埼玉県熊谷市で犬猫の繁殖販売業を営んでいた元夫婦の男女が1993年頃、犬の売買をめぐりトラブルになった客など4人を相次いで殺害したとされる埼玉愛犬家連続殺人事件。その主犯格の関根元死刑囚(75)が3月27日、収容先の東京拘置所で病死した。稀代の猟奇殺人犯として知られた関根死刑囚だが、娘にはデレデレの甘い父親という一面を持っていた。

関根死刑囚が営んでいた犬猫の繁殖販売業の犬舎

◆「お父さんっ子」だったという娘

「ボディを透明にする」。自分の殺人手法をそう豪語していたとされる関根死刑囚。被害者たちの遺体を細かく解体して燃やしたうえ、残骸を山や川に遺棄し、殺人事件の存在自体をほぼ完ぺきに証拠隠滅していたことから、検挙に至るまでに警察捜査は難航したとされる。ミュージシャンの泉谷しげる似の武骨な風貌。ライオンや熊を家で飼っていたというワイルドな私生活などは猟奇殺人犯らしいエピソードには事欠かない。

私がそんな関根死刑囚に関心を抱いたのは、共犯者とされて一緒に死刑確定した元妻の風間博子氏(60)について、冤罪の疑いを抱いたのがきっかけだ。確定判決では、風間氏は4人の被害者のうち、3人の被害者の殺害を関根死刑囚と共謀したとされるが、裁判では「関根の指示に逆らえず、遺体の損壊や遺棄に一部関わっただけだった」と冤罪を主張。実際、風間氏が前夫との間にもうけていた息子は「母は、関根のDVに苦しみ、奴隷のようだった」と証言し、「関根には逆らえなかった」という風間氏の主張を裏づけていた。風間氏は現在も支援者らに支えられ、無実を訴えて再審請求を行っている。

一方、良い話があまり聞かれない関根死刑囚だが、風間氏との間にもうけた娘Nさんによると、実の娘にはデレデレの甘い父親だったという。

「父は、母や兄には暴力をふるっていましたが、私には本当に優しくて、何をしても怒りませんでした。それに私が何か欲しいと言うと、何でも買ってくれました。思い出のプレゼントは、小学校3年生の時に買ってくれたテディ・ペアのヌイグルミ。当時の私と同じくらいの身長で、一目ぼれした私が『欲しい』と言ったら、父が『買おうか』と言って買ってくれたんです」

今から3年ほど前、Nさんは私の取材に対し、懐かしそうにそう語った。関根死刑囚のことが大好きで、「お父さんっ子」だったと自認する彼女の話を聞いていると、稀代の猟奇殺人犯も普通の父親としての顔を持っていることを感じさせられた。

◆娘への手紙に書いていた「ある言葉」の意味は……

関根死刑囚が病死するまで収容されていた東京拘置所

Nさんによると、20歳の頃に一度、関根死刑囚から「会いに来て欲しい」という手紙をもらったが、その時は「父がどんなふうになっているのか見るのが怖くて・・・」と面会に行かなかった。すると、関根死刑囚はそれ以来、Nさんの面会に応じなくなり、関係が途絶えてしまったという。そんなNさんが気になっているのが、関根死刑囚がかつて手紙に書いてきた「ある言葉」だ。

「父からの手紙には、『お母さんをNのもとに帰してあげるね』と書いてあったんです。あれは一体何だったんだろうと・・・」

殺人については無実を訴えていた風間氏が裁判で関根死刑囚と共謀して3人を殺害したと認定された大きな要因は、関根死刑囚が「犯行を主導したのは妻だった」と証言していたことだ。関根死刑囚がNさん宛ての手紙に書いてきた言葉を素直に解釈すれば、関根死刑囚は風間氏が無実であるという真実を打ち明け、風間氏に再審で無罪を取らせることを考えていたのではないか。

この私の推測が当たっているか否かについて、関根死刑囚本人の口から真相が語られることはもう永遠にない。残念だ。

※なお、拙著「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)では、風間氏が有罪、死刑とされた裁判の問題点が詳述されているほか、風間氏が自分の潔白や子供たちへの思いを綴った手記を収録されている。


◎[参考動画]埼玉愛犬家連続殺人事件起訴へ(1995年2月ニュース映像)

◎[参考動画]埼玉の愛犬家殺人 関根死刑囚が病死(NHK3月27日10時24分)

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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