最近、2人の原子力研究者であり反原発運動の先達についての、2つの新聞記事が目にとまった。
1つは9月18日付けの東京新聞、故・水戸巌さんに関するもの、水戸夫人へのインタビュー記事だ。
水戸さんは晩年、2人の息子さんと共に北アルプス登山中に遭難し亡くなられている。
奥さんは最近、水戸さんと息子さんの遺志に適うように毎週金曜日の首相官邸前の抗議行動に参加されているという。
水戸さんは、反原発運動と共に、政治犯の救援や受刑者処遇改善運動などを行う「救援連絡センター」の設立に関わり(1969年)、初代事務局長を務められた。鹿砦社も、その会報『救援』に毎号広告を出し、それ相当の部数を買い取り、知人・友人らに送る形で応援している。

もう1つは、9月24日付け朝日新聞夕刊の連載「ニッポン人脈記」の、故・高木仁三郎さんについての記事だ。
そこでは、高木さんが反原発運動に立ち上がった「一つの原点」が三里塚闘争、いわゆる成田空港反対闘争にあることが記述されている。このことは、すでに報じられ一部には知られていることだが、驚かれる方もおられるかもしれない。高木さんが三里塚に居た当時、私も三里塚闘争に関わっていた。遙か昔、40年余り前の1971年、沖縄返還の前の年のこと。沖縄返還協定調印-批准阻止闘争、そして成田空港反対闘争の山場の三里塚第1次、第2次強制収容阻止闘争が、60年代後半の学園闘争や70年安保闘争以後久しぶりに大きなうねりとなっていった。

私もまだ19歳、京都から上京し4・28沖縄デーを東京で闘い、それが終わると「お前は三里塚に残れ」という先輩活動家の一言で三里塚に残り、援農や穴掘り(ゲリラ闘争をやるために穴を掘って、そこで徹底抗戦するわけだ)などに精を出した。
大学のある京都との往復だったが、第2次強制収容阻止闘争が始まった9月16日、機動隊3名が学生部隊との遭遇戦で亡くなるという大きく熾烈な闘いだった。
しかし、「農民たちの抵抗もむなしく、農地はブルドーザーで押しつぶされた」(朝日夕刊記事より)のだった。その上に建設された現在の成田空港を見ると、なにかしら感傷的になる。

今では少しは名のある児童文学作家になっている先輩のSさんも、7月の闘いで逮捕され、Sさんの逮捕に触発され、私も逮捕が必至とされた第2次強制収容阻止闘争に志願して馳せ参じたのだった。
幸い沼に胸近くまでつかりながら逃げ通し、これが、高木さんとは別の位相で、「この闘いを貫徹できたのだから何でもできる」と、私なりに人生を決した闘いだったと思っている。

その後、高木さんは、反原発運動に関わっていかれますが、今のような大きな運動にはならず、孤立した闘いで、そのために一時鬱状態になられたという。
私は私なりに、一所懸命に生きてきたつもりだったが、生前の高木さんの孤立した闘いに連帯することはできなかった。忸怩たる想いだ。1960年代から70年代初めにかけての反安保闘争や、三里塚、沖縄闘争には多くの人たちが関わっているが、それらの運動が拡散していく中で、高木さんの闘いも、少数の孤立したものだったようだ。

しかし、その孤立戦が、今の反原発運動の大きなうねりに繋がっていると思う。
これも、あまり知られていないが、高木さんには全12巻の膨大な著作集(七つ森書館)が遺されている。朝日の記事にも記されている。これが編纂されたのは、3.11以前だから、先駆的な出版だといえよう。私の会社の書棚にも並べられ、折りに触れ紐解いて目を通している。行間から、高木さんの想いと執念が伝わるようだ。

このたび、私たちが出版した『タブーなき原発事故調書』を見て多くのみなさんが驚かれるが、私にとっては、水戸さん、高木さんらの闘いや、かつての三里塚闘争に比べれば、遙かに甘いものだと思う。私は私なりに、水戸さんや高木さんらの精神を胸にし反原発運動に関わっていきたいと考えている。

(MT)