私はこの連載において、鳥取連続不審死事件の上田美由紀死刑囚の本質は「悪人」というより、「善悪の感覚が一般的な日本人と違う人物」だと指摘してきた。それゆえに私利私欲のために平気で人を殺せるし、人を殺したあとも何ら悪びれることなく、無実を訴え続けることができるのだ。端的に言えば、上田死刑囚とは「サイコパス」ということになるだろう。

その上田死刑囚のサイコパスぶりを示すエピソードとして、非常に印象深いことがある。それは、テレビ朝日「報道ステーション」の敏腕ディレクターだった岩路真樹氏(享年49)が2014年8月末に自死し、しばらくした時のことだった――。

◆岩路氏の死を悼む手紙を次々に送ってきたが・・・

〈岩路さんが亡っちゃいました。もう、ショックでショックでどうしようもありません。10/1に知りました。お亡りになったのは8/29だそうです。私に会いたいと言っておられたそうです。残念です(中略)大好きだったのに岩路さんの事・・・・47才ですよ。若すぎる..〉(2014年10月2日消印の葉書より)※以下〈〉内は引用。句読点を修正した以外、特に断りがない限りは原文ママ。

上田死刑囚からそんな内容の葉書が届いたのは2014年秋のことのだった。

私は当時、まだ裁判中だった上田死刑囚への取材を重ねていたうえ、鹿砦社の月刊誌「紙の爆弾」で上田死刑囚が連載する手記の入稿に協力していたこともあり、上田死刑囚と手紙をひんぱんにやりとりしていた。一方、司法関係の取材に熱心だった岩路氏も上田死刑囚への直接取材を重ねていたのだが、私と岩路氏は知り合いのため、上田死刑囚の手紙に岩路のことが書かれていることは以前からよくあった。そしてこの時も上田死刑囚はマスコミ関係者から岩路氏の死を知らされるや、ショックや悲しみの思いを私に伝えてきたのだ。

私はこの葉書の内容にまず“違和感”を覚えたのだが、そのことは後で述べる。ともかくその後も上田死刑囚は次々に私に対し、岩路氏の死を悼む内容の手紙を送ってきたのだった。

〈岩路さんの死を受け止めれない私に、岩路さんのインターネットの記事送って下さい。どうかお願いします。悲しくて、悲しくて、どうかお願いします〉(2014年10月6日消印の手紙より)

〈ダメです。私、立ち直れない。岩路さんの事が、受け止めれないです〉(2014年10月20日消印の手紙より)

〈私、岩路さんの事、受け止めれない嫌です。何で、私を連れてってくれないの、私を残すのでしょうか? 岩路さんは何で、連れて行ってくれなかったのでしょうか? 思っているよりダメージが大きいです〉(2014年10月30日消印の手紙より)

私はこうした手紙を見て、悲しみの表現が過剰だとは思ったが、上田死刑囚が少なくとも“現時点では”岩路氏の死を本気で悲しんでいるように思えた。それゆえに上田死刑囚から「紙の爆弾の連載で、岩路さんのことを書きたい」と言われた時は無下に断れず、編集部に掛け合った。結果、編集部のゴーサインが出て、同誌2014年12月号では「上田死刑囚による岩路氏への追悼文」を掲載されるはこびとなったのだ。

その内容は、ここでは紹介しないが、鳥取連続不審死事件や上田死刑囚のことを何も知らない人が読めば、岩路氏の死を本当に心から悼んでいるように思えるような内容だった。

◆岩路氏が亡くなる前はむしろ岩路氏のことを悪く言っていた

では、私がなぜ、上田死刑囚が岩路氏の死へのショックや悲しみの思いを綴った葉書に“違和感”を覚えたのか? それは、上田死刑囚がそれ以前、むしろ岩路氏についてネガティブなことを手紙に書いてくることが多かったからだ。たとえば次のように。

〈私は岩路さんを悪い人とは思いませんが、でも疑問が沢山あります〉(2014年2月26日消印の手紙より)

〈たしかに岩路さんは色々報道してる人です。でも、大切な事をスッポリと忘れている気がしました。だから私も連絡するのをやめましたし、母も、岩路さんに会いたくない、友人もイヤと言ったので、会わせませんでした〉(2014年3月17日消印の手紙より)

〈岩路さんに報道ステーションにて手記を出し私を知ってもらった方がいいと何十回も進められました。又、講談社へも声をかけて下さいましたが、当事者の私の気持ちが全く動かなかったんです。そのために岩路さんは東京から面会に来てくれましたが、私はダメでした。片岡さんと面会をし片岡さんの記事を見て私は、片岡さんに全てを話したい全てを知って欲しいと思いました〉(2014年9月26日消印の手紙より)

上田死刑囚が私のことを「同業者をけなせば、喜ぶ人間」と思っているかのようだったという話は以前書いた。手紙で私を褒めつつ、他の取材関係者のことを悪く言うことがとにかく多かったからだ。そんな上田死刑囚はこのように手紙で岩路氏のことを悪く言いつつ、私のことを持ち上げることもよくあったのだ。

上田死刑囚の2014年9月26日消印の手紙。岩路氏のことを悪く言いつつ、筆者を持ち上げている

◆嘆き悲しむ今の自分と以前の自分の矛盾に何も気づかず・・・

さらに岩路氏の死後、あるインターネットメディアで岩路氏が上田死刑囚の告白本を大手出版社から出そうと動いていたという話が報じられると、その記事の写しを私から入手した上田死刑囚はこんなことを言い出した・・・。

〈インターネットに載ってた事は事実です。講談社の方が動いていました。手記もある程度渡っていました。もう少しで出版だったのに弁が止めたのです。悔やみます〉(2017年11月17日消印の手紙より)※原文では、弁という字を〇で囲んでいる。

上田死刑囚の2014年11月17日消印の手紙。岩路氏の死後、あたかも岩路氏の助力で出版が実現しそうだったと言い出した

読者には、上田死刑囚が岩路氏の死を知らなかった時期に書いた前出の2014年9月26日消印の手紙とぜひ読み比べてみて欲しい。「岩路が亡くなったのを知らなかった時期の手紙」と「岩路氏が亡くなったことを知った後の手紙」では、上田死刑囚はまったく真逆のことが書いてきたのである。おそらく本人は、自分の矛盾に何も気づいていないのだと思うが、それにしても凄まじい手の平の返し方である。

もっとも、上田死刑囚が少なくも岩路氏が亡くなった時点では本気で死を悲しんでいるのなら、それは一応、人間らしいと言えるだろう。しかしその後、上田死刑囚は岩路氏の生命をまさに愚弄するようなことを仕出かした。その時は私もさすがに堪忍袋の緒が切れ、上田死刑囚にずいぶん厳しいことを言ったのだが、そのこともまたいつか話したいと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年生まれ、広島市在住。全国各地で新旧様々な事件を取材している。

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「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)