朝鳴った電話が「日隅先生が亡くなったんですよ」と教えてくれた。徹夜明けのボーっとした頭に響いた。
6月7日、東京共同法律事務所でインタビューに応じてくださった日隅一雄先生は、わずか5日後、6月12日にご逝去された。享年49歳。あまりに若すぎる。まだ頭の整理がつかないでいる。
日隅一雄氏は、産経新聞の記者を経て、弁護士になった、自称、ヤメ検ならぬ「ヤメ記者・弁護士」である。インターネット市民メディア『News forThe People in japan(NPJ)』編集長でもあった。
「あの時代は、弁護士資格は取りやすい時代だったのですよ」と日隅先生は、笑った。
思えば、原発事故直後、3月16日に清水社長(当時)あてに「記者会見で情報を適切に出すように」と求める書面を出し、翌日から連日、東電の記者会見で鋭く追及を重ねた。当時から具合が悪かったのだろう。それでも、4月末まで執念ぶとく、原子力・安全保安院や東電本店の記者会見に出て汚染水を垂れ流した問題や、SPEEDIの情報隠ぺいを追及した。日隅先生は、胆嚢ガンを患いながらも、最後の力を振り絞ってインタビューに応じてくださった。その鋭い内容は、近日、しかるべき場所で発表したい。
NHKの慰安婦番組改編問題や、沖縄密約文書の訴訟を弁護士として担当した。
日隅先生は、著書「検証 福島原発事故・記者会見―東電・政府は何を隠したのか」(木野龍逸氏と共著・岩波書店)でこう書く。
「東電の汚染水の放出を認めた政府は、その後、責任を適切に果たしたのだろうか。そうとはいえない。海洋汚染の調査すら、東電に任せていたのだ。事故発生から五月六日まで、福島第一原発から半径十五キロ以内の海洋は東電がモニタリングを担当していた。五月八日には、文科省と水産庁の定めた『海域モニタリングの広域化』に沿って、東電の担当海域は半径三○キロに拡大することになった。(中略)そもそも、東電と国による海域調査の分担をどのように決めたか根拠がはっきりしていない。五月六日の統合記者会見で、木野が区分けの根拠を聞くと、文科省の坪井裕審議官はしばらく沈黙した後で、「関係者の話し合いでそう決めた」と回答した。五月三○日に改めて尋ねると、坪井審議官は「海域モニタリングの広域化で沖合の(観測点の)数が増え、従来の観測点ができなくなってしまったこともあり、東電に一部お願いした」と説明した。要するに国では手が足りないので東電に依頼したということだ。事故の収束作業に注力している東電よりも、国の方が力不足というのは、納得しがたい理由だった」
(6章 汚染水、海へ)より。
ジャーナリストとしての責任追及の使命感に満ち満ちた記述である。
日隅先生は、民主主義をわかりやすくする本の執筆に取り組んでいたと、聞いた。
鹿砦社の「東電・原発おっかけマップ」を渡すと「これ、ほしかったんです。流通に除外されて、かえって価値を高めた本ですね」とおっしゃられた。
最後まで怒りをもって取材活動を続けた日隅一雄先生の、ご冥福を祈る。
(黒川龍一郎)