1月27日、28日2夜連続で放映されたNHKスペシャル「未解決事件File 6 赤報隊事件」を観た。結論から言えば、期待外れだった。(新)右翼犯行説、宗教団体犯行説は当時からさんざん言われたことで目新しい事実はなかった。宗教団体犯行説、途中で上層部から取材打ち切りの指示が出たが、なぜ打ち切りなのか、それ以上の追求はなかった。新たに判ったことは、デジタル的手法を駆使して、幾つか出ている犯行声明文がおそらく同一人物によって書かれたのではないかということぐらいだろうか。国営放送という制約があるのかもしれないが、ここでは具体的には言わないが、もっとディープな取材が欲しかったところだ。
「赤報隊事件」とは、1987年5月3日、憲法記念日、兵庫県西宮市に在る朝日新聞阪神支局が「赤報隊」と称する何者かによって銃撃され、小尻知博記者が死亡、犬飼兵衛記者が重傷を負った事件で、その後も名古屋支局寮、静岡支局などが攻撃されている。
当時から「言論への挑戦」と叫ばれ続けて来たが、時効を迎え、今に至るも未解決のままだ。もう31年も経ったのかと溜息がする。
27日放映ではドラマ仕立てで、樋田毅記者が主人公的存在で、草彅剛が演じている。樋田毅という名は実名で、脇役的存在の辰濃哲郎記者も実名だ。実はこの2人の記者に私も取材を受けている。辰濃記者には本も貸している。朝日新聞にはあと2人、計4人の記者に取材を受けた。他社の記者にも取材を受け、合計23人の記者に取材を受けていると第二弾の『謀略としての朝日新聞襲撃事件』に記載されているが、さらにその後も新たに数人の記者の取材を受けていることも記録されている。そうした中のひとりで当時毎日新聞の阪神支局にいた鈴木琢磨記者は、その後、『サンデー毎日』記者、編集委員となり、朝鮮問題専門家としてテレビでもたびたび登場している。
なぜ、私がこれほど多くの記者に取材を受けたかというと、前年に、28日の放映分にも登場している鈴木邦男氏が主宰する新右翼団体「一水会」の機関紙『レコンキスタ縮刷版1‐100号』を出版し、鈴木氏、及び周囲の新右翼関係者との関係を聞き出したかったからだろうと思われる。鈴木邦男氏とは、その数年前、当時装幀などを担当してくれていたFさんの紹介で知り合い、その頃、鈴木氏や配下の木村三浩氏は新右翼の超大物・野村秋介氏についてよく来阪していたが、それに同席させていただき、野村氏との知己も得た。
私は1977年に西宮に来て、85年から独立し西宮にて事務所を構えていた。阪神支局には自転車で15分くらいの位置にあった。鈴木氏は以後、私が以前に新左翼党派「赤報派」(RG[エルゲー]とも言われていた)と接触があったことを針小棒大に面白おかしく採り上げ、雑誌『Spa!』の連載で「爆弾の松岡」とか揶揄し、あたかも私が赤報隊であるかのような書き方をしている。
私は地元西宮で起きた事件でもあるので、この「デジタル鹿砦社通信」管理人&『NO NUKES voice』編集長の小島卓君と共に、私たちなりに取材を始めた。それは『テロリズムとメディアの危機--朝日新聞阪神支局襲撃事件の真実』として緊急出版された。この際、2人で朝日阪神支局に取材に赴いたところ、けんもほろろ追い返された記憶がある。朝日は、大衆に対しては上から目線で取材を求め、逆に私たちのような小出版社からの取材に対しては拒絶する体質のようだ。これは今も続いている。朝日からは、のちの「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧事件などたびたび煮え湯を飲まされたが、ここでは触れない。
私が一番違和感を覚えたのは、自社の記者が殺されたにもかかわらず、朝日主催の夏の地元・甲子園球場(意外と間違う人が多いが、甲子園球場は西宮に在る)で行われた、その年の高校野球で黙祷の一つもなかったことだ。阪神支局の方々は、この時期、高校野球の取材などに忙殺されるというが、この時の支局の方々の気持ちはいかばかりだったろうか。
その後、不思議なことに、1年ほどしたら、阪神支局員全員が他の部署に異動している。記憶が曖昧だが、大島支局長はどうだったか、おそらく最後に異動したと思う。
「警察よりも早く犯人をあげる」と意気込み事件取材を指揮していた柴田鉄治大阪編集局長の更迭→関係会社への異動は特に首を傾げさせる出来事だった。
『テロリズムとメディアの危機』は、私にとっても初めて、身近で起きた現実の事件についてまとめた本だし、小島君もそうで、初めて2人で作った本だ。日本図書館協会、全国学校図書館協議会の推薦図書にもなった。赤報隊事件から31年なら、小島君との付き合いも31年ということになる。このかん、いろいろなことがあったな。
西宮には、この前に「グリコ・森永事件」(1984年)があり、もっと前になるが「甲山事件」(1974年)があった。私にとってこれら3つの事件は、小なりと雖も出版人としては生涯の関心事だ。いつか現場や関係箇所を歩き回り、一冊にまとめてみたい。
当時から言われた「言論への挑戦」、果たしてこれに対し(朝日を含め)どれだけのメディアと報道人が体を張って闘っているだろうか? 大いに疑問だ。「言論への挑戦を許すな」と言うのは簡単だ。しかし、大事なのは日々どういうスタンスを持って言論活動に携わっているかだろう。権力のポチになっていないか!? 脚下照顧、あらためて反省しなければならない。
久し振りに、上記に挙げた『テロリズムとメディアの危機』、そして続刊の『謀略としての朝日新聞襲撃事件』を紐解いてみた。31年前の目まぐるしい事件の転回や、私たちなりに真正面から事件に取り組んだことなどが想起された。
まだメジャーになる前の高野孟氏と、まだ共同通信記者時代の浅野健一氏が対談をやっている。高野氏は、グリモリ事件同様「日本の中での関西特有の一種の地下構造というものとの繋がりのところで出て来てる問題」と指摘している。他にも、多くの方々が質問に答えてくださっている。かの奥崎謙三氏もいる。
おそらく朝日上層部や、樋田記者ら特別チームは、当時の大島次郎(故人)支局長にもかなり詳しく話を聞いているはずだから、大島証言がなぜ公にならないのか不思議でならない。このように、朝日は本当に取材した情報をどれだけ公にしたのだろうか? これは当時から他社の記者も言っていることで、朝日の秘密主義が問題の解決を遅らせた、いや、今に至るも未解決のままに至らしめたといえないだろうか?
思い返せば、朝日新聞阪神支局襲撃事件以来、言論をめぐる情況は変わった。大きく変わったことは、メディア自身の委縮、知っていながら報道を控えることではないだろうか。
かの本多勝一氏でさえ、事件の同年末で、月刊『潮』で連載していた「貧困なる精神」を「さらに厳しい自粛令が改めて出ましたので、忠実なサラリーマンとして私はこれに従います」として連載を打ち切った(その後、本多氏は朝日を退社し『週刊金曜日』を起ち上げるのだが、在社中に徹底抗戦してほしかったところだ)。こうした意味では、この事件は、赤報隊の「言論への挑戦」という目的を、はからずも果たしたといえよう。遺憾かつ残念なことだ。