ここ数年、大学を卒業しても就職ができないことが騒がれているが、なにがそんなに問題なのだろうか? 大学は学問をやるところで、就職斡旋所ではないのだ。問題なのは、「勉強していい大学に入って、大きなお役所か企業に入れば、楽して暮らせるんだ」などと言って、子供を勉強に駆り立てている、親や世間だろう。
学校を出ても就職できない時代など、過去にいくらでもあった。そんな時こそ、若者は自らの手で道を切り開いたのだ。
それをはっきり示してくれるのが、『この人に聞きたい青春時代』(鹿砦社)だ。

本書に登場する、筒井康隆、立松和平、清水義範、中村敦夫、落合恵子。いずれもそれぞれの分野で、他の追随を許さない業績を成し遂げた、表現者だ。そして、その誰もが、ストレートにその道を進んできたわけではない。学生時代に文学賞を受賞し、そのまま作家になったという方はここにはいない。

筒井康隆の時代も、就職はできなかった。学生は映画監督や小説家になりたいと言うが、実家が農家なら百姓をやりなさい、と教授が言ったくらいだった。
同志社大学美学科卒業の筒井は、デパートのショーウインドウを作る会社に入る。薄給で、時間外労働や徹夜をやって、やっとまともな額の給料になる。今の大学生のほとんどが、就職先として選ばないところだろう。
しかし筒井は、そんなヘヴィな仕事をしつつ小説を書き続け、テレビのSFアニメ『スーパージェッター』の脚本を書いたことをきっかけに独立する。
その後の今に至るまでの成功は、改めて書くまでもないが、会社生活は様々な意味で役に立っているという。

旅と学生運動とバイトに明け暮れていたという、立松和平。今日はステーションホテルに泊まろうか、シーサイドホテルに泊まろうか、リバーサイドホテルに泊まろうか、などと呟くが、要するにすべて野宿。
立松は、集英社に就職が内定する。だがそれを、蹴ってしまう。『早稲田文学』に『途方にくれて』という作品が載ったからだ。しかしそれで、すぐに作家になれるわけではない。最初は山谷の日雇い労働者、そして市役所に勤めるがそこに安住せずに辞めてしまう。
そして『遠雷』で野間文芸新人賞を受賞して、作家生活に入った。
2010年2月8日、多臓器不全で死去し、『白い河 風聞・田中正造』が未完の絶筆となったが、学生の頃から、同じ課題を抱えたまま、走り続けた人生だった。

愛知教育大学にいながら、絶対に教師にはなりたくないと思っていたのが、清水義範。教員採用試験を受けさえすれば、ほとんど全員が受かるという大学だったが、作家になりたいと思っていた清水は、教師にならなかった。
上京して、友人の四畳半に泊めてもらいながら、仕事を探す。見つかったのは、一般住宅を四畳半でいくつかに区切ってトイレは共同という仕事場の、アングラ劇団のような会社。そこで10年間働いた後に、作家デビューする。
その10年があったからこそ、いまも小説をやっていられる、と清水は語る。
回り道は、決して無駄ではない。

俳優から政治家へと転身を遂げた中村敦夫は、東京外国語大学を中退して、俳優座入団、ハワイ大学留学という、わりと華麗な青春時代を送っている。
それでも、3カ月かけてのバスでのアメリカ一周旅行を、飲まず食わずに近い形で経験している。
「そこへ行くと行かないでは大違いで、行って目的が失敗したとしても、損ということはないんですよね。ものすごく学ぶっていうことが残るわけです」と中村は語っている。
『中村敦夫の地球発22時』の司会を務め、キューバ、ソ連、東ドイツ、中国など社会主義国を訪れる。そこで感じたのは、日本の官僚主義は社会主義と同じだということだった。そこから、独自の政治感覚が培われた。

落合恵子は、21歳の就職試験で「私生児」であるということで差別を受けた。
だが、「それをバネにして生きる」よりも、「社会に新しい風を吹かせたい」と志向する。
文化放送の深夜放送『オールナイトニッポン』の人気キャスターになると、「レモンちゃん」と呼ばれ、なんでも聞いてくれるお姉さんと思われる。それからまた、180度転換して、リブの闘士のように思われる。
そんな他人の視線の居心地の悪さに抗いながら、「安定したくないという気持ちが強くある」と語る、落合。
「自分の価値観を確立し、維持していくのももちろん大事なことだけど、一方で、自分が一回つくりあげた価値観が自分に合わなくなった時に、それを壊す勇気が自分にあるか、ということも問いかけていたい、もちろん私自身にですが」

世の多くの人々が考えているような既成のコースを歩んでいたら、自分らしい人生など手に入らない。
今の若者たちにこそ、読んでいただきたい一冊である。

(FY)