世界的なベトナム反戦運動と連動し1960年、70年という〈二つの安保闘争〉をメルクマールとする学生運動高揚の時代がありました。同志社大学学友会(各学部自治会、学術団、文連、新聞局、放送局などの全学自治組織)は、その戦闘性で全国の学生運動を牽引してきたことは周知の歴史的事実です。
この、かつての“若き闘士”の集まりが10月15日午後2時から「がんこ」京都三条本店にて開かれました。代表の堀清明さんが病に伏しやむなく欠席、このメッセージを司会の志賀茂さんが代読されました。お二人とも激動の60年代の学友会委員長を務められました。
その後、蒲池裕治さん(三派全学連再建時の副委員長)はじめ主な物故者の名を挙げ追悼、遺族代表の蒲池夫人が挨拶されました。そして献杯──。
こののち各年代、サークル、寮、女子大などの代表から各2分程度の挨拶があり、70年入学の私が“最年少”で、錚々たる先輩方の前でご挨拶させていただきました。70歳を超えて最年少とはどんな集まりや、との声が聞こえそうですが、先輩方、今からデモに出発しようかという熱気に溢れ歓談が続きました。
ある参加者は、いわゆる内ゲバで亡くなった望月上史さんの在りし日の写真を拡大して持参され回覧しました(携帯で接写したのでうまく写っていませんが掲載しておきます)。
私は学友会倶楽部の財政の一助にするために昨年出版した『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』を全員に献本させていただき、この代わりにこの代金以上のカンパを募りました。
お蔭様で多額のカンパが集まりました。「会社が大変な時に何をやってるんだ!」とのお叱りを受けそうですが、相互扶助こそ同志社の学生運動の精神でもあり、これまでも先輩方、後輩諸君からご支援をいただいてきました。
特に17年前に「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧で私たちの会社が壊滅的打撃を受けた際には、学友会や、私のいた寮(かの藤本敏夫さんもいた寮)の皆様方が自発的に動き助けていただいたことが、のちに奇跡的に復活を遂げる大きな要因になりました。
その後も歓談は続き、二次会、三次会と続いても語り合いました。
多くの先輩方が亡くなっていく中で、今後もこうした機会があれば積極的に参加し親睦を深めると共に、歓談の中から出て来る証言を聞きたいと思います。
残念ながら、同志社大学学友会は解散しましたが、繰り返す歴史の高揚の波から要請され必ずや復活することを信じています。
闘争勝利!
(松岡利康)