私たちの世代、つまり戦後生まれの、一時流行った言葉で言えば「戦争を知らない子供たち」(当時、なぜか非常に違和感があった)にとって8月6日ヒロシマ、9日ナガサキは、戦後教育の柱の一つであったと思う。賛否は別として、これによって私たちは反戦/非戦意識を植え付けられたといえる。
昨日の、広島被爆二世である田所敏夫さんの言に続き、私なりに8月6日につき想うことを記しておきたい。
大学に入った1970年8月6日、帰省の途中に広島に立ち寄った。私の故郷・熊本に近い同じ九州の長崎には修学旅行などで何度か行ったことがあるが、広島は初めてだった。今は移転したようだが、広島大学の青雲寮に泊めてもらった。当時は、夏休みに旅行やヒッチハイクに出れば大学の寮にタダで(あるいは格安に)泊めてもらうのが常だった。今はどうかな?
広島にとって8月6日という日は特別の日だ。この日、集会があり、生協が出店を出しおにぎりなどを売っていた。翌日だったか、岩国で反基地集会があり右翼に囲まれ、べ平連や、そのあたりの新左翼の主流派・中核派と一緒に突破した記憶がある。
翌年1971年8月6日、当時の佐藤栄作首相が広島を訪れ戦後初めて平和祈念式典に出席し献花するというので被爆二世らが作る「被青同(被爆者青年同盟)」が中心になり抗議行動を行った。これには行かなかった。7月下旬の三里塚闘争(7月26日。一、二番地点収容阻止闘争)で仲間が4人も逮捕・勾留されたことと、9月の同第二次強制収容阻止闘争の準備で京都にとどまっていたからだ。
この抗議行動でインパクトを与えたのが、東京の大学に通う女子学生が警備の背後から隙を衝き佐藤首相に体当たりして抗議し逮捕されたことだ。本人の供述では明治学院大学3回生ということだった。私は当時2回生でまだ20歳前だった。抗議行動では計85人が逮捕されたという。佐藤の兄はA級戦犯・岸信介であり60年安保改定を強行した。佐藤も70年安保改定を強行した。そうした佐藤の平和式典への出席や献花を拒絶する彼女や被青同の抗議行動はまったく正当である。
私は、この身を挺した抗議に非常にショックと感銘を受けた。最近は、若者がこのような抗議をすることも見なくなった。やろうと思えばやれないこともないだろうに。
先日、旧統一教会被害者で人生を狂わせられた青年が、旧統一教会と深い関係があった安倍晋三元首相を、こちらも警備の隙を衝き背後から銃撃した。安倍元首相は死亡した──。
人ひとりの命は、氏素性、身分を問わず平等に尊いものだ。人の死も平等である。この意味で冥福を祈りたい。ただ、安倍元首相のせいでみずから命を絶った赤木俊夫さんの死も、同じ位相で冥福を祈る。元首相の死が上で、平官僚の死が下などと考えるべきではない。安倍元首相の死が国葬にされようとし、逆に赤木さんの死が忘れられようとしている。人の死が同じ位相ならば、安倍を国葬にするのならば赤木さんも国葬にしなければならない。
ここで思い出さねばならない。安倍元首相の祖父は誰か? A級戦犯・岸信介である。安倍元首相の大伯父は誰か? 70年安保改定を強行突破させ日米同盟を強化し沖縄「返還」(併合といったほうが正しい)を貫徹、いまだに沖縄の大半を米軍基地で占領、ますます軍事力を強化し日本をアメリカの属国化とした佐藤栄作である。
三代に渡り首相を務め日本の政治を牛耳り、それらの背後で、どれだけ多くの善良な人たちが不遇の死を遂げたのか──。
岸・佐藤・安倍だけではない、彼らの周囲も複雑に繋がっており、日本の政治が彼らの蝟集する政党(自民党)の独裁によって進められてきた。
そう、人の命は尊いものであり平等である。その死は軽んじてはならない。そうであるならば、戦前からこの国の政治を牛耳り、この国を戦争に導き万余の善良な人たちに死を強いてきた岸・佐藤・安倍ら一族の〈戦争責任〉を今こそ問い直し、そして弾劾しなければならない。
なお、1971年に起きたことについては、私が精魂を込めて編纂した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を参照いただきたい。特に田所敏夫さんの「佐藤栄作とヒロシマ──一九七一年八月六日の抵抗に想う」は必読である。
(松岡利康)
鹿砦社編集部=編 A5判 240頁 定価990円(税込)
沖縄返還の前年、成田空港がまだ開港していない〈1971年〉。
抵抗はまだ続いていた。
歴史の狭間に埋もれた1971年に何が起きたのか、
それから50年が経ち歴史となったなかで、どのような意味を持つのか。
さらに、年が明けるや人々を絶望に落とした連合赤軍事件……。
当時、若くして歴史の流れに立ち向かった者らによる証言!
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