日本のキックボクサーがムエタイ選手の強さを追求し、追いつき追い越そうと、また日本人ライバルにも差を付けようとタイ本場のムエタイジムへ修行に向かい、厳しい環境の中で技術を学ぶ。その歴史はキックボクシング創生期から始まり、現在も続いています。
1980年以前は、海外へ渡航すること自体、困難な時代でした。海外を拠点とするビジネスマンでもなければ日本を離れることは無く、高額所得者でなければ航空券すら買えず、海外旅行は一般庶民には程遠く夢の時代。それでもチャンピオンクラスやその陣営の人たちは度々タイへ渡りました。
◆80年代に始まった「強くなるためのタイ修行」
そんな時代も徐々に変化し、格安航空券なるものが当たり前に蔓延。更に円高が拍車を掛け、1980年代に入ると世間は海外旅行ブームに入っていきました。タイへ渡り試合を観てジムを見学する“ムエタイ観戦ツアー”なるものも増え、「タイへ修行に行こう」という志豊かな若者がドッと増えたのもこの頃でした。
そうなるとムエタイ業界にも影響が現れました。ムエタイ修行に向かう各国の選手。元々“お客様”を受入れる態勢など無かった奴隷のような男だけの汚いジムが、徐々に外国人受入れ態勢が出来ていったジムも相当数になると見られます。試合で稼いでくれるチャンピオンやランカーではない、練習費を払ってくださるお客様だけに、空港までの送迎、エアコンの効いた日本人(外国人)専用部屋、食事は不備の無い調理と冷蔵庫と浄水器のある設備、お湯の出るシャワー、女性練習生受入れ態勢も充実という練習以外の苦痛は無いと思える環境。
◆2000年代からはオシャレでセレブなフィットネス系ムエタイジムが増加
2000年代から観光化したムエタイジムに変貌していくジムも増えました。体験入門としての緩い練習内容の初心者コースもあり、今はほとんどプロ選手に限らず、一般学生やビジネスマンのタイ人も受入れ対応可能なジムが多くなりました。
タイの現在は、ある意味ムエタイブームで、ガラス張りの綺麗なフィットネスムエタイジムがたくさん出来て、ショッピングモールのテナントにヨガ&フィットネスジムと一緒にサンドバッグやリング設備があり、富裕層の女性が“ダイエットに最適”と通うことが流行っているようです。この辺はビジネス的に商売としてやっている傾向のジムで、選手の育成の概念が無いフィットネスムエタイジムと、稼げるチャンピオンを目指すプロムエタイジムは別物と考えなければいけません。
◆有力キックボクサーたちのムエタイ修行列伝
タイに渡ってキツイことは、ジムワークや南国特有の暑さだけではありません。外国人受入れ態勢の無い、はるか昔の汚いジムに単身乗り込んで行った日本人選手もたくさんいました。
1983年春、青山隆(元・日本フェザー級チャンピオン/小国=当時)氏は、バンコクに着いて、空港のタクシー運転手に、知人に書いてもらった英文字の住所の紙を見せ、英語のわからない者同士で片言の値段交渉。ジムに着いてもそのままタイ人選手の居る雑魚部屋へ通され、言葉が通じないことや、選手と輪を囲み、同じオカズに箸を進める食事も慣れるしかなく、練習も自分から皆の輪に入っていかないとミット蹴りも首相撲の相手もやってくれず、浄水器など無い濁った水道をタイ選手と一緒に生水をガブガブ飲んだり、それでも下痢は一度もしなかったという、普通の人では耐えられない環境。
1987年には、立嶋篤史(元・全日本フェザー級チャンピオン/習志野=当時)氏のデビュー前、彼はまだ中学を出たばかりの15歳の春、「タイは若いうちに行っておいた方がいい」という先輩の助言を信じ、両親にお願いしてタイ修行を決めたが、行くのは自分ひとり。彼にとっての苦難は練習よりも生活環境でした。潔癖症というほどではないが、生理的に受け入れ難い範囲ながら、雑魚部屋でゴキブリが出る、ヤモリが天井に這い、それが寝ていて視界に入る。床はコンクリート、茣蓙を敷いたり、薄いマットレスでは硬くて眠れるものではなかった状況。トイレは汚い便器で、排水の悪い水浴び場所と一緒。暑い部屋で、過去の日本人先輩方が置いて行った扇風機が一台あるのみ。更に悩ませられたのは食事。選手が輪を囲んで、市場で買ってきた何種類かの惣菜をそれぞれ器に入れ御飯を食べるが、みんなが一斉に同じ器にフォークやスプーンを運ぶ。辛かったり臭かったり、人によってはタイ料理やタイ米が美味しく、みんなでワイワイ言いながら食べる食事が楽しく感じるものが、彼には苦痛でした。タイ料理が口に合わず、日本から持っていったフリカケとインスタント味噌汁が毎日のオカズ。練習が休みとなる日曜日にはタクシーに乗ってバンコク中心街のセントラルデパートの日本料理店に駆け込んだという。更なる苦難は一人でマレーシアに行かねばならなかったこと。小学校卒業記念に貰った英和辞典を持って夜行列車に乗って24時間掛けての旅。当時の観光ビザは2週間以内がビザ無しで入国できる範囲。それ以上の滞在は一旦国外に出てビザを取り直す必要がありました。帰りはお金が無くてバンコク・ホアランポーン中央駅から20kmほどあるジムまで線路を歩いたという途方にくれる一人長旅となりました。
また立嶋選手が来る以前のこのジムでも日本人選手は幾人か修行に来ていましたが、手癖の悪いタイ選手が居て、平気で人の歯磨き粉を目の前で勝手に使ったり、身の回りの物は勝手に持ち出される。日本人から見れば相当頭に来る行為であり、喧嘩も絶えなかったと当時の日本人選手が語っていましたが、タイ選手の“盗った意識”の全く無い態度。これは育った環境の違いがあってのことでした。タイの田舎で育った者は、高床式で扉の無い家も多く、隣の家だろうが簡単に行き来し、家族のように互いに必要なものを使い合う、そんな習慣がバンコクのジムに来てもその癖が出る。タイ人同士でも、すべてが許される訳ではありませんが、そんなことも理解し妥協しなければならない面も多かったようでした。
◆練習以前の難題は劣悪な生活環境に打ち勝つこと
1990年に入って徐々にムエタイ修行の環境は変わっていきましたが、まだ古いジムもあり、かつてWBC世界ジュニアウェルター級チャンピオンだったセンサック・ムアンスリンが所属したムアンスリンジムにアポ無し入門したヤンガー秀樹(=当時/仙台青葉)氏は、ジム脇のトイレ横の窓もない倉庫のような部屋にタオルケット一枚で、コンクリート張りにシートを敷いた床に直接寝るので硬くて眠れないし疲れは取れない状況で、コンクリートのざらついた地面のジムでは足の裏の皮が60%も剥けて、寝てると蝿がガンガンタカる始末だったという。
このような体験談は、ムエタイの練習だけが修行ではない、あらゆる不便で不愉快な、不安な日々も忍耐力の修行の一部であったことの一例ですが、いずれの選手も図太い神経で乗り切った経験が後の人生でも活かされています。
今や外国人受入れ態勢の無い、昔ながらの環境劣悪なジムは、首都圏ではほとんど無く、あとは観光地とは無縁の田舎のジムに行かねばならないでしょう。強くなる、技術を習得するなら設備整ったムエタイジムでの修行が最適ですが、昔ながらの不便苦痛なムエタイジムの存在が懐かしく思える体験者との昔話です。
[撮影・文]堀田春樹
▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない。」
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