「逃げたかな」
尚坂がポツリとつぶやいた。ほぼ間違いないだろう。土曜日に出社した人が異常はなかったと言っていることから、日曜日に必要なものを、持ち出せるだけ持ち出したと思われる。
少し遅れて土方さんが出社してくる。事情を聞くなり猛烈に怒り出し、何やら大声で怒鳴り散らしている。その脇でイーダ社員はひたすら電話対応に追われている。
午後二時過ぎにようやく電話が鳴らなくなった。あらためて現状を把握すると、給与明細や社員の雇用契約書類は無くなっている。しかし請求書類や登記簿、株主名簿などは丸々残っていた。夜逃げするにも性格が現れることを知った。
銀行口座はインターネットバンキングで口座照会が出来る。ネットからログインして入出金照会を選択すると、通常通りページが開けた。最後の項目を見たら笑う以外にない。
「シュッキン 3265エン ザンダカ 0エン」
社長宅に行って様子を見て来よう、と誰かが言った。確認する必要はあるが、どうせ行っても会えないだろう。皆、面倒臭そうな顔をしたので私が行くことになった。
五反田駅から地下鉄で二駅。中延駅を降り第二京浜沿いを歩く。騒々しくスポーツカーがエンジン音を唸らせ、トラックが地面を揺らす。そんなうるさい道路も、社内の喧騒に比べればマシだと思った。
当たり前だが、町の様子は何も変わっていない。よくある東京の一日がただ営まれているだけだ。しかし、自分を取り巻く状況は一変してしまった。そして、その確認の為に今目的地へ向っている。
少し先に聞き覚えのある名前のラーメン屋が見えてきた。
「近所のラーメン屋、是非一度食べにきてくださいよ。本当に、美味いんです」
営業を請け負っているのかと思うぐらい、社長が熱心に勧めていたのを思い出す。昼時を過ぎていたせいもあるだろうが、客の入りはまばらだった。
7、8分も歩いた頃、社長のマンションが見えてきた。地価の高いこの地域の、堂々とした佇まいが目を引く。見上げると、地上20階建てに威圧される。広い敷地の中央に、大理石で固められた玄関口が日の照り返しを受けてキラキラしている。賃貸だが、最も高い部屋は月100万を越えるという。真四角に整えられた植木の間を抜け、中に入る。
(続く)
※プライバシーに配慮し、社名や氏名は実際のものではありません。
(戸次義継・べっきよしつぐ)