麻布十番駅と三田駅に挟まれた一角。中之橋の南側。国際福祉大学三田病院、三田国際ビル、イタリア大使館といった重量系の建物が揃うこの地区で、一風変わった風貌の神社を見つけた。今回は、そんな元神明宮天祖神社(もとしんめいぐうてんそじんじゃ)を紹介しよう。

 

◆“都心に鎮座する最も近代的な神社”

打放しコンクリートで仕上げられた近代建築の隅に“元神明宮”という文字を見つけたときは、はてなと思った。時間経過を伝える石垣。残された木々の緑。道の傾斜と方角を無視しない造りは、土地や歴史との調和を図ろうという心遣いの表れだろう。立派な建築ではあるがまさか神社ではあるまいと思いながら南側へ廻ると、確かに鳥居が建てられており、また石碑には“天祖神社”とある。インターネットを使って調べてみると、ここは元神明宮天祖神社という神社であり、寛弘2年(1005年)に一条天皇の勅令によって創建されたということが分かった。この風貌は平成6年に行われた全面改築の結果だという。同社ホームページにも“都心に鎮座する最も近代的な神社”とあり、なるほど自覚的だ。

この元神明宮を知るため、そこに祀られた神について調べてみた。建築というテーマから外れることになるが、せっかく調べたので書いておこうと思う。名称を多用するため読みづらいかもしれないが、どうかお付き合いいただきたい。

普通、神社では複数の神を祀っており、主として祀られる神を主祭神(しゅさいじん)または主神(しゅしん)、それ以外の神を相殿神(あいどのしん)や配神(はいしん)などと呼ぶ。元神明宮の主祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、相殿神は水天宮(すいてんぐう)だ。

◆元神明宮──その名に潜む自嘲性

港区の芝に鎮座する芝大神宮をご存知だろうか。主祭神は天照大神と豊受大神(とようけのおおみかみ)の二柱で、これが神社界のトップである伊勢神宮と同じであることから“関東のお伊勢様”として親しまれている神社だ。この芝大神宮は元神明宮と同じ寛弘2年に建てられたもので、また芝大神宮は増上寺の東側、元神明宮は増上寺の西側に位置しており両者はご近所さんでもある。現在はそれぞれ芝大神宮、元神明宮と呼ばれているが、当初はどちらも単に“神明宮”と呼ばれていたという(天照大神を主祭神とする神社は一般に“神明宮”や“天祖神社”などと呼ばれる)。

時が流れて江戸時代。徳川幕府は、増上寺付近に鎮座するこのふたつの神明宮をひとつにまとめようとした。要するに“三田の神明宮”を消して“芝の神明宮”を残そうということになったのだが、それに納得できない三田陣営は御神体を隠してそれを警備し、断固として芝陣営へ渡さなかったという。こうしたドラマを経て“三田の神明宮”はいつしか“元神明宮”を名乗ることになったのだ。歴史を知ってみると、当初違和感のあった“元神明宮”というネーミングに自嘲的な感じが加わって面白い。現在の堅固なコンクリート造りは、あるいはこうした歴史を踏まえたものなのだろうか。

◆水天宮と久留米藩

元神明宮の相殿神である“水天宮”の総本社は現在の福岡県久留米市に鎮座しているのだが、この水天宮を巡ってはこんな話がある。江戸時代初期、元神明宮に隣接して大名屋敷が置かれることになった。それは江戸時代初期から明治維新までの約250年間にわたり久留米藩を治めた有馬家の上屋敷で、敷地面積は25,000坪(東京ドーム2個分)と広大だ。現在、その跡地には国際福祉大学三田病院や三田国際ビルが建っている。明治初年、その有馬家が青山へ移転する際に元神明宮へ祀られたのが水天宮なのだ。その時代、江戸に文化が流入してきたことが分かるハッキリとした表れだ。

◆神に寄り添う社殿直結賃貸ビル

それにしてもこの神社、建物の円柱部分を社殿直結の賃貸ビルとして経営しているというからこれまた面白い。もし家を建てるなら、とイメージを膨らませるとき、インテリア好きの筆者はその内側にばかり集中するのだが、とりあえず外壁は打放しコンクリートであるものとして妄想を深めていくことが多い。そんな好みだから、大成を願いながら神に寄り添ってここに暮らすのも悪くないと思うが、さてどうだろう。

 

[撮影・文]大宮浩平

▼大宮 浩平(おおみや・こうへい)
写真家 / ライター / 1986年 東京に生まれる。2002年より撮影を開始。 2016年 新宿眼科画廊にて個展を開催。主な使用機材は Canon EOS 5D markⅡ、RICOH GR、Nikon F2。
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