紛い物の「民主派」や「反権力」、そして原発問題においては「脱(反原発)」に名乗りを上げる団体や個人は左右問わず引きも切らない。自己総括をすればその紛い物の口上に絡めとられ、誌面を荒らされた1年を反省せねばならない。
そしてそれ以上に彼らと権力、あまつさえ警察権力の結託が明らかであったにもかかわらず、それを容認してしまった責は重いと考える。よって『NO NUKES voice』7号は我々が再決起する、「戦闘宣言」である。
脱(反原発)運動の中に蔓延る一見「新しさ」をまとった、実は極めて原則的に最も犯罪的な「反動」との決別と糾弾を内包した覚悟の「宣言」であることを再確認しておく。
◆「原発=核」の根源的課題
そもそも「脱(反)原発」運動は、もちろん「3・11」未曾有の死滅的危機をきっかけに大衆的な広がりを見せたものであることは間違いないが、「3・11」が端緒であったのではない。「反戦」・「反核」運動は原水禁発足から世界的に展開されていた運動であり、その歴史は「ヒロシマ・ナガサキ」を一方的に被害者として捉えるのではなく、日本のアジア侵略、とりわけ朝鮮半島から中国への侵略の歴史(15年戦争)と分かちがたく連綿としたものである、という認識は一部の反動を除いては明白な前提であった。
かといって我々が「3・11」をその延長線上に必ず起こる災禍として万全な準備を怠らなかったのか、と問われれば、全くそうではない。確かに「反帝国主義」、「反ネオリベラリズム」といった21世紀型の課題と直面しながら、末期資本主義の加速=資本の寡占、規制緩和、労働者搾取の激化、階級格差の拡大といった目前の現象に我々が目を奪われていたのは事実だ。
だが、そういった「人為的作為」をも全てのみ込み、あらゆる論争をも無にしてしまう危険性を極めて高い確率で包含する「原発=核」の根源的課題には東西冷戦終結後、配慮が希薄になっていた。これは確実に希薄だった。改めて自己批判する。
◆「無責任」構造の中で進行する「原発」問題
そもそもこの島国では「明治維新」以降、突然祭り上げられた「天皇制」があたかも神聖かつ万能であるかのように皇民化体制が築かれ、その上に3000万のアジア人民を虐殺し、自国民も300万が死を強制された戦争があった。
本来、その敗戦とともに「天皇制ファシズム」、「天皇制ボナパルティズム」は人民の手によって裁かれ、断罪され、跡形もなく消し去られるのが道理だったのだが、占領軍は手軽な統治の方便として昭和天皇、並びに「天皇制」を不問に付すのが最善策だと判断し、昭和天皇を赦免した。
極めて「日本」に似つかわしい不思議な赦免である。それを受け入れた当時の国民に大きな違和感はなかったようだ。私には不思議だ。矛盾ではない。完全な背理ではないのか。何が解決したのだ? 曖昧に過ぎる。
「原発」問題を論じる際に曖昧かつ他者依存的な、この島国の「心象」を忘却してはならない。
「誰が責任を取るのか」(原発「推進」にしても「反対」にしても)、「事故が起きたらどう対処するのか」(対処できる道理はない)、「事故後の補償はどうするのか」(補償など尽くせない)といった初歩的な問いへの回答すら忌避して、総体としての「無責任」構造の中で進行してきたのが今日的惨劇の元凶である。
したがって『NO NUKES voice』は「全原発の即時廃炉」を求めるのは当然だが、運動内に跋扈する「反動分子」あぶり出しも責務であると考える。これは所謂「連合赤軍」事件や、新左翼諸党派に見られたような狂信的「粛清」とは全く異なり、「脱(反)原発」が文字通りその目標を見据えて行動しているか、手段として権力や権威、天皇制を利用していないか、警察権力と結託してはいないかといった極めて単純かつ初歩的な数か所を点検するに過ぎない。
しかしながら、そのような点検作業すら「普通の人」、「広がりやすい運動」といった、それこそ定義があいまいな言葉によって踏みつけにされている。「戦後民主主義」終焉を迎えた今日の惨状を誘引したのは、そのような「曖昧さ」が原因ではないのか。「差別」、「排外主義」、「戦争」、「反動」への反対と「原発反対」にはなんら小難しい論議は必要ないと私たちは考える。
◆悪夢のような現実に回答を出す時間的猶予はわずかだ
安倍自公政権の推し進める「戦争への最短道」はどのようにすれば阻止できるのか。
一次冷却水が漏れた、つまり運転中ならば原子炉暴走を誘引するよう状態の原発再稼働はいかにして止められるのか。TPP協議の中心的役割を担っていた重要大臣の「口利き」辞任があっても「内閣支持率」が下がらない(下げさせない)メディアと、国民はどう対抗すればよいのか。
上記の問いにいずれも明快な答えは無い。しかし私たちは逃げられない。不幸にも悪夢のような現実は厳然と立ちはだかり、しかも回答への時間的猶予はわずかだ。
各々が可能な模索を全力で手探りするしかなかろう。私たちは、差し当たり本日発売される『NO NUKES voice』7号の編纂に全力を挙げた。十全とは言えずとも全力は尽くした。
花言葉やお気軽な自慰行為に陥りたくはない。その為には高い授業料も払った。だからこそ本号で展開できる内容がある。私たちは過去の過ちや、誤解を正当化しはしない。そこまですれっからかしではない。皆さんには是非『NO NUKES voice』7号を手に取りお読みいただきたい。この号からは血が流れている。被災者悲しみの血、終生原発と闘った闘士の血、欺きにより斬られた血、そして未来に向け憤怒する闘いにみなぎる血だ!
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。