◆大きかった安倍国葬反対闘争の意義

7月8日暗殺された安倍元首相の国葬が発表されてから20数日、それに反対し国論を二分して全国的に闘われた国葬反対闘争は、国葬当日の全国数万の反対示威の闘いとともに大きな意義を持ったと思う。

意義の第一は、何よりもまず、反対闘争を行わなかった場合に生まれる、安倍元首相自身の権威付けと歴史的位置付けが国葬するにふさわしいものとして行われるのを阻止したところにあると思う。

国葬は、国と国民のために尽くし、功績があったと認められる人を、国民的合意の下、弔う国家的葬儀だと言える。だから安倍国葬を遂行するということ自体、何よりも安倍元首相自身をそのような人物として国家的、国民的に認めることになる。
「国葬」の是非を問い国論を二分して展開された反対闘争はそれに待ったをかけたという意味で大きな意義があったと言うことができる。

意義の第二は、この反対闘争を行わなかった場合に生まれる、安倍元首相の業績に対する国家的、国民的で歴史的な評価を「国葬」という儀式に準じて高く肯定的に定めるのを阻止したところにあると思う。

安倍元首相の業績を歴史的に高く評価するということは、決して過去の事績への評価を定めるに留まらない。それと関連し、今現在行われている、そして今後行われるであろうすべての政治の評価に関わるすぐれて実践的な意義を持つ。

安倍元首相国葬に反対し、国論を二分して、全国的に熾烈に展開された闘争は、以上のような重大な意義を持っていると思う。

その上で、安倍元首相の国葬反対闘争は、国葬を執り行う岸田現政権の政治にも少なからぬ打撃を与えた。それも、反対闘争が持つ意義だと言うことができるだろう。

実際、岸田政権は、国葬にふさわしくない安倍元首相の葬儀を国葬にすることにより、国論を二分する国民的不信と反発を生み出し、その支持率を大きく落として政権運営を危うくするまでに至っている。


◎[参考動画]【安倍元首相国葬】「最高レベル」の厳戒態勢の中 抗議団体と2時間にわたり衝突も(日テレ 2022/09/27)

◆どう反対するのか、問われたその視点

今回の安倍元首相の国葬反対闘争を行ったこと自体、大きな意義があった。しかし、その闘争内容において少なからぬ問題があったのも事実ではないだろうか。

反対闘争において問題にされたのは、主として、この「国葬」が国葬としての条件を満たしていないというところからだった。

その条件として提起された一つは国葬の手続き上の問題、もう一つは安倍元首相自身が国葬の対象としてはたしてふさわしいかその資格問題だったと言える。

手続き問題としては、まず、戦前の旧帝国憲法とは異なり、現行憲法には国葬についての規定自体がないということ、それでも敢えて「国葬」を強行するというなら、国権の最高機関である国会で「国葬法」を制定するなり、「国葬」を敢行するための一定の手続きが必要だったということ、それを閣議決定というかたちで事を進めたのは、完全に行政権の横暴、独裁だということだった。

次に、安倍元首相が国葬対象としてふさわしいか、その資格問題としては、安倍元首相が政治家として、首相として行ったこと、その業績自体が国葬にふさわしいかが検討された。それとしては、日本を戦争できる国にしたこと、祖父、岸信介を認め、日本帝国主義の侵略の歴史を是認したこと、アベノミクスにより格差を拡大したこと、日朝関係を最悪にし拉致問題の解決をできなくしたこと、等々が挙げられた。

これら安倍国葬反対闘争で提起された視点自体、妥当なことだ。間違ってはいない。しかし、闘争のスローガンに掲げられた「国賊」というには、少し弱いのではないか。と言うより、事の本質が突かれていないように思う。

もちろん、日本を戦争する国にしたこと自体、「国賊」だ。格差を拡大したことも、「国賊」だと言ってもよいだろう。

しかし、安倍元首相が「国賊」だという所以は、そんなところに留まらないのではないか。

◆なぜ「国葬」どころか「国賊」なのか

安倍元首相が「国葬」に値しないどころか、国に害を及ぼした「国賊」だと言った時、そこには、どういう意味が込められているのだろうか。

今から10年前、2012年の8月15日、米シンクタンク、戦略国際問題研究所CSISの第3弾報告、アーミテイジ・ナイ報告が発表された。そこで打ち出されたのが、一言で言って、「強い日本」への米国の強い要求だった。それを契機に始まったアジアに対し強力な指導力を発揮する「強い日本」への日米を挙げての大合唱。そうした中、9月、それまで候補にも挙がっていなかった元首相安倍晋三が、菅氏による数時間にも及ぶ説得もあって、突如自民党総裁に担ぎ出された。その年末、野田民主党政権のまさかの解散。それに続く総選挙での自民党の大勝利。かくして安倍長期政権のスタートが切られた。

それから8年近く、歴代最長の長期政権が何をやったか。それは、第一に、企業がもっとも活躍しやすいようにするのを経済政策最大の目標にしたアベノミクスによる、大量の米国資本の日本流入と全面的な新自由主義構造改革など、日本経済の米国経済への組み込み、第二に、安保法制化と自衛隊の抑止力化による、専守防衛の放棄と敵基地攻撃能力構築など、日米共同戦争を担える日本軍事の米覇権軍事への全面的組み込み、第三に、教育改革による、英語、IT重視と日本史の欧米史への溶解など、グローバル・デジタル人材の育成、等々、日本を経済的、軍事的、そして精神的、全面的にアメリカ化し、今日、岸田政権の下、「米対中ロ新冷戦」の重要な一環として推し進められている「日米統合」のための準備を完了したと言うことができる。


◎[参考動画]日米同盟:これまで以上に重要(CSIS 2018/10/03)

すなわちそれは、言い換えれば、衰退し弱体化した米覇権の回復戦略である「米対中ロ新冷戦」を支えるため、その最前線として日本を米国に統合、一体化し、国としての独自の存在をなくしてしまうためのお膳立てを行ったと言うことだ。

これが日本の国と国民のため尽くし、功績を挙げた人の葬儀を国葬として執り行うために国民的合意を得られることだろうか。「国葬」どころか、その正反対だ。安倍元首相は、よく「国賊」と呼ばれてきたが、その意味がまさにここにこそあることを満天下に明らかにする時が来たのではないだろうか。

そのことを安倍国葬に反対する闘いを通し、全国民的に確認し、安倍元首相が為した「国賊」そのものの「犯行」に基づいて、これから為されていく「米対中ロ新冷戦」とそのための「日米統合」に反対し、それを破綻させるための闘争に活かしていくことが問われていると思う。

そこにこそ、安倍国葬反対闘争の真の意義があるのではないだろうか。

小西隆裕さん

▼小西隆裕(こにし・たかひろ)さん
1944年7月28日生。東京大学(医)入学。東京大学医学部共闘会議議長。共産同赤軍派。1970年、ハイジャックで朝鮮へ

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

世の中には不思議なことが往々にしてありますよね。このかん私が体験したことをお話しします。

◆半世紀前の学生時代に出会った海藤壽夫弁護士

私は学生時代、まだ学生運動の余韻が残っていた1970年代初め学費値上げに抗議して逮捕されました(1972年2月1日)。150人ほどの学友が検挙、逮捕され、その内、私を含め10人が起訴され裁判闘争に入りました。大学を出てからも裁判は続きましたが、弁護団の頑張りで「寛刑」で、あろうことか支援に来てくれた京大生のMK君は無罪を勝ち取ることができました。

松岡が逮捕され海藤壽夫弁護士が弁護を担当した72年2月1日学費決戦を報じる京都新聞同日夕刊

 

海藤壽夫弁護士(京都総合法律事務所HPより)

この時、中心になって弁護活動を行ってくれた弁護団の1人に海藤壽夫(かいどう・としお)弁護士がおられました。前年の71年4月に弁護士になられたばかりでした。海藤先生は、かの塩見孝也さんと同期、また1期下に連合赤軍事件で亡くなった山田孝さんがいたそうです。3人は京大生協組織部で活動し、総代会で日本共産党に敗れ、海藤先生は司法試験に専念し、塩見さん、山田さんは政治活動の道に突き進んだそうです。

時代は70年安保を前にして学生運動が燃え拡がります。塩見さんと山田さんは先頭に立って闘い、残念ながら悲惨な目に遭います(塩見さんは獄中約20年、山田さんは連合赤軍事件でリンチ死を遂げます)。

ちなみに、海藤先生は、京都地裁の横に在った坪野米男法律事務所に所属され、坪野事務所は新左翼系の学生の弁護を一手に引き受けていました。坪野先生は弁護士の傍ら社会党の京都府連委員長も務めておられ、リベラルな方だったようです。

◆半世紀後に出会った森野俊彦弁護士

先の10月16日のこの通信に森野俊彦弁護士の著書『初心 「市民のための裁判官」として生きる』を田所敏夫さんが評していました。田所さんの紹介で森野先生に出会い、2件の民事訴訟の代理人を受任いただきました。この通信でもたびたび登場する、いわゆる「しばき隊大学院生リンチ事件」関連訴訟(対李信恵控訴審、対藤井正美訴訟一審)の2件です。

 

森野俊彦弁護士(あべの総合法律事務所HPより)と最新著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社)

特に対李信恵控訴審では、李信恵のリンチ事件への関与を高裁が認め判決の変更、賠償金の減額を勝ち取ることができました。

ここでまず一つ不思議なことが判りました。なんと森野先生と、先の海藤先生とが司法修習の同期、同クラスだったとのことです。偶然とはいえ、こんなこともあるのですね。

……と驚いていたところ、“私にとって偉大な先輩”が指導し逮捕された1968年6月28日のASPAC反対大阪御堂筋突破デモ「事件」の判決文の草稿を、71年4月に裁判官に任官されたばかりの駆け出しの森野先生が書き判決を下したそうです(71年10月8日)。

今はおそらくないだろうと思いますが、当時はまだ牧歌的な時代だったのでしょうか、任官1年目の新人にも判決文(の草稿)を書かせるような時代だったんですね。この判決の記事は、当時沖縄闘争、三里塚闘争で私なりに熱心に取り組んでいた頃で、その当時、関西の学生運動は同志社を中心に展開されており、くだんの反ASPAC闘争にも同志社の学生が多数逮捕されていました。

同志社大学の学生会館(今は取り壊され新たな建物になっています)の2階に在った学友会(今は解散してありません)のボックスで、名を知っている先輩方の名を指し、いろいろ語り合った記憶があります。

森野弁護士が判決文(草稿)を書いた68年反ASPAC闘争の「寛刑」判決を報じる読売新聞(71年10月8日夕刊)

 

矢谷暢一郎『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』(鹿砦社)

◆森野弁護士と“私にとって偉大な先輩”との不思議な因縁

さて、“私にとって偉大な先輩”の名は矢谷暢一郎(ニューヨーク州立大学名誉教授。心理学専攻)さんです。これまでこの通信を含め何度かご紹介しましたので、ご存知の方も少なくはないと思いますが、矢谷さんには、2005年3月15日、こちらも“偉大な先輩”藤本敏夫さんの墓参に帰国され初めてお会いして以来懇意にさせていただいています。

8年前には著書(『日本人の日本人によるアメリカ人のための心理学』)も出版させていただきました。

とりわけ、ここ数年鹿砦社が関わった大学院生リンチ事件、その被害者の深層心理について、関連訴訟の控訴審で長大な意見書を頂き海の向こうから送っていただきました。

リンチ被害者の大学院生M君が殴られたのが手拳だったのか平手だったのか、記憶が飛んだり曖昧で答えに窮したり揺らいだりしたことで裁判所が「信用ならない」と判断したことに対して、こういうこともあり得るということを科学的に説明してもらいました。

ちなみに被害者M君の父親は、私たちが学生時代当時、一時期共闘していた京大のグループの一員でした。

私たちが彼の支援に関わり始めてから判ったのですが、これも何かの因縁でしょうか。

2014年11月14日、同志社での矢谷さん講演(学友会倶楽部主催。同倶楽部は学友会OBの親睦団体)後で労いの食事に誘っていただいた加藤登紀子さんと共に(左が矢谷さん、右が松岡)

◆矢谷暢一郎さんと森野俊彦弁護士との“奇妙な共闘”

 

同じく朝日新聞(71年10月8日夕刊)

前述したように森野先生が判決を下した、68年のASPAC反対闘争の被告人の学生の1人が矢谷さんでした。つまり半世紀を越えて、かつて法廷で外形的には非和解的と思われた、裁判官と被告人が私たち鹿砦社の裁判のために“共闘”してくださったのです。実に“奇妙な共闘”です。凄いと思いませんか?

ところで、マスコミ報道にもあるように、森野先生が判決文(草稿)を書き、下した判決も「寛刑」でした。70年代は司法の反動化が始まったといわれますが(実際に森野先生が任官された71年には7名が裁判官に任官を拒否されています)、そうした中でもまだ証拠と法に照らし客観的に判断する裁判官もいたのです。

「寛刑」だった、50年前の学費闘争の判決文は、被告人らは「春秋に富む若者であり前科もないことから……」云々と、今では考えられない古色蒼然たる文章でした。事実認定もほぼ正しく、私たちの主張にも一定の理解を示したものでした。

◆半世紀前の若者は“老境”に入り巡り合った

半世紀を経て、それぞれの仕事を勤め上げ、私を含め“老境”の域に入ったかつての裁判官と被告人は、勿論当時は予想もしなかった訴訟で、当事者(私)、弁護士(森野先生)、そして私の主張を補強する「意見書」の提出者として矢谷さんが、奇しくも同じ法廷で“共闘”するに至りました。半世紀前の当事者性については、訴訟が進行する中で特別取材班が探り当て(森野裁判官と矢谷元被告人の関係)、私もかなりデリケートになりながら、ご両人に“共闘”をお願いしたところお二人とも、快く引き受けてくださいました。冒頭に挙げた海藤先生も「公平、公正、慎重な審理を要請する要請書」に署名いただきました。

そうした“奇妙な共闘”によって控訴審(大阪高裁)判決では一審(大阪地裁)の稚拙な事実判定が一部覆り、「敗北における勝利」(私)、「実質勝利」(特別取材班)という大きな果実を得ることができました。

それから1年後……半世紀という年月を越えたお二人の関係は、劇的な展開を迎えますが、この話はまた別の機会に述べたいと思います。

(松岡利康)

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

全国の新聞(朝刊単独)の「押し紙」率が20%(518万部、2021年度)で、卸価格が1500円(月間)として、「押し紙」による販売店の損害を試算すると、年間で約932億円になる。「朝夕セット版」を加えると被害はさらに増える。

これに対して、旧統一教会による高額献金と霊感商法による被害額は、昨年までの35年間で総額1237億円(全国霊感商法対策弁護士連絡会」)である。両者の数字を比べると「押し紙」による被害の深刻さがうかがい知れる。

しかし、公正取引委員会は、これだけ莫大な黒い金が動いていても、対策に乗り出さない。黙認を続けている。司法もメスを入れない。独禁法違反や公序良俗違反、それに折込広告の詐欺で介入する余地はあるはずだが黙認している。

わたしは、その背後に大きな政治力が働いていると推測している。

次の会話録は、2020年11月に、わたしが公正取引員会に対して行った電話インタビューのうち、「押し紙」に関する部分である。結論を先に言えば、公取委は、「押し紙」については明確な回答を避けた。情報を開示しない姿勢が明らかになった。

個人情報が含まれる情報の非開示はいたしかたないとしても、「押し紙」に関する調査をしたことがあるか否か、といった「YES」「NO」形式の質問にさえ答えなかった。

以下、公取委との会話録とその意訳を紹介しよう。「押し紙」を取り締まらない理由、日経新聞店主の焼身自殺、佐賀新聞の「押し紙」裁判などにいついて尋ねた。

◆公取委の命令系統

──  「押し紙」を調査するかしないかは、だれが決めていますか?だれにそれを決める権限があるのか?

担当者 どういう調査をするかによって変わるので、なんともいえません。ただ、事件の審査は審査局が行います。

──  そうすると審査局のトップが最終判断をしているということですね。

担当者 しかるべきものが、しかるべき判断をするということになります。

──  そこは曖昧にしてもらってはこまります。

担当者 何を聞きたいのでしょうか。

──  どういう命令系統になっているのかということです。

担当者 命令系統というのがよく分からない。

──  公正取引委員会として(「押し紙」問題を)調査するのかどうかの意思決定をする権限を持っている人のことです。だれがそれを最終決定しているのですか。

担当者 「押し紙」とかなんとかいうことは離れまして、

──  では、残紙にしましょう。

担当者 残紙でもなんでも。個別の事件に関して、お答えするのは、適当ではないと思います。

──  どういう理由ですか?

担当者 誤解が生じることを防ぎたいからです。

──  誤解しないように質問しているのです。

担当者 言葉の揚げ足を取られていろいろ言われるのもちょっと。わたしどもの本位ではないので、お答えを差し控えさせていただきます。(略)わたしどもは、個別の事件について、申告があったかとか、なかったとか、についてはお答えしないことにしています。それは秘密を保持する必要があるからです。申告の取り扱いについては、対外的にお答えしないことになっています。

──  そういうことを聞いているのではなく、

担当者 ですから具体的に聞かれても、わたしどもはなかなか答えることができないということをご理解いただきたい。

──  答える必要はないというのが、あなたの立場ですね。

担当者 そうです。個別の事件については、お答えしないことにしています。

 

◆「押し紙」の実態調査の有無

──  では、「押し紙」の調査を過去にしたことがありますか。

担当者 「押し紙」の調査?

──  残紙の性質が「押し紙」なのか、「積み紙」なのかの調査を過去にしたことがありますか。

担当者 「押し紙」の調査を過去にしたかしていないかについては、これまで公表していません。

──  はい?

担当者 こちらから積極的にそういう広報はしていません。

──  広報ではなく、調査をしたかどうかを聞いているのです。

担当者 したかどうかの事実の確認もしません。

──  事実の確認ではありません。

担当者 もちろん個別の事件の情報を寄せられれば、必要に応じて調査をして、さらに調査が必要だということになれば、本格的に調査をしますし、そうでないものについては、そこまでの扱いになります。それ以上のことは申し上げられません。

──  その点はよくわかっています。わたしの質問は、過去にそういう調査をしたことがありますか、ありませんかを聞いています。YESかNOで尋ねています。

担当者 「押し紙」の調査をしたことがあるかないか? 公表はしていません。

──  はい?

担当者 公表はしていないので、お答えは差し控えさせていただきます。

──  これについても答えられないと、命令系統についても、答えられないと。

担当者 はい。

◆日経新聞の店主の焼身自殺

──  それから、日本経済新聞の店主が、本社で自殺した事件をご存じですか。

※【参考記事】日経本社ビルで焼身自殺した人は、日経販売店の店主だった!

担当者 承知しておりません。

──  知らないのですか。

担当者 知りません。

──  新聞を読んでいないということでしょうか?

担当者 そうかも知れませんね。

──  この件は、全然把握していないということですね。

担当者 そうです。不勉強だといわれれば、甘んじて受けます。

 

◆「押し紙」の存在を認識しているか?

──  新聞販売店で残紙とか「押し紙」といわれる新聞が、大きな問題になっているという認識はありますか。

担当者 それ自体は承知しております。

──  いつ聞きましたか?

担当者 わたしも公正取引委員会で働いているので、また、取引部にいたこともあるので、またネットなどにも出ています。黒薮さんのものも含めて。こうしたことは存じ上げおります。

──  問題になっているのに、なぜ、動かないのですか。

担当者 問題になっているということは知っていますが、じゃあなぜ動かないのかということについては、わたしどもからお答えすることは控えたいと思います。わたし個人としては、「押し紙」の事象があることは知っていますが、なぜ公正取引委員会が動かないのかということについては、申し上げる立場にありません。公正取引委員会として、なぜ取り締まらないのかということを、個別の事件について申し上げることはありません。

──  個別の事件について質問しているのではなく……

担当者 「押し紙」についてなぜ取り締まらないのかということは、基本的に述べないという立場です。

──  これまで3つの質問をしましたが、命令系統につても答えられない、調査をしたかどうかも言えない、「押し紙」については聞いたことがあると。

担当者 「押し紙」については、個人の経験としては聞いたことがありますが、「なぜ調査しないの」ということについては、申し上げられない。

──  新聞販売店の間で公正取引委員会に対する不信感が広がっていることはご存じですか。

担当者 まあ色々な考えの方がおられるでしょうね。

──  知らないということでよろしいですか。

担当者 知らないといいますと?

──  販売店が(公取委について)「おかしい」と思っているという認識はないということですね。

担当者 そういう見解を申し上げる立ち場ではありません。

──  いえ、あなた自身がおかしいと感じないですかと聞いているのです。

担当者 「押し紙」とか、残紙といった話があることは認識していますが、それについてどう思っているかという点に関しては、個人の見解もふくめて、ここで申し上げることは控えたい。

◆佐賀新聞の「押し紙」裁判

──  佐賀新聞の「押し紙」裁判の判決が、今年の5月にありましたが、この判決については聞いたことがありますか。

担当者 はい。それは聞きました。

──  独禁法違反が認定されましたが、どう思われましたか?

担当者 それは裁判でしかるべく原告がだされた資料と主張を踏まえて判断されたということだと思います。わたしどもからコメントする立場にはありません。

──  今後とも、佐賀新聞についても、調査する気はないということですか?

担当者 佐賀新聞の事案を公正取引委員会がどう扱うかは、個別の案件ですので、コメントは控えたいと思います。

──  原告の弁護団から公正取引委員会にたくさんの資料を提出されていますが、それは把握しているわけですね。

担当者 それについては、申告がされたかどうかという話に該当しますので、こちらから何か申し上げることは差し控えたいと思います。

──  これについても答えられないと・

担当者 答えられません。

──  「押し紙」問題は、重大になっていますが、今後も取り締まる予定はないということですか。

担当者 取り締まる予定があるかどうかをお答えするのも不適切ですので、回答は差し控えます。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

◆なぜか急がれるマイナンバーカード導入

河野太郎デジタル相は10月13日の記者会見で、現行の健康保険証を2024年年秋に廃止し、マイナンバーカードと一体化した「マイナ保険証」に切り替える方針を正式に発表した。「利便性が高まり、医療の質が向上する」とマイナ保険証の意義を強調し「理解を頂けるようしっかり広報したい」と語った。この会見を実質上の「マイナンバーカード義務化」と判断し、多くの報道機関がそのように報じた。


◎[参考動画]【ライブ】紙の保険証2024年秋に原則廃止 マイナンバーカード“実質義務化”へ 河野デジタル担当大臣会見(2022年10月13日)| TBS NEWS DIG

政府発表も、報道も「デジタル化」「IT化」が、あたかも社会を豊かにし、生活を豊かにするかのような誤解を毎日流布しているが、非常に危険な現象だ。政府が目指すものは、国民の利便性でなどはなく、全国民の『総背番号制』構築により、可能な限りの個人情報を一元化し独占したいとの思惑だけだ。

ロシアを見るがいい。ウクライナへの戦争で兵力が不足したとみるや、たちまち30万人の予備役に召集令状を送り付けたではないか。日本政府が目指す姿としてロシアの予備役招集は格好の参考になるであろう。

さらに、現実問題として高齢化が進行する日本社会でマイナンバーカードが機能するのか。体に不自由があったり、認知症の高齢者が医療機関へ通院する際、頻繁にマイナンバーカードを持ち歩くのは安全面から問題はないのだろうか。

制度発足当時は「自宅に厳重にしまっておいてください」と広報しながら、保険証だけでなく、年金、税金、果ては免許証までを1枚のカードに集約して持ち歩かせるのは、窃盗、詐欺などの犯罪を増加させる要因にはなり得まいか。高齢者でなくともクレジットカードなどカード類を置き忘れたり、紛失された経験のあるかたは少なくないだろう。その際再発行にかかった手間の面倒を思い起こしていただければ、何が起きるかは明らかだ。

◆厚労省が明言「紙の保険証はなくなりません!」

13日の河野大臣がおそらく「義務化」を匂わす会見をを開くだろうと予想したので、筆者はまずデジタル庁に問い合わせたところ「健康保険は厚生労働省の管轄だ」というので、厚労省保健局に質問した。

「健康保険とマイナンバーカードを2024年秋までに統合するとの報道を目にしましたが間違いありませんか」との問いに、担当者は「今のところ具体的な方針が決まっている事実はございません。あくまで選択制ですね。紙の保険証も使える、マイナンバーカードも利用可能ということです」

報道で流布されている情報と随分内容が違うので「ということは2、3年後に保険証が廃止されて、マイナンバーカードを使わなければいけないということは『ない』と理解してよいのですね」と念を押すと、「はい、そうです。保険証がなくなるわけではありません」と保健局保険課の主査は明確に回答してくれた。

「マイナンバーカードの実質義務化」はまったくの虚偽であることが判明した。

◆マイナンバーカードだけでは自分の情報も見ることができない不便さ

ところが12日にマイナンバーカードに関する総合受付に電話で問い合わせると、オペレーターによって回答内容がずいぶん異なる。ある人物は「義務化です」と回答し別の人物は「義務化ではなく選択制」だと答える。

このように河野大臣の会見直前であっても内部の調整は取れていないのが実情のようである。ただ取材を通じてていくつかの事実が明らかになった。

仮にマイナンバーカードを取得しても、まず「マイナポータル」というアプリケーションをダウンロードしないとサービスの利用はできない。そしてログインするたびにカードリーダーにマイナンバーカードを通さなければいけない。インターネット接続環境にあっても、カードリーダ―若しくはスマートフォンをお持ちでない方は基本的にこのサービスを受けることはできない。

ではどこで自分の情報を閲覧できるのかといえば、市町村役場であるという。これで「利便性の向上」が図れるというのであるから政府の過大広告はたとえようもなくたちが悪い。

ご自身がスマートフォンをお持ちでないかたは自宅のパソコンから各種情報を閲覧できるが、その際にはマイナンバーカード番号と暗証番号(マイナンバーカード発行時に付与される)を入力するのに加えて、カードリーダーに毎回マイナンバーカードを通す必要があるという。

商売以外の用途で、個人宅にカードリーダーを備えているお宅がどの程度あるものだろうか。そしてカードリーダー購入は個人負担で賄ってもらうと、マイナンバーカード受付の担当者は語っていた。こんなにも複雑で使用感の悪いシステムが生活の利便性向上に寄与するとは到底考えられない。

◆複雑・膨大データ統合はトラブルのもと

そもそも自動車免許、保険証、年金、税金などはどれも膨大な情報量であり、また日々値が変化する性質の情報でもある。年金ひとつをとっても5000万件を超える入力ミスが発覚し、社会保険庁が社会保険機構と組織名を変えたように、データ自体の誤謬は手入力であろうと、機械による読み取りであろうと起こりうるし想定される事態である。

マイナンバーカード化を推進する議論の理由として「情報がいち早く掴めなかったから、過去低所得者世帯への補助金入金が遅れたことがある」という説があるが、それは情報の一元化とは関係ない。各世帯の所得状況(おそらくは地方税非課税世帯の状況)を各自治体が適切に把握していたかどうかの問題である。

また免許証は更新時期が異なるし免許書更新については、過去の違反、事故歴などが影響するが、そのような情報までを「保険証」としても使うカードの中に集約してもよいものであろうか。

さらには巨大システムほど障害が発生すると回復が困難だ。みずほ銀行の度重なるシステム障害については読者もご記憶があろうが、ケーブルを利用していようが、電波で情報を交換していようが、システムトラブルは起きるのだ。

最近はこれまであまり例のなかった携帯電話での通話、テータ送受信の障害も発生している。スマートフォンは利便性もあろうが通話、データ通信、検索、動画視聴など本来別の端末でなされてきたものを一つの手段に集約しているので通信システム障害が発生すると、そのすべてが利用できなくなる欠点が避けられない。

◆すでに潰れていた!「住基ネット」

ところでかつて「マイナンバーカード」同様の「住基ネット」なる企みがやはり国主導で行われたことがある。「住基ネット」には多くの反対があり導入取り消しを求める訴訟が全国で13件起こされた。はたして今日「住基ネット」はどのように活用されているのであろうか。

総務省のホームページにはひっそりと「平成28年1月からマイナンバーカードが発行開始されたことに伴い、住基カードの発行は平成27年12月で終了しています。」と書かれている。さらに図々しくも「住基カードをお持ちの方は、マイナンバーカード交付時に返却してください。」との記載もある。要するに「住基ネット」は巨額の税金を浪費しただけだけで潰れてしまったのだ。

今日公共事業は旧来型の道路建築やハコモノ、ダム建設などからソフトを利用したイベント型に急速に転換が進んでいる。「住基ネット」のソフト開発や地方間の専用線敷設に幾らの費用が掛かったのか、筆者は精査をしていないが、ソフトを利用した公共事業は、ダムやハコモノのように視覚上の残滓を持たない点、発注者側にとっては、より気楽に金を使えるメリットがある。

東京五輪、アベノマスク、安倍元首相首相の国葬。いずれもイベント会社や広告会社が山ほどの利権をむさぼっている。ようやく東京五輪についてはカドカワ会長が逮捕されるなど贈収賄事件が明るみに出てきてはいるが、にもかかわらず、さらなに巨大なシステムで国民情報の一括管理=監視社会の構築を図ろうとするのは、ひとえに国民にとってではなく国にとって「管理の利便性が上がる」ことが為政者にとって何よりの魅力だからであろう。

◆井戸元裁判官が警鐘を鳴らす事態

裁判官時代金沢裁判所で「住民基本台帳ネットワークシステム差止等請求事件」で住基ネットの差し止めを認め、問題点の多くを判決で指摘した井戸謙一弁護士は、マイナンバーカードの推進について、こう語る。

「住基ネットの頃は『国民総背番号制』に抵抗が強くありました。昔から政府はやりたかったのですが、住基ネットでようやくスタートしたのですね。国民の情報すべてが紐づけられて丸裸になるとの懸念から、私も判決を出したのですが、最近国民の抵抗感が短期間で急速に小さくなっています。一部マイナンバーに対しても反対意見がありますが、住基ネットの時のように話題になっていませんし、国がやりたいようにどんどん進んでゆくな、という感じです。デジタル社会という言葉の下抵抗感がなくなっているのではないでしょうか。行政が個人の情報を一元管理することへの恐ろしさ怖さが薄れていますね。しかし、最低限保険証と免許書はマイナンバーカードと分けて発行させる道を残しておかないと、とんでもないことになります。それこそ『国民総背番号制』の完成ですよ。」

井戸弁護士(元裁判官)が警鐘を鳴らすように、近年「デジタル化」が錦の御旗のように広く受け入れられている姿には、強い危機感を筆者も覚える。小学生が晴天の校庭でタブレット端末をもって何かの勉強(であろう)をしている姿は、いかにもアンバランスな光景である。

デジタルを全否定するわけではないが、身体性と精神性、神経の間には密接な関係があり、長時間のスマートフォンやパソコンの使用が、脳に悪影響を与えることは、既に医学的に証明されている。「マイナンバーカード」の広がりは「デジタル統一教」とでもいうべき信仰の一環として、ますますこの国のひとびとを住みにくくすることに違いないだろう。わたしはマイナンバーカードを作るつもりはない。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。主著に『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846312267
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000528
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田所敏夫『大暗黒時代の大学 消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY007)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

世界的なベトナム反戦運動と連動し1960年、70年という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとする学生運動高揚の時代がありました。同志社大学学友会(各学部自治会、学術団、文連、新聞局、放送局などの全学自治組織)は、その戦闘性で全国の学生運動を牽引してきたことは周知の歴史的事実です。

この、かつての“若き闘士”の集まりが10月15日午後2時から「がんこ」京都三条本店にて開かれました。代表の堀清明さんが病に伏しやむなく欠席、このメッセージを司会の志賀茂さんが代読されました。お二人とも激動の60年代の学友会委員長を務められました。

その後、蒲池裕治さん(三派全学連再建時の副委員長)はじめ主な物故者の名を挙げ追悼、遺族代表の蒲池夫人が挨拶されました。そして献杯──。

こののち各年代、サークル、寮、女子大などの代表から各2分程度の挨拶があり、70年入学の私が“最年少”で、錚々たる先輩方の前でご挨拶させていただきました。70歳を超えて最年少とはどんな集まりや、との声が聞こえそうですが、先輩方、今からデモに出発しようかという熱気に溢れ歓談が続きました。

「朋友(とも)を語り、亡友(とも)を偲ぶ会」の案内状と会の様子

ある参加者は、いわゆる内ゲバで亡くなった望月上史さんの在りし日の写真を拡大して持参され回覧しました(携帯で接写したのでうまく写っていませんが掲載しておきます)。

内ゲバで不遇の死を遂げた望月上史さん

71~72年学費値上げ阻止闘争

同上

 

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』

私は学友会倶楽部の財政の一助にするために昨年出版した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を全員に献本させていただき、この代わりにこの代金以上のカンパを募りました。

お蔭様で多額のカンパが集まりました。「会社が大変な時に何をやってるんだ!」とのお叱りを受けそうですが、相互扶助こそ同志社の学生運動の精神でもあり、これまでも先輩方、後輩諸君からご支援をいただいてきました。

特に17年前に「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で私たちの会社が壊滅的打撃を受けた際には、学友会や、私のいた寮(かの藤本敏夫さんもいた寮)の皆様方が自発的に動き助けていただいたことが、のちに奇跡的に復活を遂げる大きな要因になりました。

その後も歓談は続き、二次会、三次会と続いても語り合いました。

多くの先輩方が亡くなっていく中で、今後もこうした機会があれば積極的に参加し親睦を深めると共に、歓談の中から出て来る証言を聞きたいと思います。

残念ながら、同志社大学学友会は解散しましたが、繰り返す歴史の高揚の波から要請され必ずや復活することを信じています。

闘争勝利!

(松岡利康)

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

ふつうの暮らしをする人々にとって、「裁判所」や「司法」と積極的に関わりたい、と願う人は少ないだろう(一部に「傍聴マニア」を趣味とする例外的な方々は存在するが)。法廷は静寂が求められる場所であり、開廷の際、原告、被告(人)だけでなく弁護士、検察官そして傍聴者も起立を求められる。黒い法衣に身を纏った裁判官は、最低限かつ必要な発言に留めるのが通例であり、一段も二段も高い位置(大所高所)から私情を挟まずに、「法」と「証拠」に基づいて判断を下す。というのが一般に想像される裁判官の平均的イメージではないだろうか。

平均的イメージが存在するのだから「平均的ではない」裁判官も、理論的には何処かにはいてもおかしくはない。けれども市民がそのような「平均的ではない」裁判官と巡り合う僥倖は、ごくわずかの確率であるといえよう。

 

森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社)

そしてこの点も重要なのであるが、いくら「裁判所」や「司法」と無関係でありたい、と願ってもわたしたちはこの国の司法の下で生活を営んでいるのであるから、「司法」と無関係に生活をすることはできない。そんな前提で森野俊彦著『初心 「市民のための裁判官」として生きる』(日本評論社 2022年)を手に取ると、新鮮な風に触れたような思いを体感できることだろう。

『初心 「市民のための裁判官」として生きる』の著者、森野俊彦氏は任官から退官まで、文字通り「市民のための裁判官」たらんと、裁判所の中で闘い尽くした類まれなる経歴の持ち主である。

本書第一章は「23期裁判官としてともかく生き延びて」から幕を開ける。「生き延びて」とは大げさなと思われる向きもあるかもしれないが、森野氏と同期の七名が裁判官に任官されなかったということがありこの処断に承服できない森野氏らは最高裁に対しての抗議行動にまで及んだ(このお話は初対面の時から幾度か伺っている)。詳細は本書に譲るが、裁判官として昇進などではなく、森野氏は常に「司法はいかにあるべきか」、「市民のための裁判官とは」を自問しながら試行錯誤し、冒頭に述べた一般的な裁判官とはまったく異なる裁判官として各地の地道な事件に積極的に取り組んでゆく。その延長線上に市民感覚に近い司法の実現や、市民の司法への関心喚起の必要性をお感じなられ、講演会をはじめ様々な啓発活動にも献身されてきたことも特筆すべきだろう。

ご出身は大阪で阪神タイガースの大ファンであることが『初心』の中で紹介されている。近年「大阪維新」の繁茂により、大阪人が「自由さ」や「反中央の気骨」を失ったのではないか、と感じさせられる場面が少なくないが、森野氏はその思想と行動において良質な「大阪人」としてのエッセンスを兼ね備えた人物であることが第二章「サイクル裁判官の四季だより」のそこここから伺える。

森野氏は大阪地裁堺支部勤務時代に、健康法も兼ねて自転車で通勤をしていたところ、たまたま担当していた境界確定訴訟の現場に行き当たる。自転車から降りて早速「検証」にとりかかると、書面から抱いていたイメージと現場の違いに気がついた。それ以降担当する事件については、可能な限り自転車で現場に向かい、自身の目で確かめて判断をを下すようになったそうだ。そこで自らを「サイクル裁判官」と命名してまとめられた「サイクル裁判官の四季だより」は「法学セミナー」の連載を中心に20世紀後半から2004年まで、森野氏が裁判官として脂がのり切った時期に接した事件や人物、風景を森野裁判官らしい温和な感性で綴った、一見読みやすいが硬派なエッセイ集といってよいだろう。多忙ななか読書、映画鑑賞、登山、旅行など多くの趣味を通じて社会を見聞し、現場や事件当時者への尽きない関心を持ち続けた森野裁判官の日常が、テンポよく軽妙に、そして彩り豊かに紹介される。

私が森野氏と知己を得たのは、退官を控えた時期だった。ある集まりでご一緒させていただいたのだが、「こんなに気さくな裁判官がいるんだな」と感心した。森野氏は文字にすれば標準語の文章を書くことはできるが、口語では大阪弁イントネーションが強いため格調の高い文節を駆使することができない(はずだ)。法衣を着ていなければ「大阪のおっちゃん」の呼称が似合うお人柄である。

『初心』では裁判員制度や夫婦別姓問題そして、日本国憲法と裁判官に対する森野氏の見解が中盤から後半にかけては展開される。法律家としての森野節が全開である。前半が海外も含め様々な場面と、裁判官生活における喜怒哀楽(もちろん森野裁判官に特徴的な)の記録、いわば読み物として良質なエンターテイメント性を備えた内容であるのに対して、後半は森野裁判官、もしくは法律家森野俊彦による現司法のありように対する、根本的な問題提起(法律書)であるといってよいだろう。

森野氏は退官後大阪弁護士会に弁護士登録を行い、あべの総合法律事務所に籍を置き、弁護士活動を続けている。「現場が好き」だという森野氏は、きょうも『初心』を心の中に抱きつつ、大阪を中心にあちこちを駆け回っておられることだろう。四方(しほう)は角だらけだけれども、司法の中に森野氏のような人が居てくれれば、どれほど市民が助かることかと、こちらからは願うしかないのであるが。

そんな森野裁判官にひょっとしたら筆者は京都家庭裁判所で、裁判官と申立人の関係で顔を合わせていたことがあったかもしれないのだ。私的な事件が発生し弁護士を選任して相談したところ、結局は家庭裁判所ではなく地裁への提訴する結果と相成ったが、あの時、京都地裁ではなく、京都家庭裁判所に申し立てを行い、運よく森野裁判官に当たっていたら、私の司法に対する感情や、人生自体がいまとは大きく異なるものになっていたかもしれない。

『初心』は春や夏よりも秋、できれば晩秋のできれば夜、手に取ると味わいが増すように感じられる。滋養強壮にも効果抜群であることを保証する。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。主著に『大暗黒時代の大学』(鹿砦社)。
amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846312267
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000528
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タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

前回、シンポジウムと書籍の前半を取り上げ、連合赤軍の問題から暴力などについて考えることを始めた。今回は、続きの内容を追った後、わたしがイベントや本書を通じて考えた暴力に関する考えを伝えたい。(以下、敬称略)

 

椎野礼仁・著『連合赤軍事件を読む年表』(ハモニカブックス)

◆時系列で「連赤」の真実を追う

まずは、本書、『連合赤軍を読む年表』椎野礼仁・著(ハモニカブックス)の続きを見てみよう。

「その後の『連合赤軍』」の章でも、大衆の反応のおそろしさに触れられていたり、坂口が手記に「誤りの根本原因は……政治路線抜きの目先の軍事行動の統一のみに走った連合赤軍の結成」としていたりといったことも書かれていた。離婚に関する永田と坂口の温度差には、ある種のせつなさは感じつつも、苦笑してしまう。また、坂口の途中までの黙秘に対する、永田の「それができたのは、何よりもあさま山荘銃撃戦を闘ったから……その闘いが取り調べに対する強い意思を与え……同志殺害に対する罪悪感を和らげることにもなった」などという言葉も取り上げられている。

一方、坂口は、森の「自己批判書」に対して責任転嫁を感じつつも誠意は認めていたこと、沖縄や田中内閣などの「新情勢」から『武闘の条件があるようには見えず、新しい時代に入ったことを感じざるを得なかった』」という。

その後、森が、この「自己批判書」を撤回し、坂口は森に対して批判的な手紙を送り、森は坂口に「君の意見を多く押さえてきたことに、粛清の道があったと思います」「この一年間の自己をふりかえると、とめどもなく自己嫌悪と絶望がふきだしてきます」というような遺書を残して自殺した。

前後して、永田には過食症があり、塩見は「連席問題の核心は思想問題である」という見解を示していたそうだ。重信は、「査問委員会で裁いて欲しい」と申し出る坂東に対し、「そんなつもりも資格もない。連赤の敗北に共に責任をとり、総括するために奪還した」と答えていた。そして、永田に対し、女性蔑視といえる判決が下される。本書には、わたしが知らなかったこと、忘れていたことが数多く記されていた。

連席関連の「ガイドブック」紹介を間に挟み、最終章は「インタビュー」となっている。植垣は「現在の日本ではテロもゲリラも必要ないし、むしろ有害だと考えています」「テロは政治的に有効ですらないということなのです」と語ってから、ゲリラ戦が有効である例をあげた。また、総括の暴力を「日本的な論理」「集団を支える強固な論理構造がある」と説明している。赤軍派は「一人一党」だったが、革命左派の前身グループは「家族的、あるいは閉鎖的だと言われていました」とも植垣は述べる。現在の運動の難しさについても語っており、展望や「未来図」が見えず、「社会主義」にも、官僚制や資本主義に代わるものもないともいう。

加藤倫教は、問題は「革命の私物化」にあり、「本来革命は大衆のためにあるはずなのに、自己目的化されていった」という。提案としては、「江戸時代の人口3000万くらいの規模への再評価が出てますよね」「地域々々でその環境が維持できる範囲の生活をするということです」としている。必要な権力の規模としては「江戸時代だったら、藩レベル」をよしとし、「力の押し付けをするんだったら、個人テロが多発する」とも口にしている。アンドレ・ゴルツ『エコロジスト宣言』やエンゲルス、安藤昌益の「直耕」、「現場主義を貫く」という言葉にも触れていた。

他方、岩田は「『共同幻想論』による連合赤軍事件の考察」という文章を書いており、その全文とあとがきも本書に掲載されている。

◆連赤の問題は、組織というものが内包する闇

山上による安倍銃撃後の現在、連赤の問題を考えると、また新たな視点をもつ。宗教や政治、ビジネスにも罪悪感、心配や悩みの利用があるとするならば、連赤もまた人の弱みが活動や組織に利用されてきたように思える。

ただしこれらは、あらゆる組織やグループに見られる問題であり、連赤はその象徴であるようにも感じられるのだ。権力や金を保持したいグループや人物がいて、完全に組織をオープンにすることは好まず、人の感情や自尊心を、言葉や評価で上下させる。権力や腐敗していく組織、金などを守るために、処刑や搾取を繰り返す。

では、どうすればよいのか。私たちは、権力や金、組織の維持をある程度あきらめてでもグループをオープンな状態に保たねばならない。もしくは山上のように、覚悟をもって、個として動く。

個人的には、さまざまな組織のもつ上記のような意図に嫌悪し、距離を置いた経験が多くある。プロジェクトで自らがリーダーとなって仕事を進める際などには、自らの「煩悩」や「欲望」に負けず、オープンでフラットな状態を保つよう、努めているつもりだ。

本書では、彼らの総括として、個人の問題にするのか、それとも思想の問題とするのか、というような揺れる文脈をたどってきたような気がする。暴力などに対し、簡単に答えを出すことはできない。

ある時、生協活動経験者に「生協は組織の問題があまりないイメージが強いのですが、いかがですか」と尋ねたら、「人間は集まればどこも一緒よ」と返ってきた。このようなことのほうが、個人的には本質に近いように感じる。それを思想の問題と捉え、未来へと進むなら、社会主義に権力者を据えず、互いに自由でフラットで固定されない関係性を追求するような社会を想定し、それを実現すべく日々、実行に移すことが有効であるかもしれない。

とすれば、アナキズムがやはり魅力的にうつるが、これが継続的で平和で自由でほどよい規模に維持されることを想定すると、やはりコミュニティの規模は小さく、それが外の多くのコミュニティとオープンな形で結びつくような形がよいだろう。

あらゆる問題を議論と歩み寄りによって解決することの困難を感じながらも実践することも重要かもしれない。武力をアピールすれば、怒りを買うことは、理解できる。そのうえで、権力や変えられぬ問題に対し、ある種の暴力が有効であることは、この間も証明されている。山上が失敗して安倍の命がつながれていたら、残念ながらここまでさまざまな問題が暴かれてくることはなかっただろう。

ここから先のことも連赤についても、日々の実践のなかで今後も考えていきたい。(了)

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)
1972年生まれ。フリーライター。『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『紙の爆弾』『NO NUKES voice(現・季節)』『情況』『現代の理論』『都市問題』『流砂』等、さまざまな媒体に寄稿してきた。労働・女性運動を経て現在、農的暮らしを実現すべく、田畑の作業、森林の再生・保全活動なども手がける。取材等のご相談も、お気軽に。
Facebook https://www.facebook.com/hasumi.koba

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

 

映画『日本原(にほんばら)牛と人の大地』

右に掲載しているように、『日本原 牛と人の大地』という映画が全国のミニシアターで上映中です。朝日新聞10月7日夕刊に映画と、主人公の内藤秀之さんのことが掲載されていました。

この映画は、半世紀余り前に学生運動で頑張った方が、それまでとは違うやり方で基地反対運動に半世紀も頑張られたヒューマン・ドキュメントです。

内藤さんは、私も2、3度お会いしたことがありますが、朴訥としたお爺さんで、この人が、若い頃は学生運動の闘士、それも党派(プロ学同。プロレタリア学生同盟)の活動家だったとは思えません。若い頃にはブイブイいわせていたのでしょうか。

プロ学同は構造改革派の流れを汲む少数党派で、指導者は笠井潔さん(当時のコードネームは黒木龍思)や戸田徹さんら、かの岡留安則さん(故人。元『噂の眞相』編集長)もこの党派に所属していました。生前直接聞いています(氏との対談集『闘論 スキャンダリズムの眞相』参照)。

構造改革派は、過激な闘いではなく、ゆるやかな改革を目指す勢力でしたが、学園闘争や70年安保─沖縄闘争の盛り上がりと時期を同じくして分裂し、その左派のプロ学同やフロントは新左翼に合流しラジカルになっていきました。右派は「民学同」=「日本の声」派で、その後部落解放同盟内で勢力を伸ばしていきます。

さて、69年秋は70年安保闘争の頂点で、内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって虐殺されます。

1969年11月13日、大阪・扇町公園で機動隊の暴虐によって内藤さんの後輩の糟谷孝幸さんは虐殺された

下記新聞記事では、牛飼いになったのは「友人の死だった」とし(「友人」というより”後輩”でしょう)、「デモ隊と機動隊が衝突し、糟谷さんは大けがを負って亡くなった」と客観的に他人事のように記述されていますが、この頃の闘いは、まさに生きるか死ぬかの闘いで、熾烈を極めました。学生にも機動隊にも死者が出ています。それをマスコミは「暴力学生」のせいと詰(なじ)ったことを、くだんの記事を書いた朝日の記者は知っているのでしょうか!?

2022年10月7日付朝日新聞夕刊

 

『語り継ぐ1969 ― 糟谷孝幸追悼50年 その生と死』(社会評論社)

 

その後内藤さんは、ここが私たちのような凡人と違うのは、医学生への途をきっぱり拒絶し、糟谷さんの遺志を胸に人生を懸けて基地反対闘争を貫徹するために牧場家に婿入りしたというのです。

爾来半世紀近く黙々とこれを持続してこられました。当時流行った言葉でいえば「持続する志」です。

内藤さんの営為は、日本の反戦運動や社会運動の歴史、個人の抵抗史としても特筆すべきもので記録に残すべきです。

……と思っていたところの、この映画です。

また、これに先立ち内藤さんは、後輩活動家の糟谷さんの闘いの記録を残すために奔走されました。

一緒に決戦の場に向かった後輩が志半ばにして虐殺されたことが半世紀も心の中に澱のように残っていたのでしょう。

多くの方々のご支援で、これは立派な本として完成いたしました。そうして、今回の映画となりました──。

多くのみなさんが、内藤さんが中心になって出版した糟谷さんを偲ぶ書籍と、内藤さんと一家を追った映画をお薦めします。闘争勝利!

(松岡利康)


◎[参考動画]映画『日本原 牛と人の大地』予告篇

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)

『一九七〇年 端境期の時代』

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

◆爆心地選出なのに安倍さん以上に原発推進の総理

筆者の地元で爆心地も抱える広島1区選出の岸田総理。岸田総理は、GX(グリーントランスフォーメーション)と称して、島根原発3号機の再稼働はもちろんのこと、新規原発建設も含む原発推進姿勢に転じました。

ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー価格高騰や、気候変動対策にも悪乗りした形です。311以降、安倍晋三さん率いる自民党でさえ、脱原発依存を掲げ、原発依存度の低下は選挙公約としてきました。それを選挙でマニフェストに掲げることもせずに、原発拡大路線に転換したものです。

しかしながら、原発というものは、日本においては、特に実は誰も責任を取らないしろものです。6月18日、最高裁は福島原発事故における国の責任を否定。また、現体制でも原子力規制委員会でさえ「合格」とはいうけれど「許可」を出すものではありません。こんなものは論外であるのは変わりありません。

そして、ロシアとウクライナの先頭にザポリージャ原発が巻き込まれ、人類はひやひやしている状況です。こうした中、世界で最初の戦争による核被害の爆心地選出の総理が原発推進に舵を切るとは、全日本人、全世界の人に、筆者は広島市民、とりわけ広島1区の有権者として大変申し訳なく思います。

いっぽうで、こうした中、原発ゼロへ向け、希望を持てる動きも県内ではあります。ご紹介しましょう。

◆「権力・資本寄り」男性裁判長が降板──伊方原発広島裁判

一つは、筆者も原告である伊方原発運転差し止め広島裁判の広島地裁の男性裁判長が前回第28回の口頭弁論から交替したことです。これまでの男性の裁判長は、以前、ご紹介した産業廃棄物処分場をめぐる裁判の仮処分申請裁判でも、裁判長を務めていました。

その男性裁判長は、業者に処分場建設作業再開を認める判断を出してしまいました。

そして、本裁判、すなわち伊方原発広島裁判の不当判断を出し、伊方原発三号機の再稼働を認めてしまいました。

9月14日の法廷後、新しい裁判長の姿勢について報告する伊方原発広島裁判原告弁護団(筆者撮影)

ところが、その男性裁判長が6月8日の第28回口頭弁論から姿を消しました。女性裁判長に変わっていたので、筆者も含めてすこし、参加者はどよめいていました。

女性裁判長がどのようなお手並みか。9月14日に開催された口頭弁論で、すこし片鱗が明らかになってきました。少なくとも「前任の男性裁判長よりは、まじめに証拠を調べよう」という姿勢がみられることです。

女性裁判長は、原告側が求める証人調べに積極的に応じ、来春以降、行われる可能性が高まりました。原告弁護団によると、件の男性裁判長なら「ほかの伊方原発を巡る類似の裁判で出た証人は本法廷としては呼びたくない。」という姿勢が見え見えだったそうです。

裁判長交代でひょっとしたら、「伊方原発運転差し止め判決」という朗報をみなさまに広島からお届けできる可能性が少し上がったのかもしれません。

◆国立研究開発法人NEDOのカーボンリサイクル施設が大崎上島に

もうひとつは、広島県中部の瀬戸内海に浮かぶ島に国のカーボンリサイクルの施設ができたことです。大崎上島には中国電力の石炭火力発電所(試験プラント)があります。大崎上島は広島県内の最大の都市・広島市と福山市の中間にあります。2000年に当時としては最新式の石炭火力発電所ができたのですが、トラブルが相次ぎ、2011年から休止状態にあります。

現在は、中国電力と電源開発の共同出資で2017年3月運転開始の高効率の石炭ガス化複合火力発電所の試験実証機が稼働しています。ガス化した石炭により動かすガスタービンと蒸気タービンを組み合わせて発電するものです。

石炭火力と言えば、皆様も気候変動対策の敵のように思われるでしょう。毎回の気候変動枠組条約締約国会議(COP26などと報道されている会議)においても日本は石炭火力への固執で「化石賞受賞」などと報道されていることを皆様もご記憶と思います。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻も背景に天然ガス価格も高騰している中で、日本国内でもまだまだ埋蔵量がそれなりにある石炭を使い、なおかつエネルギー変換効率も高い石炭ガス化複合火力発電所は、再生可能エネルギー100%への「中継ぎ」として有力なのではないのでしょうか?

そして、さらに、2022年9月、この大崎発電所の敷地内に、国立研究開発法人であるNEDOのカーボンリサイクル施設ができました。

発電所から出るCO2を分離・回収し、
・鉄などを触媒にして二酸化炭素からプロパンガスを作る基礎研究
・二酸化炭素を吸収させてコンクリートを固める技術を使って、ダムや橋などの大規模な工事にも活用する研究、
・二酸化炭素を藻の培養に使い、藻から抽出した油を航空機の燃料などに活用する研究
などを行うそうです。

https://www.nedo.go.jp/news/press/AA5_101530.html

こうした技術革新が進めば、原発に頼らず、なおかつエネルギーの安定供給を確保しつつ気候変動対策も進めることができます。

広島県選出の岸田総理。あなたとわたしの地元である広島で、こうした素晴らしい技術革新を国がお金を出して進めているのですよ?

ロシアのウクライナ侵攻に便乗して短兵急に原発を新増設しようとしても完成にはどうせ、10年以上かかります。それよりも、地元で開発が進んでいる技術を活かしていきませんか?

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
◎Twitter @hiroseto https://twitter.com/hiroseto?s=20
◎facebook https://www.facebook.com/satoh.shuichi
◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

アントニオ猪木さんが亡くなりました──われわれの世代にとって猪木さんは特別の存在です。力道山の時代からプロレスを観ていた私は、一時期観なくなった時期もありましたが、猪木さんやタイガーマスク(佐山聡)が登場しプロレスブームが到来するや、また観るようになりました。ストロング小林との死闘、モハメド・アリとの歴史的試合も観ました。

マイオカ・テツヤ画(『いかすプロレス天国』〔鹿砦社刊〕所収)

 

板坂剛『アントニオ猪木・最後の真実』【復刻新版】

特に1985年、板坂剛さんの『アントニオ猪木・最後の真実』(現在品切れ)を出版してから、どういう因縁かプロレス関係書をどんどん出版するようになりました。

遂には月刊『プロレス・ファン』を出すまでになりました。賞杯を出したりもしました。

しかし、その頃になるとプロレスは冬の時代に入り、猪木さん率いる新日本プロレスも経営が苦しくなり、全日本女子プロレスも倒産しました。

「吉本女子プロレス」なんて団体を吉本興業が作ったり、1冊写真集を出しましたが、全く売れませんでした。

というより、プロレス本自体が売れなくなり撤退を余儀なくされました。

『アントニオ猪木・最後の真実』は、序文を今は亡き岡留安則さん(いわずと知れた『噂の眞相』編集長)が書き、イラストは平口広美さんでした。一夜で、私が本文を入力し、初版は2000部、一日で売り切れすぐに増刷、ある書店からは600部の注文が入った記憶があります。ずいぶん売れました。

「元気があればなんでもできる」「苦しみの中から立ち上がれ」……慎んでご冥福をお祈りします。合掌。

(松岡利康)


◎[参考動画]アントニオ猪木 Antonio Inoki Tribute 2022-10-03 / Family secret story 家族秘話(めざまし8 2022-10-03 Fuji Tv )

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年11月号

『紙の爆弾』と『季節』──今こそタブーなき鹿砦社の雑誌を定期購読で!

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