犯人にも被害者的な面がある事件がたまにある。10年に長野市で起きた会社経営者一家 殺害事件もその1つだ。あまり報じられていないが、事件の「首謀者」とされて死刑判決を受けた伊藤和史(37)は被害者家族から奴隷的な拘束をされていた。知られざる一家殺害事件の深層とは・・・。

◆「首謀者」の素顔

長野市のリフォーム会社の社員だった伊藤は10年3月24日、仕事を通じて知り合った松原智浩(45)や池田薫(40)、斎田秀樹(57)と共謀し、勤務先の経営者・北村博史(仮名、享年62)とその長男・礼司(仮名、同30)、礼司の内妻・香田葉子(仮名、同26)をいずれもロープで首を絞めて殺害。現金約 416万円を奪うと、3 人の遺体をトラックで愛知県西尾市の資材置き場に運び、土中に埋めて遺棄した――。

最高裁。伊藤の判決公判が4月26日にある

伊藤が11年に長野地裁の裁判員裁判で受けた死刑判決によると、これが事件の概要だ。すでに松原は死刑、池田は無期懲役、斎田は懲役18 年が確定。「首謀者」とされる伊藤は最高裁に上告中だが、その上告審も3月29日に弁護側と検察側が意見を述べる公判が開かれて結審し、4月26日には判決が宣告される。

筆者は一昨年の秋、伊藤と初めて面会した。一家3人の命を奪った「首謀者」がどんな人物か確かめたく、東京拘置所まで訪ねたのだ。

「はじめまして。寒い中、わざわざありがとうございます」

スウェット姿で面会室に現れた伊藤は思ったより若く、くりっとした目が印象的。いかにも親しみやすい雰囲気を漂わせており、拍子抜けするほど普通の男だった。

◆何でも気さくに話すが・・・

今は東京拘置所に収容中の伊藤。獄中生活は被害者たちの拘束下にあった時より楽だという

以来1年余り、筆者は伊藤と面会や手紙のやりとりをしてきたが、伊藤は第一印象の通り、何でも気さくに話すタイプだった。出身は大阪で、中学時代は吹奏楽部。中学卒業後、高校はどこも受からずに専修学校へ進んだが、勉強についていけずに中退。その後はコックやゴミ回収員、風俗店従業員として働いた。サッカーやビリヤードなど趣味が多く、花も好きなのだという。

ただ、事件のことは当初、話しづらそうだった。

「今思えば、他に何かあったように思うんです。でも、あの時はああするしか思いつかなくて・・・」

取材を進めるうち、伊藤が事件のことは話しにくい事情は理解できた。この事件は加害者と被害者の関係が特異なのだ。

◆心身共に疲弊して耐え難い心境

伊藤が制作したポストカード (1)

大阪の風俗店で働いていた伊藤が暴力団組員の真山文剛(仮名)に因縁をつけられて暴行され、家の合鍵を取り上げられたのは05年の夏だった。以来、伊藤は真山に言われるままに養子縁組をして姓を変え、消費者金融で借金させられたり、仕事で得た金を取り上げられるように。この間、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなどの激しい暴行も受けていた。

そして翌06年1月、伊藤は被害者の北村親子と出会う。北村礼司が真山の舎弟だった縁だ。やがて伊藤は北村博史が営む高利貸し業を手伝わされるようになるが、08年の夏、衝撃的事件が起こる。兄貴分の真山を疎ましく思っていた礼司が真山を拳銃で撃ち殺したのだ。

その場に居合わせた伊藤は、礼司から真山の遺体の遺棄を手伝わされ、その後は博史の営む会社で働かされることに。長野市の事務所の住み込みにされ、09年からは監視カメラの設置された北村親子宅で同居させられた。

それ以降、伊藤は朝から夜まで博史の会社で働かされ、収入を得るために深夜は別の仕事をし、1日3、4時間しか眠れない日々が続く。休日も博史や礼司の付き人や運転手として拘束され、暴力も頻繁にふるわれた。「大阪の妻子に会いたい」と再三訴えたが、「真山のようになってもいいのか」と脅かされ、帰宅できたのは盆や正月、自宅が火事になった時などだけだった。

伊藤は疲弊し、逃げ出したいと考えた。だが、北村親子が高利貸し業の債務者が逃げた際に住民票の除票から住所を突き止めたのを知っていた。逃げても逃げ切れないし、家族にも危害が及ぶかもしれない。北村親子は警察と懇意にしており、警察も頼れないと思えた。

やがて伊藤は、この生活から解放されるには北村親子を殺すしかないと考えるように。翌10年には、同僚の松原も「同じ考え」だと知る。そして松原と共に同僚の池田や取引先の斎田も引き込み、犯行に及んだ――。

以上、事件の経緯は主に控訴審判決を元にまとめたが、控訴審判決は犯行時の伊藤を〈心身共に疲弊して耐え難い心境〉だったと認め、同情的だ。だが、〈殺害以外の適法な方策を選択することが可能であった〉と裁判員裁判の死刑判決を追認したのだ。

伊藤らは北村親子のみならず、現場の北村親子宅に居合わせた礼司の内妻・葉子も突発的に殺害したのだが、それがなければ死刑判決はなかったろうと筆者を考えている。

※なお、礼司による真山銃殺事件はこの事件と共に発覚し、伊藤も死体遺棄で有罪とされている。

◆「逃げるための手段だった」

伊藤が制作したポストカード (2)

「私はこれまで伊藤さんが死刑になるべきだと思ったことは一度もないんです」

そう言い切るのは、逮捕直後から弁護人を務め、400回以上の接見を重ねてきた弁護士の今村義幸だ。

伊藤は後頭部にビールジョッキで殴られた跡、左足の腿の前後と左腹にはガラスで刺された跡がある。今村によると、これらの痛々しい傷跡はすべて真山の暴力によるものだが、伊藤は「真山さんの暴力より、北村さん親子の精神的支配がきつかった」と言っているという。

「弁護士をしてわかったことですが、人はすごく弱く、とくに精神面の抑圧にもろい。伊藤さんにとっては、何より家族と会えない状態が続いたのが大きかったんです」

裁判では、伊藤らの犯行は金目当ての面もあったと認定されている。だが実際には、伊藤と松原は斎田に相応の報酬を支払い、遺体の運搬を頼むと決めており、金を盗んだのは主にそのためだった。

「お金を取り、報酬を支払うことは、伊藤さんたちにとって北村さん親子から逃げるための手段だったんです」

北村親子宅には数千万円単位の金があったのに、伊藤らが盗んだ金は約416万円だけだったことがこの今村の説明を裏づけている。

◆「感謝しております」

手紙をくれる時、封筒の表書きと裏書はいつも毛筆

伊藤は今、日々、被害者のために読経にいそしんでいる。それと共に支援者らのサポートをうけ、自作の絵をポストカードにする活動に打ち込んでいる。「伊藤和史という存在をできる限り、色々な形で残したい」という思いが創作意欲の源だ。
 
面会に訪ねると、その後たいてい手紙をくれるが、いつもこちらが恐縮するくらい丁重な謝礼がしたためられている。

〈普段、会話の出来ない私に、会話するチャンスを与えて下さり、とても感謝しております〉
〈片岡さんの大切なお時間を私と向き合うお時間として費して頂いたこと、大変に感謝しております〉

この律儀すぎる男を取材しながら、筆者は何度も自問した。仮に自分が事件当時の伊藤だったら、どんな選択をしたろうか、と。確信できる答えが見つからないでいる。

◎伊藤や共犯者たちを支援する「死刑をとめよう!長野の会のブログ 彼らと生きたい!」
http://blogs.yahoo.co.jp/yopparai_nagano/61341891.html

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

片岡健編『絶望の牢獄から無実を叫ぶ――冤罪死刑囚八人の書画集』(鹿砦社2016年2月)