◆三帰依再び!

ムエタイ以外でタイで出来る伝統文化って何だろう。そんな思い付きから、あの黄衣を纏って歩いてみたいという安易な妄想を描いてしまった若い頃。

しかし何の信仰心も無く無宗教で育った私は、日頃、両手を合わせる時は、学校給食の「いただきます!」と、苦しい時の神頼みしかありませんでした。成績最悪だった私は、地元の評判悪い私立の仏教系高校に辛うじて受かり、そこで毎朝合掌して唱えさせられたのが、

「ブッダン・サラナン・ガッチャーミー、ダンマン・サラナン・ガッチャーミー、サンガン・サラナン・ガッチャーミー」で、この意味は習ったはずも全く覚えておらず、卒業後の人生、全く頭に過ぎらぬほど、三帰依などすっかり忘れていました。

藤川清弘氏の著作。人物像はここにあり!

子供の頃からキックボクシングを観ていなければ、あの千葉にあるジムに行かなければ、そこであのタイ選手に会わなければ、そのタイ選手のバンコクのジムに居候しなければ、その近くで藤川清弘氏が日本料理の幟旗を立てなければ、その店へ行こうと日本人選手に誘われなければ……、これらのどこかで運命がほんのちょっとでもズレていれば、藤川氏と出会うこと無く、私は出家には至っていなかっただろうと思うのです。

対する藤川氏も波乱万丈の人生を送り、タイで事業を始めた人でした。この人もどこかで運命がちょっと違った方向に行っていれば、あそこであの時期にお店を開くことはなかったでしょう。いろいろな原因が結果となって現れ、それが次の原因となって次の結果を生んで続いていくことを“因果応報”と言います。

そして高校卒業後15年も経ってこの三帰依を再び唱える時が来てしまったのです。もしかしたら、あの嫌で嫌で仕方なかった高校に通った日々が原点だったのでしょうか。

◆幟に釣られた我々!

そんな運命に導かれるまで呑気に生きていた私は、1993年7月、バンコクのタリンチャン地区にあるムエタイのゲオサムリットジム宿舎となるアナン会長宅に居候していました。アナンさんは以前、キックボクシングの習志野ジムでトレーナーをしていた選手で、そこで偶然知り合った仲でした。そのアナン宅のある集落からすぐ出た小道に「たこやき」「やきそば」といった露店の幟旗が5本ほど立った、日本料理店であることを察する、オープンカフェ風の小奇麗なお店があるのを何度か通りかかった際、目撃していました。私はタイに来てまで日本料理は食べたくなかったので、一度も立ち寄ったことはありませんでした。それまでは……。

イメージ画像、実物とは関係ありません。オープンカフェ風レストラン!

タイの日本料理店がお客を釣る手段として用いる幟旗のイメージ画像。写真はタイ現地のものではありませんがこんな感じです

日本人の心を知り、適切に指導できるアナンさんのところへ、日本人キックボクサーが修行にやって来るのは当然の流れで、私が来てから2週間後にやって来たのが当時、日本のキックボクシングトップクラスにいた立嶋篤史選手でした。彼とはデビュー前から知り合いで、以前にもバンコクの別のジムでも一緒に過ごしたことある気兼ねない仲間内でした。

ジムが練習休みのある日曜日、アッシー(=立嶋篤史)から「あの日本料理の店行ってみましょうよ」と誘われる運命へ。彼は元々タイ料理が苦手で、これより5年前のムエタイジムで出会った新人の頃は、味付け海苔とフリカケとインスタント味噌汁を日本から持って来て、これだけで白飯を食べていたほど。その後、タイ料理はほぼ克服していましたが、近くに日本料理店があれば、彼の本能が赴くのは当然のことでした。私は付き合いがてら見学目的で一緒に行くことになりました。

店に入ると、テーブルに着いていたオーナーらしきゴツイ顔のオッサンが、「あんたら日本人やろ、どこに泊っとるんや!」。いきなり関西弁で遠慮ない問いかけをしてくるのが藤川清弘(当時51歳)氏でした。アッシーも活発な青年で意気投合し、藤川さんのツバ飛ばしながらよく喋る関西弁との上手く噛み合う会話が続き、ほとんど喋らない私は聞き役に回る程度でした。日本料理のメニューをお願いすると、藤川さんは「日本料理なんかあらへんで!」とあっさり。我々は「幟に書いてあるのはメニューに無いんですか?」と聞くと、藤川さんは「幟は客釣りや、タイ人には珍しい旗やろ、ワッハッハッハッハ!」。我々も引っ掛かったことに笑ってしまいました。

◆仏門の話題が出た!

アッシーはバンコクでの試合が決まり、減量も始まり、藤川さんの店に行くのは私だけになっていました。従業員の女の子とも仲良くなり、そちらの方が楽しみな日々。それまでの藤川さんとの雑談も、京都で地上げ屋やってたビジネス話から仏門の話がチラッと出た頃でした。

「ワシなあ、今年の1月から6月まで坊主やっとったんや」と見せてくれたのが、巡礼先で撮ったと見える黄衣を纏った坊主頭の藤川さん。このお店での姿はポロシャツにスラックス。髪は短めの七三分け。地上げ屋やってた人とは思えぬ比丘姿でした。

「ワシなあ、もう3~4年したらもう一回坊主やろうと思とるんや、今度は還俗はせんで、一生仏門に居るつもりや、堀田さんも短期でええからやってみたらどうや、日本では絶対に体験できへん良い人生の勉強になるで、得度式かて口移しで教えてくれるし、経文も覚えんでええ、ワシの時もそうやった!」

そんな言葉を掛けられて、過去にラーブリー県で会った品ある日本人僧や、以前付き合っていた彼女の弟の得度式での姿と、TBSの新世界紀行で見た日本の若者二人が出家した姿、それらが一気に頭を過ぎると、あんな姿で歩いてみたいという、お調子者の自分も挑戦してみたい気になりました。

とりあえずそんな縁だけ繋いでおこうと「僕もやりたくなったら誘ってくれますか、藤川さんの居る寺で」と言うと藤川さんは、「ええよ、面倒見てあげる、何も難しく考えんでええから!」と前向き対応。先はわからない簡単な口約束でした。3~4年後なんて仕事が忙しくなってタイには来られないかもしれない。機会あってもその時はビビッて怖気ずくかもしれない。でもまだ起きてもいない先のことは考えず、また雑談に店を訪れる日が続きました。

◆祝勝会もお別れ会も無く!

「アッシーが勝ったら祝勝会やろう」と言ってた藤川さん。アッシーは見事にKO勝ちしたものの、試合直後は日本とタイの雑誌取材等に追われ、すぐに店に訪れることは出来ませんでした。

試合翌日、私だけ訪れると「勝ったんか、たいしたもんやなあ、でも来れんのか、何でや~!?」とガッカリした様子の藤川さん。知り合って間もない関係だけに後回しになるのも仕方無いことでした。それはわずか5日間ほどのことでしたが、その後二人で訪れると、お店から藤川さんの姿が見えなくなっていました。

店の女の子に聞いても「社長はどこに行ったのか、いつ帰るのか分かりません」という返答。いつ行っても状況は変わらず、アッシーは先に帰国し、2週間ほどして私も帰国日になり、「もう藤川さんに会うことは無さそうだな。口約束はあくまで確約では無いし、祝勝会はもしかして御自身のお別れ会のつもりだったのかな」と頭を過ぎりながら、私は帰国の途についたのでした。

やがて2ヶ月ほど経ち、郵便受けに藤川さんからの手紙が届いていました。そう言えば名刺を渡していたなと思い出し、ここから切っても切れない恐ろしい腐れ縁の始まりとなっていくのでした。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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