1999年頃に話題になった本庄保険金殺人事件で、殺人や殺人未遂、偽装結婚、保険金詐欺などの罪で服役したフィリピン国籍の女性が「この事件には関わっていない」と無実を訴え、さいたま地裁に5月17日付けで再審請求した。この事件に関しては、当欄で過去に何度か、首謀者とされる元金融業者の八木茂死刑囚(66)に冤罪の疑いがあることをレポートしたが、一貫して無実を訴える八木死刑囚にとっても、今回の女性の再審請求は追い風になりそうだ。
その女性は、アナリエ・サトウ・カワムラさん(51)。八木死刑囚と愛人関係にあったアナリエさんは、八木死刑囚や他2人の女性(いずれも八木死刑囚の愛人)と共謀し、保険金目的で2件の殺人、1件の殺人未遂をはたらくなどしたとして02年2月、さいたま地裁で懲役15年の判決を受けて確定。八木死刑囚は、債務者の男性たちを自分の愛人と偽装結婚させ、保険をかけたうえでトリカブトや大量の風邪薬を飲ませる手口で犯行を繰り返したとされるが、アナリエさんは被害男性3人中2人と偽装結婚しており、これまではすべての罪を認めていた。
◆有罪の根拠は「共犯女性」たちの自白だけだった
では、このアナリエさんが無実を訴え、再審請求したことがなぜ、八木死刑囚の追い風になりそうなのか。それは、世間一般の真っ黒なイメージと裏腹に、八木死刑囚が裁判で有罪とされた根拠は事実上、アナリエさんを含む共犯女性3人の自白しかないからだ。したがって、アナリエさんが自白を撤回し、冤罪を訴えたことにより、八木死刑囚に対する有罪の根拠も崩れる可能性が出てきたのだ。
5月27日に埼玉弁護士会館で会見したアナリエさんの弁護団によると、アナリエさんは取調べで検察官に「ちゃんと罪を認めていれば、懲役は7、8年くらいになる」と利益誘導されて自白。懲役15年の判決を宣告された時は「話が違う」と控訴したが、検察官がただちに面会にやってきて、「ちゃんと服役すれば、仮釈放で大幅に早く出られるから」と説得されたために控訴を取り下げた。しかし結局、仮釈放が認められないまま満期まで服役させられたため、「ずっと検察官から嘘をつかれていたんだ」と思いを新たに。「真実を明らかにしたい」と偽装結婚以外の罪を否定して、このほどの再審請求に及んだという。
◆報道された「有力物証」は実は存在しなかった
もっとも、このアナリエさんの再審請求が八木死刑囚の冤罪主張の追い風になりそうだと言われても、ピンとこない人は少なくないだろう。何しろ、この事件に関しては、八木死刑囚らをクロと決めつけた報道合戦が大々的に展開されていた。たとえば捜査段階には、八木死刑囚の関係各所からトリカブトが発見されたとか、死亡当初は自殺として処理された被害男性の遺書が八木死刑囚の愛人の筆跡に酷似していたとか、有力な物証が見つかったような報道も相次いだ。ああいう報道に触れていたら、一般の人たちがクロの心証を固めるのは仕方のないことだ。
だが、実を言うと裁判では、これらの「有力物証」は検察官から一切示されていない。要するに、報道された「有力物証」はすべて、ガセネタだったのだ。
八木死刑囚は08年に最高裁で死刑確定したあと、すぐに再審請求したが、すでにさいたま地裁と東京高裁で再審の請求を退けられ、現在は最高裁に特別抗告中だ。この間、トリカブトで殺害されたとされる被害男性の1人について、複数の法医学者が実際は「溺死」だったという鑑定結果を示しており、「被害男性は自殺だった」とする八木死刑囚側の主張は科学的に裏づけられている。大量の風邪薬を飲まされて死傷したとされる残り2人の被害男性についても、2人はいずれも覚せい剤中毒に陥っており、大量の風邪薬を飲まされるまでもなく健康状態がきわめて悪かったことが明らかになっている。愛人女性たちの自白が崩れたら、トリカブトや大量の風邪薬を飲まされたことにより被害者が死んだという確定判決のストーリーを裏づける証拠は事実上、何もないと言っていい。
残る2人の愛人のうち、1人はすでに獄死しているが、大半の犯行を実行したとされる武まゆみ受刑者(48)は今も罪を認めたまま無期懲役刑に服しており、八木死刑囚が再審無罪を勝ち取るために越えないといけないハードルはまだ残されている。だが、かつてマスコミ報道で「真っ黒」なイメージに染められた八木死刑囚の再審無罪が次第に現実味を帯びてきた。
▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。