世間は猛暑とコロナ第7波で大騒ぎしているさなかの7月18日、ある未知の後輩学生から突然に長文のメールがあった。

私が2017年に垣沼真一さん(京都大学OB)と共に出版した『遙かなる一九七〇年代‐京都』を読んだという。今時、学生でこんな本を読む者もいるのだと感心し長文のメールを読んだ。まずは、長文だが、以下そのまま掲載しておこう。──

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松岡利康 様

はじめまして。私は現同志社大学文学部英文学科五回生のO・Sと申します。御社関西編集室宛のメールアドレスに、御社代表個人へのメールをお送りする非礼をお詫びいたします。

まず、端的にご用件をお伝えいたします。

京都にて、我々現役の大学生とどうかお話頂けないでしょうか?

なぜ今回私が松岡様にこのようなお願いをするに至ったのか、少々長くなりますがお話いたします。

私は2017年の春、同志社大学文学部に入学いたしました。自由さ、待ち受けているであろう混沌さ、知的な雰囲気に胸を膨らませ門をくぐりました。

しかし、私はすぐに失望させられました。同志社大学の現状はそうした私の希望を打ち砕いて余りあるものでした。

一例を挙げると、同志社大学今出川キャンパスでは、現在自転車に乗って入構することも許されません。乗って入ろうものなら、構内に数多く、過剰に配備された警備員に怒鳴られ、制止され、そして酷いときには応援を呼ばれ取り囲まれます。今の同志社ではまず、身体の管理が徹底されているのです。自主的に自転車を降り、規則を内面化し歩く。「自分の身体=大学の定めたナンセンスな規則。」こうした等式を背負い、同志社生はキャンパスを歩いているのです。自ら主体性を放棄している、とも言えます。

また、大量の警備員の配備による抑圧的な管理もますます進行しています。ビラを配るとそそくさとやってきて内容を確認され、貼れば5分もしないうちに剥がされ、そして職員へ通報が行われます。私もキャンパスの建物に大量にビラを貼っていたのですが、貼ったところから剥がされ、職員を呼ばれ、またしても取り囲まれました。キャンパスという学生のための空間でありながら、何をしても「目」としての警備員が監視の目を光らせ、大学当局への通報が行われる。ある意味「自浄」作用が高度に機能していると言えるでしょう。そこには同志社の掲げる良心教育など見る影もありません。

私はそうした現状は間違っていると思ってきました。烏丸キャンパス横には交番が隣接しています。隣接というのは不正確で、なんと同志社大学が警察に敷地を貸与しているのです。もう、自由な大学など見る影もありません。あるのは、無味乾燥な抜け殻のような学生と、退廃した精神だけです。そして、これは同志社大学に限った話ではありません。

(京都府警察本部への同志社大学用地(烏丸キャンパス)一部貸与について;https://www.doshisha.ac.jp/information/overview/president/question/answer43.html

隣の京大においても事態は深刻です。私が入学した2017年当時はまだ百万遍に立て看板があったのですが、2018年頃から京都市の景観条例を理由に、大学当局による撤去が始まりました。そして歴史と由緒ある自治寮たる吉田寮も廃寮の危機に立たされています。毎年行われていた時計台占拠という催し(学生が時計台に登るというイベント)も当局による弾圧で中止になりました。学生が時計台に登るだけであるのに、事前に情報を察知していた大学側が機動隊まで呼んでおり、上空には警察のヘリまで飛んでいた、というほどです。

私も最初は自転車から降りず、禁止されていた原付での乗り入れを行おうとしたり、ビラを貼ったり、封鎖されたドアをこじ開けようとしましたが、結局今は嫌々ながらもチャリから降り、ビラを貼ったりせずおかしいと思うことがあってもやり過ごすようになってしまいました。もう少しで卒業することだし、目を瞑ろう。息を止めてやり過ごせば、そのうち忘れて楽になる。そう、自分を騙していました。そう、つまりヘタレなのです。

しかし、やはり私は今の大学、特に同志社大学の形は間違っていると思います。そして学生の手によって、徐々に変えられるべきだと思います。ただ、私も含め、何かを変えようとサークルを作ったり、運動をしたりしている学生の多くは、「どうやって運動すればいいのか分からない」「周りに共感してくれる仲間がいない」というの想いを、少なからず抱えているものだと思います。私はこのまま終わっていく大学を見ていられません。このまま見てみぬ振りをして卒業なぞしたくない。どうにかしたい。そう思っていたときに私は、やはり先輩方から学ぶのが一番良いであろうと思い、色々と調べていくうちに松岡様の『遥かなる一九七〇年代ー京都 学生運動解体期の物語と記憶』に出会いました。衝撃でした。学生の魂の熱がこんなにも渦巻いていた時代があったのかと。こんなにも、社会を本気で変えようとしていたのかと。そして、今は死にかけている同志社大学がこんなにも激動の渦の中にあったのかと。熱気と狂気と、そして魂。松岡様は2004年の「甲子園村だより」にて、何度も75年以降の後輩の方々の不始末を嘆いておられました。2022年の我々など松岡様の目にどのように映るのであろうか、恐縮の極みでございますが、70年代の空気、歴史、運動、そしてその精神をどうか学ばせていただきたく存じます。

グレーゾーンが廃され、拠点が失われ、学生の身体から離れてしまった、大学。それを我々の手の内に取り戻したいのです。私も大学内に拠点を造ることは一旦諦めてしまったのですが、学外にそうした場を造ることはできました。京都市北区紫野南舟岡町85-2 2階にある元スナックの居抜きを借りて「デカい穴」という場所を造りました。イベントスペース兼バーのような場所です。そこでは夜な夜な学生が自由に集まり、闊達に日々色々な話をしています。私は、この場所からもっと波を広げたい。松岡様には「デカい穴」にお越し頂き、そこに集まった学生とお話し頂きたいのです。

前置きが長くなりましたが、今回はそうした想いでこうしたメールをお送りいたしました。

往復の交通費、飲食代(料理は無いので中華の出前になります)は当方が負担させていただきます。また謝礼として僅かではございますが金1万5000円をお支払いいたします。その他、もしご要望等ございましたらご遠慮なくお申し付けください。形式は座談会を予定しており、はじめに松岡様に自己紹介と70年代の様子、ご自身の活動歴をお話いただき、その後学生達とお話頂ければ、と思います。時間は開店時間の19時から、長くはありますが23時頃までを予定いたしております。もし終電の都合等で早めに切り上げられたい場合は仰っしゃてください。またご宿泊をご希望の場合は近隣のホテルを手配いたしますのでお申しつけください。

再三とはなりますが、私は心より、強く、松岡様とお話することを望んでおります。そして松岡様と現役の学生が言葉を交わすことには大いなる意義があると、そう確信いたしております。このままではもう本当に大学と、若者文化は終焉を迎えるように思います。我々学生と松岡様との出会いがそうした現状を打破する契機となれば、と願っております。

ご検討いただけますと幸いです。

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O・S君からのメールには心打たれたので、その全文そのまま掲載した。なにか胸が熱くなった。私も学生の頃、不躾にも、名のある知識人に突然手紙を書いて講演をお願いしたことが少なからずあった。当時は、多くの知識人が、こうした学生からの依頼には、交通費+薄謝で喜んで応じた時代でもあった。今はどうだろうか?

多くの先生方が応じてくださった。一番印象的だったのは、在野の哲学者・田中吉六先生だった。田中先生は、初期マルクス、とりわけ主体性論の研究で有名で、岩波文庫版のマルクス『経哲草稿』を東大の城塚登教授と訳したり、『主体的唯物論への途』『史的唯物論の成立』などの名著を遺しておられる。学費値上げ阻止闘争や、沖縄、三里塚闘争の後、その闘いの総括作業に呻吟していた過程でそれら2冊の本に出会い感銘を受け講演をお願いしたのである。

田中先生は、東京・清瀬の古びた市営住宅に一人暮らしし、肉体労働をしながら独自の哲学を極められていた。「この人こそ真の知識人だ」と感じた。京都から何度も伺い、ようやく承諾していただいた時の喜びは今でも忘れることはできない。当時の学生会館ホールに多くの学生らが参集してくれた。このことを思い出した。ちなみに残念ながら『主体的唯物論への途』は現在では入手困難だが、『史的唯物論の成立』はなぜかこぶし書房から復刻され購読できる。

それにしてもだ、私がいた時代から50年経ち、リベラルな学風で鳴らした同志社の体たらくは一体何だ! 私たちはこんな大学にするために身を挺して闘ったのではない。詰まるところ、1960年代後半から爆発した学園闘争で提起された大学改革は、この真意が捻じ曲げられ、悪い方向に改悪されたといってもいいだろう。

「産学共同」もそうだ。当時は「産学共同」とは、学問(大学)が産業と「共同」するとはなにごとか、と悪いイメージで批判されたが、今では大学と産業界が「共同」することが当たり前のように語られている。企業が大学に施設を寄付することも多くなった。大学の真の価値は、キャンパスが綺麗だとか施設がいいということではない。今の同志社のキャンパスを歩くと、確かに綺麗だし施設も整っているようだ。だが、違和感がある。かつてのキャンパスの生きた学生臭さといったものは希薄な感がした。

私は知識人などではないが、出版した本を読んで長いメールをくれ、当時の話をしてほしいという。それも同志社の後輩学生だ──嬉しいではないか。「いいですよ、ただし学生諸君から謝礼や交通費をもらうつもりはないよ」と、『大暗黒時代の大学』の著書もある田所敏夫さんと共に8月11日、伺うことにした。

O・S君が開いたお店は、時代を忘れるような雰囲気だった。かつては、こんな店がどこかしこにあったよなあ。「時代遅れの酒場」といった雰囲気だ。夏休みでお盆前ということもあり、それでも10数人が集まってくれた。

O・S君が読んでくれた『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』(現在品切れ)

私たちが『遙かなる一九七〇年代─京都』以来、1年に1冊のペースで出してきた『一九七〇年 端境期の時代』など数冊を送り、事前に読んでおくように伝えておいたが、私の話はこれに沿ったものだ。自覚はなかったが、みずからの体験を中心に2時間近く話したようだ。

私は、「抵抗するということ」について、私が1970年に同志社に入学し、当時の同志社は抵抗、反戦、反権力の空気が満ち溢れ、その砦だった。その同志社で活動したこと、同志社は、60年、70年の二つの安保闘争の中心を担い、その後、私たちの時代になって学費闘争、三里塚闘争、沖縄闘争でも果敢に闘ったことを、体験を交え話した。75年3月に京都を離れ、大阪の小さな会社に勤め、学費闘争の裁判を抱え、御堂筋の四季の移ろいを眺めながら悶々とした日々を過ごしたこと、そうした中で友人と自らの闘いを総括するために『季節』という小冊子を始め、これがのちに出版の世界に入るきっかけになったことなどを話した。

しかし、私が同志社を去って以後の70年代後半、私たちの時代には和気藹々だった同志社も、私が参加していた全学闘(全学闘争委員会)が放逐されたり、私たちの拠点で藤本敏夫さん(故人)もいた寮が深夜に襲われ寮生がリンチされたりして退職直前の寮母さん(故人。学費闘争で逮捕された私の身元引受人。戦前から母子で務め学徒出陣の学生を見送ったりした)を苦しめたり、遂には、その戦闘性で全国的にも有名だった学友会の解散に至った。こうしたことが私を苦しめた。それは同志社のみならず、社会情勢もそうで、混沌の時代に入って行き、私たちの時代の連合赤軍事件、そうして多くの優秀な活動家を死に至らしめた内ゲバなどで学生運動・反戦運動が解体していったことは痛苦に反省すべきだ、と述べ、ひとまず私の話を終えた。

こののち参加者の学生諸君と忌憚のない座談会となった。とても初めて会った者同士とは思えないような和やかな雰囲気だった。気分が乗った私たちは、田所さんが飲み代として1万円、私が中華料理代として1万円をカンパした。当初は、飲食代は学生諸君が負担するということだったが、なんのことはない、私と田所さんがカンパすることになった(苦笑)。そうして真夏の京都の夜はふけていったのである──。

2022年8月11日,京都「デカい穴」で

*お店の名は「デカい穴」で、所在地等は次の通りです。
「デカい穴」
〒603-8225 京都市北区紫野南舟岡町85-2 2階
080-9125-7050 太田さん
webサイト https://kissadekaiana.wixsite.com/-site
位置情報  https://goo.gl/maps/zUXjbqxyyx3ySkr97

田所敏夫著『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社刊。発売中)