社会の耳目を集めるような殺人事件が起こるたび、インターネット上で被疑者に対する凄絶なバッシングが巻き起こるのが恒例だ。それはひとえに、世の中の多くの人たちは、自分が殺人事件の被害者になることは想像できても、加害者になることは想像できないからだろう。普通の人は通常、テレビや新聞を通してしか殺人事件の情報に接しないので、それも無理はないことだ。

だが、私はこれまで様々な殺人事件を取材してきて、自分や家族がいつ殺人事件の被害者になってもおかしくないと思うと同時に、自分がいつ殺人事件の加害者になってもおかしくないと思うようになった。生まれてから40数年に渡り、殺人事件の被害者にも加害者にもならずに生きてこられたのは、幸運なことではないかとさえ思う。

いま、広島地裁で行われているマツダ社員寮同僚殺人事件の上川傑被告(21)の裁判員裁判を傍聴し、そのことを再認識させられた。

◆相当な悪人物であるかのように叩かれた被告

事件は昨年(2016年)9月中旬、広島市南区にある自動車メーカー・マツダの社員寮で起きた。寮内の非常階段の2階踊り場で、寮の7階で暮らす同社社員の菅野恭平さん(当時19)が頭から血を流し、倒れているのを同僚が発見。菅野さんはすでに死亡しており、広島県警は殺人の疑いで捜査を展開した。そしてほどなく検挙されたのが、同社社員の上川被告だった。

上川被告は菅野さんと同期入社で、やはり寮の7階で暮らしていた。逮捕当初の報道によると、事件当日、菅野さんを車に乗せ、寮の近くにあるコンビニや銀行、郵便局を回り、現金120万円を引き出させたうえ、寮に戻ってから消火器で殴るなどして殺害し、金を奪ったかのように伝えられていた。そして交際していた女性と事件後に宮島でデートしていたことが女性のSNSから判明したこともあり、インターネット上では相当な悪人物であるかのように叩かれていた。

そんな上川被告が強盗殺人の罪に問われた裁判員裁判は、11月14日から広島地裁で始まり、計4回の公判審理を経て同27日に結審。判決は12月6日に宣告される予定だが、検察側が主張した事件の構図はおおよそ事前に報道された通りの内容だった。一方、弁護側は、上川被告が菅野さんに暴行して死なせたことや金を盗んだことを認めつつ、殺意などを否定し、「強盗殺人罪は成立せず、傷害致死罪と窃盗罪が成立するにとどまる」と主張した。そのため、事実関係にはいくつもの争いがあった。

私はこの裁判の大半の審理を傍聴したが、判決の予想から書いておく。検察官の主張する強盗殺人罪はおそらく適用されないだろう。上川被告が強盗目的で犯行に及んだと考えるには、いくつもの疑問が存在するからだ。

事件があったマツダの社員寮

◆強盗殺人を否定するいくつかの疑問

疑問の第1は、上川被告と菅野さんは事件前、共に社員寮の7階で暮らしていたものの、ほとんど付き合いがなかったことである。事件前から2人の間に上下関係があったならともかく、菅野さんがある日突然、単なる同僚に過ぎない上川被告に現金120万円を引き出すことを命じられ、それに従うというのは不自然だ。

第2に、仮に上川被告が強盗目的で菅野さんを殺害するならば、寮に連れて帰ってから犯行に及ぶだろうか。そんなことをすれば、犯行が露呈するのが自明だ。上川被告が菅野さんを殺害して金を奪うなら、車でひと気のない場所に連れて行き、犯行に及ぶのが自然だろう。

第3に、上川被告は事件後、菅野さんから奪った多額の現金(上川被告の主張では、120万ではなく107万円)を自分の銀行口座に入金している。最初から強盗目的で菅野さんを殺害したなら、このようなアシがつくのが自明のことはしないだろう。

上川被告の主張によると、菅野さんを車に乗せ、コンビニや銀行、郵便局を回ったのは、事件当日、菅野さんから「お金をおろしたいんで、車を出してくれない?」と頼まれたからだったという。そして夜勤明けの眠い中、親しくもない菅野さんを車に乗せてコンビニや銀行、郵便局を回った。それにも関わらず、車の中に置いていた交際相手の写真を「上川くんならもっと彼女は可愛いかと思った」と言われて腹が立ち、寮に帰ってから暴行してしまったのだという。

これはあくまで上川被告の主張だが、客観的事実とよく整合していた。凶器の消火器もその場にあったものを使っており、その事実からも強盗の計画があったわけではないことが裏づけられていた。

上川被告の主張が仮にすべて事実だとしても、上川被告は消火器で暴行された菅野さんが倒れて動けなくなったあとでバッグの中の多額の現金を奪い、救急車も呼ばずに逃走しており、弁明の余地はない。上川被告の交際相手に関する菅野さんの発言が仮に事実だとしても、菅野さんに落ち度があったとは到底言えない。しかし、それでもやはり、検察官が主張するような強盗殺人罪の成立は難しいだろう。

先述したように上川被告は逮捕当初、相当な悪人物であるかのように叩かれていたが、法廷で本人を見た印象としては、坊主頭の真面目そうな若者だった。私の経験上、社会を騒がせた殺人事件の犯人と実際に会ってみると、どこにでもいそうな普通の人物であることがほとんどだが、上川被告もまたそうだったというわけだ。

実際のところ、上川被告は事件前にも同僚の車でコンビニに行った際、車内にあった5万円を盗んでおり、品行方正な人物だったとも言い難い。とはいえ、とくに暴力的な人間ではなかったという。公判中は常に苦渋の面持ちで、時折、涙を流していたが、本人も自分が人の生命を奪う事件を起こすなどとは、実際に事件を起こすまで夢にも思っていなかったろう。

私はそんな上川被告の様子を観察しながら、自分のこれまでの人生を振り返り、自分が何かの拍子に彼の立場になっていたとしても何らおかしくなかったように思えてならなかった。

上川被告の裁判が行われている広島地裁

◆殺意が否定されるかも微妙

一方、「傷害致死と窃盗」が成立するにとどまるという弁護側の主張が認められるかというと、それも難しいのではないかと私は予想している。

というのも、上川被告は消火器で菅野さんに暴行したことは認めつつ、「消火器で殴ったのではなく、消火器は手で持ったまま、床にうつ伏せで倒れた菅野さんの背中や後頭部に(重力に任せて)落としただけだった」と弁明し、弁護側はこの行為に殺意はなかったと主張している。しかし、仮に事実が上川被告の説明通りだとしても危険な行為であることに変わりはなく、裁判員たちも殺意の存在を否定しがたいだろう。

また、公判審理には菅野さんの両親が毎回、被害者参加制度を利用して出席していたが、論告求刑公判の際、両親が行った意見陳述は胸に迫るものだった。それもまた裁判官や裁判員の事実認定に影響を与える可能性は否めない。

菅野さんは子供の頃から車が好きで、とくにロータリーエンジンに強い興味を持っていたという。真面目な努力家で、高校卒業後にマツダに入社してからも上司や先輩に可愛がられていたという。母親はそんな菅野さんについて、「自慢の息子だった」「恭平の笑顔が好きだった」「恭平を返して欲しい」「恭平のいない人生は考えられない」などと泣きながら語った。

そして菅野さんの父親と母親が口をそろえたのは、上川被告に「死刑」を望むということだった。父親は「できれば被告人に消火器などで同じことをしてやりたい」と言い、母親も「同じ目に遭わせてやりたい。人の生命を奪っているのだから、生命で償ってもらいたい」と言った。我が子の生命を理不尽に奪われた両親としては、当然の感情だろう。

だが、検察官の求刑は無期懲役だった。つまり、検察官の主張通りに判決で事実関係が認定されても、死刑が宣告される可能性は無いに等しい。そして私の予想通りなら、強盗殺人罪は適用されないから、上川被告の量刑は有期刑になるだろう。

ひとくちに有期刑と言っても、殺意まで否定されて傷害致死罪と窃盗罪が適用されたら、おそらく量刑は懲役10年を上回ることはないだろう。菅野さんの両親の意見陳述を聞いた裁判官や裁判員たちがそのような選択をできるかというと私は疑問だ。

いずれにしろ、自分がいつ殺人事件の被害者や加害者になってもおかしくないし、そうならずに今日まで生きてこれたのは幸運だった。私にとって、そのことを再認識させられる事件だ。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

鹿砦社新書創刊!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』(総理大臣研究会編)