脇役ながらキックボクシング興行の要となる存在のタイムキーパーとその相棒のゴング(鐘)にもドラマがありました。その存在に、ファンや興行関係者はどれだけ関心があるでしょうか。
◆ゴングを鳴らし続けた男・荒木栄さん
キックボクシング創生期から長くタイムキーパーを務められた荒木栄(あらきさかえ)というおじさんがいました。いつから始められたか、年齢も古くを詳しく知る方はいないので分かりませんが、関係者によると1969(昭和44)年6月、日本キックボクシング協会が日本武道館で東洋チャンピオンカーニバルを開催した時にはすでにタイムキーパーを務めて居られたようで、多くの試合をゴングとストップウォッチで管理してきたことは確かな存在です。
現在も多くの団体や興行が会場常備のゴングを使用していますが、新日本キックボクシング協会では独自に所有するゴングを毎度の興行で打ち鳴らされていることを、ファンの方で御存知の方はどれぐらい居らっしゃるでしょうか。「言われてみれば新日本は他団体と違う音色だな」と気が付く人は、物事の微々たる変化でも気が付く感性豊かな人かもしれません。
◆継承されるゴングの音色
今、新日本キックで使われているゴングは2代目で、初代ゴングを複製したものです。甲高い音色で余韻が10秒ほど続く、響きの綺麗なゴングですが、初代と形と素材は全く一緒で、初代よりやや音色が変わったものの、甲高さと余韻は変わらずです。
初代ゴングは「寄贈 アローンジム S 50.12.6」という刻印が入っており、1975年(昭和50年)当時、経緯はわかりませんが、日本キックボクシング協会に加盟していたアローンジムが寄贈したものと思います。毎週TBSで全国放送されていた時代で確認できることは、翌年1月からゴングの音色が変わり、この時から使用されているのではと思います。
その当時もこのゴングを操っていたのは、荒木氏でした。沢村忠氏も現役最後の年にこのゴングの音色を聴いている訳です。その後のキックボクシング低迷期は興行数も減り、ゴングもこだわりなく別物を使われた時期もありましたが、1984年11月、業界復興を目指す統合団体の日本キックボクシング連盟が設立された初回興行から、このゴングも復活しました。おそらく荒木氏が準備したものでしょう。後々このゴングは荒木氏とともにMA日本キックボクシング連盟で活かされました。
◆好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすことも
荒木氏を知る人はこのゴングを“荒木ゴング”と名付け、荒木氏のタイムキーパーに打ち込む熱心さは、レフェリーに繋ぐダウンカウントやラウンド終了の打ち鳴らし連打にも感情がこもり、ゴングと一体化した存在となっていました。決して派手にアクションを起こす訳ではなく、凡戦であってもラウンド終了では淡々と6回ほど打ち鳴らし、盛り上がったラウンドは好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすこともありました。
荒木氏と比較的親しかったのは日本バンタム級チャンピオンになる前からの鴇稔之(目黒)氏でしたが、「鴇くん、重いからゴング預かってよ」歳を重ね体に堪える荒木氏が鴇氏にお願いしたことがある言葉でした。
その荒木氏もまだ若い昭和40年代の頃、試合に没頭して3分経過、後ろから小声で“叫んだ”のは野口修協会会長の奥様、「荒木さん、荒木さん、時間時間、ゴングよ!!」と和子さんが語るエピソードもありました。
その荒木氏も1992年の1月興行を最後に体調を崩され永眠。その後、荒木ゴングを受け継ぐ者は居らず、そのゴングも行方不明状態。でも当時はそんなゴングにこだわりを持つ者は居らず、その後は何の躊躇いもなく後楽園ホールなど、会場常備のゴングを使っていました。
◆荒木氏の魂を受け継いだ岩上哲明氏
その後、1995年11月5日、市原臨海体育館での興行で突然復活した荒木ゴング。見つけ出してきたのがやっぱり頼りになる鴇稔之氏。私らは「よくぞ復活してくれた」と思ったものの、その後のタイムキーパーは荒木氏のこだわりを知らない、単に短く淡々と打つ者ばかり。
時代は受け継がれずも、しかし翌年3月、再び団体分裂が起こり、老舗の日本キックボクシング協会が復興。荒木ゴングも古巣へ帰ってきました。タイムキーパーを務めたのは岩上哲明氏で、MA日本キック連盟初期(1984.11~1989.1)の興行会社の日豊企画スタッフだった頃、荒木氏のアシスタントとして指導を受けた人でした。
その当時の岩上氏が就いた頃はまだ16歳で荒木氏の孫のような存在。若く素直な吸収力でその荒木氏の魂を受け継いだかのような見事なタイムキーパーを日本系復興後を務めました。ゴング連打も見事なもので、これこそ日本系の音色。荒木氏の魂が乗り移ったかのような進行でしたが、それも長くは続きませんでした。岩上氏も本業の都合で転勤の為、1999年7月に止むを得ぬ引退。
◆2代目荒木ゴング
更にゴングというものは寿命があるということを当たり前ながら思い知らされたのは、過去何度か支柱が折れての修理はあったものの、亀裂(ヒビ)が強く入り、それも修理で克服しつつ、2007年頃、2度目のヒビ割れで修理しても響きが弱まってしまうほどの重症に陥り、荒木ゴングの引退を迎えるに至りました。それ以前に複製を作っておいたのは、やがてやって来る交代に備えてのものでした。2代目荒木ゴングを最初に使ったのは2004年12月のTITANS.1stからでしたが、この時は臨時で、毎度の興行で登場したのは交代した2007年頃でした。
その2代目荒木ゴングも2013年12月の藤本ジム興行で亀裂が強く入り、響かなくなる重症。修理の結果、亀裂は修復されたものの、業者さんからは「全体に無数の細かいヒビが入っているので、あまり強く叩かないで」という御指導。いずれ2代目ゴングも引退が近いことを覚悟する現状です。ゴングは真鍮で出来ていますが、叩き続ければそういつまでも使えるものではなく、やがて寿命はやってくるものでした。荒木ゴングは“世界でひとつだけの鐘”と言えるほど他では真似できない音色でした。
◆「ゴングに触るな!」
「ラウンド終了間際は自軍のコーナー近くで戦った方がいいよ、ゴング鳴ってすぐ休めるから」こんなジョークともとれるアドバイスを鴇氏にしたこともある荒木氏。
「テンカウントゴングはあれぐらいのペース(4秒で1打ぐらい)が余韻と感情がマッチして良いんだよ」ある選手の引退式の後、周囲に語っていた荒木氏。
平成に入ったMA日本キック連盟第二期時代(1989.7~1996.2)、初期の興行会社が撤退した後のアシスタントの梅沢勝氏は「安易にゴングに触ると荒木氏に怒られた」という厳しい面もありました。
時間を見過ごす失態は荒木氏御自身の若手の頃以降は無く、タイムキーパーといえども時間を追うだけではない、ルールを把握し、レフェリーの裁きに対する機転を利かす処置も多くあり、岩上氏にも厳しい指導に移っていったことでしょう。
こんな脇役ながら音で奏でるゴングで、ファンの潜在意識に残る演出を残したのは荒木栄氏だけでしょう。1985年11月22日、初期のMA日本キック連盟で、団体問わず勤続10年以上のスタッフを称える表彰式では、レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)氏、リングアナウンサーの衣笠真寿男氏とともに感謝状が贈られ、リングでの観衆に注目される緊張の瞬間でした。
生涯では計20年以上になるタイムキーパー歴。ゴングとともに白手袋の荒木氏の姿があったタイムキーパー席に、キックボクシングの歴史に残る功労者がいたことを記しておきたいと思います。
[撮影・文]堀田春樹
▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」