『週刊金曜日』6月3日号に植村隆社長が、沖縄を訪れ沖縄人民党の創設者、瀬長亀次郎を扱かったドキュメント映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』『サンマデモクラシー』を観、また瀬長を記念する「不屈館」の訪問記が掲載されていました。
本土返還の前年、沖縄決戦(返還協定調印‐批准阻止闘争)が沖縄-「本土」ともに盛り上がっていた1971年、瀬長率いる沖縄人民党の学生組織「民青」(みんせい)のゲバ部隊(「ゲバ民」と呼ばれました)が、革マル派の拠点、琉球大学の寮に夜襲を掛け、革マル派のリーダーを殺しています。私も沖縄闘争を自分なりに必死に闘っていたのでショックでよく覚えています。革マル派の機関紙『解放』では数ページ大きく写真入りで報じていた記憶が残っています。返還協定調印阻止闘争、秋からの批准阻止闘争と続く中で、その最前線の現地・沖縄で起きた事件――闘いの後退はやむなしで、べつに革マル派を支持するわけではありませんが、「何をやってくれたんだ」と思いました。
アメリカでは共産党は非合法化され、当時、米国領だった沖縄でもそうでした。なので、人民党が共産党と、名は違えど一体の組織として活動していました。本土併合後、沖縄人民党は正式に日本共産党に合流し、瀬長は副委員長として厚遇されています。
この事件後、革マル派は代々木の共産党本部に抗議行動を掛けています。沖縄人民党=日本共産党と見なしていたからです。
当時の沖縄人民党のトップは瀬長亀次郎でした。瀬長はこの殺人事件をどう扱ったのでしょうか? 民青の暴力による最初の死者ですから、おそらく人民党内では上へ下への混乱があったものと想像でき、トップの瀬長は苦慮したはずです。当時の民青は、口では「暴力反対」と言いながら、実際には新左翼系の運動や組織への暴力はひどかったです。私の体験で言うと、70年師走、某ノーベル賞受賞者の甥っこの先輩は、医者も見放すほどの瀕死の重傷を負いましたし、私自身も71年5月、民青の精鋭部隊から襲撃を受け病院送りとなりました。
先の2つの映画には果たしてその場面は出て来るのか(未見ですが、おそらく出てきていないでしょう)。映画の制作過程で、調べるうちにこの事件はきっと資料に出て来るはずですが、2人の監督は、この事件をどう考えたのでしょうか。見過ごしたのでしょうか? 私はいつも言うのですが、人の評価は、光が当たる部分だけでなく、影の部分も清濁併せて見ないと正確にはできないと思います。当たり前の話です。
瀬長を評価する場合も、その革マル派襲撃殺人事件をも含め評価すべきでしょう。植村隆社長にも機会あればぜひお聞きしたいものです。
瀬長亀次郎の一面を美化し過大評価するのは、もうそろそろやめたほうがいいでしょう。