◆「原発をとめた裁判長」からの逆質問
過日、福井地裁裁判官時代に高浜原発3、4号機運転差し止めの判決を下した、樋口英明さんにインタビューしている中で、突然逆質問を受けた。
「憲法と法律の違いが分かりますか?」
樋口さんの質問に対してわたしは、「憲法は最高法規であって、国家権力を縛るもの。法律は憲法に従って行政や、国民にかかわる決まりを定めたもの……でしょうか」と歯切れ悪く答えた。
この問いは、法学部出身者にとって、至極容易な問答かもしれないが、法律を勉強したことのないわたしは、恥ずかしながら瞬時に即答できなかった。そんなわたしに、樋口さんは優しく教えて下さった。
「憲法は国が守らなければいけないことを定めたもので、法律は国民が守らなければならないことを定めたものです」
なるほど。端的にご説明頂ければ、その性質を知らないわけではなかった。いや、10年だか20年だか前には、わたしも「憲法は国が守らなければいけないことを定めたもので、法律は国民が守らなければならないことを定めたものです」と一言一句同じではなくとも、同様の回答ができたと思う。なぜ2023年の春、わたしはかつて自明であった「憲法と法律の違い」との基礎的な問いに窮したのか。自己弁護のようだけれども、その理由はわたしの個人的な劣化だけに求められはしないように思う。
◆忘れ去られた憲法順守義務
日本国憲法はまったく文言を変えることなく、泰然としてか肩身を狭い思いをしてかはわからないけれども、われわれの前に依然として鎮座している。
だが注意して観察すると、日本国憲法の鎮座しているさま(様子)は、かつてに比べて如何にも不安げで、落ち着きがなさそうだ。その理由は公務員や国会議員には憲法順守義務(憲法96条)が以下のように明確に記されている、にもかかわらず、現状は「改憲ありき」の議論に日本国憲法が取り巻かれているからではないだろうか。
「第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
「国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」はどこに行った? 国会では堂々と改憲論議が推し進められているじゃないか。長年統一教会に支えられてきた自民党は言うに及ばず、創価学会の政治部隊、自称「平和の党」こと公明党、はやく「私たちは自民党と同じです」と本心を開示すればすっきりする、国民民主党や維新。中には少しまともそうな人がいるかもしれないけども、泉をはじめとして大方ダメな、立憲民主党。これらの政党はいずれも改憲審議を進めているじゃないか。
反原発からスタートしたはずなのにいつのまにか「積極財政推進」が政策の中心になってしまい、あろうことか古谷経衡にまでくっついた山本太郎氏がつくった政党(この党名は、反動的過ぎるのでわたしは断固として口にしたり書かない)。かつては社会党として自民党に対して一定の監視、抵抗の意義があったが、気が付いたら福島瑞穂氏以外ほとんどが立憲民主党に引っ越ししてしまった社民党。新自由主義という名の資本主義の暴走に直面しているのに、資本主義への正面から抵抗ではなく、なぜか「ジェンダーフリー」に熱心な日本共産党。どこにも現状に対する本質的な、批判、反論が見出せる国政政党はなく、「われこそは本当の保守」と、どうでもいい「保守争い」に、呆れ関心を失うのは主権の放棄だろうか。
戦前から変わらず、大マスコミはニュース、情報番組、ワイドショーで情報源になどなりようのない、コメンテーターだの御用学者、若手、古手の右翼芸人を次から次へと登場させる。
こんな環境に生れてきたら、体制迎合しか知らない若者が溢れても仕方ないだろうし、若者から現状変革の意思を感じ取るのは、至難の業だ。
◆憲法が規定する「本来の姿」
実体的に「憲法が国を縛るもの」ではなくなって久しい今日、ならば、本来の姿を再確認することから始めなければならないのかもしれない。30年前なら「馬鹿馬鹿しい」と一蹴されたであろうけれども21世紀に入る直前から自民党政治が重ねてきた諸政策、なかんずくどう考えても違憲である「自衛隊の海外派兵」をはじめとする軍事大国化を日々目にしていると、本来の「憲法」像がかすんでしまう。だから憲法が規定する「本来の姿」の再確認は無駄な作業ではない、といえまいか。
PKOに名かりたイラク派兵には名古屋高裁が違憲判決を下した。そのことが人々の記憶の中に生きているだろうか。武器輸出の解禁から集団的自衛権の容認、果ては「敵基地攻撃」という実質上の「先制攻撃」までを閣議決定してしまう今の政治は「憲法」によって最低限の監視の目を向けられているであろうか。視点を変えれば為政者は「憲法」の存在をしかるべく認識、あるいは感知しているだろうか。
わたしは、現在の政府やほとんどの野党、そして行政も「憲法」によって拘束されている、あるいは拘束されなければならない法理をほとんど忘れているか無視しているとしか思えない。
つまり、成文法としての日本国憲法は、依然われわれの前に鎮座しているけれども、シロアリに食い荒らされた美しい木造建築のように、実態は「無憲法状態化」しているのが、今日ではないだろうか。憲法が本来の機能を発揮できなければ、下位の法律も健全ではありえない。もちろん国(政府、司法、行政)も好き勝手し放題。これが今日の現実だと冷厳に凝視しよう。
違憲ではなく、「無憲法」状態の中でわれわれは短くない期間過ごしている。この認識をこそ身に刻んで、もう一度日本国憲法を前文から第百三条まで通読して頂いてはいかがだろうか。きょうは憲法記念日だ。殺伐とした現実と日本国憲法の間には、恐るべき乖離がある。それを気付くことに光明があるのかもしれない。
◎[参考動画]「日本国憲法」全文《CV:古谷徹》
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。
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