4月28日に逝去した「浅草ロック座」のオーナーだった斎藤智恵子さん。その斎藤さんはいくつもの「伝説」を残している。通称「斎藤ママ」のレジェンドを知る、数少ない人のうちのひとり、神山典士氏にインタビューを敢行。天才、勝新太郎に20億円をポンと貸し、その勝プロの権利を活かして世界の北野武に映画『座頭市』を作らせた大立者は、一方でドラッグで逮捕された小向美奈子を救済する一面もあった。知られざる「浅草ロック座の女傑」斎藤ママの横顔が、神山氏の言葉からかいま見える。(聞き手・構成=ハイセーヤスダ)

 

浅草ロック座HPより

── 斎藤智恵子さんとは、どこで出会いました?
神山 俳優の勝新太郎さんが生きてる頃、浅草に“ママ”がいるって聞きました。よくわからずに「ママって何ですか?」って言ったら浅草にものすごい“大立者”のばあちゃんがいて(笑)。「実はさ、オレそのばあちゃんに世話になってるんだ」って勝さんが言ってたんですよ。それで会いに行ったのが1996年ですかね。そうしたら勝さんは、おそらくは、すでに入院してたのかなぁ……。ガンにかかっていました。最後に勝さんが言うには、「ママには次は300万円ぐらいの三味線を今までのお返しであげるんだ」って言っていまして、実際、プレゼントをしていたのですね。その三味線の写真もいただきました。そのあとでママに会いに行ったら「まぁ先生に三味線をいただいたの」と。勝さんのことを先生って言っていました。
── そんなことがあったのですか。それは借金を返せないかわりに、ということですよね。
神山 三味線ひとふりぐらいじゃね、全然、それまでお借りしていたお金のお返しにはほど遠いでしょう。(編集部注:勝新太郎氏は、テレビ『座頭市』の制作費を斎藤さんに約20億円ほど借金していたと報道されている)
── 一般には報道によると勝さんが斎藤さんに借りたお金は約20億と言われてますよね。
神山 正確には知りませんが、渋谷に持っていたホテルを売るくらいだから、大変な額ですよね。
── 神山さんは斎藤さんとの交流を雑誌『AERA』や『中央公論』で書いてらっしゃいますよね。
神山 そうです。書きました。それで勝さんが死んだ後、勝さんのことを拙書『アウトロー』に書く時にも斎藤さんに出てもらったし、それから斎藤ママのことも書きたいと思って中央公論が最初だったか、『AERA』が最初だったか何回も何回も書いていたんですよ。それで98年か99年ぐらいにアマゾンに行ったんですよ。

 

神山典士『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』(祥伝社黄金文庫2014年)

── アマゾンに?
神山 僕が『ライオンの夢』(現在は祥伝社黄金文庫『不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男』)という作品を書くときにアマゾンの取材をやってて、ものすごい居心地がよくて、向こうには100万人以上の日系人の世界がありました。現地では、移民の人たちがロック座の踊り子の本場の踊りとを見て喜ぶから「ママ一緒に行かない?」って言ったら「よし行こう」と言い出しまして。踊り子6人ぐらい連れて。あと着付けの人と髪結いとそれから照明とマネージャーと僕ら取材人が3人ついて映像もとったりなんかしながら行ったんですよ。
── 豪華な旅ですね。
神山 10日間ぐらいの旅で、ママだけファーストクラスで、自分たちはエコノミーなのでしたけど(笑)。サンパウロから始まって、前田さんのお墓があるアマゾンのベレン、南のポルトアレグロをまわりました。各地どこでも大盛況で、踊り子たちはホームステイもして、最後はみんな大泣きでしたね。
── 儲かってた時代ですよね。
神山 当時は儲かってたよね。
── まだ景気が上昇していた時代ですね。
神山 かつてのようにロック座が全国チェーンでもなく、全盛の頃ではないですけれども、ただまぁ斎藤さんの会社は不動産もありましたし、パチンコの換金所みたいなのもやっていましたし、芸者置屋もありましたし、ロック座もあの頃は仙台にもありましたからね。仙台、上山田、横浜などなどです。
── 斎藤さんとは死ぬまでお付き合いされてたんですか?
神山 そうです。晩年はもうお仕事から身を引いていました。でも半年に1回か2回は行くようにしてて、「お食事処」っていう彼女がやってる食堂がありまして、そこに行けば斎藤ママや関係者に会えましたから。
── 斎藤さんとの思い出で印象に残ることは?
神山 色々もちろんあるんですけど、踊り子達のことですね。踊り子のOG達と会うと、こう中に何人か幸せな結婚をした子もいるし、それからどこに行ったか分かんなくなっちゃった子も多いのですが、最後には寂しさを引きずって辞めていくでしょう。
── 踊り子がですか?
神山 そうです。
── 年齢もあって。
神山 年齢というかですね、やっぱ男関係とかね。そういう意味ではこう、斎藤ママは浅草ロック座でけっこう強固な“女軍団”を作ったのですが、最後まで残ったのは“古い踊り子”だけだったのです。
── 最後に斎藤さんに会われたのは?
神山 最後に会ったのは今年の1月でしたでしょうか。
── 何の用事でしたか?
神山 実は浅草あたり行くたびに顔出すんですよ。その日も夜9時くらいに行ったと思います。
── 小屋にですか?
神山 小屋というか「お食事処」ですよね。で、斎藤ママは麻雀やっててちょっと会っただけです。ママが経営していました『お食事処』はママの入院中に締めてしまい、働いていた人にとっては青天の霹靂で「何であそこは閉めたのっ?」て聞きました。
── 悲しいですね。私も行ったことあります。もう入れないんですか?
神山 もう入れませんね。お葬式の前から片付けやっていました。
── 斎藤さんのお葬式には行かれたんですか?
神山 行ってないんです。その2日前に自宅にご挨拶に 行きましたが、もう家に安置されてて、お焼香させていただきました。
── 斎藤さんが亡くなってから浅草自体行ってないですか?
神山 葬式終わった後は行っていません。
── 勝新太郎さんの死に目は遭ったんですか?
神山 遭っていません。
── 勝さんと斎藤さんとは最後まで仲良かったんですか?
神山 ええ、ママは(勝さんを)尊敬していましたから。勝さんの妻、玉緒さんも毎年正月3日に姿をみせていましたね。
── 斎藤さんのところに?
神山 新年会をやって、7階がものすごいどんちゃん騒ぎで、若山富三郎、玉緒、北野武……大御所たちがまぁやっぱりママの前では頭あがらなかったですね。
── 面白いですね。
神山 俳優の山城新伍も物まねのコロッケも来ていました。たけし軍団ももちろんです。
── 本日はありがとうございました。

※斎藤智恵子さんのご冥福を祈ります。(ハイセーヤスダ)

▼神山典士(こうやま・のりお)
1960年埼玉県生まれ。川越高校を経て84年信州大学人文学部心理学科卒業。同年4月ISプレス入社、86年12月同社退社。87年1月上海倶楽部設立。90年5月株式会社ザ・バザール設立。96年『ライオンの夢 コンデコマ=前田光世伝』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞、2014年に起きた「平成のべートゥベン」の佐村河内守のゴーストを新垣隆がしていたことを『週刊文春』で暴き、大宅壮一ノンフィクション賞受賞、注目を浴びる。最新刊は7月10日発売の『成功する里山ビジネス ダウンシフトという選択』(角川新書)。公式ホームページ http://the-bazaar.net/

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。格闘技通信ブログ「拳論! 蹴論!」の管理人。

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一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』