今年も〈7月12日〉がやって来た──2005年7月12日早朝6時頃、母親が当日の朝日新聞を持って来て「あんたが逮捕されるよ」と言った。眠気まなこに、その一面が目に入った。天下の朝日新聞の一面を飾ることなど、それ以前も以後もない。一面は大阪本社版だけで東京は中面の社会面だったようだ。
当日は東京出張に出る日だった。夜は新宿ロフトで宮崎学氏らによるトークイベントに呼ばれていた(逮捕されたので急遽『紙の爆弾』編集長・中川志大が出席し発言、支援を訴えた)。そうしたことは前週末の呼び出しで主任検事の宮本健志検事(地元甲子園出身)に言っていたので、この日が狙われたのだろう。1日早く出掛けていればスカだったな。
あれから17年の月日が経った。時の過ぎ去るのは速い。私はこれまで二度の“逮捕記念日”があり、二度とも有罪判決を受けた。一度目は50年余り前の1972年〈2月1日〉、20歳、私のいた大学で(いや、その年は関西大学や早稲田など全国多くの私大、また国公立大学で)前年から続いた学費値上げ阻止闘争の最終局面、最後まで身を挺して値上げ阻止の意志表示をせんとする私たちは大学の中央にある建物の屋上に拙い砦をこしらえ徹底抗戦し、そして逮捕された。このことは、すでに本年2月前後にこの通信(1月26日、2月13日)でも記しているので、ここではこれ以上述べない。
◆2005年〈7月12日〉、逮捕は突然やって来た
その後、70年代、80年代、90年代と、生活や子育てに追われ過ごした。もう、かつてのように御堂筋をデモの大群が通ることもなくなった。大阪・心斎橋に在った勤め先のビルの7階から御堂筋の季節の移ろいを眺め日々見る夕陽のせつなさを感じながら過ごしバブル期到来、そして崩壊。勤め先も会社整理するということで独立、そうそううまくは行かなかった。
しかし、私にも、いわゆる「暴露本ブーム」で遅れてバブルがやって来たが、それも長くは続かなかった。苦闘しつつ凌いでいる中で、やって来たのが2005年、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧だった。主要な告訴人は大手遊技機(パチンコ・パチスロ)メーカー「アルゼ」(現ユニバーサルエンターテインメント)創業者オーナー社長(当時)岡田和生と役員Oで、「アルゼ王国の闇」シリーズによる告発が続いていた。
これに業を煮やした岡田らは「名誉毀損」で刑事告訴と3億円もの巨額訴訟を起こしたのである。神戸地検特別刑事部になされた刑事告訴はしばらく進展がなかったが、その年の4月に大坪弘道検事が特別刑事部長に就任してから急速に進展し、私が大坪検事の指揮による最初の逮捕者だということだ。
その後、宝塚市長、神戸市議会の長老親子らが続々逮捕されていく。大坪検事は、一時は検察トップ候補とまで言われるほどのエリートだったそうだが、のちに厚労省郵便不正事件(村木厚子冤罪事件)で証拠隠滅により逮捕・有罪判決を受け失脚する。「因果はめぐる」とはよく言ったものだ。私見だが、大坪検事が神戸地検に赴任して来なかったら、この事件はなかったと思っている。
すでに50歳を過ぎていて、小なりと雖も会社も経営し社員もいた中で、1972年の学生の頃と違い、社会的責任もあり、肉体的にも精神的にも辛かった。192日間勾留され、クリスマス、大晦日、正月を「鵯(ひよどり)越えの逆落とし」で有名な、神戸市北区ひよどり台、六甲の山の上に在る神戸拘置所の独房で過ごした。
その半分ほどは「接見禁止」、これは単に面会ができないというだけではない。アメリカでは電話ができるらしいが、電話は勿論、面会も手紙のやり取りもできない。外界との交通は弁護士を通してのみで孤独感が募り毎日感情が変わりきつかった。この間に本社事務所も撤去を余儀なくされ、精神的にさらに追い込まれた。おそらく半年拘禁状態というのが精神的に一番きつく、1年、2年経つごとに日常化し諦念が生じていくのだろう。
保釈されたのは年が明けた1月20日、第3回公判の後だった。
保釈後そのまま地元のテレビ局、阪神タイガースの野球中継で有名な「サンテレビ」に連れて行かれた。サンテレビでは、私の逮捕事件を追ってくれた若手ディレクターがいて、何度となく報じてくれていた。すぐに取材を受け、その日のうちに報道されたと記憶している。その後彼は本件の取材を続けてくれ、判決など機会あるごとに報じてくれた。彼は爾来、いろいろな話題作を世に送り出し、その報道活動で賞を獲ったり、現在は幹部に昇進、東京勤務となっている。先日久し振りに旧交を温めた。
蛇足ながら、旧交を温めたのは、日比谷公園に面した事務所のある高層ビルのレストランだった。50年余り前の1971年11月19日、翌年の沖縄返還を前にして沖縄返還協定批准阻止闘争が盛り上がっていたが、そのうち「日比谷暴動」を叫ぶ中核派が日比谷野音に5千人を集め集会、首都中枢を占拠せんとデモに出る際、追い詰められた活動家らは松本楼を焼き討ちしたり1500人以上が逮捕された因縁ある場所だ。この意味でも懐かしかったが、このことを話しても通じなかった。報道に携わる者は、みずからの会社の近くで、過去にそういうことがあったことぐらいは調べて知っておいてほしかったが、私たちの世代では、どうしてもこういう記憶が口に出る。最近、モーニングショーで「ペレストロイカ」を知らなかった若い女性アナウンサーを観たが、時の経過は歴史を忘却させるのか。
いささか話が逸れたが、私の逮捕に危機感を持ったのは、地元テレビ局のディレクターだけではない。日本で活動する海外メディアの記者もそうで、保釈後外国人記者クラブから招かれ会見に応じた。
◆刑事、民事、二つの「名誉毀損」裁判を闘うが敗訴、懲役1年2月・執行猶予4年、賠償金600万円が最高裁で確定
裁判は続き、一審判決(神戸地裁)が下されたのは翌年7月4日だった。「懲役1年2月、執行猶予4年」だった。
最高裁まで争ったが覆ることはなかった。アルゼは、執行猶予付きで罪状が軽いとして再告訴したが不起訴処分となり確定した。ちなみに、私の人格のいたらなさゆえ支援会が分裂し、再告訴には、かつての支援会の代表ら中心メンバーも(別個に告訴したとはいえ)加担する恰好になり、ほうぼうに迷惑メールを拡散されたりして、アルゼからの再告訴よりも、実はこちらのほうが堪えた。
また、同時に損害賠償請求3億円の巨額民事訴訟も提起された。こちらは一審(東京地裁)300万円の賠償金が課され、控訴審(東京高裁)では二倍の600万円に跳ね上がった。
刑事告訴し3億円もの巨額訴訟を提起したのは、前記したように大手遊技機(パチンコ、パチスロ)メーカー「アルゼ」だった。創業者オーナーの岡田和生は、言論で対抗するのではなく(当時『週刊新潮』に告訴人Oが連載を持ったり女流文芸賞を設けたり昵懇だったのは新潮社だが、言論で対抗する手だてはあったはずだ)、警察との癒着(当時のアルゼの雇われ社長は警察キャリアの阿南一成で法廷でも証言に立ったが、その後耐震偽装問題企業との不適切な関係で辞任)で私の逮捕を画策したのだ。代理人弁護士は元検事。
当時アルゼと岡田らはラスベガスで「カジノ王」と称されたスティーブ・ウィンと組んでカジノホテル建設を計画し、その後、オープンしている。この勢いで、次はアルゼ単独でフィリピン・マニラでのカジノ建設を計画、この間、アルゼは岡田みずから先頭に立って現地に根を下しフィリピン当局幹部へのアプローチを行い、贈賄容疑で岡田は逮捕されてもいる。
その前には、もう一人の首謀者・大坪弘道検事も逮捕されている。
さらにその後、フィリピンでの活動にうつつを抜かしている間に、息子や子飼いの社長、妻らのクーデターにより、みずからが作り育てた会社から放逐されている。
私の「名誉毀損」事件に蠢いた人たちのその後の歴史から学ぶとすれば、〈人をハメた者は、みずからもハメられる〉ということだ。大坪、岡田の事件がこのことを物語っている。さらに、私に手錠を掛けた主任検事の宮本健志検事は、次席検事として昇任先で深夜泥酔し一般市民の車を蹴り傷つけ検挙され降格(次席検事から平検事へ)─懲戒処分を受けている。
ところで、あまり知られていないが、日本でカジノを成功させた遊技機メーカーはアルゼしかない。かつて構想された「お台場カジノ構想」ではコナミやサミーなどの名も出たが頓挫している。このかん、大阪カジノ構想がリアリティをもって画策されている。背後には警察権力が控えている。反対運動が佳境に入れば、必ずや弾圧がなされるであろう。これは逮捕された私だからこそ言えることだが警鐘を鳴らしておきたい。
そもそも人の血を吸い上げるギャンブルで経済を活性化させようなどという発想自体が邪道である。まともな政治家なら、それぐらい気づくべきだし、もっと違う健全な方途を考えるべきであろう。
◆“官製スクープ”に踊った朝日新聞・平賀拓哉記者のその後
一昨年、ちょうど15年という節目ということもあり、神戸地検のリーク(「風を吹かせる」というらしい)により(官製)スクープしたのは朝日新聞大阪社会部の平賀拓哉記者だった。彼はその後、中国瀋陽支局長を務めたりしていたが、大阪社会部に戻り「司法担当キャップ」を務めていることが、偶然、とある冤罪事件の記事を執筆していることで判明、15年も経ったのだからわだかまりもなく面談を求めたが、あろうことか拒否されたのだ。それも本人からではなく広報部が担当者名なしの素っ気ないメールでだった。私は“当事者中の当事者”ですよ、事件直前に、あの本はないか、この本が欲しいなど、さも私たちの出版活動を理解しているかのような振りをして近づいていながら、それはないだろう。
平賀記者のみならず、朝日の記者は、そのような体質があるようで、それはここ数年私たちが精力的に取り組んできた「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)の取材でもそうだった。一例を挙げれば、当時阪神支局に務めていた阿久沢悦子記者は、リンチ被害者M君に、さも朝日で記事にするかのように期待させ近づき、「浪花の歌う巨人(虚人?)」こと歌手・趙博を紹介、当時は外部に出ていなかった貴重な資料を渡し、その後突然裏切られている。二人のやったことは「S」行為であり、私たちの追及に逃げ回っている。特に阿久沢記者は、他人を取材したり追及する時には「朝日」の金看板を後ろ盾にずいぶん居丈高だが、逆にみずからが取材される立場になると、逃げ回り、ここでも登場するのは広報部である。
◆思い出すだに──
この時期になると、あれこれと思い出す。それはそうだろう、地獄に落とされ血を吐く想いを強いられたからだ。平賀、聞いとるか! 逮捕から勾留中の出来事で、二つ三つ書き記しておきたい。
逮捕後、すぐに釈放されるものと甘く考え、ある印刷所には300万円を支払ったり月末の支払いも弁護士を通じ通常通り行った。この直後差し押さえされ金欠状態になる。こうしたこともあってか、その印刷所は翌月に急遽発行されることになった、事件を報告した『紙の爆弾』9月号(8月7日発行)の印刷を承諾いただき、さらに保釈後、迷惑を掛けたことを詫びに挨拶に伺ったところ、塩を撒いて追い返されても仕方ないなと覚悟していたが、築地の高級寿司屋の個室に招いてくれ、「私は支援しますので頑張ってください」と激励してくれたことは忘れられない。
その後5年近くかかったが、会社は再建され、2010年夏、もう不可能だと思っていた甲子園に戻ることができた。今はコロナ禍長期化で青色吐息だが、ひと頃は逮捕前よりも飛ぶ鳥を落とす勢いにまで飛躍し、くだんの印刷所の社長は心から喜んでくださり、今度は神宮前の高級レストランで祝ってくださった。
一昨日参議院選挙があったが、勾留中にも選挙があった。「松岡、選挙はどうする?」と刑務官からたずねられた。「当たり前じゃないですか、投票しますよ」と答えた。未決囚が投票すると希望すれば、国家権力の機関である拘置所は拒否することはできない。一人ひとり、住民票のある場所は違うので、いちいち投票券を取り寄せないといけないわけだから、ずいぶん面倒なことなのである。投票所も、道場だったか、急遽こしらえて行われた。誰もができるわけではない貴重な経験だった。
激動の2005年も押し迫った師走、第2回目の公判があり(12月19日)、それまで複数回保釈請求を行っていたが、却下され勾留が続いていた。「今度は、正月前だし、裁判官も比較的物分かりがよさそうだから大丈夫だろう」と弁護人も言うし甘く見ていたが、結果は却下、大晦日から新年を拘置所で過ごした。普通、ラジオ放送は午後9時で終わるところ、大晦日は『紅白歌合戦』を最後まで放送するということで、「拘置所も粋なことをやるもんだ」と思っていたが、電気が消され、真っ暗闇の中で虚しく曲が流れ華やかそうに伝えられる会場の雰囲気に切なさを感じたこともまた忘れられない記憶である。
もっと書き記したいこともあるが、また別の機会に譲ろう。
◆「人に歴史あり」というが……
「人に歴史あり」── 有名人の中でも獄に入れられ、そのことを肥やしとして、その後の人生を豊かにした人がいる。後輩の書家・龍一郎風に言えば、「人生に無駄なものなどなにひとつない」ということだろうか。
例えば、昭和の名女優・沢村貞子。彼女は戦前・戦時下治安維持法で二度(私と同じ!)逮捕、計1年余り勾留されている。地下活動まで行っていたという筋金入りの活動家だったようだ。「人権」などという言葉がない時代だ、取調べや処遇が過酷だったことは言うまでもない。NHKの朝ドラ『おていちゃん』で、その裁判のシーンが出て来る。「文化運動のために闘います」というようなことを陳述していたことを記憶している。今では朝ドラでこうした作品を製作したり放映することはないだろう。
また、歌手・三波春夫、彼は日本敗戦直後からシベリアのラーゲリー(強制収容所)で4年も抑留されている。彼の反戦意識はこの経験に基づいているとされる。4年もソ連に抑留されていると洗脳されたようで、記憶が定かではないが、帰国してしばらくは「共産主義浪曲団」で全国を回っていたことを週刊誌で読んだことを微かに覚えている。書いたのは猪瀬直樹だったかな? しかし、これじゃあ生きて行けないということで“転向”したのだろうか、1964年の『東京五輪音頭』、1970年大阪万博のテーマソング『世界の国からこんにちは』などで国民的歌手として、押しも押されもしない大御所となる。勾留中に官本(拘置所に備え付けの本)で、私たちの世代には馴染み深い平岡正明が三波をインタビューした本を読んだが、破天荒とされる平岡が非常に緊張している様子がうかがえた。官本には田中角栄の『日本列島改造論』などもあって神戸拘置所は比較的揃っているような感がした。
沢村、三波の生き方を肯定、否定するかどうかは別問題として、私など足下にも及ばないが、拙い私の人生史に於いて、二度の逮捕は欠かすことのできない出来事であったと考えている。このことで(特に2005年の「名誉毀損」事件で)銀行口座を新規に作れなくなったり(3つの金融機関と裁判したがいずれも敗訴)不利益を蒙っているが、決して恥ずべきことではないと思っている。
*上記の「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件については、とりあえず次の出版物をご覧ください。
『紙の爆弾』2005年9月号 (逮捕直後に発行された)
『紙の爆弾』2020年5月号 (『紙の爆弾』創刊15周年記念号。別帳付録として「『紙の爆弾』が創刊された2005年に何が起きたのか?」を16ページ渡り記述し、15年目の中間総括を試みている)
『パチンコ業界のアブナい実態──謀略と犯罪うごめく「三十兆円産業」』 (逮捕から判決確定までの詳細な記録と、パチンコ業界の実態を記述)