読者の方は「生存圏」という言葉は、耳慣れないかもしれません。他の言葉に置き換えると生活圏といえるかもしれません。ヒトを例にとると、その生存圏、あるいは生活圏はヒトが住んで生活をしている空間を意味します。もう少し、文学的な表現で例えれば「ヒトの匂いのするところ」ということになりますでしょうか。英語にすると空間を意味するsphereにヒト、humanをくっつけてhumanosphereと現されると思います(英語の単語にhumanosphereはありませんが、おそらく科学的な基礎知識を持った人であれば、意味は理解されるでしょう)。
このヒトの生存圏の範囲をどのようにDNA的に定義したらよいでしょうか? ヒトは生活しているとその周りに、「ふけ」、「抜け毛」などの、死細胞片を無意識にばらまきながら生活しています。つまり、その人のDNAはその人の行動範囲に無意識にばら撒き続けられているのです。このことを示す私の興味深い経験をご紹介しましょう。
私が昔、農林水産省に在籍し、同省の研究機関で研究に従事していたしていた時のことです。昔も今も、乳牛を効率的に生産するため、卵子を採取し、体外で受精させて、雌牛の子宮へその受精卵胚を移植することは日常的に行われています。乳牛を効率的に再生産するためには、生まれてくる子牛は、雌であることが必須です。そこで、受精卵胚から、一部の細胞のDNAを調製し、PCR(Polymerase Chain Reactionの頭文字の略で、これを用いることにより、特定の配列を何百万倍に増やすことが出来ます)でオスかメスを判定できるかどうかをテストしていました。
その際に、用いた配列はSRY遺伝子と呼ばれる配列でオスに特異的な配列でした。この配列が検出されれば、その受精卵胚は、オスと判断され無価値になります。従って、この判定は、乳牛の受精卵胚移植で極めて重要なプロセスです。そのオス/メス判定の研究に、男性の研究員が携わっていました。判定結果は、検査した受精卵胚全てオスと判定されてしまったのです。普通は、オス/メスは概ね5:5になる筈です。
いろいろ検討した結果、SRY遺伝子はほ乳類共通ですので、男性研究員の細胞片(DNA)が解析対象となった牛受精卵試料に混入したためだと考えました。そこで、その研究員にシャワーを浴びてもらい、且つ、防塵服を着てもらって、再度判定してもらった結果、メスの受精卵胚も検出されました。
この例から、人の行動と共に、その周辺にその人のDNAを「まき散らして」いることが確実になりました。このことは他の生物種でも同じことだと考えられます。こうした経験と推測を踏まえて、特定の地域の大気中の生物のデブリ(空気中に浮遊している生物の細胞片、DNA)を集めて、そのDNAを調べれば、「調べようとしている生物種がその地域で生存圏を形成しているかどうか」が明らかになると推定しました。
例えば、調査対象をドブネズミにしたとします。しかし、ドブネズミは夜行性で、昼間、その生息を確認することは非常に難しいと思われます。そこで、その地域の大気中のデブリを解析することを考えるのです
◆大気中の生物デブリの捕集装置の開発
生物デブリの捕集装置としては、出来るだけ大容量の空気をろ過し、そして、デブリを効率よく”フィルター”に捕集する必要があります。フィルターに効率よく集めるためには、網目の細かいフィルターを用いることが重要ですが(図3.1、サイト1)、細かいほど抵抗が大きく、空気のろ過量が落ちてしまいます。フィルターについていろいろ検討した結果、フィルターは、HEPAフィルター (0.3 µmの粒子に対して99.97%以上の粒子捕集率)のフィルターを使うことにしました。
因みに、コロナウイルス感染防止のために、医療者が使用しているマスクのフィルターは、N95と呼ばれる規格の物です。N95は0.3 µmの粒子に対して95%以上捕集することを意味しています。医療者がHEPAフィルターを使えば、さらに安全性が上がりますが、HEPAフィルターは、空気通過抵抗が大きく普通のマスクシステムではこれを装着していると呼吸ができません。
装置の外骨格は、3Dプリンターで作製し、空気流量計とマイコンを組み込んで、一定量の空気をろ過すると停止するシステムを構築しました。大気中の生物デブリ捕集装置の完成品は、図3.2に示しました。
◆大気中の生物デブリ捕集装置を用いて、生物の生存圏を調べることはできるのか?
このことを確認するために、つくば遺伝子研究所の近くにある養豚場から420メートル離れたところで、大気中の生物デブリを捕集しました(図3.3)。そして、捕集したデブリからDNAを抽出し、ブタを検出するプライマーを用いて、抽出したDNAの中に、ブタのDNAが存在するか(ブタのデブリが存在するか)を調べました。
その結果、図3.4に示しました様に、養豚場から420メートル離れたところの大気中の生物デブリから、ブタを検出することが出来ました。この結果から、大気中に浮遊する生物デブリのDNAを解析することで、その付近の環境に生息する生物種を明らかに出来ることが判りました。もし、ある地域の大気中の生物デブリを解析すれば、その地域で問題としている生物種がどの程度いるかを調べることができると思われます。
次号では、外来種であるアルゼンチンアリ、そして、衛生上の問題があるドブネズミの解析についてご紹介します。
【文献】
サイト1)https://www.env.go.jp/council/toshin/t07-h2102/01-1.pdf
◎安江 博 わかりやすい!科学の最前線
〈01〉生き物の根幹にある核酸
〈02〉ヒトのゲノム解析分析の進歩
〈03〉DNAがもたらす光と影[1]
〈04〉DNAがもたらす光と影[2]
〈05〉生物種の生存圏
◎[過去稿全リンク]わかりやすい!科学の最前線 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=112
▼安江 博(やすえ・ひろし)
1949年、大阪生まれ。大阪大学理学研究科博士課程修了(理学博士)。農林水産省・厚生労働省に技官として勤務、愛知県がんセンター主任研究員、農業生物資源研究所、成育医療センターへ出向。フランス(パリINRA)米国(ミネソタ州立大)駐在。筑波大学(農林学系)助教授、同大学(医療系一消化器外科)非常勤講師等を経て、現在(株)つくば遺伝子研究所所長。著書に『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』(鹿砦社)等
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000686
四六判/カバー装 本文128ページ/オールカラー/定価1,650円(税込)