに平野さんも覚せい剤を使用したり、傷害事件なども起こしています。しかし、過去に悪事を働いた人が、それを理由に、やってもいない事件の犯人とされていいのでしょうか。しかも検察は、平野さんの無実を証明する多くの証拠を未だに隠したままです。例えば、消防署から消防車が出動し、消火活動を行えば、必ず「出勤記録」「活動記録」が作成されますが、検察はそれらを開示していません。実際の火災現場で消火活動にあたった消防隊員らの証言などが事件解明に重要であることは、青木恵子さんの東住吉事件の国賠訴訟で、実際の火災現場で消火活動にあたった消防隊員の証言が事実であったことからも明らかです。しかし、検察は、現場で消火活動に携わっていない消防隊員Tさんを法廷に立たせ、出火場所を「北側ベッド北西角付近」と証言させたのです。
請求の準備に向けたクラウドファンディングが3月2日から開始されました。ぜひ、みなさまのお力をお貸しください。
平野義幸さんを支援する会/代表:青木惠子
https://readyfor.jp/projects/save_yoshiyuki_hirano
▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58