《大学異論19》警察が京大に160倍返しの異常報復!リーク喜ぶ翼賛日テレ!

11月13日、先の記事で私が予想した通り、京都大学への「反動」攻撃が始まった。学生寮である熊野寮に、多数の公安警察と160人の機動隊(日本テレビによる)が捜査の名の下「侵入」した。

捜査令状は11月2日東京のデモで公務執行妨害で逮捕された学生の捜査を口実にしているようだが、公務執行妨害は、計画的犯行に適応されることは稀であり、仮に学生が警察の主張通り機動隊をデモの際に引っ張ったり、押したとしても、そんなものを計画した証拠などある道理がない。第一公務執行妨害程度の嫌疑で京都府警ではなく、警視庁が出動してくるのはかなり異例の事態だ。

◆屈辱の暴走──警察が学生を引きずり倒す違法行為

そもそも、至近距離から逮捕の状況を撮影したビデオを見ると、明らかに警察が学生を引きずり倒している。これは公務執行妨害ではなく、特別公務員暴行陵虐罪(警察官などの暴行を裁く法律、最高刑は懲役7年)に該当する行為ではないのか。

京都府警公安2課の井上裕介が京大内で取り押さえられたのが、警察には耐え難い屈辱だったことの反証だ。

でも、私が驚いているのは警察の行動ではない。世には「暴力団」と呼ばれる集団があるが、詳細に分けると2種類に区別できる。民間人で構成され時に「ヤクザ」と呼ばれる人々と、公営(税金で賄われた)の「警察官」と呼ばれる連中だ。「ヤクザ」は時に包丁を持っているだけでも銃刀法違反で逮捕されるが、警察官は拳銃を携行していても決して捕まらない。

民間の「ヤクザ」は常に悪事を働くと報道され、多くの市民は恐れているのに対して、公営の「暴力団」である警察官は常に「正義の味方」であるような誤解がある。だが、民間・公営双方組織の原理原則は変わりはしない。それは「暴力と恐怖」による支配だ。警察官が暴力的であるのはヤクザが刺青をしている程度に普通の事なのだ。

◆30年前の「化石」映像を流し、「現場は混乱」と叫ぶ日本テレビの「狂気」

私の暴論は平安な暮らしをしている善男善女の皆さんには奇異に聞こえることだろう。

だが、削除されない限り下記の映像をご覧頂きたい。

◎「速報 京都大学の熊野寮に家宅捜査入る!」(2014年11月13日)

これは日本テレビで流された映像だ。熊野寮前からの中継映像も含まれていた。中継映像の中でアナウンサーは「たくさんの公安の方が」とか「機動隊の方々が」あるいは「部隊の方々」と敬語用法上明らかに誤った発言を繰り返していた。

公安や警察官、機動隊はそれ自体が職務の名前なので余程の敬意を払う時以外には「公安警察」、「警察官」、「機動隊(もしくは機動隊員)」と呼ぶのが妥当だ。が、このアナウンサーは本心を吐露してしまったのだろう。それはどういうわけか通常では事前に知る由もないガサ入れ現場に、事前から待機していた日本テレビを含むマスコミ各社の人間の共通した声かもしれない。警察=「善」、学生=「不届き者」と いう救い難く、理に堪えない低劣思考である 。

私はマスコミが警察のリークにより、ガサ入れが行われることを事前に知っていたと確信する。

そして、アナウンサーは「現場は大変混乱しています」とも繰り返した。それは当たり前だろう。例えば、貴方の家にいきなり数十人の暴漢達が訳もなく侵入しようとすれば、普通はドアを開けないだろう。それでも暴漢達が怒号を発しながらドアを開けようとすれば、内側からドアを開けられまいと必死で抵抗するのではないか。

その光景をテレビが中継していて「現場は大変混乱しています」と報じられたら貴方はどう思うだろう。「混乱」を引き起した責任が貴方(若しくは双方)にあるような報道をされても平然としていられるだろうか。アナウンサーが「暴漢の方々が次々と集結しています」と報じられた日にゃ、テレビを蹴飛ばしたくなりはしないか。

日本テレビのアナウンサーが熊野寮前から中継で発した言葉は、提示した例と何変わらぬ光景である。狂っていると思う。

そして、その光景を如何にも深刻そうな顔をして覗き込んでいるコメンテーターの中に元防衛大臣森本敏の姿があるではないか。自民党をこよなく愛し、改憲の必要性や日本の軍事大国化を熱心に説いていた森本は民主党政権からお声がかかると、これ幸いと防衛大臣のいすに収まった人間だ。

こんな軍国主義者(かつ変節漢)をコメンテーターとして出演させる番組の司会は「原発が止まったら江戸時代に戻っちゃうじゃないですか」と発言した宮根誠司だ。こんな連中からまともな(少なくとも中立な)コメントがなされる道理がない。宮根が何の恥じらいも反省もなく司会を務める番組は、中継映像の後に30年前の三里塚闘争(成田空港建設反対闘争)の際の映像を流し、学生たちがあ たかも現在も暴力行為を続けている集団かのように宣伝した。

「アラー怖いわね」と事情を知らない視聴者はまたしても権力の思う壺、「学生は過激派だから仕方わ」と世論誘導されてゆくのだろう。しかし、見逃してならない事実がある。日本テレビは、学生の一部が所属する組織の暴力性の証として約30年前の事件を提示することしかできていない点だ。30年前に学生は生まれていなかった。そしてそれ以降、彼らの一部が属する組織が「暴力的事件」を起こしているのなら日本テレビは必ず最新の事件を使ったに違いない。しかし、そのような映像は準備できなかった。なぜならそれ以降マスコミが喜ぶ「暴力事件」自体がないからだ。

私はテレビを見ない。この習性はかれこれ30年ほどになる。今まで人に勧めたことはない。でも今日はそうしてもいいかな、と少し感じている。

[関連記事]
◎《大学異論18》「過激派」は学生でなく今の日本・安倍政権!──京大集会報告
◎《大学異論16》京都大学が公安警察の構内潜入を拒否するのは100%当たり前!

▼田所敏夫(たどころ・としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない問題をフォローし、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心が深い。

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《大学異論18》「過激派」は学生でなく今の日本・安倍政権!──京大集会報告

10月12日正午から京都大学で「11・12抗議行動実行委員会」主催による「全学緊急抗議行動」が行われた。京都大学全学自治会同学会が中心となり、様々な大学の旗や団体の旗がはためく集会だった。

◆制服姿の高校生も長時間、耳を傾けた

同学会の学生諸君にお目にかかるのは初めてであったが、現在、日本や世界についての状況分析からデモにおける学生の不当逮捕、それに続く京大への公安警察侵入を捕捉した意義と問題点などが基調演説で語られた。うんうん。最近の現役学生にしては非常によく勉強しとるわい、と感心させられる(こんな表現は失礼か)。続いて各団体の発言となり、熊野寮や学部自治会、まるっきりの個人からの発言も相次いだ。学生だけでなく労働団体や市民団体も参加していた。

ざっと見渡したところ参加者は主催者発表で300人、警察発表で70人というところであろうか。印象的だったのは制服姿の高校生が長時間集会に耳を傾けていたことだ。

京大全学自治会が所属する「全学連」委員長も駆けつけており、強い調子のアピールを行っていた。別の学生は「今日もこの中に公安がいると思いますけど」と冗談交じりに発言した。私の後ろにはちょと怪しいスーツ姿が2人いたが一瞬彼らはたじろいだように思う、勘違いかもしれない。

京都大学で11月12日、不当逮捕と公安の侵入に抗議する「全学緊急抗議行動」が開かれた(筆者撮影)

◆学生に「過激派」のレッテルを張る国家こそが究極の過激組織

そして私は思いを巡らした。目の前で発言する学生は「戦争に向かう安倍政権を許せないし、それに対抗する学生を逮捕する弾圧は許せない」、「日米ガイドライン見直しと特定秘密保護法の施行が迫っている。この国は戦争に向けてまっしぐらだ」、「なぜ、大学との約束を破り大学に潜入した公安を拘束したのが『行き過ぎ』と言われて、なんの暴力も振るっていないデモ参加者を引きずり倒して逮捕するのが正当化されるのか? 『過激派』だからというが、どっちが過激なのか?」と。

最後の発言は、ここ20年ほど私の頭の中で行きつ戻りつしてきた疑問でもあった。警察や公安調査庁は「過激派」、「極左暴力集団」と呼ぶけれども、ゲバ棒どころかヘルメットすら被らなくなった、彼らのどこが一体「過激」なのだと。私は特定党派の擁護をしているのではない。むしろ彼らにはある種の歯がゆさすら感じる。無責任の誹りを恐れずにいうなら「革命」に相応しい行動してくれよな、という内心がないわけでもない。いやダメだ。こんな発言に私は1ミリも責任を持てない。

だが、断言できる。レッテル張りで「過激派」、「極左」という警察用語を恥もなく用いる、あるいは疑わない新聞記者やマスコミの連中の頭脳の方が「反動に乗じる」という力学の中で余程「過激」であることを。凡そどれほどの動員力や資力を保持しようとも、この国において「国家」を超える「過激派」など存在しえた歴史はない。国家こそが戦争を、死刑を、資本を、些細な公務執行妨害(ほとんどのケ―スはでっち上げ)を独占しうる究極の過激組織ではないのか。

◆森喜朗政権と安倍政権の温度差──15年弱で蔓延した御用マスコミ・文化人

例えば、その補完機能として日本テレビ系列に最低クラスの情報番組として「バンキシャ」という番組がある。この番組に出るコメンテータは全員御用学者か、検察出身の弁護士、あるいはおでたい御仁で「早く国粋主義を!」と主張する連中ばかりだ。

そこに先週作家で法政大学の島田雅彦が登場した。島田の名前が世に出たのは「優しいサヨクのための嬉遊曲」(1983年)だった。「この弱虫め、お前のような奴が敗北を呼び込んだのだよ」と若気の至りに怒りながら読んだ記憶があるが、番組の中で島田は「公安の人たちが容易に身分が分かってしまうと職務上問題があるんじゃないのか」と発言をしている。いや、正確に訳せば「公安の人達はもっと身分が分からないようにして職務を遂行すべきです」と訳せるじゃないか!

かつて「オットセイの体に蚤の脳味噌」と比喩された森喜朗という首相がいた。森は麻生と同程度に日本語が苦手なので失言を繰り返し、最後は支持率が一桁になった。森と比べて安倍の支持率はたぶん実質の10倍以上水増し操作されている。ありがたくも賢く相成ったマスコミのお蔭だ。

京都大学の帰路立て看板に学生サークルが「青山繁晴」の講演会を開くという宣伝があった。私が知る限り「安全保障の専門家」を自認する青山は共同通信勤務時代に海外出張の際、経費をごまかした咎で自主退職に追い込まれた輩だ。「テレビアンカーでおなじみの!」と学生は青山をテレビ出演の実績で讃えていたが、京大に合格する能力があっても青山の吐く明白な嘘と恫喝の羅列の本質には思いが至らないのか。その点ではこれも「過激」な現象だといえよう。

こと戦争に向かう方向性においては我らが偉大なる首相「安倍」同志が畏くも「解釈改憲」という妙案を用いて近道を作り出してくださった。その「安倍」同志が間もなく解散総選挙に打って出るという。所費税が8%になり、大臣が金銭疑惑で辞任しようが、景気が冷え込んでも何ってことない。マスコミは順風満帆、いつでも「安倍」同志の露払いであり懐刀だ。

過激なのは、公安を取り押さえた学生なのか? それとも時代なのか? この問いは重い。

※関連記事=《大学異論16》京都大学が公安警察の構内潜入を拒否するのは100%当たり前!(田所敏夫)

▼田所敏夫(たどころ・としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない問題をフォローし、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心が深い。

 

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《罪の行方05》「罪と自分に向き合い続ける」──宮崎死刑確定直前被告の肉声

当欄で過去4回取り上げた宮崎家族3人殺害事件。殺人罪などに問われた奥本章寛被告(26)は宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けたが、地元では死刑回避を求める支援運動が盛り上がり、被害者遺族が最高裁に「第1審からのやり直し」を求める上申書を提出するなど、異例の事態となった。だが10月16日、最高裁は奥本被告の上告を棄却。奥本被告はその後、判決訂正の申立も退けられ、ついに死刑判決が確定した。

奥本被告はこれまで1日に1回の面会、2通の手紙の発信が認められていた。が、死刑判決の確定後は処遇が変わり、弁護人や親族以外とは面会、手紙のやりとりがほとんどできなくなる見通しだ。そこで筆者は10月31日、奥本被告に現在の心境や今後の予定などを聞くため、宮崎刑務所を訪ね、面会してきた。

前回面会した際は初対面にも関わらず、どんな質問にも率直に答えてくれた奥本被告。今回は死刑判決の確定を間近に控えた中での面会だったが、前回同様、1つ1つの質問に率直に答えてくれた。奥本被告が妻、生後5カ月後の息子、養母(妻の母)という家族3人の命を奪ったことは紛れもない事実だが、そこに至るまでには複雑な事情が重なっていたことが思い返された。以下、この日の奥本被告との面会室でのやりとりを取材メモに基づいて紹介しよう。

宮崎刑務所は宮崎市郊外ののどかな田園地帯にある

◆死刑でおかしくないと思っていた

── 上告が棄却されたのをどうやって知りましたか?
「上告棄却は夕方6時のラジオニュースで知りました」

── その時はどう思いましたか?
「ああ、やっぱりな、と思いました。自分のしたことを考えれば、死刑でおかしくないと思ってましたから」

── ショックを受けたり、落ち込んだりはしなかったですか?
「少しは動揺しましたよ」

── 上告が棄却され、何か生活に変化はありますか?
「とくに変化はなく、生活はいつも通りです。本を読んだり、写経・書写をしたり、絵を描いたり。手紙を書くのは増えました。手紙は平日2通しか出せないのですが、今までお世話になった方々の全員に出せるだけ出そうと思っています」

── お世話になった方々とは?
「主に支援者の方々で、その他に文通だけしていた方々もいます」

── 上告が棄却されてから、色んな人が面会に来ているのでは?
「上告を棄却されてからは今のところ、一般面会はほぼ毎日、誰かがお越しくださっています」

── それはやはり嬉しい?
「嬉しいですね。お礼の手紙を送るのが間に合いませんが」

── 死刑判決が確定すると、どういう処遇になるかはもうご存知ですか? たとえば、家族や弁護人以外とはほとんど面会も手紙のやりとりもできなくなることとか?
「本を読んだりして知っています」

── 面会や手紙のやりとりが制限されることはどう思いますか?
「制限はされたくないですね。でもあきらめています」

死刑判決が確定すると、外の世界と隔絶された生活になることは承知していた奥本被告。だが、その語り口はとても落ち着いていた。もしも自分が同じ立場に置かれたとして、ここまで平静を保っていられるだろうかと、ふと考えさせられた。

翌日から矯正展があるため、いつもと雰囲気が違った10月31日の宮崎刑務所

◆絵は被害者を想いながら描いている

上告棄却後もとくに生活に変化はないという奥本被告。被害者遺族に弁償するため、獄中でポストカードの製作に励んでいることは前回お伝えした通りだが、その作業も変わらず続けているようだ。

── ポストカードにするための絵は現在どうですか?
「自分は技術がなくそんなに上手くは描けません。でも今、描き上がっている絵は前回のもの(ポストカード)より少しはマシな絵になったと思っています」

── あれはどうやって描いているんですか?
「以前は昔見たことがある花や風景を思い出して描いていましたが、それには限界がありましたので、今は花の図鑑を観たり、写真などを見て、絵を描いています。見る写真は花や私の古里の風景、その他の風景です。写真は父に頼んで送ってもらい、その他に支援者が送ってくれます」

── 私が見たポストカードの絵はほのぼのとした暖かみが感じられましたが、こういう絵を描こうと何か考えながら描いていることはありますか?
「暖かみのある、やさしい、やわらかい絵を描きたいとは思っています」

── 心の琴線に触れたものをそのまま描いているような感じでしょうか?
「そうですね。絵を描く時は写経や書写をする時と同じような心境です。被害者3人のことを想いながら描いています。とくに妻と息子のことを想って、心の琴線に触れたものを2人に重ねて描いています」

── それが、償いの気持ちを持ちながら絵を描いているということですか?
「命を奪ってしまい、申し訳ないと思いながら描いています。僕は、絵を描くことは被害者3人に対する償いの1つだと思っています」

── 本はどんな本を読んでいますか?
「最近読んだのは、『ゲドを読む。』というゲド戦記に関する本です。色んな人がゲド戦記を読み、感想を言っているような内容の本です。支援者の中にジブリファンの方がいて、先日もジブリ関連の本を4冊差し入れてくれました」

◆再審と恩赦を考えている

上告棄却後もこれまでと変わらぬ生活を送っている奥本被告だが、死刑確定後のことも色々考えているようだ。

── 再審の請求をされることなどは考えていますか?
「再審の請求と恩赦の出願を考えています。10月16日に上告が棄却され、その日の夜まではこの結果(死刑)を潔く受け入れて死のうと考えていましたが、色々と考えた結果、その考え・気持ちはまったくなくなりました。今後も内省を深め続けるために、恩返しのために、償いのために最後までしぶとく生きることにしました。なので、そのためにできることはすべて行うつもりです」

── 反省をするとか、償いをするというのは、具体的にはどういうことをしようと考えていますか?
「反省は、僕が犯した罪と自分自身に最後まで向き合い続けることで、それが一番大切だと思っています。よりよく反省するために、主に浄土真宗ですが、仏教を学び続けます。償いは、被害者遺族に命ある限り、謝罪し続けることと、被害弁償金をお渡しし続けることです。被害者遺族に対する償いはこれくらいしか思いつきません」
「僕は、被害者3人の尊い命を奪うことによって、仏教によって、命の大切さ、尊さを明確に知らされました。なので、自分の命を大切に守るようにできる限り努力すべきだと考えています。それが、奪ってしまった被害者3人の尊い命に対する償いの1つだと思っています」

── ひとくちに償いと言っても難しいですね。
「難しいです。謝罪するのは大切なことだと思いますが、謝罪するだけではいけません。お金を払ったからと言って、とくに何も変わりませんが、何もしないよりはいいと思うんです。絵を描くという方法でお金を払えるのは、支える会の方々や黒原弁護士がチャンスをつくってくれたからです。まさか自分の描いた絵が売れてお金になるとは思ってなかったですから。せっかくつくってもらったチャンスですから、絵は描き続けたいと思っています。また、死刑が確定しても請願作業というのがあるそうなので、絵がダメな場合、それをしてお金を払うことも考えています。報酬はとても安いので、あまり大きな金額は払えないかもしれませんが」

── あと、恩返しとは?
「支える会の方々や黒原弁護士らに対して、何か恩返しがしたいと思っていました。死刑確定者になりますので、僕にできる唯一の恩返しは、最後まで償おうとする姿を、必死に生きようとする姿を見せることだと思っています」

◆死ぬ時も福岡がいい

── 先日面会させてもらった際、奥本さんは「死刑が怖いという思いは今のところ、あまりない」と言っていましたが、上告が棄却されて死刑判決が確定することになり、死刑への恐怖は出てきていますか?
「それはやっぱり少しありますね。これからはいつ死刑執行されてもおかしくないですから。不安や恐れはありますよ」

── ただ、こうして話していて、あまり落ちこんでいる感じにも見えませんけど?
「そうですか(笑)。黒原弁護士は最後まで付き合ってくださるようなので、僕も最後まで償おう、生きようと思っています。それに、しなければいけないことがたくさんあるので、落ち込んでいる暇がないです」

── 上告が棄却された後、お父さん、お母さん、弟さんたちとは会いましたか?
「父と母は面会に来てくれました。母は普通にしっかりしていましたが、父がショックを受けていましたね。涙目になっていて、落ち込んでいるのがよく顔に出ていました。あの父の様子は、僕もつらかったですね」

── Yさん(筆者注:第1審からのやり直しを求める上申書を最高裁に提出した被害者遺族。奥本被告の妻の弟)も面会に来てくれたんでしょうか?
「10月20日に来てくれました。嬉しかったですね」

── 死刑判決確定後はYさんとも面会や手紙のやりとりができるように請求するのでしょうか?
「そのつもりです。福岡拘置所に移送になれば、Yさんも他の拘置所よりは面会に来やすいはずです。福岡拘置所に行きたいです。福岡で生まれ育ったので、死ぬ時も福岡がいいです(筆者注:奥本被告は高校卒業後、自衛隊に入隊してから宮崎に移り住んだ。死刑判決確定後は現在の宮崎刑務所から刑場のある施設に移送されるが、管轄的に福岡拘置所に移送される可能性が高い)」

以上、奥本被告と面会した際のやりとりだが、この面会後に奥本被告から届いた手紙の一節も紹介しておきたい。奥本被告は面会の際、「内省を深め続けるためや恩返し、償いのために最後までしぶとく生きることにした」と語っていたが、手紙ではその真意が改めて次のように綴られていた。

《私が今、考えていること(再審や恩赦)はまったく潔くありませんが、間違っていないと思っています。私は、被害者3人の命をある日突然奪ったのですから、私が死ぬ心の準備をするのはおかしいです。私も死ぬ時は、死ぬつもりがまったくない状態で死ぬべきです。最後までしぶとく生きるつもりです》

死刑確定後も生き続けようとする奥本被告に対し、反感を抱いた人もいるかもしれない。しかし、奥本被告が生き続けようとするのは、死ぬ時は被害者たちと同じ恐怖や苦しみを味わうべきだという覚悟を決めたうえでの選択なのだ。死刑判決が確定し、筆者も奥本被告と接点を持つのが難しくなることは確実だが、今後も奥本被告の動向は可能な限りフォローしていきたい。

【宮崎家族3人殺害事件】
宮崎市花ケ島町の会社員・奥本章寛被告(当時22)が2010年3月1日、自宅で妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、妻の母(同50)を殺害した事件。奥本被告は同年11月17日、宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受け、さらに2012年3月22日、福岡高裁宮崎支部で控訴を棄却され、死刑判決を追認される。現在は最高裁に上告中だが、あす16日、判決公判が開かれる。地元では減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族も最高裁に「第一審からのやり直し」を求める上申書を提出する異例の事態になっている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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《大学異論17》学園祭の「ミスコン」から芸能界へ、という人生

「ミスコンテスト」(ミスコン)は下火になったものの町おこしや、企業のPRで相変わらず行われている。かつての「ミスコン」は女性が容姿を主に競うものであった。フェミニズムのみならず女性を「商品」として見るていると問題視する人々から批判を浴び、最近では女性の知識や能力を加味した選考を行うと謡っているものが増えたが、それとて実際は女性の「美人競争」の感がぬぐえない。

◆一味違った某大学の「女王」

毎度、手前味噌で恐縮だが、私の勤務していた大学の学園祭にも(このコラムの過去記事をご覧の読者にはその学園祭が一般大学のそれとはかなり趣が異なることはご理解いただけているとは思うが)「ミスコン」があった。ただし、その「ミスコン」は最初からストーリーが出来上がっていて、ステージに登場する「女性」の半数以上は女装した男子学生だったり、優勝者はあらかじめ決められており、舞台上でのやり取りも「吉本新喜劇」みたいな出来レースであった。

フェミニズムの世界で知らない人のいない、○野千鶴子先生はじめ、多数のフェミニズム教員が在籍していた大学だから、通常の「ミスコン」など行えるはずもないし、大学も女性の差別は許さないのは分かり来ている。学園祭を主催する学生たちの感性は我々教職員のそれをはるかに凌駕する鋭さがあった。

私が着任した年に行われた学園祭での「ミスコン」では、その年に入学した学生(つまり1年生)が優勝者に内定していた。確かに顔立ちはそこそこ整っているが、口数も少ないし、どうしてこの学生を学生たちが「女王」に選んだのか、実際の舞台を見るまで私にはよくわからなかった。彼女は恥ずかしそうに舞台に登場すると、司会者からいくつか質問を受け、音楽に合わせてゆるやかに踊り出した。すると驚いたことにそれまでの恥じらいの表情が、徐々に変化を見せ出した。全身から人を引き付ける不思議なオーラのようなものを発し始めたのだ。「自分が多数の人から見られていることに対しての喜び」のような表情に変わっていく変化を今でもはっきり覚えている。決して踊りが上手でも、振る舞いが派手なわけでもない。下手な芸人より面白い話をする参加者も他にいたが、なぜか輝いている。そんな彼女が予定調和ながらその年の「ミスコン」では彼女が「女王」に選ばれたのが何となくうなずけた。

◆学生の慧眼をなめてはいけない

それから約1年半後、私は彼女から相談を受けることになった。彼女は3年次に半年海外留学が決定していたのだが、それを取りやめたいという。海外留学は彼女が個人で計画したしたものではなく、大学が選考して派遣する制度を利用したものだった。その留学手配業務が私の仕事だったので彼女は相談に来たのだ。理由を聞いてみると「テレビの深夜番組へ出演できるようになった。将来は芸能界の仕事がしたいのでこのチャンスを活かしたい」という。しかし詳しく聞くと「テレビ出演」と言っても深夜のローカル番組で、タレントが話す後ろに座って場を賑あわす、「ひな壇」の一人に過ぎないらしい。私は彼女の才能は知らないものの、芸能界で成功することの難しさは予想できた上に、半年間の留学で大いに成長した学生を何人も見え来ていたこともあり、彼女に再考を促した。が、彼女の意思は固く結局留学は取りやめることとなった。

担当していた教員にも相談に行った。「あんな馬鹿番組に出ただけで売れるわけないわよ、っていくら諭しても聞かないから仕方ないわ」というのが指導教員の話だった。

数年後、彼女は松竹芸能所属の漫才師として全国に名が知られる存在になっていた。白と黒の駒の色の数で勝敗を競うゲームがコンビの名前だった(え?わかりにくい?オセロだよ!オセロ!もうネタバレ覚悟だ!)。

私はテレビを見ない。それでも週刊誌や知人の話に頻繁に登場するくらいの売れっ子になっていた。留学を止めたいと相談に来た時に強引に説得しなくて良かった、と彼女の成功を喜んだ。

その後、あれこれトラブルがあって急激に太ったとか、洗脳されて引き籠りになったとか、井上陽水と出来た(事実ならあっぱれ!)などあまり芳しくない噂を聞くにつけ「やっぱり、止めといた方がよかったのかな」とも思うことがないでもなかったが、彼女の選んだ人生だ。あとはよろしくやってってくれとしか言いようがない。

それにしても、大学1年で彼女に宿る「才能」(運?)を見出して、「ミスコン」の「女王」に選び出した学生たちの慧眼に恐れ入る。学生をなめてはいけない。

 

▼田所敏夫(たどころ・としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しない問題をフォローし、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心が深い。

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《脱法芸能18》ヒットチャートはカネで買う──「ペイオラ」とレコード大賞

拙著『芸能人はなぜ干されるのか?』では、日本の芸能界の腐敗の象徴として日本レコード大賞を採り上げている。

レコード大賞は、1959年に始まってほどなくして、賞を獲った歌手のレコードの売上が伸びることが分かって審査員の買収の噂が囁かれるようになり、80年代になると工作資金を抑えるため談合が横行し、2005年には審査委員長が変死するという異常事態まで起きた。

◆ラジオDJ=アラン・フリードのペイオラ・スキャンダル

だが、アメリカの音楽業界もかつては同じような問題があった。ヒット曲をお金で買う「ペイオラ」と呼ばれる悪しき慣習だ。

ペイオラというと、アラン・フリードとともに語られることが多い。アラン・フリードは、50年代に人気を博し、アメリカでもっとも有名だったラジオDJで、「ロックンロール」という言葉をアメリカに広め、その普及に大きな貢献をした人物として知られるが、晩年はペイオラのスキャンダルでもみくちゃにされた。

◎Alan Freed’s Go Johnny Go trailer (1959)

ペイオラとは、支払いの意味の「pay」とRCAビクターが販売していたレコードプレイヤー「ビクトローラ(Victrola)」を掛け合わせた合成語で、レコード会社がDJにリベートを払い、その見返りとして番組でそのレコードをオンエアしてもらう賄賂のことだ。もともと、ラジオDJは生活が不安定で賃金も低かったために、ペイオラに頼っていたが、50年代になると業界中に蔓延し、DJにカネを握らせなければ、レコードはオンエアされないという状況にまで陥っていた。

インターネットのない当時、メディアはレコード業界で絶大な権力を持っていた。そして、選曲の権限を握るDJたちに、レコード会社のプロモーション担当者が群がった。

それを象徴するのが59年5月にフロリダ州バルハーバーのアメリカーナ・ホテルで開催さたディスクジョッキー・コンベンションという大会である。

大会は50社近くのレコード会社が協賛し、アメリカ中から2500人ものDJが招待され、4日間にわたって24時間、レセプションやパーティー、コンサート、ハバナへの旅行を賭けたゲームなどがすべて無料で提供される大盤振る舞いが行なわれた。

会場に着いたDJには、RCAから100万ドルの疑似通貨が「遊興費」として手渡され、それを元手にギャンブルをすることができた。その疑似通貨と引き替えにステレオセットやカラーテレビ、洋服、ヨーロッパ旅行のチケット、高級車などが提供された。そればかりではなく、会場となったホテルでは、マリファナや多数の売春婦が溢れ、文字通り、酒池肉林の観を呈していた。

だが、ヒットチャートをカネで操作するペイオラは、アンフェアで非アメリカ的であるとして、世間から非難を浴び、58年、下院議会はペイオラを違法とする法律を制定した。

1960年5月19日、アラン・フリードは収賄の疑いで逮捕された。その後、アラン・フリードを含む多くの有名DJが公聴会に召喚され、数十年にわたって業界でペイオラが浸透していた事実が明るみに出た。62年、アラン・フリードには、罰金と執行猶予付きの実刑判決が下され、業界から追放されてしまった。経済的にも困窮したアラン・フリードは、アルコール依存症となり、65年、肝硬変などを患い、43歳という若さで死んだ。

とはいえ、この一連のスキャンダルでペイオラが完全になくなったわけではない。レコード会社が独立系のプロモーション会社と提携し、そのプロモーション会社がラジオ局に賄賂を渡せば違法とは認定されないという抜け道があったからだ。

だが、2000年代に入ると、この抜け道も問題視されるようになり、連邦通信委員会(FCC)は違法性を認定。大手のレコード会社やラジオ局が次々と、司法当局によって告訴され、ぞれぞれ巨額の罰金を支払わされた。

◆日本レコード大賞──事務所間のパワーゲーム

翻って日本の芸能界はどうだろうか?

その年のもっとも優れた楽曲に与えられることになっている日本レコード大賞は、1964年の第6回目から「黒い霧」と呼ばれるスキャンダルが持ち上がって以降、何も変わっていない。

今年もライジングプロダクション所属の西内まりあが8月にCDデビューすると、その直後にレコード大賞の最優秀新人賞に内定したと報じられた。実力は未知数のほぼ無名の新人だが、ライジングプロでは安室奈美恵の独立騒動が持ち上がっており、安室の後継者として西内を育成したいという強い意向があるという。

日本の芸能界には「実力主義」という言葉はない。そこで繰り広げられているのは、事務所間のパワーゲームでしかないのである。

▼星野陽平
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』絶賛発売中!

 

鳥取連続不審死被告が獄中で綴った「報ステ」の故・敏腕ディレクターへの追悼文

テレビ朝日「報道ステーション」のディレクター、岩路真樹さん(享年49)が自殺し、遺体が自宅で発見されたのは8月末のこと。それから2カ月、原発問題や冤罪問題をはじめ様々な社会問題を精力的に取材していた岩路さんの死を悼む声は今も後を絶たない。そんな中、今月7日に発売された『紙の爆弾』12月号には、ある著名な女性が綴った岩路さんへの追悼文が掲載された。

その女性とは、鳥取連続不審死事件の上田美由紀被告(40)である。

上田被告が拘禁されている松江刑務所

◆生前、冤罪を疑っていた

上田被告は2009年、首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗被告と共に「東西の毒婦」とマスコミに騒ぎ立てられた。捜査の結果、借金の返済や家電代金の支払いを免れるために知人男性2人を殺害したとして強盗殺人罪などに問われ、一貫して無実を訴えたが、2012年12月、鳥取地裁の裁判員裁判で死刑判決を受けた。その後、広島高裁松江支部の控訴審でも無実の訴えを退けられ、現在は最高裁に上告中である。

岩路さんが生前、この上田被告の冤罪を疑い、取材に乗り出していたことは一部で報じられた通りだ。岩路さんは上田被告と面会や手紙のやりとりを重ねて信頼関係を築き、現場にも足を運び、検察の描いた筋書きに不自然な点を色々見出していた。筆者も昨秋から上田被告とは面会や手紙のやりとりを重ね、彼女が「紙の爆弾」4月号で独占手記を発表した際には構成を担当するなどしたが、そのきっかけをつくってくれたのも実は岩路さんだった。

「あんな犯行、彼女には無理ですよ」。昨年の夏、大阪で開催された和歌山カレー事件・林眞須美死刑囚(53)の支援集会で会った際、岩路さんはそう力説していた。この時、すでに上田被告は第一審で検察の主張通り、2人の被害男性に睡眠薬を飲ませ、海や川に連れて行って溺死させたかのように認定され、死刑判決を受けていた。しかし、岩路さんが現場を訪ねたところ、上田被告がそのような手口で犯行を敢行するのは現場の状況からあまりにも無理があったということだった。

このような現場の状況から浮上する有罪判決への疑問は、ジャーナリストの青木理氏がこの事件を取材して上梓した著書「誘蛾灯」の中でも指摘されている。とはいえ、テレビや新聞ではあまり指摘されていないから、知る人はマレなはずだ。だが、地元の記者らと話をしたところ、実はこのことに気づいているテレビや新聞の記者は以前から決して少なくないようだった。彼らは自由にものが言えない大手報道機関の人間という立場上、表向きは沈黙しているだけのようなのだ。

そしておそらく、有名報道番組のディレクターだった岩路さんもその一人だった。岩路さんは生前、上田被告の告白本を出そうと動いていたと報じられているが、それが事実なら「報ステでは、この事件を冤罪として報じるのは無理だから本を出すしかない」と考えたのだろう。実際、岩路さんは生前、「テレビでは冤罪を取り上げるのがとても難しい」とこぼしていたものだった。

◆死を嘆き悲しむ上田被告

そんな岩路さんが亡くなり、上田被告が悲しんでいるのではないかと推測する報道もあったが、実際にそうである。岩路さんの死以来、彼女から筆者に届く手紙にはいつも「悲しい」「立ち直れない」と岩路さんの死を嘆き悲しむ言葉が書き綴られている。そんな彼女ゆえに「紙の爆弾」で10月号から始めた「松江刑務所より…」という連載でも、岩路さんへの追悼の思いを書き綴ったのだ。

無実を訴えながら死刑判決を受けている女性被告が、自分の冤罪の訴えを世に広めようと奔走してくれていたテレビディレクターの死を悼んだ極めて異例の追悼文。1ページに収まる短い文章だが、故人を悼む思いが溢れている。一読の価値はあるはずだ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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《紫煙革命08》パッケージ表記ではわからない香料の謎

さて、前回のJT電話取材であやふやにされてしまった香料についてだが、尋ねても満足な回答は得られそうにないので地道に調査してみることにした。

◆JT香料の不祥事

タバコの香料を製造している香料メーカーは、JT全額出資の100%子会社で東京都羽村市にある富士フレーバー株式会社、東レの子会社で千葉県野田市と福島県郡山市に工場を持つ曽田香料株式会社(本社は東京日本橋)、大阪の長岡香料などがあるようだ。

華原朋美出演の「なんだかヒューヒューです」のCMを覚えているだろうか。JT製造販売の清涼飲料水『桃の天然水』は2002年6月に食品衛生法で無認可の「ノルマルブチルアルコール」「ノルマルプロピルアルコール」という香料が含まれていたとして、自主回収・製造中止となっていた。

これは、同年5月に協和香料化学という香料メーカーが無認可の「アセトアルデヒド」、「イソプロパノール」、「ヒマシ油」、「プロピオンアルデヒド」を使用していたとして、工場の営業停止処分・自主回収・取引先食品メーカーへの損害賠償、最終的には自己破産に至ったことをきっかけとして起こった。

で、その、富士フレーバーさんに電話で聞いてみた。

──タバコ香料を製造しているそうですね。

富士フレーバー 「はい、左様でございます。」

──どんな銘柄のなんていう香料を作っているんですか?

富士フレーバー 「タバコ香料はJTからの指示で製造しており、守秘義務があるのでJTの許可なしには情報開示いたしかねます。」

◆食品衛生法、添加物表示の穴

食品衛生法は日本において飲食によって生ずる危害の発生を防止するための法律だ。厚生労働省によって食品や添加物などの基準・検査(表示に関しては消費者庁)などの原則を定めたものである。平成7年には規制強化され、それまで義務づけられていなかった天然由来の添加物に関しても化学合成の添加物と同様に表示が義務づけられた。

しかし、以下の14種の用途においては、使用目的を表す『一括名』で表示することが認められています。

食品衛生の窓 東京福祉保健局 より引用

これは表示の簡略化を狙ってのことのようでいて、業者の説明責任を免除しているだけにしか思えないの私だけですか?「専門的過ぎてわかりにくいから、省略してもていいんじゃね?」的な発想なのだとしたら、消費者を馬鹿にするんじゃないよ!と憤慨、激おこプンプンたばこスパスパ丸なわけである。

香料メーカー「大事なレシピだから説明しません」

監督省庁「わかりにくいから省略してもいいんじゃね?」

消費者「ま、別にいっか」

ではまずいだろう。

添加物のことを気にするナチュラル嗜好の読者の方ならご存知かと思うが、ペットボトルのお茶は『高級玉露茶葉使用』とか記載はあっても、ほんのちょっと混ぜただけのクソ茶葉だったりするわけだ。ビタミンCが酸化防止剤として添加されることがほとんどだが、「ビタミンC=体にイイ!」という発想はもう通用しない。化学合成なのか、天然由来なのかという違いはわからない。普通に考えたら淹れてから何ヶ月も経ったお茶がうまいわけなかろう。パッケージに書いてある売り文句を鵜呑みにするべきではない。

◆ないがしろにされる消費者の知る権利

NPO法人「子どもに無煙環境を」推進協議会が提出した『タバコに関する全国規制改革要望書』(http://www.eonet.ne.jp/~shiryo/kiseikaikaku0706.htm

の『タバコに含まれる添加物と喫煙により発生する成分は公開し表示すべき』(http://www.eonet.ne.jp/~shiryo/kiseikaikaku0706.htm#RANGE!A12)という項目が大変興味深い。暗黙の了解にメスを入れるべきという要望書なのだが、おおまかな回答として財務省が「信頼に足る国際基準がないからまだ無理」と言っている。

高校生の頃に、日本ではコカコーラ社から発売されている『ドクターペッパー』の奇妙な香りが癖になって毎日飲んでいた。パッケージに「20種類以上のフルーツフレーバー」と書いてあるのが面白くて興味本意でコカコーラのコールセンターに電話したことがあるが、回答は「我が社の機密事項なので情報開示いたしかねます」であった。

健康被害が発生してから、被害者ヅラして文句をいうのも、加害者として反省や賠償をするのも賢い選択ではないだろう。香料業界は依然として闇に包まれている。

 

▼原田卓馬(はらだ・たくま)

1986年生まれ。幼少期は母の方針で玄米食で育つ。5歳で農村コミューンのヤマギシ会に単身放り込まれ自給自足の村で土に触れて過ごした体験と、実家に戻ってからの公立小学校での情報過密な生活のギャップに悩む思春期を過ごす。14歳で作曲という遊びの面白さに魅了されて、以来シンガーソングライター。路上で自作のフンドシを売ったり、張り込み突撃取材をしたり、たまに印刷物のデザインをしたり、楽器を製造したり、CDを作ったりしながらなんとか生活している男。早く音楽で生活したい。

※ご意見ご感想、もしくはご質問などはこちらまで twitter @dabidebowie

このコーナーで調査して欲しいことなどどしどしご連絡ください

 

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《屁世滑稽新聞15》あなたにも簡単に作れる小渕ワイン……の巻

屁世滑稽新聞(屁世26年11月8日)

あなたにも簡単に作れる小渕ワイン……の巻


全国の大きなお友だちのかたがた、ごきげんよう。
屁世滑稽新聞のお時間です。

きょうは、犬HKの朝の連続ドラマ『マッサン』で皆さまもご存じの
おかたと、対談したいと思います。あたくしの『花子とアン』の
“あとガマ”として始まったあのドラマは、主人公「亀山政春(かめやま
まさはる)」として登場し、現実にはニッカウヰスキーの創業者となった
竹鶴政孝(たけつる・まさたか)さんと、彼のワイフでドラマでは「亀山
エリー」として登場しますが、実際には竹鶴政孝さんがスコットランド
から連れて帰ってきた奥様であるリタさんの、国境をこえたステキな
夫婦の愛の物語になっています。

そして、この愛のドラマで、国産ウイスキー実現の“お産婆さん”役と
して大きな存在感をみせているのが、ドラマのなかでは「鴨居(かもい)
商店社長の鴨居欣次郎(かもい・きんじろう)」として登場しますが、
実際には日本でのウイスキーづくりがままならず失望していた竹鶴さんを
自社に迎え入れて応援し、国産初のウイスキー誕生の後ろ盾となった、
サントリー創業者の鳥井信治郎(とりい・しんじろう)さんなのです。

『マッサン』で、玉山鉄二さんが演じる主人公「亀山政春」を励まして、
ウイスキー作りを後押しする「鴨居欣次郎」の役を演じているのは、映画
『ALWAYS(オールウェイズ) 三丁目の夕日』シリーズや『舞妓Haaaan
(ハ~~ン)!!!』などで、パワフルな演技を見せてきた堤真一さんです。
その堤さんが演じる「鴨居」社長は、ドラマのなかで「やってみなはれ!」
と亀山クンを勇気づけていますが、これは架空のセリフではなく、実際に
鳥居信治郎さんが残した名言でした。鳥井さんは「やってみなはれ。
やらなぁ~わからしまへんで!」と仲間を励まし、大胆かつ緻密(ちみつ)な
チームワークで、酒造業界において快進撃を遂げてきたのでした。

鳥井さんの「やってみなはれ!」精神は、サントリーの社訓ともいうべき
朗(ほが)らかで前向きな、チャレンジ・スピリットの言葉なのです。

わたくしは、皆さまご存じのように山梨の農家で生まれ育ったので、
ぶどうの果汁とか、ぶどう酒は大好きです。
お酒は大人の飲みものですから、子供のうちからお酒を飲みつけるのは
習慣になっちゃ困るからダメなのですけれど、子供の皆さんだって、
たとえばクリスマスのお祝いの夜に、ほんのひとくち、ぶどう酒を
なめさせてもらうことくらいはあるでしょうし、お年賀の挨拶(あいさつ)で
お爺さまお婆さまのお家(うち)を訪れたときなどは、すでに酔っぱらって
赤ら顔のお爺さまから、お屠蘇(とそ)をチョッピリ飲ませてもらう
ことだってあるでしょう。

子供のお口には、日本酒なんて“酸(す)っぱくて変なにおいのマズい水”
としか感じられないでしょうし、ましてビールとかウイスキーなんて
ニガくて臭いだけで受け付けないでしょうけれども、人間っていうのは、
長く生きつづけていくうちに、変にひねくれた味の、くさい食べ物とか
飲みものを、美味しく感じるようにもなるのです。……それはきっと、
大人のかなしい性癖(さが)なのでしょうけどね。まぁここでは、
子供にはわからない不思議なことだ、と申し上げておきましょう。

……まあとにかく、今回は『マッサン』でワインの話題が出てきたことも
ありますし、これからの寒い季節には、ワインを熱燗(あつかん)で飲むと
風邪の予防や滋養強精(じようきょうせい)にもってこいでもありますので、
サントリー創業者の鳥井信治郎さんをゲストにお迎えして、ワインのお話し
などをうかがいたいと思いますのよ。

★          ★          ★

ところでサントリーの創業者である鳥井信治郎さんは、今から135年も
前の1879年、つまり明治12年に生まれて、1962年すなわち昭和37年に
83歳でお亡くなりになりました。

そういうわけで、鳥井さんはすでに半世紀以上もまえに冥土の人になって
いますので、このままではお話しをうかがうことができません。

そこできょうは特別な趣向として、霊界の亡霊をこの世に降ろして話を
聞くという“口寄せ”稼業、つまり霊媒ビジネスの業界で、日本で一番
成功した“口寄せ師”の大韓流呆(おおから・りゅうほう)先生にお手伝い
いただき、大韓先生のおクチを媒介にして、霊界の鳥井信治郎さんと
お話しをしたいと思います。

大韓流呆(おおから・りゅうほう)先生は、至高神「エラ・アカンタレ」と
名乗っておられ、お釈迦(しゃか)さまやキリスト様だけでなく、昨今の俗人が
誰もが知っているタレントや話題の人物たちの“背後霊”なんぞも
勝手に降ろして対談本を乱発して、お金を稼いでいらっしゃるお方ですのよ。

大韓(おおから)先生に勝手に“背後霊”を降ろされた有名人のかたがたは、
もう枚挙のいとまがないほど沢山いらっしゃいます。最近の例だけでも、
たとえば村上春樹さん、宮﨑駿さん、秋元康さん、本田圭佑さん、池上彰さん、
膳場貴子さん、小保方晴子さんや、さらにはジャニーズ事務所の木村拓哉さん
や岡田准一さんまで、いつのまにやら“背後霊”が大韓(おおから)先生に
勝手に現世にひきずり降ろされて、むりやり“霊界対談”をさせられて
いらっしゃいますのよ。この強引なやりかたは、一種の「霊的レイプ」と
言ってもよいでしょう。この見さかいのなさときたら、昔なつかし東映映画の
“不良番長”の美女“千人斬り”を思い起こすほどですワ。

……前置きが長くなりました。さっそく「エラ・アカンタレ」こと大韓流呆
(おおから・りゅうほう)先生をお迎えして、先生に“口寄せ”していただいて、
霊界の鳥井信治郎さんと対談したいと思います。
それでは大韓先生、おねがいします。

自称の芸名「エラ・アカンタレ」を名乗る口寄せ名人
大韓流呆(おおから・りゅうほう)師を媒介にした、
赤玉ワイン創業者・鳥居氏と花子先生の対談

エラ・アカンタレ 「花子さん、きょウはヨロスク」
花子先生 「流呆(りゅうほう)先生、こちらこそ宜しくお願いします」
エラ・アカンタレ 「アナタに霊言を与えるまえに、言っておきたいことがある」
花子先生 「何でしょうか?」
エラ・アカンタレ 「アナタ、わたしが有名人のシュゴレーと対談してきたのを、“霊的レイプ”とか“千人斬り”とか言ったね! 許せないニダ! 謝罪を求めるニダ!」
花子先生 「流呆(りゅうほう)先生、お顔が真っ赤ですわよ。それに息がものすごく唐辛子くさいですわ。あまり興奮すると、血圧が上がって脳溢血(のういっけつ)を起こしますわよ。もうすこし冷静になって下さいませ」
エラ・アカンタレ 「ケンチャナ~! 仕事に入るまえに、わが教団を侮辱するようなあなたの言辞を糾弾(きゅうだん)せねば気が済まないニダ!」
花子先生 「教団ですって? 流呆(りゅうほう)先生、わたしはあなたの“教団”に物言うつもりは、更々ありませんわ。ただあなたの“お口寄せ”のお仕事のやりかたが、日本人の謙譲(けんじょう)の美徳を踏みにじるワイセツで強引なものだと、批評しただけですのよ。ここは日本なのですから、言論の自由がありますのよ。お隣の半島ではないのですから」
エラ・アカンタレ 「わが“光復の科学”を貶(おとし)めたのだから、ここで謝罪ハセヨ!」
花子先生 「まあ……流呆(りゅうほう)先生、お顔が燃えるように真っ赤ですわよ。あなたや、あなたのお取り巻きのかたがたが常々行なっているような、強引で反社会的なやりかたというのは、けっして日本人の発想ではありませんわよ」
エラ・アカンタレ 「もうすぐ“光復の科学大学”を発足させて、ワレワレの仲間の元イルボンジエ軍大将・駄藻紙(だもがみ)ソンセンニムなどを教授に迎える予定だけれど、アンタはぜったい光復の科学大学に呼ばないから、覚悟してオケヨ!」
花子先生 「はいはい(笑)。流呆(りゅうほう)先生、ここで悪態をついていないで、あなたのお得意な“口寄せ”をお願いいたしますね」
エラ・アカンタレ 「謝罪と賠償を…… アイゴ~! 死霊が下りてきた~!」(……と叫びながらぶっ倒れ、全然ちがう形相になって徐[おもむ]に起き上がる……)

★          ★          ★

鳥井信治郎 「……花子先生、ワシを呼んでくれてオオキにな!」
花子先生 「まぁ! 鳥井会長、はじめまして! 俗世に帰ってきたのですね」
鳥井信治郎 「天国でほろ酔い気分で散歩しとったら、エラが張ったアヤシイあんちゃんに呼びとめられてな。そのあんちゃん、ワシの御居処(おいど)をいきなり触ったんじゃ。そのとたんに足もとがガラガラと崩れてのォ。気がついたら成仏するまえの、俗世に逆戻りやわ(笑)」
花子先生 「まぁ! それは大変に申しわけございません。無事に成仏したホトケさまを、あの霊媒がそんなふうにして“この世”に引き戻しているだなんて、ぜんぜん知りませんでした。ご迷惑をおかけして、俗世の一堂を代表して、お詫び申し上げます」
鳥井信治郎 「いまさら謝られても、俗界に引き戻されたんやから、しょうもないわ」
花子先生 「せっかく俗界にお帰りになられたのですから、しばし私と、ワインのお話しをいたしませんか?」
鳥井信治郎 「ワインかいな? ええのぉ! なつかしいのぉ!」

★          ★          ★

花子先生 「まず鳥井会長の生い立ちから、お聞かせ願えませんか?」
鳥井信治郎 「ええよ。ワシは明治12年の1月の末に、大阪で生まれたんや。ええと……今はいつや?」
花子先生 「屁世26年、西暦ですと2014年です」
鳥井信治郎 「なんや! とんでもない未来に来てしもうたな! え~パチパチパチと……、えっ? ワシいま生きとったら135歳になってるやんか!」
花子先生 「パチパチパチっておっしゃってましたが、どういたしましたの?」
鳥井信治郎 「いやぁなに、頭のなかのソロバンを弾いとっただけや。実家が両替商と米穀商でっしゃろ。んで、ワシも物心ついたころから商人(あきんど)の技能や才覚を叩きこまれたわけや」
花子先生 「ご長男だったんですか?」
鳥井信治郎 「いや、次男や。13歳のときに薬種問屋の小西儀助商店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に入った。あんた“ボンド”って知らんか? ボンド!」
花子先生 「合成接着剤のボンドですか?」
鳥井信治郎 「ああ! そうや! 小西儀助商店はそれで日本有数の業者に出世したわけや。のちに社名をカタカナの“コニシ”に変えて、接着剤を手広く扱う専門会社になったけどな。でもワシが奉公していた頃は、洋酒もやってたで。たとえば“アサヒ印ビール”とか……」
花子先生 「それって現在のアサヒビールかしら?」
鳥井信治郎 「おネエちゃんご名答! ……で、丁稚奉公の時代にワシは酒を商いを学んだわけや」
花子先生 「お酒の商いは、運命的なものだったのですね?」
鳥井信治郎 「そういう言い方もできるが、ワシは日本人や。だから何よりも日本人の舌にあう味覚の洋酒を売りたいと思ったし、その夢を実現するために邁進(まいしん)したんや」
花子先生 「丁稚奉公の子ども時代が終わって、どうされたんですか?」
鳥井信治郎 「二十歳のときに独立して、鳥井商店を立ち上げて、スペインからぶどう酒を輸入して売り出したんやけど、それで味噌(みそ)がついてしもうた……」
花子先生 「まあ! ワインに味噌をまぜて売ったんですの?」
鳥井信治郎 「いやいやいや。ちゃうちゃう。失敗したんやわ。なにせ舶来のぶどう酒は酸っぱすぎて、辛すぎてのお。これがちぃとも売れんかった」
花子先生 「……で、どうしましたの?」
鳥井信治郎 「そこからがワシの武勇伝の始まりや! ワシはのぉ……(と言いかけると突然形相がかわり声色が大韓流呆に戻った……)」
エラ・アカンタレ 「ウッゲゲ、ギャア~! 電池が切れた! キムチとマッコリ! キムチとマッコリ! キムチとマッコリを今すぐカッタチュセヨ!」
花子先生 「あらまあ! 霊媒がまぎれこんで来ちゃったわ! いますぐ買ってきますから、ちょっと待っててね!」

(ここで花子先生はキムチとマッコリを買いに出かけたので、
鳥井氏との“霊界対談”は一時中断を余儀なくされた。その後
霊媒のエラ・アカンタレ氏がキムチ5キログラムとマッコリ8本を
貪るように食べて充電を終えたのち、ようやく“霊界対談”が再開。
このかん2時間が無駄になった。)

花子先生 「鳥井カイチョウ! 鳥井カイチョウ! 聞こえますか、どうぞ?」
鳥井信治郎 「ハイハイ、こちら鳥井ですドウゾ……って、なんや少年探偵団みたいやな。なんちゅう出来の悪い“霊媒”やろか」
エラ・アカンタレ 「トリイさん、霊媒のワタシに何ってこと言うんだ? 謝罪と賠償を要求する! 世界一うまい“竹鶴17年ピュアモルト”を1カートンよこすニダ!」
鳥井信治郎 「そりゃ宿敵ニッカウヰスキーの商品やで、アホンダラ!」
花子先生 「流呆センセイは、口を出さずに、まじめに口寄せだけおやりになって下さいませ! 霊媒が亡霊と掛け合いをやるなんて、そんな腹話術みたいな降霊術は初めて見ましたわ! インチキじゃないんですの?」
鳥井信治郎 「……いやいやいやいや。お騒がせしたニダ(笑) 対談をつづけようやおネエちゃん!」
花子先生 「……?」
鳥井信治郎 「で、ワイン商売の話やったな」
花子先生 「あゝ、そうでした」
鳥井信治郎 「舶来の輸入酒をそのまま売っても、日本人の舌がそれを受け付けない……となると、日本人の味覚にかなったぶどう酒を作るしかない」
花子先生 「たとえばどういうお酒?」
鳥井信治郎 「まず酸味や辛みをおさえて、甘みをつける。ぶどうの果汁のように香ばしくて、なおかつ異国情緒あふれる精妙なる薬味が効いていて、のむとホンノリ酔ってきて、からだがポッポと熱くなり、心は天使の羽がはえたみたいにスゥ~っと軽くなる葡萄(ぶどう)酒や!」
花子先生 「聞いているだけで、気持ちよく酔ってきちゃうワ」
鳥井信治郎 「あっはっは、なにせワシは若い頃、“しゃべる媚酒(びしゅ)”って呼ばれてたヨッテに。」
花子先生 「それがあの有名な“赤玉ポートワイン”ですか?」
鳥井信治郎 「ご名答! これを完成させて売り出したのは明治40年の春のことや。え~と、おネエちゃんわからんやろうから……パチパチパチと……西暦では1907年、いまから……パチパチパチと……107年まえの春やな。ワシが28歳のときじゃ!」
花子先生 「犬HKの朝ドラでは、“鴨居欣次郎”がワイン売り込みの秘密兵器として、日本初のセミヌードポスターを作りますよね?」
鳥井信治郎 「まあ、あれはドラマ。作りもんの虚構やからショウもないわ。実際にはあのポスターを世に出したのは、もっとずっと後のことや。ワシは“赤玉ポートワイン”を売り込むために、いろいろやりましたでぇ。ポートワインの名前を染め抜いた行灯(あんどん)をギョウサンこしらえて、店のまわりにずらァ~りと並べるとか、赤玉を描いた法被(ハッピ)を社員に着せて、明るく景気よく振る舞わせるとかネ。もっとすごいのは、歌劇団もつくったでぇ!」
花子先生 「まあ! 歌劇団ですか? 宝塚歌劇団とか松竹歌劇団みたいなものですか?」
鳥井信治郎 「ハイな。赤玉ポートワインを出した頃ちゅうのんは、ちょうど明治が終わる頃やったんやけど、歌舞音曲(かぶおんぎょく)もそのころ大きく様変わりしましてなァ……」
花子先生 「……とおっしゃいますと?」
鳥井信治郎 「明治のはじめに文明開化で西洋の音楽がドッと入ってきたんヤけど、その影響をまっさきに受けたのは維新政府の軍楽隊でナァ、つぎに政府が始めた義務教育の学校で、こどもに唄わせる唱歌だったんや」
花子先生 「犬HKの『マッサン』でもスコットランドの民謡が小学唱歌になったことを紹介してましたわね」


(参考:京都楽友合唱団による、日本でおなじみのスコットランド民謡
https://www.youtube.com/watch?v=9oLeqHVZAI4

鳥井信治郎 「で、明治政府は日清戦争や日露戦争を続けざまにやらかしたわけやけど、軍楽調の音曲はだんだんマンネリになってのぅ……明治の終わりには、民間音曲の世界でも“ご維新”が始まったわけや」
花子先生 「……とおしゃいますと? “ご維新”というからには、明治初期の西南戦争のときには西郷どんを討伐するとか、ずいぶんと勇ましい歌も唄われましたが、そんな血なまぐさいのがリバイバルしたんですの?」

(参考:明治10年に勃発した西南戦争のおり、維新政府軍が、
西郷隆盛が率いる薩摩軍を討伐に向かう際に唄われた軍歌『抜刀隊』。
日本の内戦で“反乱軍”を鎮圧したときのこの歌が、なぜかその後、
大日本帝国陸軍の行進曲になり、現在でも自衛隊の分列行進で
使われている。https://www.youtube.com/watch?v=MEYBMpk4ZUM


鳥井信治郎 「いやいやいや、ちゃうちゃう、ちゃうがナ。日本には古来から娘義太夫(むすめぎだゆう)みたいな民間芸能の伝統がある。小娘がオペレッタを演(や)るような、和洋折衷(わようせっちゅう)の新芸能が、雨後の竹の子のようにワッと出てきたんや。つまり少女歌劇団でっせ」
花子先生 「そのブームのなかで、会長さんの鳥井商店も歌劇団を作ったってことね?」
鳥井信治郎 「ネエちゃんご名答やで! 商業広告というか、企業PRの文化事業としての少年少女歌劇団の“走り”は、明治43年の三越少年音楽隊かナ。翌年には白木屋少女音楽隊ってのも生まれた。どっちも当時最先端の都市型百貨店、デパートメントストアや」
花子先生 「デパートの文化戦略っていうと、あたくしなどは西武百貨店・パルコが1970年代から80年代に展開した“とんがり文化の全国発信”を連想しますわ。読者参加型で冗談とかパロディを競い合う『ビックリハウス』なんて雑誌を出したり、フラメンコギターのパコ・デルシアとか、メンバー全員が鬼太郎に出てくる“目玉のお父さん”みたいな目玉のかぶりもので変装して前衛ロックを演奏するアメリカのレジデンツみたいな、本当の趣味人だけ楽しめばいい……って感じの音楽家をどんどん招いてこっそりコンサートをしたり、石岡瑛子さんに百貨店のアートディレクションを任せて、100年前のポーランドの“迷宮の画家”タマラ・ド・レンピッカとか、メキシコ革命時代の激動を生きたフリーダ・カーロのような、すごい女流芸術家をどんどん日本に紹介していたパルコ……。それよりもずっと前に、日本のデパートは文化戦略を仕掛けていたんですね」
(パコ・デ・ルシア https://www.youtube.com/watch?v=0o8vszqVL2U
レジデンツ https://www.youtube.com/watch?v=dkcZp-ofXEE
タマラ・ド・レンピッカ https://www.youtube.com/watch?v=6ir71H8-pno
フリーダ・カーロ https://www.youtube.com/watch?v=bBrbwHJNJLQ

鳥井信治郎 「西武百貨店も大した仕事をしたけど、あれは阪急電鉄の猿マネやで。線路沿いに都市開発を行ない、鉄道交通の結節点であり娯楽の殿堂でもある百貨店やら宝塚歌劇団を作ったのは、阪急サンやからなあぁ。東京では東急がまずそれをやった。で、さらに堤ファミリーの西武鉄道と西武百貨店が、それをさらに真似たんやワ」
花子先生 「近代日本の商いの歴史って、奥が深いのですね」
鳥井信治郎 「あったりまえやんけ! ……で、歌劇団の話な。いま言うたように、百貨店が先鞭(せんべん)をつけた。そしてワシが“赤玉楽劇団”を作ったのが、その白木屋少女歌劇団とおなじ明治44年のことや。白木屋サンのやつは“日本最初の少女歌劇団”と呼ばれるようになった。ワシらの“赤玉楽劇団”も、ここで日本最初だったと呼ばせてもらうで!」
花子先生 「我々が知ってる宝塚とか松竹の歌劇団はそのときはまだ……」
鳥井信治郎 「ハイそうだす。まだ出てくる前や。電鉄さんが宝塚新温泉の余興で少女唱歌隊を始めたのが、ワシらの二年あと、大正三年のことや。それがえらい受けてなぁ、翌年には本格的な少女歌劇に発展して、それがいまの宝塚歌劇団になったワケや。それからさらに何年もたって、大正11年には松竹がまず“松竹楽劇部”をつくり、これが昭和になって大阪松竹少女歌劇団に発展し、東京にも松竹少女歌劇団が生まれたんや」
花子先生 「お詳しいですのね」
鳥井信治郎 「そりゃワシ、少女歌劇が好きでっさかい……(笑)」
花子先生 「明治末期から大正はじめにかけての少女歌劇団ブームのことは、なんとなくわかりましたが、なにしろ西暦じゃないとピンときませんわね。元号がコロコロ変わっていたから……」
鳥井信治郎 「じゃあ西暦で言い直すよってに、ちょっと待ってや。……えぇと、はいパチパチパチのパチ。……ええか? 1910年・明治43年に三越少年音楽隊が誕生。翌1911年・明治44年に白木屋少女音楽隊と、ワシらの“赤玉楽劇隊”が誕生。翌1912年・明治45年の7月30日に睦仁(むつひと)天皇はんがお隠れになって、この日に元号が明治から大正になっとる。……で、兵庫県小浜村の宝塚新温泉で宝塚唱歌隊が歌い始めたのが、翌1913年・大正2年。これがさらに翌年の4月1日から、宝塚少女歌劇団として本格的な興行を始めることになる。1922年・大正11年の4月には松竹楽劇部が発足し、これが試行錯誤のはてに興行的な成功を収めて、大阪松竹少女歌劇団に名を変えたのが1934年・昭和9年。東京では1938年・昭和3年に東京松竹楽劇部が生まれて、これが松竹歌劇団に成長していく……。こういう歴史があったわけや。これでお分かりのように、ワシらの赤玉楽劇団は、ホンマに時代の先頭を走っていたんやで!」
花子先生 「赤玉楽劇団はどんな活動をしたんですか?」
鳥井信治郎 「全国を巡回公演して、それぞれの地域で、販売店の店主はんとお客はんを、われらがレビューに無料招待して、大いに楽しんでもらいました。どうや? 今の世知がらい商売よりも、販売店はんも顧客のかたがたも、ずっと楽しめたんやで。エエやろ?」
花子先生 「当世のビジネスよりも、はるかに人情とエンターテインメントがあふれていたのね」
鳥井信治郎 「どや?エエやろ。ステキやろ! ……で、この楽劇団から、日本初の裸体ポスターが生まれたってワケや」
花子先生 「まあ! そうでしたの?」

戦前に数々の傑作広告を生んだ“広告作家(アドライター)”片岡敏郎
たちが1922(大正11)年に作った『赤玉ポートワイン』の宣伝ポスターは
日本初のヌードポスターとなった。モデルは“赤玉楽劇団”のトップスター
松島栄美子である。


鳥井信治郎 「赤玉楽劇団のプリマドンナの松島栄美子に、モデルになってもろぅて、思いきってヌード写真にしたわけや。もちろん日本初やで。革命的なデザインやったから、発表当時は天地をひっくり返すような衝撃力で、これでおおいにワインを売らせてもろぅたわ!」
花子先生 「会長さんはホントにアイデアマンだったのね」
鳥井信治郎 「あたりまえやんケ! ワシらは絶対に自信があるものを作っとった。ひとりでも多くの人に買ってほしい。だからそのためには、ものすごぅ奮闘したんや。商売人の本懐やで!」

★          ★          ★

花子先生 「今や、赤玉ポートワインの発売から107年が経ちました。生きておられればすでに135歳になっていらっしゃる今年、2014年に、あえて会長さんを霊界からお招きしたのは、日本の食文化のなかで、ワインについて何だかトンデモない勘違いをしている事例が、昨今まま見られるからなのです。それで会長さんのご意見をうかがいたいナと思いまして……」
鳥井信治郎 「ワシに言わせれば、お酒は“百薬の長”でっせ。その基本を踏みあやまると、酒は毒にも麻薬にもなる。ワシはサントリーを日本有数の会社に育てましたけど、会社ってのは矢鱈(やたら)に大きくなると、安定を望むだけの怠け者の雑魚(ざこ)ばかり寄ってきて、組織が腐ってしまう。けっきょくはこういうコトやね。……権力者のまわりには、小賢(こざか)しい欲たかりの小人物たちが集まるワイな。こいつらは世間体を気にして、小賢(こざか)しく、せせこましく、常識的に振る舞うわけや。そういう木っ端(こっぱ)役人みたいのが、吹きだまりみたいに集まった組織はどうなるか? 花子先生、どうなると思う?」
花子先生 「ソニーみたいになるんでしょ?」
鳥井信治郎 「イエス! あるいはお台場に移転後のフジテレビみたいに、こざかしいばかりの烏合(うごう)の衆の集まりになって、まさにオ~!ダイバ~!……ってことになるわけヤがな(笑)」
花子先生 「盛者必衰の法則ですわね」
鳥井信治郎 「仏教思想の真髄に触れるわけですワ。これは深いでぇ!」
花子先生 「……で鳥井会長さん、今どきのサントリー社員に、言いたいことはありますか?」
鳥井信治郎 「あるあるある! ワシは日本人の舌に合う革新的な洋酒を作って売り出したという自負があります。絶対的に自信があった商品やし、それを日本の国民に受け入れてもらいたかったから、広告だって、もう命がけで創意工夫したもんダス。ところがな、そういう奮闘努力の結果、会社がエろぅ大きくなったんやけど、そうなると安泰をのぞむなまけ者ばかりが吹き溜まるようになったんや。いまのサントリーを見てみい。ひどいもんや。ワシは死んでも死に切れん悔しさがある、と言いたいくらいや。まあ俗世から昇天してずいぶん経(た)ってるさかい、若いもんにやらせるしかないと思うとるけどな」

★          ★          ★

花子先生 「鳥井会長さんのご奮闘のおかげで、いまや日本でも、ワインがすっかり定着いたしましたのよ」
鳥井信治郎 「さよか、それはうれしいワ」
花子先生 「わたしの故郷の山梨もワインの名産地になりました。内陸のやま国は、ブドウ栽培に適しているので、ワインを特産品としている地域もたくさんありますのよ」
鳥井信治郎 「さよか。ワシが葡萄酒を商(あきな)い始めた頃は、あんな酸っぱ辛い洋酒はなかなか受け入れてもらえなかった。やっぱり隔世の感がありますナ」
花子先生 「ところで会長さん。昨今ではワインを“名刺代わり”に使ってる政治家もいるらしいのですが」
鳥井信治郎 「あのなぁ花子はん、酒というのは百薬の長にもなるし麻薬にもなる。いい酒は風味で人を酔わせる。ワシらはポートワインで大成功したのち、ウイスキーの製造販売に乗り出して、それもうまく行った。ワシらはウイスキーの商品名をもとに、社名を“サントリー”に変えたほどやった。……だけどな、ほんとに大切なのは看板じゃないデ。お酒そのものの品質なんやで! 酒を“名刺”に使(つこう)てる政治家なんて最低の俗物やし、そういう奴に“名刺がわり”に使われている酒は、ほんまカワイソウやと思うわ。名刺がわりに使われることを知りながら、酒を提供している蔵もとがあるとすれば、それはもう外道やで。そんな酒蔵はワイン酵母に恨(うら)まれて、祟(たた)られて亡びるのが関の山やな(笑)」
花子先生 「冥土にいらっしゃる会長さんは、ご存じないかもしれませんが、群馬県出身の政治家が、地ワインに自分のラベルを貼って選挙民にプレゼントしていた騒動がありました」

それぞれのワインのラベルには、こう書いてある。
白ワイン:「優しさ輝く日本の未来 おぶち優子 OBUCHI YUKO」
赤ワイン:「おぶち優子 伝えたいふる里の心 OBUCHI YUKO」

鳥井信治郎 「ワシらの霊界にも、生前に新聞屋(ぶんや)をしていて早耳だけがとりえの亡者とかが沢山いてな、そういう連中は“珍奇な見聞をよそから持ってきて吹聴する”という習慣が、死んでも抜けないんやわ(笑)。そういう連中から聞かされとったから、アンタの話はワシも知っとる。群馬の小渕優子はんの騒動やろ?」
花子先生 「ご名答です! 冥土にお暮らしなのに、よくご存じで……」
鳥井信治郎 「そりゃそうヤで。ワシらのほうが次元が上やから。アンタらの世界は、ワシらからみたら小さな培養皿のなかで増えたり減ったりしている雑菌みたいなもんやわ(笑)」
花子先生 「まあっ! そんなもんですの、冥土からみた私たちって?」
鳥井信治郎 「ハイな! ……で“小渕ワイン”の件やけど、ワシにはとっても気になることがある」
花子先生 「……とおっしゃりますと?」
鳥井信治郎 「小渕ワインは、群馬の榛名山(はるなさん)のふもとで製造してるらしいナ。冥土に伝わってくる話では“群馬県吾妻郡中之条町”の国道沿いの店らしいけど」
花子先生 「よくご存じで……」
鳥井信治郎 「あたりまえや。冥土の情報力からみれば、俗世なんて便所虫の世界やで。アンタもいっぺん死んでみなはれ(笑)」

「小渕ワイン」の製造元は、群馬県中之条町市城1384で
「群馬の地ワイン」を作っている「■■農園」だという
(気の毒なので、あえて名を伏した)。椎名山のふもと
にあり、フルーツワインなど各種のワインを製造する
有名酒蔵だ。

花子先生 「鳥井会長さん、“死後の世界”のことなんて、お釈迦様さえ語らずに済ませたのに、あなたはブッダを超越していらっしゃいますワね。……でも、あなたのお話しは、俗世の霊媒芸人さんのお口をつうじて語られていますから、話半分に聞いておきますワ」
鳥井信治郎 「そりゃ寂(さび)しいのぅ。まあ、口寄せなんぞという貧乏くさい商売が、俗物世界にはびこっているから、しょうもないけどな(笑)」
花子先生 「ところで、会長さんが気になっておられることって何ですの?」
鳥井信治郎 「そやそや、忘れるとこだったわ。アノなぁ、群馬の榛名山のふもとっていうのは、福島原発の爆発で、ごっつぅ死の灰をかぶったところなんや」
花子先生 「まぁ! 鳥井会長も俗世の放射能汚染を気にしておられるの?」
鳥井信治郎 「あったりまえや! 最近、ぶらぶら病でこっちに来る連中がゴッツ増えてな。ワシらは豪快に昇天したから、辛気(しんき)くさいホトケさんが続々とやってくるのには閉口しとるで」
花子先生 「俗世のあたしたちには想像もつかない事情がおありですのね」
鳥井信治郎 「……でなぁ、花子先生。2011年に福島原発が爆発して、“死の灰”が関東一帯に降りましたやろ。もちろん群馬県にも、ぎょうさん降ったわけや。その直後から、関東周辺が放射能でどない汚れたかは、当時の政府でさえ、ちゃんと測定しとった」

小渕ワイン製造所周辺の放射能汚染の推移。福島原発の爆発事故以降、
文部科学省が進めてきた、全国的な放射能汚染の実態を、時系列順に
示した。この分布図で示したのは原発事故から半年後の2011年9月から、
翌2012年末までの代表的な放射性セシウム(Cs134とCs137)による
汚染状況である。セシウムは少なくとも39種類の同位体があり、その
うちのセシウム133以外は、すべて放射性同位体である。あまりにも
種類が多いので、政府はこれら全部を測定したわけではない。
半減期が2年のセシウム134と、使用済み核燃料から発生する放射能の
大部分を占めるセシウム137(半減期30.17年)だけを測定したわけだ。
もちろん原発の爆発で野外環境に放出されたのはセシウムだけでない。
だからこの分布図は、福島原発による放射能汚染のほんの一部を示した
にすぎない。“小渕ワイン”の製造元も残念ながら、福島原発災害が
もたらした放射能汚染の“ホットスポット”に位置していることが、
この分布図から見てとれる。時が経つにつれて、本当にゆっくりと
ではあるが、放射性セシウムの放射線量は減衰している。主な測定対象
のセシウム137の半減期がわずか30年だから、こうした傾向が見られる
のは当然だ。しかし福島原発公害による放射能汚染はセシウムだけでは
ない。もっと長寿命の放射性元素による汚染も当然起きているが、測定
してないから「見えてこない」だけだ。
(出典:放射線量等分布マップ拡大サイト/電子国土

花子先生 「鳥井会長、福島原発事故のときの政府は民主党政権で、国民に対して『放射能汚染はただちに影響はない』とか、ずいぶんと気休めやウソを言ってたんですのよ。そんな政府を信用できませんわ」
鳥井信治郎 「そりゃアンタの言うことは正しいデ。だけど、そのあとに出てきた安倍はんの盗賊内閣よりもずいぶんマシやないか(笑)。政府なんてのは基本的に盗賊やワ、税金ドロボーの盗賊にはチガイない。……でも原発事故の直後には、政府はちゃんと放射能汚染を計っていたんだから、それさえもゴマカしている安倍はんのドロボー内閣よりは、すこしはマシやろな(笑)」
花子先生 「群馬ワインと放射能汚染のつながりなんて、考えたこともありませんでしたわ」
鳥井信治郎 「政府の測定結果をみるかぎり、小渕ワインの製造所のあたりは、可哀想なことやけど放射能汚染の“ホットスポット”になっていたんやワ。……もちろん、放射能というのは時間の経過とともに減衰する。物理学者はんの言い方を借りれば“半減期”って奴があるからな。でも現実はどうや? 福島原発からは今もとめどなく放射能がもれてるんやで」
花子先生 「日本もトンデモないことになってしまいましたわね」

★          ★          ★

鳥井信治郎 「あのなぁ、花子先生。ワシが赤玉ポートワインの宣伝ポスターを作ったときの同志が、“広告作家(アドライター)”の片岡敏郎クンやったんやけど……」
花子先生 「あの日本初のヌードポスターを作った、世人の心を喚起する天才的な作家さんですわね?」
鳥井信治郎 「そのと~り! その片岡くんが、小渕優子ワインのラベルとポスターを考案してくれたんやわ」
花子先生 「まあ! それはありがたいことですワね。あの世とこの世の共同制作(コラボレーション)ですわ!」
鳥井信治郎 「まず、こっちの世界で悠々自適の片岡クンが、デザインしてくれた小渕ワインのラベルがこれや……」

おぶち憂子・白ワインのラベル

おぶち憂子・赤ワインのラベル

花子先生 「まぁステキ! このラベルを印刷して切りとって、市販のワインボトルに貼れば、だれでもあの憧(あこが)れの“小渕ワイン”を楽しめますワね!」
鳥井信治郎 「さよう。そういう意味では使い勝手のあるラベルやでぇ、これは」
花子先生 「……で、鳥井会長さん。ポスターというのは?」
鳥井信治郎 「ハイな、これや!」

赤玉ポートワインの宣伝ポスターが登場したのは1922(大正11)年、
関東大震災の前年のことである。裸体を写した日本最初の宣伝広告
である。それから92年を経た今、小渕優子議員が、赤恥ワインの
広告塔をつとめることになった。


花子先生 「まぁ! 素敵なポスターですこと。小渕さんの魅力がぞんぶんに描かれた宣伝ポスターですわ」
鳥井信治郎 「そうやろ? 親の七光りで国会議員になっただけのアホ娘かも知れないが、まだこの人には未来がある。がんばってほしいと思うとるワ。最近、優子はんはスキャンダルまみれで経産大臣をやめたけどな……」
花子先生 「だけど優子さんは経産婦ですから、経産大臣になる資格はあるでしょ?」
鳥井信治郎 「あると思うよ。しょせん日本の大臣なんぞ、アメリカさまのご用聞きやさかい、馬鹿でもできる賤業(せんぎょう)でっせ。そやから誰でもできる仕事だす。アホな優子ちゃんにも十分にできる仕事だったはずや」

花子先生 「政治資金をネコババしたくらいで大臣を辞めさせられたのは、可哀想なことですワね」
鳥井信治郎 「……まあ、公金のネコババなんて村会から国会にいたるまで、議員ならたいていはやってることでっしゃろからな(笑)」
花子先生 「けっきょく、“カカア殿下にからっ風”という群馬の風土で、小渕優子さんは、政治上のライバルに刺されたのかも知れませんわね」
鳥井信治郎 「あそこには金玉タヌキがおるからのぅ(笑)」


群馬県出身の自民党議員といえば1980年代に首相をつとめた
中曽根康弘が代表格だ。……だけどこの人はけっきょく
アメリカの対日占領支配の“現地マネージャー”として
日本の対米“売国政策”を、タヌキのキンタマ袋のように
拡げただけだった

 

きょうはこれでおしまい。
また今度、お話しましょうね。
では皆さん、ごきげんよう。 さようなら。

 

 

(屁世滑稽新聞は無断引用・転載を大歓迎します。
ただし《屁世滑稽新聞(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=5593)から引用》
と明記して下さい)

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ノーベル賞科学者がようやくたどり着いたドクター・中松の境地

青色LEDの開発でノーベル物理学賞の受賞が決まった米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授の中村修二氏が文化勲章を受章した会見で次のように発言し、元勤務先の日亜化学工業と仲直りしたい意向を表明したそうだ。

「受章を機に、(社員だった)日亜化学工業と関係の改善を図りたい」(時事通信)
「日亜がLEDで世界をリードしたからこそ、私のノーベル賞につながった。小川英治社長、青色LEDの開発をともにした6人の部下、全社員に感謝したい」(スポーツ報知)

中村氏といえば、2004年、日亜社に発明の対価を求めた特許訴訟の第一審で約200億円の支払い命令を勝ち取って話題になった。これに日亜社側が控訴、翌年、最終的に日亜社が約8億4000円を支払うことで和解が成立した際には、失望感をにじませて不満のコメントを言い連ねたものだった。しかし10年近い年月を経て、かつて身を置いた会社から受けた恩義の大きさに改めて気づいたようだ。

残念ながら日亜社側は中村氏と仲直りする気がまったくないようだが、筆者はこのニュースを聞き、9年近く前に会った、ある人のことを思い出していた。その人の名は中松義郎(86)。「ドクター・中松」の異名でお馴染みの発明家だ。

取材の際にもらった中松氏の2003年9月発行の著書「ドクター・中松の発明伝説」(本体3000+税)

◆商社マンだったドクター・中松氏

中松氏と会ったのは2006年の2月初めのことだった。筆者は当時、ある夕刊紙で著名人に無名時代を振り返ってもらうインタビュー記事を毎週一本書かせてもらっており、その企画の一環として中松氏にも少年時代やサラリーマン時代の話を聞かせてもらったのだ。

国内では中村氏と同等以上に有名な発明家である中松氏だが、東京都知事選に何度も立候補するなど言動が破天荒なため、世間では奇人変人のたぐいと見る向きもある。だが、その経歴は華麗である。

東大の工学部を卒業後、最初に選んだ進路は大手総合商社の三井物産。学生時代から種々の発明に取り組んでおり、卒業後はメーカーで技術者になることも考えたが、「エンジニアではなく、ブン(文)ジニアになるべき」という考えからの選択だったという。

三井物産入社後はヘリコプターを売る部署に。当時は軍用でしかなかったヘリコプターに自ら発明した農薬散布装置や空から安全に電線を張る装置をつけ、農業関連の会社や電力会社に売りまくり、ベストセールスマンになったという。

「東大時代に開発したフロッピーディスクが話題になり、会社の株が1日に14円上がったこともありました。幹部に『中松室』をつくるから発明に専念してくれと言われ、女子社員にもモテモテでした」

そう語る中松氏は当時すでに70代後半だったが、気さくで、暖かみのある人だった。話の受け答えなどから常人離れした頭の良さを感じさせる人でもあった。29歳で三井物産から独立し、実業家兼発明家としての人生を歩んだが、取材の際に訪ねた経営する会社「ドクター中松創研」の建物は大変立派で、思ったより多くの従業員が働いていた。経済的成功を収めていることは間違いなかった。

◆「発明の基本は愛」

では、冒頭の中村氏のニュースに触れ、筆者が中松氏のことを思い出したのはなぜか。それは取材の際、辞めてから半世紀近くも経つ三井物産に対し、「ビジネスの基本を教わった」「自分の重要なヒストリーの一部」と強い愛着を語っていたからだ。中松氏はちょうどこの頃、中村氏ら研究者や技術者が勤務先の会社に対し、発明の対価を求める例が増えていた風潮について、こんな違和感も口にしていた。

「発明は儲けるための道具ではない。発明の基本は愛なんです」

実際、中松氏が麻生中学2年生の時、自ら手続きをして最初に特許をとった「無燃料暖房装置」は、冬の時期に寒い台所で働く母親を楽にさせたいという思いで発明したものだったという。

ノーベル賞を受賞した中村氏と、イグ・ノーベル賞を受賞した中松氏。どちらが発明家として優れているのかは、筆者にはわからない。しかし、今回の中村氏に関するニュースを見る限り、中松氏が子供の頃から自然に「発明の基本は愛」という考え方を身につけていたのに対し、中村氏は人生の終盤になり、ようやく同じ境地にたどり着けたようにも見える。

中松氏は今年6月、前立腺ガンに冒されて2015年末までの命と宣告されたことを告白。現在はガンを直すための発明に励んでいるそうだが、良い結果が出て欲しい。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

本日発売!『紙の爆弾』12月号!公明党「結党50周年」─700万「創価学会票」で自公融合15年など注目記事満載です!

 

《大学異論16》京都大学が公安警察の構内潜入を拒否するのは100%当たり前!

11月4日、京都大学構内に潜入していた川端署の公安警察が学生に発見され、学生が取り押さえ身分確認などを行うという諍いがあり、京都大学当局は警察の行為を(学生の行為ではない)「極めて遺憾」と表明した。学生が潜入した公安警察を取り押さえたのは「極めて当然な行為」である。

「大学の自治」、「学問の自由」などについてはこれまでもこのコラムで触れてきたが、その究極は「大学の国家からの自由」であり、国家の暴力装置たる警察を大学が拒絶するのは、原理的に自明過ぎるほど自明である。

近年、こういった大原則についての不理解や、国家の側からの締め付け、更には痴呆化した大学が自ら警察を学内に招き入れるなどという、自殺行為が何の疑問もなく横行しているので、京大生の今回の行為を正しく理解できなかったり、奇異な目で見る向きもあるようだ。だが、大学と警察の間に本来、親和性はないし、あってはならないのだ。

しかも今回、京大に潜入した公安警察はその数日前に行われたデモで京大生が逮捕されたことに対する抗議集会を探りに来ていたというのだから、学生に拘束されたのは、あまりにも当たり前である。デモにおける京大生逮捕(公務執行妨害)がでっち上げであるにもかかわらず、警察とはかくも陰湿な手を使い学生や大学を監視、弾圧するのである。

小出裕章=京都大学原子炉実験所助教

◆小出裕章=京大助教に見る「筋の通し方」

同じ京都大学に在籍する原子炉実験所の小出裕章助教は先ごろ前首相菅直人の訪問を打診され、それを受けたものの、SPが付いてくると分かったため、大学の構内に入れることをよしとせず、勤務終了後に学外で菅直人と会ったそうだ。これも研究者として、「極めて当然な行為」である。

また、小出助教が暮らす職員宿舎は手狭で老朽化しているために、改築工事を行うとの提案が過去あったそうだ。改築すれば1軒当たりの面積も1.5倍程度に増えるので利用者は喜んだが、からくりがあった。同じ国家公務員ということで、「京大教職員宿舎」にもかかわらず、海上保安庁の職員を入居させたいと大学当局は打診してきたという。これに対し、小出助教は「海上保安庁職員はいわば海の警察官だからそんなものは認めることができない」と発言し、住民達も同意したので結局改築自体が見送られることになった。このような行為や姿が大学としては当たり前なのだ。

◆お隣の同志社は学内に交番を設置した恥ずかしい大学

京都大学の面する「今出川通」を西に1キロ強の位置に同志社大学がある。この大学はあろうことか、昨年からその敷地の一部を交番に提供している。つまり大学の敷地の中に警察を常駐させているのだ、知を探求する大学の姿勢として「最低レベルの大学」と言わねばならない。交番設置にあたり、大学内では教職員組合が大学執行部に質問を行った程度の議論はあったようだが、はっきりとした反対運動もなく「国家権力の暴力装置」を学内に招き入れている。恥ずかしい大学だ。

原発事故後に大学で原発推進の講義を行うエセ学者に抗議をしたために「無期停学」処分を下したり、大学に対する学生の抗議に対して「営業権」という、腰を抜かすような理屈を持ち出したり、学生弾圧専門の体格の良い専門家を用意して平然と暴力を振るったり、学生の抗議を見えづらくするために不要な工事を行ったり、公安警察を平然と学内に招きいれたりする腐りきった大学がそのうちに出てくるであろう。

と、未来形で語れないのがこの時代の悲劇だ。交番を設置したアホな大学として同志社をあげたが、西の横綱が同志社であれば、東の正横綱は「法政大学」である。法政大学の教職員は今すぐ京都大学に出向き、大学の根本を学んでくるべきだ。同志社大学の教職員もお散歩がてら京大へ1日研修に赴いてはどうか。

私は以前、大学職員時代に公安警察と懇意にしていた旨のコラムを書いた(「公安警察と密着する不埒な大学職員だった私」)。それは全て「警察から情報を引き出し、それを学生に与える」のが目的のゲリラ戦法だった。個人のスタンドプレーともいえる。警察(公安)を騙しても、学生を騙すことは金輪際しなかった。私の行為は決して褒められたものではないけれども、大学存立の大原則は踏み外さないよう意識した。

◆卑劣な反動の矢に当局が屈した時に大学の存立意義は終焉する

京大生と京大の「極めて当然な行為」に対して、いずれ反動の矢が飛んでくだろう。

東大ポポロ事件」のように。(※Wikipediaの記事の中には一部正確さを欠く部分があるが大筋はご理解いただける)

そして飛んでくる反動の矢は「ポポロ事件」とは比べ物にならないくらい卑劣で激烈なものだろう。しかしそれに抗することを放棄しては大学の存立意義は終焉する。

私は京大生の行為を「極めて当然な行為」と評価する、褒め称えない(本音を言えば心の中で喝采しているけれども)。何故か。京大には「警察を学内に入れる際には当局と学生の了解がなければならない」とする内規があり、今回の行為はその内規に沿うもので、言わば「ルール通り」の行動だからだ。

京大にこの内規がなければ、目下、学生がやられ放題に弾圧されている法政大学のように京大の学生たちも簡単に警察に売り飛ばされたであろう。京大だって当局がいつ態度を翻すかは油断ならない。京大には内規があるものの、今や良心的な教職員は少数派だからだ。この事件の行方から暫く目が離せない状況だ。

▼田所敏夫(たどころ・としお)

兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。

『紙の爆弾』最新号は明日7日発売です!