8月25日にラジオを聴いていると、「きょうから京都市内の小中学校は2学期が始まり……」というニュースの声が聞こえてきた。あれ、夏休みは8月31日まで(私の頭の中では児童・生徒の揺るぎない「権利」として)あったんじゃないか、と思いながら続きのアナウンスを聞いていると、「ゆとり教育解消による、授業時間確保のため、また、教師の業務負担軽減などを狙い」と夏休み短縮の理由が説明されている。
小中学生が大人には太刀打ちできないとわかっていて、こどもの「権利」たる夏休みを10日も奪ってしまうのは、ひどい仕打ちじゃないか!学校嫌いだった自分が児童や生徒の頃にこの「夏休み10日強奪」が行われたら、生徒会に呼び掛けて全学ストライキを打つか(子供にそんなことは現実的ではないですね)、あるいは泣き出していたかもしれない。
それで驚いてはいけない。2017年6月、静岡県の吉田町は「小学校の夏休みを16日間程度に短縮することを検討している」と発表した。(産経新聞2017年6月22日付記事)やはり理由は京都市の小中学校と同じようらしいが、「16日間の夏休み」は極端にもほどがある。
そもそも「ゆとり教育解消による授業時間確保のため」は現実的な課題ではあろうが、納得のできる理由ではない。なぜならば「ゆとり教育」が導入される前に夏休みは、寒冷地などを除き、おおよそ7月20日から8月31日までの40日が標準だったからである。「ゆとり教育」導入と週休2日制(土曜日も休み)により、授業時間が一時減ったことは間違いない。しかし、週休2日制は学校に限らず、多くの企業、役所ではすでに定着した勤務形態であり、週40時間労働の原則からすれば当然導かれる休日数だ。「ゆとり教育」が見直されたからといって、そのつけを「夏休み短縮」に持ってこられたのでは児童・生徒はたまったものではない。
小中学校の教師だって「労働者」だ。こう言うと「いや、教師は聖職者だ!」と昔から噛みつく人がいるが、それは職務が子供を教育する、という極めて人間形成に深くかかわる重大性を拡大解釈しているだけのことであって、教師を聖職者だと決めつけ、だから基準労働時間以上も無償奉仕に献身的に当たるべきだという論は無茶が過ぎる。さすがに、近年の教師の激務ぶりを見た人の中からそのような声は上がらなくなったけれども、実は教師に過剰労働を強いているのは外ならぬ、文科省や教育委員会である。
私の記憶にある限り、戦後史の中で旧文部省、文科省が担ってきた役割は、戦後10年ほどを除き、ほとんど「害悪」でしかない。小学校から大学に通うお子さんや親戚、お知り合いのいる方であれば分かりだろうけれども、学校の先生の忙しさは尋常ではない。「ゆとり教育」が導入されるときだって、カリキュラムの大きな変更と同時に文部省(当時)から押し付けられる、授業とは直接関係のない雑務の増加により、先生たちの業務量は増加の一途だった。そしてこの国のお役所十八番の「朝令暮改」を地で行く「ゆとり教育」廃止により、振り子は元よりもさらに大きな振幅をはじめ、児童・生徒、教師へかかる負担はさらに荷重になる。
つまり、初等教育(否、中高等教育も)における「教育理念」がこの島国にはないのだ。いつでも行き当たりばかり。世界でも例を見ないほど英語教育に時間をかけていても、大学生のほとんどが英会話を苦手にしている現状。嘘か本当か分からない大昔の歴史(そこで教えられる内容だってコロコロ変わる)には必要以上に時間を割くくせに、近現代史を軽視する歴史教育。論理立てて考え、議論する、批判的に物事を見る科学的姿勢を軽視して、ひたすら「暗記」を前提としたカリキュラム。知識が身につくことはあっても知恵や生き抜く力を支える力が身につくことのない陳腐な教育。一言で言ってしまえばこの島国は戦後の一時期を除き、また、一部の特色のある学校や私立学校を除き、一貫してそのような哲学の「貧しい」教育に終始してきたのである。
そして、その最大の犯人は現文科省、旧文部省だ。連中は現場の教師がどれだけ忙しいか熟知している。ほとんどの公立学校で授業後のクラブ活動の指導にあたる教師は残業手当をもらっておらず、無償奉仕をするという現象は当たり前のようになっているし、夏休み短縮の原因とされる教師の業務過多は、あれこれと押し付けられる「報告書」や「調査」の類の作成に、膨大な時間を割かれるためだ。こういった「報告書」や「調査」の類が教育現場や教育内容の改善につながった例は、私の知る限り「皆無」であり、役所特有の「本来は不要」な本質的(学校であれば「授業」)業務になんら有意義ではない、「無駄な業務」が学校に強いられている結果だ。
そして、学校を企業のように妄想し「学校運営」を「学校経営」とまで言い換えているのが文科省だ。義務教育は営利目的ではないだろうが。違うか。
教師の業務負担軽減は、不要な事務作業を徹底して現場から排除すること。これまでの英語教育の非効率性が証明されているのに、小学校でも英語教育を行うという愚策を止めること。ITCだのなんだのといって、小中学校でもパソコン関係の教育を益々進めようとしているが、パソコンの操作方法などこの時代子供は勝手に覚える。教えるべきは、主としてインターネットという電子世界を扱い、参加するにあたっての危険性や留意事項と有益な使用方法などであろう。
小中学校では「朝礼」があるが、文科省にはそれに加え「暮改」必ず付随する。何の一貫した思想も将来像もない。
「夏休みの短縮」といった愚策は、その象徴であり、矛盾を解決するものでは全くない。考えてみよう。毎年猛暑日が続くこの時期に、近年はエアコンが整備されているとはいえ、小中学校で授業を増やしたら、どうして教師の業務負担軽減になるというのか。子供たちだけではなく、先生にも正当な夏休みを!
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。