《脱法芸能24》堀ちえみ──ホリプロから離れ、大阪拠点で芸能界に復帰

1983年、「ドジでノロマな亀」の日本航空の客室乗務員訓練生、松本千秋を『スチュワーデス物語』(TBS)で演じ、大ブレイクした堀ちえみは、その4年後の87年3月、20歳の誕生日を迎えた直後に芸能界から忽然と姿を消した。


[動画]堀ちえみ『青い夏のエピローグ』

ちえみは、81年にホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝し、ホリプロに所属し、翌年82年、『潮風の少女/メルシ・ボク』でレコードデビュー。そして、その翌年には『スチュワーデス物語』の放送が始まり、大ヒット。ちえみの存在は社会現象となった。一見すると順調なタレント人生のようだったが、あまりの人気でちえみはプレッシャーに押しつぶされた。

87年3月、ちえみは、体調の悪化を理由に芸能活動を停止し、以降、実家のある大阪で休養し、事実上の引退状態となった。

『クレイジーラブ/愛のランナー』(1984年10月キャニオン・レコード)『愛のランナー』は花王エッセンシャルシャンプーCF曲で両A面仕様

◆作曲家=後藤次利との不倫スキャンダル

確かにちえみの体調は極度に悪化していた。デビュー当時、50キロあった体重は、1年ほどの間に14キロも減って35キロになり、「拒食症ではないか」と囁かれ、慢性的な不眠や胃痛にも悩まされた。

その主な理由とされたのが、作曲家の後藤次利との関係だ。86年7月、深夜、後藤がちえみのマンションから2人で出てくる写真を『FRIDAY』が掲載し、波紋が広がった。後藤は妻子ある身であり、2人の関係は許されざるものだった。

また、当時、後藤はおニャン子クラブを始めとするアイドルの楽曲を多数、手掛ける売れっ子であり、ちえみは芸能界を代表するホリプロに所属していた。業界でホリプロを敵に回して仕事をすることはできない。2人の関係はあっけなく破局した。

◆ホリプロにコキ使われ、身も心もボロボロに

休養宣言をした際のちえみの発言を当時の週刊誌から抜き出してみよう。

「もう東京に戻ってくることはないでしょう。それに2年、3年経ってからも受け入れてくれるのかわからないし、それが通じるほど甘くないですからね、この世界は」

「アイドルは人形じゃないんだし、私は自分の主張をもって生きてきましたから」

「芸能界に入ったのが間違いだった。今は体を治すことに専念したい」

「大人たちのトラブルに疲れました。芸能界に未練はありません」

「忙しいときには毎日、二、三時間しか睡眠がとれませんし、食事も楽屋やスタジオなんかでは、十分ぐらいで折り詰めのお弁当をかき込まなければなりません。ぜいたくいうわけじゃありませんが、毎日毎日、同じような幕の内じゃ食欲もなくなりますよ」

「(『スチュワーデス物語』出演中には、1シーン撮影するのに3度も4度も倒れたことさえあったが)だからといって、簡単に休んだりはできないわけです。私が穴をあけると、制作会社とホリプロの間がこじれちゃう。ホリプロには先輩や後輩もいるから、私のために迷惑はかけられないと、無理を重ねることになるんです」

「おカネですか。何も残りませんでしたね。私の場合、親も元気に働いているから、収入は少なくてもいいと思っていたんです。いま思えば、もう少し親孝行をする方法があったんじゃないかと……」

ちえみはアイドルとして大成功を収めた。だが、ホリプロにいいようにコキ使われ、稼ぎは搾取され、私生活も制限され、文字通り身も心もボロボロになってしまった。バカらくしてやってられない、というのが本音だったのだろう。

ホリプロの常務、石村匡正は、「休養して健康になり、ちえみがもう1度芸能活動をやりたいと考えたときの受け皿を用意しておいてやるべきだと私たちは思っています」と言っていたが、ホリプロとちえみの亀裂は修復されなかった。

◆大阪拠点で芸能界に復帰した理由

ちえみは外科医との結婚を経て休養宣言の2年後の89年、松竹芸能に所属して芸能界に復帰した。ホリプロの圧力で芸能界復帰は絶望的という説もあったが、松竹芸能の本拠地である大阪はホリプロの勢力圏外だったのだ。

今でもちえみが出演するのは、大阪のテレビ番組が多いが、その背景にはホリプロとの確執がある。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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自民党の報道弾圧は10日施行の秘密保護法を後ろ盾にした恫喝の始まり

ついに政権権力が牙を剥き出しにメディア恫喝を始めた。自民党がNHKと在京民放テレビ局に対し、選挙報道の公平中立などを求める要望書を渡していたことが11月27日判明した。街頭インタビューの集め方など、番組の構成について細かに注意を求める内容は異例中の異例であり、テレビ関係者からは「編集権への介入に当たる」と懸念の声もあがっているそうだ。

だが、そんな軽いものではないだろうと私は思う。この恫喝は12月10日に施行される「特定秘密保護法」を受け皿に、現与党権力が「選挙中に俺たちに不利な報道をしたら、痛い目にあわせるぞ!わかってるだろうな!」という明確なメッセージを発したと理解すべきである。

「新党ひとりひとり」の山本太郎=参議院議員
「新党ひとりひとり」の山本太郎=参議院議員

毎日新聞によると、「要望書は、解散前日の20日付。萩生田光一・自民党筆頭副幹事長、福井照・報道局長の両衆院議員の連名。それによると、出演者の発言回数や時間▽ゲスト出演者の選定▽テーマ選び▽街頭インタビューや資料映像の使い方--の4項目について『公平中立、公正』を要望する内容になっている。街頭インタビューをめぐっては11月18日、TBSの報道番組に出演した安倍晋三首相が、アベノミクスへの市民の厳しい意見が相次いだ映像が流れた後、『これ全然、声が反映されてません。おかしいじゃありませんか』と不快感を示していた。また要望書では、『過去にはあるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、大きな社会問題になった事例も現実にあった」とも記し、「1993年の総選挙報道が国会の証人喚問に発展したテレビ朝日の『椿問題』とみられる事例をあげ、各局の報道姿勢をけん制している」そうだ。

出演者の選定や、テーマ選び、果ては街頭インタビューにまで選挙前に事細かく指示するなど「編集権」への配慮など微塵もなく、明らかな「放送法」違反である。さすが「大企業の利益と戦争をする国造り」だけに熱を入れる安倍政権らしい行為と呆れるほかない。違法行為も不法行為もやりたい放題(解釈改憲)。嘘もオッケー、ねつ造問題なし(オリンピック招致演説で「福島原発の放射能は完全にブロックされています! 過去も、現在も、未来も健康被害は生じません!」と言い放った安倍をまだ読者もご記憶だろう)を旨とする安倍自民党らしい暴挙と拍手を送っておこう。

◆テレビがたれ流す「どちらかと言えば」世論の誘導政治

さすがの無茶苦茶ぶりに日本民間放送労働組合連合会(赤塚オホロ委員長)は11月28日、抗議声明を発表した。

声明では「政権政党が、報道番組の具体的な表現手法にまで立ち入って事細かに要請することは前代未聞であり、許し難い蛮行と言わざるを得ない」として報道への介入を厳しく批判している。当然だ。だが、労組だけで何故、民放各局は抗議をいないのだろうか。

自民党がそんなに気を遣わなくてもマスコミ(特にテレビ)は十分権力者に対して過剰なほど従順になっているようだが、それでもでもまだ奴らには不満なようだ。

争点の分かれる問題について「中立報道」など、どだいありえないのだ。「両論併記」という腰の引けた報道姿勢もないではないけども、過去の両論併記報道のほとんどは結果として政府与党意見への誘導へと導かれている。「原発再稼働」、「消費税」、「解釈改憲」などは問題の性質上、「賛成」か「反対」しか選択肢はありない。あたかも中間の選択肢があるかのごとく、世論調査では「どちらかと言えば賛成」、「どちらかと言えば反対」などという選択肢が恣意的に設けられるが、それ自体が世論の間違った誘導なのだ。

そもそも「報道」の役割は「権力チェック」だ。「権力チェック」を基本スタンスに持たない報道などに存在意義はない。「権力チェック」を行えば、たとえどのような政党が与党であろうが、与党に批判的な言説を中心に据えることが、「公平」の原則となる。

権力は必ず腐敗する。自民党の腐臭など地方に居てもプンプン嫌というほどに鼻をつくし、短期間だったけども民主党だって充分に腐敗したのを我々は目にしたじゃないか。自民党による「要望書」の内容は「報道機関はその本務を捨てて、与党に有利な報道をせよ」と迫っている。このような行為を「権力による悪質な圧力」というのだ。

◆「解釈改憲」は最大級の「違憲犯罪」

自公巨大与党が、やりたい放題の暴挙を続けてきたこの2年間、報道(一部の良心的メディアを除いて)は決して「中立」ではなかった。「特定秘密保護法案」は戦前の「治安維持法」よりも下手をしたら危険な法律であるのに、その危険性を国会審議前からしっかり報道がなされていただろうか。

消費税8%への引き上げは、増税に止まらず物価上昇を引き起こし、弱者を直撃することは明らかだったが、その引き上げを問題にしたメディアがどれだけあったか。新聞は民主党菅政権時代に「軽減税率適応」の裏約束を政権と交わしていたという噂があるが、それを信じてしまうほど、消費税の引き上げに対する報道は腰が引けていなかったか。そして、「解釈改憲」という最大級の「違憲犯罪」こそ報道機関であれば、その存立をかけて言論で挑むべき重大課題だったはずだが、そんな覚悟がどこかのメディアにあっただろうか。

地方紙の中には目を見張る論陣を張るものもあるにはある。『琉球新報』や『沖縄タイムス』、『東京新聞』などには全国紙に比較して余程読むべき記事や論説が目立つ。が、全国紙の凋落は「無残」の極みである。

「あなたが自民党に投票した一票は、『赤紙』になって帰ってきますよ!」
昨年の参議院議員選挙で山本太郎さんが訴えていた言葉はこの選挙にも通じている。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ

◎田所敏夫の《大学異論》
《大学異論18》「過激派」は学生でなく今の日本・安倍政権!──京大集会見聞記

『NO NUKES voice』鹿砦社本領発揮の第2号!
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《脱法芸能23》八代亜紀──男と共に乗り越えた演歌という名のブルーノート

カルテルや暴力、ギャラ、男女関係など、これまで本連載で解説してきたようにタレントの独立や移籍には、いくつかのパターンがあるが、それらが複雑に絡むのが、演歌歌手、八代亜紀のケースだ。

八代亜紀は、中学校を卒業してから、15歳で熊本から上京し、歌手を目指して銀座のクラブで歌っていたが、読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』で10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝き、1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビューした。73年には『なみだ恋』が120万枚を売り上げる大ヒット曲となり、スター歌手の仲間入りをした。

◆1980年の『雨の慕情』──縁起の良い8並びの年にレコード大賞を掴み取る

『Mr.SOMETHING BLUE - Aki's Jazzy Selection』(2013年3月20日日本コロムビア)

1980年には、五木ひろしと一騎打ちでレコード大賞獲得を争ったが、この戦いは「五八戦争」と呼ばれ、事前運動で多額のお金が飛び交ったとされている。それまで八代は、実力派と言われながら、なかなかレコード大賞を獲れなかったが、この年は、デビュー8周年、八代、80年代最初の年と、8並びで縁起がいいことから、八代陣営は大賞獲りに力を入れていた。「八代はレコード大賞を獲れなければ、所属事務所の六本木オフィスから独立する」とも言われていたが、結局、1億円も投じて事前運動を展開したと言われた八代が『雨の慕情』で大賞を獲得した。

ところが、翌81年、八代のレコード売上は激減してしまった。これに不満を持った八代は、事務所からの独立を口にするようになった。頭を抱えた六本木オフィスは、業界の実力者で長良事務所を経営する長良じゅん(神林義忠)に依頼し、長良が八代の独立を阻止したと言われる。

とはいえ、その後もレコードが売れないという状況は続いた。八代の不満は募り、その矛先が所属レコード会社であるテイチクに向けられ、81年12月、八代はテイチクとの契約を解除した。

『夢の夜 ライヴ・イン・ニューヨーク Live』(2013年8月21日ユニバーサルミュージック)

◆八代が出逢った男たち

八代がテイチクとの契約を解除した直接の理由は、テイチクの社員で八代の担当ディレクターだった中島賢二の退社だった。中島は八代が『全日本歌謡選手権』に出場していたころから交際し、二人三脚でスター街道を走り、妻子がある身ながら、八代の愛人と言われ、八代の個人会社の取締役も務めていた。

だが、八代のレコードの売れ行きが落ちてゆくと中島は社内での立場を失っていった。81年暮れに、八代は契約更新の条件として中島の昇進を申し入れたが、テイチクはこれを受け入れず、中島は退社に追い込まれた。八代は「育ての恩人を冷たくしたテイチクにはいられない」と主張し、テイチクとの契約を解除した。

82年1月、中島の友人でハワイで不動産業を営む清原兼定が社長となり、八代のためのレコード会社としてセンチュリーレコードが設立され、83年には中島も取締役として経営に参画した。

センチュリーレコードは、発足1年目は年商4億円とそれなりに稼いだが、八代の不振もあり、次第に業績を悪化させていった。センチュリーとしては八代以外の歌手も売り出したかったが、そうすると八代が機嫌を損ねてしまう。センチュリーレコードは、赤字に転じた。

そして、83年ごろ、八代が新宿コマ劇場で舞台の稽古をしていた時に、腰を痛めるアクシデントが起きた。本来ならば、ゆっくり休養を取るところだが、火の車のセンチュリーは八代に仕事をさせようとした。そして、この頃から、八代と中島は口論するようになり、85年の初夏には完全に破局したという。そして、八代の新しい恋人として浮上したのが、山口組三代目組長、田岡一雄の長男で実業家の満だった。

85年秋、八代は六本木オフィスから独立して、新事務所、AKI音楽事務所を設立した。この動きに六本木オフィスの幹部は激怒し、「八代をこの業界から追放してやる」と息巻いていたというが、さらに八代は86年1月16日、センチュリーレコードからコロムビアレコードへの移籍を発表した。寝耳に水のセンチュリーレコードは、これに慌てた。センチュリーレコードには、八代以外には有力歌手が所属していない。八代の流出は、経営危機に直結する。マスコミは、中島との関係終演が移籍の原因とはやし立てた。

レコード会社の業界団体である日本レコード協会には、レコード会社間での歌手の引き抜きを禁じるカルテルがあると言われる。また、大手芸能事務所が加盟する業界団体、日本音楽事業者協会では、タレントの引き抜き禁止、独立阻止で一致団結している。

筆者が調べた限りでは、レコード業界のカルテルの拘束力はあまり強くない。問題は芸能事務所間の移籍、独立だ。大手芸能事務所から独立して、干されたタレントは数知れない。

◆男を後ろ盾にレコード会社の圧力を乗り越える

八代の一連の独立、移籍劇の背景について、芸能ジャーナリストの本多圭は、こう指摘している。

「いろいろな情報が乱れとんだ。その中で信ぴょう性がある話がひとつだけあった。その内容は、『八代が田岡にレコード会社を移りたいと相談をもちかけたんです。そこに田岡がお嬢(美空ひばり)になんとかしてやってくれと頼み、それをお嬢がコロムビアの正坊地会長にリレーした』というものだった。(中略)寄ってたかって、八代潰しに奔走するはずだ。ところが、そういう声があったものの、動いた様子は見当たらない。八代のバックに田岡の気配を感じたに他ならないからと言えまいか」(『噂の真相』86年10月号)

女性タレントの独立、移籍事件が起きると、しばしば「男が入れ知恵をしている」と報じられる。女性タレントの独立、移籍を阻止するには、バックにいる「男」を潰さなければならない、というのが芸能界の論理であり、メディアもそれに引きずられる傾向がある。

近年のケースで言えば、沢尻エリカの独立や小林幸子の事務所社長解任事件、安室奈美恵の独立なども、その構図の中で起きた。

だが、八代の場合は、バックにいた男というのが暴力を背景に興行界に影響力を持つ大物であり、芸能界としても潰すに潰せない相手だったという点で事情が大きく異なる。

結局、八代に去られたセンチュリーレコードは、有効な対抗策を打ち出せず、86年7月に2度目の不渡り手形を出して事実上の倒産状態となった。一方の八代は翌月8月22日にコロムビア移籍第1弾シングル『港町純情』をリリースし、その後も芸能活動を続けていった。八代は男を乗り換えながら、自分の芸能人生を切り開く、たくましさを持っていたのである。

▼星野陽平(ほしの・ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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読売「性奴隷表記謝罪」と安倍2002年早大発言が歴史と憲法を愚弄する

読売新聞社は、同社発行の英字紙「デイリー・ヨミウリ」(現ジャパン・ニューズ)が1992~2013年、従軍慰安婦問題を報道する際に「性奴隷」(sex slaves)などの不適切な表現をしていたとして、読売新聞の11月28日付朝刊に謝罪記事を掲載したという。

「性奴隷」は事実であるからその表現がそれほど大きな間違いであろうか。一般的に「慰安婦」を英訳する際には”comfort women”が用いられるが、これは「慰安」を”comfort”と直訳しているのであり、英語の語感としては、注釈でもつけないと違和感があるし、正しく理解しにくい。「慰安婦」は実態として「性奴隷」であったわけで、”Slave”が適切性を欠く表現とは思われない。

謝罪記事の中では、「慰安婦問題に関する読売本紙の翻訳など計97本の記事に不適切な表現があったことが社内調査で判明。このうち85本が『性奴隷』に当たる単語を不適切に使用し、政府・軍による強制連行や売春の強要が客観的事実であるかのように記述した記事も12本確認された」としている。

ちょっと待て。「政府・軍による強制連行や売春の強要が客観的事実であるかのように記述した記事も12本確認された」のどこが謝罪の対象となるというのだ。事実ではないか。

これは「謝罪」に名を借りた「慰安婦は無かった」と歴史のねつ造を画策する首相安倍や、右翼連中の主張を後押し、推進するための開き直りに他ならないではないか。読売新聞は「新聞がどこまで翼賛化できるか」の実験をしているようだが、歴史事実までを捻じ曲げないと「翼賛化」の先頭には立てないということか。朝日の「吉田問題」を散々叩いた以上、それに符合する歴史事実は全て歪曲しないと「翼賛化」は担えないということかこの新聞、中には良心的な記者もいるのだろうが、総体としては「市民の敵」でしかない。新聞の名に値するレベルに到底到達していない。嘘をばら撒く歴史改竄主義のアジビラだ。

◆トンデモ過ぎる2002年早大講演での安倍発言

安倍がまだ小泉政権の官房副長官であった2002年、早稲田大学で講演をした。その際安倍は以下のように述べている。

「有事法制を整えたとしてもですね、ミサイル基地を攻撃することは出来ます」

「先制攻撃はしませんよ。しかし、先制攻撃を完全に否定してはいないのです」

(日本に対するミサイル攻撃を準備した)基地を叩くことは出来るんです、憲法上ですね」

「大陸間弾道弾はですね、その、憲法上はですね、憲法上は問題ではない」

「日本は非核三原則があるからやりませんけども、戦術核を使うということは昭和35年の岸総理答弁で、違憲ではない、という答弁がされています。それは違憲ではないのですが、日本人はちょっとそこを誤解しているんです」

「憲法自体を変えるというのは(中略)ちゃんとやらなければいけないと思うのですが、安全保障の問題というのはいつ突然起こるか分かりませんから、解釈を変えておかないとですね、もう詭弁に詭弁を弄していますから、限界なんですよね」

この発言「サンデー毎日」6月9日号でスクープされたが、読売新聞はその時だって何もコメントを発していない。

安倍が首相になるなど、当時は「悪い夢」でしかなかったけれども、その後不幸なことに我々は、奴を2度も首相に頂いてしまった。

第一次安倍内閣では、「防衛庁」が「防衛省」に格上げされた。教育基本法が改悪された。そして安倍は本気で改憲に向かっていたところ、持病で辞任に追い込まれた。

その後自民党政権が崩壊して民主党が政権を取った際、私は大して期待はしなかったけれども、最低「改憲」や「軍事化」への速度が収まるなぁと少し安堵していた。当時自民党の総裁は谷垣。谷垣は宏池会(自民党の中では比較的リベラルとされる派閥)に属する人間で党内での受けはよくなかった。

野党時代の自民凋落が止まらないので谷垣は総裁選挙で出馬すら認められず、安倍が総裁に就任する。暗雲はこのあたりから見えてはいた。

そして民主党の野田政権の「自爆解散」により、安倍自民党が圧勝し、今日の暗黒時代へと続く。

◆詭弁に詭弁を弄す安倍、読売の「愚弄」行為

読売新聞は、万々歳だろう。そして安倍は2002年に早稲田大学の講演で言い放ったように、「憲法自体を変えるというのは(中略)ちゃんとやらなければいけないと思うのですが、安全保障の問題というのはいつ突然起こるか分かりませんから、解釈を変えておかないとですね、もう詭弁に詭弁を弄していますから、限界なんですよね」を「解釈改憲」で強行した。

注目すべきは安倍自身がこの講演の中で、「もう詭弁に詭弁を弄していますから、限界なんですよね」と本音を述べていることだ。

そうだ。「詭弁に詭弁を弄して」きたのだ。詭弁とは「大辞泉」(小学館)によると、「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。こじつけ」となっている。

「道理に合わないことを強引に正当化しようと弁論してきた」と自認するのが安倍なのだ。そしてその「詭弁使い」の尻馬を足らと血道を上げてるのが読売新聞だ(「産経新聞は新聞ではない(週刊金曜日社長北村氏)」の見解に私も賛同するので「産経新聞」は議論の対象とはしない)。

安倍や、読売の行為を日本語で「愚弄」という。

▼田所敏夫(たどころ としお)
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《脱法芸能22》薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇

デビュー作『野生の証明』(1978年10月公開)。主演は11月10日に亡くなった高倉健。撮影当時の薬師丸は13歳

当連載ではこれまで、事務所から独立したために干されたタレントを多く紹介してきたが、独立後も干されないこともある。そのひとつが、角川春樹事務所から独立した女優の薬師丸ひろ子のケースだ。

薬師丸は、13歳の時に1978年公開の角川映画『野性の証明』の一般公募オーディションでヒロイン役に抜擢され、スクリーンデビューし、角川春樹事務所に所属した(出版事業を展開する現在の角川春樹事務所とは別会社)。その後も、多くの角川映画に出演したが、特に主演を務め、81年に公開された『セーラー服と機関銃』のヒットで一躍、スターとなった。

そして、1985年1月に、前年12月に公開された『Wの悲劇』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、授賞式の席上、「20歳をすぎましたし、そろそろただのアイドルではなく、いろんな傾向の作品に挑戦して、芸域を広げたい。そのためにもフリーになりたいんです」と発言。同年3月26日、7年間所属した角川春樹事務所から独立することとなった。

◆薬師丸の独立に寛容だった角川春樹

当時の報道によれば、薬師丸の年収は2200万円。映画の年間配給収入が約40億円と言われていたが、稼ぎの割りに収入は多くはなく、ギャラへの不満が独立の理由と見る向きもあった。また、角川春樹社長が原田知世に力を入れだしたことや、自分で仕事を選べないことに対する不満も独立の原因ではないかと言われた。

通常、タレントが事務所から独立すると、元所属事務所や業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)からの妨害やマスコミのバッシングが付きものだが、薬師丸の場合、そのようなことはなかった。

それどころか、薬師丸独立をめぐって、各プロダクションが激しい争奪戦を繰り広げ、契約金が2億円まで高騰したといった噂が流れ、既成プロダクションへの移籍説も生まれたが、結局、薬師丸は完全なフリーとして個人事務所、オフィス・メルを設立し、自ら社長に就任した。独立後の薬師丸には、仕事の依頼が殺到し、同年12月には、 独立後第1作の映画『野蛮人のように』(東映)が公開され、配給収入は86年の邦画で2位の14.5億円を記録した。

角川社長は、事務所を去る薬師丸に対し、仕事ができないよう圧力を加えるどころか、「ひろ子ならやられる、独立してひとりでやるなら」というはなむけの言葉を送ったという。

主演第2作の『セーラー服と機関銃』(1981年12月公開)。興行収入は47億円を越え、1982年の邦画部門最大のヒット作となった

◆出版から異業種参入した角川映画の栄枯盛衰

80年代の角川映画と言えば、薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子の3人が支え、「角川三人娘」と呼ばれたが、薬師丸が去ると、三人娘が所属していた角川系列のマネジメント事務所が解散し、角川春樹事務所に吸収された。この時点で角川社長は女優育成に情熱を失ったと言われ、87年になると渡辺、原田が相次いで独立してしまった。80年代末になると、人気タレントの流出の影響もあり、角川映画は急速に力を失い、本格的に映画事業に参入したフジテレビがそのお株を奪っていった。92年、角川春樹事務所は角川書店本体に吸収され、幕を閉じた。

なぜ、角川春樹事務所には「タレント管理」で失敗したのだろうか。

そもそも、角川グループの本業は出版業であり、角川文庫の売上げ拡大を狙ったメディアミックス戦略の一環として映画事業があった。芸能プロダクション事業は、映画事業の展開のために始めたにすぎず、経営の核ではなかった。芸能プロダクション部門がなくても、角川グループとしては大きな痛手を受けない。

一方、いわゆる「芸能界」の芸能プロダクションは、タレントの斡旋により収益を得ているから、タレントが勝手に独立したり、移籍されることは死活問題だ。そのため、芸能プロダクションの業界団体、日本音楽事業者協会(音事協)では、タレントの移籍を禁じ、独立阻止で団結している。

映画界でもかつては五社協定と呼ばれるカルテルが存在し、映画メジャー同士で、俳優の引き抜きを禁じ、独立を阻止していたが、観客動員数の低迷により71年ごろに俳優の専属制度は崩壊していた。

角川映画は、76年に第1作『犬神家の一族』で出版という異業種から映画事業に新規参入し、一時代を築いたが、過去の五社協定のような俳優の専属制度を守る仕組みを復活させることは遂にできなかったのである。

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

戦後芸能界の構造を確かな視座で解き明かす星野陽平の《脱法芸能》

◎《脱法芸能17》ジミ・ヘンドリックスが強いられた「奴隷契約労働」

◎《脱法芸能18》ヒットチャートはカネで買う──「ペイオラ」とレコード大賞

◎《脱法芸能19》ちあきなおみ──芸能界の醜い力に消された『喝采』

◎《脱法芸能20》今陽子──『恋の季節』ピンキーの復帰条件は「離婚」

◎《脱法芸能21》岩崎宏美──芸能界の人間関係が白から黒へと豹変する瞬間

今日の電気も原発ゼロ 『NO NUKES voice』Vol.2

 

 

下関女児殺害事件──最高裁が懲役30年の「冤罪判決」疑惑

「僕の上告は棄却されました。昨日、片岡さんと面会したあと、最高裁からそういう通知が届きました。今は怒りとショックでいっぱいです」

11月14日、広島拘置所の面会室。そう報告してくれた湖山忠志氏(30)は気丈にふるまっていたが、その声はいつもより元気がないように思えた。無理もない。身に覚えのない殺人の濡れ衣を着せられ、懲役30年の判決が事実上確定してしまったのだから。

湖山氏が拘禁されている広島拘置所

当欄で繰り返し、「冤罪疑惑」をお伝えしてきた下関市の6歳女児殺害事件。被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏は2010年11月28日の事件発生当初から捜査線上に浮上し、警察に執拗にマークされていた。そして決め手となる証拠もないまま、事件の半年後に逮捕。裁判でも有罪を確信させるような証拠は検察官から何1つ示されなかった。一方で裁判では、事件現場や被害者の着ていた衣服から湖山氏以外の「第三者」のDNAや毛髪、指紋が多数見つかったことが明らかになったのだが、湖山氏の無実の訴えは第一審、控訴審に続き、三たび退けられたのだ。

「それにしても、最高裁に上告趣意書を提出して、まだ半年も経っていないんですよね・・・」と湖山氏は言う。上告趣意書の提出は6月6日だから、最高裁はわずか5カ月余りで結論を出したことになるわけで、湖山氏が最高裁はちゃんと審理をしたのかと不信感を抱くのも無理はない。

◆刑務官も見抜いていた冤罪

もっとも、湖山氏は雪冤への希望を捨てたわけではない。

「これが3年とか5年の刑なら、早く務めて出ることを考えるかもしれません。しかし、僕の刑はそういう刑ではありませんから、再審で無罪を取れるようにがんばりたいと思います。刑務官も『君には、支援してくれる人もおるんやから、がんばらんといけんで』と言ってくれています」

これは以前から感じていたことだが、刑務官の中には、裁判官や検察官、警察官らより冤罪を見抜く力に優れている人が少なくない。それは被疑者や被告人と接する時間が長いことが理由だと思うが、どうやら広島拘置所にも湖山氏の冤罪を見抜いている刑務官が存在するようだ。それは1つの明るい希望ではあるだろう。

当欄で何度かお伝えした通り、この事件に関しては、山口地検の保木本正樹三席検事(当時)が在日韓国人の湖山氏に対する取り調べ中、韓国人や朝鮮人のことを「下等な人種」「人殺し集団」と言い放ったという「ヘイトスピーチ疑惑」もある。この疑惑も真相が解明されなければならない。何より、無残にも6歳で人生を終わらされた被害女児のためにも一日も早く湖山氏の雪冤と真犯人の検挙が果たされることを願いつつ、今後もこの事件のことは機会あるごとにレポートしたい。

【下関6歳女児殺害事件】
2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

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▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

今日の電気も原発ゼロ『NO NUKES voice』Vol.02

 

《脱法芸能21》岩崎宏美──芸能界の人間関係が白から黒へ豹変する瞬間

1984年9月1日、歌手の岩崎宏美が所属する芸能事務所、芸映から独立した。岩崎宏美の独立事件は、芸能界では典型的な部類に入る。

中学3年生の時、『スター誕生!』(日本テレビ)に応募した岩崎は、番組の最優秀歌謡曲を受賞して8社からスカウトされ、日本テレビ審査委員会の裁定で芸映と契約することが決まった。1975年、『二重唱(デュエット)』でデビューすると、その年のレコード大賞新人賞を受賞し、『紅白歌合戦』にも出場した。

雑誌『GORO』1975年12月23日号の表紙を飾った岩崎宏美。TV『スター誕生!』出身随一の実力派歌手は1975年に『二重唱(デュエット)』でデビューし、その年のレコード大賞新人賞を受賞した

その後も順風満帆な歌手生活を送った岩崎だったが、84年、転機が訪れた。岩崎は歌の仕事だけでなく、ミュージカルに挑戦したいと考えるようになったのだった。だが、ミュージカルに出演するためには、少なくとも1ヶ月は稽古しなければならない。当然、その間、歌の仕事はできない。所属事務所にとって、割の合わない芝居のために歌手としての活動ができなくなることは認められなかった。

結局、岩崎は独立の道を選び、個人事務所、スリー・ジーを設立した。ほどなくして岩崎が所属していた芸映は挨拶状を関係各所に送付したが、文面には「今後ともよろしく」という文言がなかった。

前年の83年には西城秀樹が芸映から独立していたが、この時は円満退社だと言われ、干されることもなかった。だが、岩崎独立の際は、円満退社ではなく、喧嘩別れだという噂がパッと広まった。岩崎は干され、テレビへの露出が極端に減った。

◆逆らった芸能人をテレビから締め出す音事協と大手芸能事務所の圧力

芸映といえば、1965年設立で芸能事務所としての歴史があり、河合奈保子、石川秀美、岸本加世子など十数人のタレントが所属する大手だった。テレビ局にとって芸映の存在感は大きい。岩崎と勝手に仕事をすれば、芸映との関係が悪化してしまう。テレビ局は岩崎の起用を控えるようになった。

芸映の鈴木力専務は『週刊大衆』(85年1月28日号)で次のように語っている。

「タレントを契約という紙切れ一枚で押えられるものではない。人と人の関係が基本、タレントを押えられなくなったら終わりだ。このプロダクションに居たから売れた、この人から離れたらダメになる、とタレントに思われなくてはダメだ。情熱を注げばタレントはついてくる。ほかではそうはならないことをよく知っている。プロダクションがタレントからなめられたら終わりですよ」

そして、それ以上に大きいのが多くの芸能事務所が加盟する業界団体の日本音楽事業者協会(音事協)の存在だ。どの芸能事務所にとっても所属するタレントが独立されることは痛手だ。岩崎の独立を認めれば、次々とタレントが所属事務所から去ってしまうという事態も想定される。大手芸能事務所は音事協を軸に結束し、テレビ局に対して岩崎を起用するなという圧力をかけ、後に続くタレントが出てこないよう共同戦線を張ったと言われる。

芸映の青木伸樹社長が音事協の会合の席で「岩崎の独立に協力するな」と発言したという噂が流れ、また、エイビーシープロモーションの山田広作会長は、こう述べている。

「(岩崎が)消えて当然だと思いますよ。それくらいの“見せしめ”は必要ですよ。音事協も断固たる処理をとったほうがいい」(『週刊大衆』85年1月28日号)

独立して芸能界で孤立した岩崎は、当時、このように語っていた。

「ウーン、一時、対人恐怖症みたいになったことはありましたね。そのとき人間ってオセロ・ゲームみたいだなあと思いました。いままで自分にとって白だと思っていた人が突然、黒にひょう変していくんですから(笑い)」(『週刊女性』85年4月2日号)

 

▼星野陽平(ほしの・ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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橋下市政に「違憲」判決の天誅!──大阪に「偏狭なファシスト」はいらない!

すっかり影が薄くなった小沢一郎が自民党の幹事長時代に記者団に向かって「君たち、『反権力』っていきまいてるけど、この国の権力は国民にあるんだ!何を勘違いしてるんだ!」と怒鳴ったことがあった。当時の小沢は田中角栄の後釜よろしく、土建屋政治の継承者。少なくとも評価に値する人間ではなかったが、今となってはこの恫喝が新鮮に響く。

湾岸戦争(1990年)に90億ドルを支出した小沢にしたところで、立憲政治の根本が「国民主権」にあることは意識されていた、と解釈することができなくもない。無法、乱暴をを働きながらも「建前」としての「国民主権」を否定することは自民党幹事長として許されなかった。

◆「教職員組合に便宜供与を禁じる」条例を成立させた大阪市の「違憲」性

さて翻って毎度、毎度で恐縮だが、大阪市長の橋下である。

11月26日、またしても裁判所から断罪された。今回は教職員組合に「便宜供与を禁じる」条例に基づき大阪市教組に小学校を使わせなかったことが大阪地裁で「違憲」(違法ではない)と認定された。教員が組合活動に学校を使うのが「便宜供与」とする条例自体の違憲性も指弾されたわけだが、この判決も当たり前と言えば、当たり前過ぎる判決である。

学校の教諭が職場で組合活動を禁じられたら、どこで組合活動を行えというのか。工場労働者が工場で組合の会議を開こうとして経営者から「工場を組合活動に使ってはいけない」などと明言したら、労基局は即座に「不当労働行為」として経営者に指導若しくは勧告を行うだろう。

時代の風とは恐ろしいもので、「教職員組合に便宜供与を禁じる」という趣旨の条例が大阪市では成立してしまっているのである。何が「便宜供与」だ。

労組は職場に存在するのであり、そこでの活動を「便宜供与」などと言い換えるのは詭弁でしかない。このような条例は「違憲立法審査権」により本来速やかに廃止されるべき性格のものであるが、橋下のやりたい放題はあまりにもえげつなく、多岐にわたったし、マスコミの応援もあり、こと手の「違憲」行為を2,3年前まで連発していた。

◆橋下市政は「反中央」でなく、ただの「無法」

もっと悪質かつ分かりやすい「違憲行為」に、市職員への「思想調査」があった。これを主導したのは橋下と中央大学教授の野村修也である。野村は弁護士資格も有しているが、橋下と同様に憲法の基礎さえ理解できない人間だ。「政治運動にかかわったことがあるか」、「どの政党に投票したか」などを実名記入の上全職員に提出を義務づける「アンケート」と称する「思想調査」を行ったのである。こんな無茶は民間企業でも余程の独裁経営者でなければ行いないだろうに、マスコミはその当時橋下に対して大した批判も行わず、むしろ後押しとも取れる報道がほとんどだった。野村は今でも平然とマスコミに登場しているようだが、マスコミの諸君もこの大罪人を少しは批判しようとは思わないものか。

前後するが大阪市の労組も情けないことに、知事から市長へと橋下が転じた直後、組合幹部が頭を下げ、橋下に握手を求めに行っていた。「何をしとんねん!このドアホ幹部が!」と頭に来たのを記憶している。

その後、どう考えても「違法」かつ「違憲」な行為を連発する橋下に対して、ようやく反撃が始まる。しかしその間大阪市は教育委員長に民間出身で公募で公立高校の校長も歴任した大ばか者を就任させている。この人物は高校の校長時代に教員が卒業式、入学式の際に「君が代」しっかり歌っているかどうか、口の動きを監視させ人物だ。さらに「平和教育を実践する」として生徒を自衛隊に体験入隊までさせている。橋下の言う「開かれた学校」とは「戦争に」が主語につくことを忘れてはいけない。

大阪は「浪速文化」とか「反東京、反中央、反権力」とか言われることもあるけども、こと行政の内部に限ってはこの数年「無法、無憲法」状態に置かれていたといってもいい。

◆大阪に橋下のような「偏狭なファシスト」はいらない!

前述した教職員組合への弾圧に対して橋下は「労組を弱体化させる意図があれば労使交渉していない」とか「むしろ労働組合法の原理原則にかなっている」などと「バカもたいがいにしとけよ」としかコメントできない言い訳を並べている。この男、気ままに知事から市長へ、そして無意味な辞職で再選挙、さらには「大阪都構想」(大阪ファシズム化構想)が進展しないので総選挙への出馬もにおわせたが、公明党から裏取引の申し出があると直ぐに出馬を引っ込めた。

橋下はことあるごとに「人、モノ、金を大阪に集めて!」と連呼する。で、どうなるのだ? 大阪が人、モノ、金の集積都市になれば大阪市民は幸せになるのか? 朝夕の地下鉄御堂筋線に乗ってみろ。あれ以上人間が乗車できるのか? 大阪(梅田)駅周辺に百貨店や大規模商業施設を乱立させたが、既に大阪駅上の商用施設で閑古鳥が泣き始めているじゃないか。大阪駅前の第一から第四ビルも空室だらけだ。

在特会会長桜井誠と共同で猿芝居を演じた橋下が共同代表の「維新の党」に、間違っても期待などしてはいけない。自民、公明は勿論論外だし、民主だって前科者だ。が、橋下は絶対に許せない。

大阪が必要としているのは橋下のような偏狭なファシストではない。

[関連記事]
橋下・桜井面会はファシスト差別者同志の猿芝居!(2014年10月23日)

▼田所敏夫(たどころ・としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない問題をフォローし、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心が深い。

「脱原発」国会議員の山本太郎インタビュー掲載! 『NO NUKES Voice』Vol.2絶賛発売中!

 

田中俊一委員長自宅アポなし直撃取材を終えて [原田卓馬]

デジタル鹿砦社通信をご覧の皆様、こんにちは。毎週、タバコは実は体に悪くないんじゃないかというテーマで『紫煙革命』というカルチャーなコラムを書いております原田卓馬です。

今回は鹿砦社より発売となりました紙の爆弾増刊号『NO NUKES voice』Vol.02の宣伝を兼ねて、取材こぼれ話をお届けします。

私、『NO NUKES voice』Vol.02では原子力規制委員長の田中俊一氏へのアポなし自宅直撃取材を担当しました。いつのまにやら鹿砦社松岡社長からは原発関連書籍の直撃取材担当者に仕立て上げられてしまい、『東電・原発おっかけマップ』や『タブーなき原発事故調書』などでも直撃取材をさせられて(笑)きました。

私はそもそも、都内を中心に活動する売れないシンガーソングライターです。取材も執筆もしたことがなく、何から手をつければいいのかわからないので、とりあえずウォルフガング・ロッツの『スパイのためのハンドブック』を読んでなんとなく気分を盛り上げてみました。

「怪しまれずに待つ」──直撃取材の鉄則その1

直撃取材で一番大事なことは「怪しまれずに待つ」ということだと思います。家の前で24時間体制で待ち続ければ、ターゲットはいつか必ず帰ってくるはずなので直撃取材は成功するのですが、そんなにうまくはいかないですね。

近所の人から不審がられて警察を呼ばれたり、ターゲットに警戒されたら待ち伏せは難しくなります。なので遭遇できそうな時間帯を絞り込む必要があります。そのためにターゲットの生活パターンを予測するのであれこれ情報を調べます。情報収集の基本は本人に直接確認することですが、それでは直撃取材になりません。

インターネットは便利ですね。人名で調べるとたいていWikipediaが最初に見つかります。ターゲットが学者なら大学を、経営者なら企業を、政治家なら政党を、調べるとターゲットの生活行動パターンを把握する手がかりがたくさん見つかります。ネット掲示板の2ちゃんねるなどは、デマや中傷が多いですが、近所での目撃情報が見つかる場合があるので重宝します。ただ、不必要な先入観を持ってターゲットに接すると邪悪な気分になる場合が多いのであくまで参考資料程度にしか考えません。

「ターゲットに恋をする」──直撃取材の鉄則その2

精神論でオカルトめいた考え方ではありますが、直撃取材での一番のコツは「ターゲットに恋をする」ということです。原発関連記事の場合、「原発推進派の悪い奴を懲らしめる」ための社会正義として動くような感覚がどこかで働いてしまいます。

「ターゲットがどれだけ悪い奴なのか」ばかりに注視して、社会的立場や権威性という色眼鏡を通して人物を観察すると嫌いにならざるを得ません。ターゲットを嫌いになってしまうと会いたくなくなりますね。人間は想像できたこと以外は実現できないと思っていますので、会うためには会いたくならなければいけません。アポなし直撃取材をする場合は好きにならなければ会えないのです。

ターゲットに恋をしている状態だと、どんな人物なのかもっとよく知りたいというピュアで真っ直ぐな動機を自らにインストールすることが出来るので行動原理がスマートになります。

 

◆「会ってみないとわからない」──直撃取材の鉄則その3

「金持ちや偉い人はだいたい悪人」という姿勢で挑むとターゲットの本性が見えません。以前、元東大総長で三菱総研理事長の小宮山宏さんに直撃取材をしたことがありますが、非常に感動しました。

小宮山宏の喧伝する「CO2地球温暖化脅威論」がクリーンエネルギーとしての原発を推進する一助となったということで「原発推進御用学者」と認定して直撃取材に向かったわけです。

原発関係の直撃取材は門前払いか、そそくさと逃げられるというパターンがほとんどですが、小宮山さんは逃げも隠れもせず、「君の言っていることはおかしい、私の書いた本をちゃんと読んだ上でもう一度会いに来なさい」と真摯に対応してくれました。小宮山さんの考え方が正しいかどうかはわかりませんが、立派な人物だと尊敬しています。

それ以来、「会ってみないとわからないから、うまくいったらターゲットと一緒に呑みに行く」くらいのつもりで挑むようになりました。

「自分の目と耳で確かめる以外にない」──結論

『NO NUKES voice』Vol.02には田中俊一の自宅住所と地図が掲載されていますので、脱原発派の方は説得するために、原発推進派の方は応援するために直接会いにいくことをオススメします。ちょっと工夫すれば簡単に会えますから、是非とも行ってらっしゃいませ。

今回会ってきた原子力規制委員会田中俊一委員長は、会って二秒で「警察呼べ」と奥さんに命令していましたが、奥さんは「なんでもかんでも警察頼みはよくないからちゃんと話した方がいいんじゃないの」と俊一を説得してくれました。

それにしても、日本人のセキュリティー意識の甘さというのは本当にびっくりします。平和でなによりという側面もありますが、自らがテロや暗殺の対象になるとは考えないのでしょうか。

田中俊一が発した「自主避難者への補償は必要ない、原発を再稼働するために粛々と手続きを進める」という言葉がどれだけ多くの人の感情を逆撫でするものかを理解しているならば、警備員を何人も雇って軍事要塞のような建物に住むべきだと私は思います。

そんな想像力の欠如した人間に原発を再稼働して貰っては困ります。文句があるならどんなに陰口を叩いても鬱憤は晴れませんから、本人に直接文句を言う以外に解決方法はありません。

ですから皆さん、『NO NUKES voice』Vol.02を握りしめて田中俊一が原子力を規制してくれるように応援しにいきましょう!

▼原田卓馬(はらだ たくま)
1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。
ご意見ご感想、もしくはご質問などは?twitter@dabidebowie
このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

◎原田卓馬の《紫煙革命》
《09》シガレットは何でできてるの?ランキング前半
《10》シガレットは何でできてるの? ランキング後半
『NO NUKES voice』本領発揮の第2号!田中俊一委員長をおっかけ直撃!

 

今日の電気も原発ゼロ 『NO NUKES voice』Vol.02

 

盲導犬オスカー君だけじゃない!呉市の猫連続虐殺事件も犯人はいなかった! 

「週刊現代」11月22日号のスクープ記事が話題だ。今年7月、埼玉県でオスの盲導犬オスカー君(ラブラドール・レトリバー)が飼い主の60代全盲男性と出勤中、何者かにフォークのようなもので背中を刺されたというニュースは日本全国を激怒させたが、同誌の追跡調査によると、実は「犯人はいなかった」というのだ。

この記事は、「現代ビジネス」にも掲載されている。記事によると、警察の大がかりな捜査で犯人がいつまでも捕まらないのは、オスカー君の背中の傷が実は刺し傷ではなく、皮膚病によるものだったからだという。記事には、オスカー君を治療した獣医師も実名で登場し、そもそも治療した際もオスカー君の背中の傷をフォークで刺されたものとは断定しておらず、皮膚病の可能性も十分あると思っていたとコメントしている。日本全国を激怒させた事件で、こんな真相が明らかになるとは驚くばかりだが……。

実を言うと、最近話題になった動物虐待事件の中には、秘かに同じような幕引きになっていた事件が他にもある。広島県呉市の猫連続虐殺事件がそれだ。

◆秘かに終わっていた警察捜査

猫の死骸が見つかった公園

呉市では2012年3月、西惣付町で上半身だけの猫の死骸が見つかったのを皮切りに同8月に1件、同10月に6件、同11月に2件…と同様の事件が断続的に発生。2013年4月までに事件は計26件を数え、週刊誌やスポーツ紙も取り上げて全国的に注目された。所轄の呉署関係者によると、当時は署長が「なんとしても犯人を捕まえろ!」と号令をかけ、この猫の事件は同署の管内で最重要事案という位置づけだったという。

ところが、呉市では昨年7月、LINE上の口論をきっかけに16歳の女子高等専修学校生が元同級生の少女ら16~21歳の男女7人にリンチされ、市内にある灰ヶ峰の山中で殺害されて遺棄されるという大事件が発覚。この事件が大々的な注目を集める一方で、呉署の最重要事案だったはずの猫の事件に関しては、続報をすっかり聞かなくなった。

猫連続虐殺事件の情報提供を求める警察のポスター。捜査本部解散後も放置され、ボロボロに

そこで今年7月、この事件がどんな現状なのか、改めて取材に動いたところ、警察捜査は意外な終わり方をしていたのである。

「昨年4月に26件目の事件があって以来、猫の死骸が見つかった情報提供はありません。一方、野犬が猫に噛みつき、ぐるぐる回していたという目撃情報があったことなどから警察は大部分が野犬の仕業だったと判断し、呉署の捜査本部も昨年6月に解散しました」(捜査関係者)

この相次ぐ猫の虐殺が仮に人間の犯行なら、そのうち大事件に発展するのではないかとも危惧されていた。それだけに本当にこの事件の犯人が野犬なら、ひと安心とも言えるのだが……。

実は地元には、「野犬犯人説」に釈然としない思いを抱えている人もいる。呉市動物愛護センターの佐々木一隆所長だ。

「昨年6月頃、警察からうちに『野犬の捕獲をしっかりやって欲しい』と要請がきたのです。今思えば、警察はあれで事件を幕引きしたのでしょう。ただ、事件が本当に野犬のせいなのかは疑問です。呉は決して野犬の多い地区ではないですから……」

野犬たちがある日を境にピタリと猫殺しをやめるかというと、たしかに疑問だ。筆者は地元で猫の死骸が見つかった現場を見て回ったが、市の中心部に近い公園など、野犬が猫を襲うために出現する場面がイメージしにくい現場もあった。報道によると、7月にあった佐世保の女子高生殺害バラバラ事件では、犯人の女生徒が「事件前に猫を解剖した」と供述しているという。呉市で今後、大変な事件が起きて、実は犯人はあの猫の……などという事態にならないことを願うばかりだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。