有田芳生が先の参議院選挙で落選した。いろんな意味で感慨深い。
今回が3期目、当初は楽勝ともいわれていたが、蓋を開けてみると惨敗! 1期目の約15%以下、前回2期目の4分の1以下しか獲得できなかった。その要因はどこにあるのか? 有田も真摯に反省し総括すべきだろう。
まずは1期目からの得票数を挙げてみよう。──
有田の出馬政党と比例順位と得票数
1期目 2010年 民主党で比例首位 373,834票 当選
2期目 2016年 民進党で比例4位 205,884票 当選
3期目 2022年 立憲民主党で比例10位 46,715票 落選
なんという激減ぶり!
◆有田芳生との因縁
実は私と有田は同期に当たる(私は1951年生まれ、有田は1952年の早生まれ)。1970年、二人とも京都の大学に入学した。有田が入学したのは、当時日本共産党(と、学生青年組織「民青」〔みんせい。民主青年同盟の略称〕)の屈強な拠点・立命館大学だった。京都生まれで京都育ちの彼は高校時代から、民青の熱心な活動家だったという。京都は元々共産党の強い土地柄で、当時は「社共統一戦線」(これは70年代の半ばには破綻するが、「夢をもう一度」で昨今出てきたのが「野党共闘」だ)で京都府知事を擁していた。民青も、「ゲバ民」とか「暁行動隊」とか呼ばれるほど強かった。当時立命の本部キャンパスは京都御所の東側に位置し、御所の北側に位置する同志社のキャンパスに部隊を組んでいつもいつも(週に二、三度、部隊で、また早朝ゲリラ的に)ゲバを掛けに登場した。
一方の私は、九州熊本から同志社大学に入学した。第一志望は早稲田の第一文学部、第二志望が同教育学部で、同志社、立命は地方試験があったので滑り止めで受験し、立命に落ち、ただ一つ合格した同志社に入学した。当時は立命のほうが学費が安かったので、もし立命にも合格していたら、母子家庭だったこともあり立命に入ったかもしれない。立命の入試(地方試験)は私の高校(付属高校)の親大学で行われ、試験監督も高校の先生方、入試当日まで知らなかった。これですっかり緊張感を失くし日本史の試験では居眠りをしていたほどだった。もし早稲田に合格していたら、革マルに入り川口君虐殺に連座していたかもしれない。私の高校の親大学は当時革マルの拠点で、隣に在った女子大と共に全学連中央委員を出すほどで、そのOBで九州革マルのトップだった人間が中核派に襲われ半身不随になり最近亡くなっている。日々革マルと接していたことで、革マルにさほど違和感はなかった。
一般にまだ判断力がない18歳の田舎出の少年は、入学したその大学の主流派の組織に入るのが常であったようだ。同志社は、60年安保闘争以来「関西ブント」と称する党派の強力な拠点校だったが、70年になると、前年赤軍派が出来、ブントは分裂し、ブント系のノンセクト組織(全学闘。全学闘争委員会の略称)が残っていた。時は70年安保─沖縄・三里塚闘争の高揚期、私は一時べ平連、しばらくして全学闘に所属し活動した。
当時から立命は経営が大変で、一回生の夏、帰省から戻ると、一部のキャンパス(府立医大の隣)を、某宗教団体に売却し宗教団体の看板が出ていた。その後、広小路キャンパスも予備校に売却し、今は御所の横にはない。
同志社、立命の学生は、河原町今出川の飲み屋や深夜喫茶などに屯(たむろ)することが多く、やおら議論をふっかけたりしていた。
有田は民青の熱心な活動家だったことをみずから公言し、何年も留年し卒業は1977年ということだ。当時(今はどうかな?)、党派の活動家は、新旧左翼問わず組織の指示で何年も留年し活動している。拠点を守るためである。私のようなノンセクトと違うところでもある。3、4年前、革マル派の拠点校、奈良女子大の自治会委員長が逮捕された事件が報じられたが、その委員長は30歳を過ぎていた。最近では自治会自体が皆無状態になったが、そんな中で、おそらく上からの指示で、何年も留年させてでも自治会を死守するということだろう。
卒業後は、共産党のエリートコースともいえる「新日本出版社」に入っている。その後、有田は、べ平連の創始者の一人・小田実と、共産党の理論家・上田耕一郎との対談を雑誌に企画し実現、これを契機に最終的に除名されたという。
当時の共産党、その下部組織・民青は極めて暴力的だった。某ノーベル賞受賞者の甥っこの先輩は、70年師走の早朝、民青の武装部隊=ゲバ民に襲われ負傷、一時は医者も見放すほどの重態だった。これには驚いた。かく言う私も71年5月、やはり早朝の情宣活動中、短く切った角材などで武装したゲバ民に襲われ、5日間ほどの「病院送り」になった。「人殺し!」「何人殺したんや!」等々と詰られ、短い角材でボカボカに殴られ蹴られた。「暴力反対!」じゃなかったんかい!?
民青の中心的活動家だった有田も、そうしたゲバ民の部隊にいたものと推認する。数十回襲撃に来たので、一度や二度はいなかったことはあるかもしれないが、ゼロということは考えられない。
日本共産党=民青が、こうした暴力を許容した時代に活動した有田にとって、芯から暴力性が身に着いているのだろうか、時を隔てて起きた「しばき隊リンチ事件」被害者M君に対する姿勢に、あたかも当たり前のように被害者に冷淡に対応したのではないか、と感じる。
◆共産党から離れて以後の有田──「しばき隊」との連携
その後、有田の名は、1995年、オウム真理教の事件が起きた際、コメンテーターとしてマスメディアに頻繁に登場することになる。この頃には共産党を除名になっている。オウム事件、これに続く統一教会による霊感商法問題などで、さんざん名を売り知名度が高まった中で当時の民主党から参議院選挙に立候補し民主党比例トップで当選する。
そうして、ネトウヨによるヘイトスピーチ、ヘイトクライムが社会問題化するや、「しばき隊」とか「カウンター」と称される政治グループと行動を共にするようになる。しばき隊の中で国会議員の有田の存在は大きく、その後、「ヘイトスピーチ解消法」成立に、極右として名高い自民党・西田昌司参議院議員と画策し一役買うことになる。有田がいなかったら、おそらく同法は成立しなかっただろう。有田、西田が握手している写真は、いわば“国共合作”で同法を成立させた象徴的な写真といえよう。
いやしくも国会議員の有田の存在は、「カウンター」とか「しばき隊」といわれる政治勢力にとって、極めて大きかったことは言うまでもない。有田が落選したことで今後これがなくなるわけだが、それは、このところ影が薄くなってきた「カウンター」や「しばき隊」凋落の決定的な要因になるであろう。
私たちがこの6~7年、精力的に関わってきた、大阪北新地で起きた「カウンター大学院生リンチ事件」とか「しばき隊リンチ事件」といわれる事件(2014年12月17日未明発生)でも、有田の存在は大きかった。事件当日にさっそく来阪し、事件前に加害者5人が腹ごしらえをした「あらい食堂」を訪れ情報収集を行っている。その前後には、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬、作家で法政大学教授の中沢けいらも訪れたことが明らかになっている。有田や中沢は東京から急遽来阪していることから、よほど慌てたのだろうと推認される。
かたやリンチ被害者のM君には、有田のような政治家は付いていない。それどころか、事件後1年余りも隠蔽され孤立無援状態で、私たちが相談を受けるまでの被害者M君の心中を察すると耐えられない。
そうしたこと故に、私たちは有田へ質問状やリンチ本を何度も送ったりしたが、一度形式的な返事があったのみで、まともな返事はなかった。ジャーナリストの寺澤有も同様のことを試みたが、会って取材することはできなかった(それ故、鹿砦社取材班は直撃取材を試みたのである)。やむなく自宅への取材で「誤爆」したこともあったが、国会の入口で二度直撃取材を試み成功した。鹿砦社の名を名乗り質問を行おうとすると、「なし! なし!なし! あなたたちを相手にしない!」と拒否し逃げた。いやしくも国民から選ばれた国会議員(「選良」というらしい)ならば、相手が誰であろうが有権者やメディアの取材には答えるべきだ。有田が私人ならば拒否するのもいいだろうが、当時有田は国会議員、公人中の公人だ、答えることは義務である。それも大学院生(当時)は、激しい集団リンチに遭い、重傷を負い精神的にも傷つけられているのだ。リンチに連座した李信恵ら5人に忖度し守ろうとするしないに関わらず、しっかり情報を公平・公正に集めきちんと答えなければならないだろう。そうではないだろうか? 私の言っていることは間違っているだろうか?
◆有田落選は「しばき隊」凋落の決定打となる!
前記したが、このかん、「しばき隊」「カウンター」の影が薄くなった。大掛かりな集会や街頭行動も、以前ほどは聞かれなくなった。例えば一時これまでにない集会スタイルで世間の関心を惹いたSEALDs(これもしばき隊/カウンターの一部)をとっても、一部中心的活動家のみが就職を保障され利権を得ることが、元参加者らから恨み節のように出され、「阿呆らしい」と飽きられたのかもしれない。
かの香山リカも、北海道の小さな診療所に副所長として就職するという口実の下に遁走した。私たちに対し有りもしないことをツイートし平気で嘘をついたりしたことを私たちは忘れることはできない(『暴力・暴言型社会運動の終焉』参照)。
李信恵ら5人による集団リンチに遭った大学院生(当時)M君は、いまだにそのトラウマで苦しんでいる。著名な精神神経医の鑑定書もあるほどだが、もっと早く出すべきだったところ、それができず、このこともあってか裁判は実質上敗訴が続いた。ようやくこれ(つまりリンチへの李信恵の関与)が裁判で認められたのは、M君が当事者の裁判ではなく、鹿砦社が李信恵を訴えた訴訟の反訴として出され別訴で審理された訴訟の控訴審判決(2021年7月27日、大阪高裁)でだった。さすがに大阪の裁判所も、あまりに凄惨なリンチの様に、連座した李信恵の責任を容認できなかったものと私たちは認識している。
大学院生M君リンチ事件は、この事件を知ったその人の人間性や人格を問うものだ。ふだん立派なことを言ったり、暴力反対を口にしたり、耳触りのいい言葉を口に出す者が、「見ざる、聞かざる、言わざる」を貫き、真正面から真摯に答えず逃げたりする醜態を数多く見てきた。
私たちは、M君リンチ事件の情報がもたらされ、実際にM君本人から相談を受けた際に仰天、「いまだにこの民主社会に、こうした暴力がはびこっているのか」と感じた。それも「反差別」とか「人権」とかを声高に叫ぶ者によって起こされたことに驚いた。私と同期の有田は隠蔽に走り、6年前の参議院選挙の際、「有田丸」と称する彼の宣伝カーで、M君の支援者の一人、四国在住の合田夏樹さんの経営する会社や自宅を襲うかのようにツイッターを拡散し、実際に近くまで行ったりする者がいて、合田さんのみならず家族や社員までもナーバスにした。有田よ、あなたの宣伝カーを使ってなされた、そういう言動を、あなたは諌めたのか!? 新旧左翼問わず、社会運動内部に於ける暴力を、私たちの世代は痛苦の想いで懲りたのではなかったのか!?
◆同期の有田に最後の忠告
有田の参議院選落選にちなみ、思うところを縷々書き連ねてきた。有田は、これまでのみずからの言動について虚心に反省すべきだ。そうでないと、もう高齢者の部類に入っていることもあり、再浮上の目はないだろう。
ちょうど17年前の今頃、私たち鹿砦社は、「名誉毀損」に名を借りた類例がない大弾圧を受けた。その際、それに加担した者らは「鹿砦社の呪いか、松岡の祟りか」と後に揶揄されるように逮捕されたり会社を乗っ取られたり失脚したり散々な目に遭っている(その一部は本通信7月12日号を参照)。因果応報である。
有田は、それに加わらないようにしなくてはならない。罪滅ぼしではないが、これを機に一刻も速く、しばき隊から離れ、リンチ被害者M君に寄り添い事件の真相を世に伝えることを願う。そうした犯罪被害者の立場に寄り添うことから再出発していただきたい。これは、立場は違えど、同期で同時代を生きてきた者からの最後の忠告である。 (文中、一部を除いて敬称略)
しばき隊リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62