2018年3月4日、東京・お茶の水の連合会館にて、元赤軍派議長として生涯を駆け抜けたあの人の名の下に、『塩見孝也お別れ会』が開かれた。2月24日に「人民新聞社・オリオンの会への弾圧抗議」集会について書こうかとも考えたが、『紙の爆弾』本誌に報告文が掲載されるとのことで、そちらもぜひ、ご覧いただきたい。
◆「本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」
塩見さんは、2017年11月14日、心不全のため、満76歳にて亡くなった。それから5カ月近くを経た『お別れ会』の司会は椎野礼仁さんと村田能則さん。椎野さんは、2014年に鹿砦社から出版された塩見さんの著作『革命バカ一代 〜駐車場日記-たかが駐車場、されど駐車場〜』の編集担当者であり、当日同書が無料配布されることを伝達した。
まず、実行委員会を代表し、塩見さんとは京大時代の友人であった新開純也さんは、以下のように振り返る。
「彼は武装闘争の路線化、よど号ハイジャック事件の共謀共同正犯などとして約20年(19年10カ月)間獄中にあり、近年は9条改憲阻止の会、経産省前テントひろばにも参加して活躍。闘い続けた一生だった。赤軍派の頭領にこだわり続けた一生だったとも思う。赤軍派からはよど号・北朝鮮の流れ、連合赤軍にいたる過程、重信さんたちのいわゆる日本赤軍への流れがあった。あとの2つについて彼はタッチしていないために彼は責任を負えない、負うべきでないが、よくも悪くもそれを総括することを一生の課題にしたのではないか。人々を愛するキャラクターだった。生身の言葉で表現しようとし、文字通り我が儘に生きた、幸せな人生を送ったのではないか」
その後、塩見さんのお連れ合いによる手紙が長船青治さんによって読まれ、黙祷の際には『同志は斃れぬ』が流れた。次に、参加者からの挨拶・メッセージが伝えられる。経産省前テントひろばの仲間であった淵上太郎さんは、交わした会話や2010年に同じ場所(当時は「総評会館」)で開かれた「生前葬」などを振り返った。三上治さんも次のように語る。
「塩見さんとは長い付き合いで、赤軍派が登場した時、叛旗派で武装闘争に反対し、激しく対立していた。9条改憲阻止の会で再会し、議論・論争もし、60年代の問題で激烈なけんかに。ただし、互いの意見を聴こうとし、付き合ってきた。2015年の塩見の東京都清瀬市議会議員選挙に立候補、落選の後、励ましに会いに行った。僕が手がける雑誌『流砂』への投稿も提案。彼が言葉にできなかったことは、僕の問題でもある。60〜70年代をともに闘った、その時代の問題でもあり、彼の本当の声を理解できるまで、再会するまでお別れの言葉は留保させてもらう」
また、雨宮処凛さんは1998年の出会いから振り返り、以下のように強調した。
「北朝鮮に誘われたのが最初の会話で、私の初の海外旅行に。生きづらさへと追い込まれ、社会から排除された若い人が塩見さんの周囲に集まったのは、彼らが抱える問題に対し、ほかの大人のように自己責任というのでなく、資本主義の問題だといってくれたから。本人は気づいていなかったが、多くの若者が救われた」
さらに、椎野さんが「塩見さんとは左右の交差」と表現するような関係があった鈴木邦男さんも、ユーモアを交えつつ語る。
「『自衛隊を赤軍にしてワルシャワ条約に加盟しろ』という人がいた。塩見さんにも、そんな『憲法はいらない』『天皇制も大統領制に』と主張するような存在になってほしいと話したことがある。ただし、塩見さんは『俺はダメだ』とまじめ。冗談でも大風呂敷を広げない。また、若い人の話もきちんと聴き、『革命的だ』『今の若者はしっかりしている』とほめる。他人に対して甘いかもしれない。連合赤軍についても『成功も失敗もすべて俺の責任だ』といえばよいと思うがいわなかった。彼を大きくできなかったのは我々の失敗(苦笑)。肉体は奪還できなくても、革命の志は奪還したい」
ほかにも、平野悠さん、白川真澄さん、朝日健太郎さん、松平直彦さんなどによる挨拶、メッセージが続く。塩見さんを「日本のレーニン」と名付けたのは藤本敏夫さんではないかという話もあった。
◆「赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見を高く評価せねばならない」
そして、赤軍派最高幹部だった高原浩之さんの言葉も印象的だった。ご本人のことは、よく存じ上げないが……。
「赤軍派の路線はリンチによって維持されたと考えざるをえない。人民に依拠する路線に転換することを我々は問われ、自己批判と総括をおこなって関係者はそのような路線に転換していったと思う。だが、連合赤軍事件はもっと悲惨だと私は考えている。赤軍派の指導路線の責任を曖昧にしたり、美化するのはやめてほしい。そのうえで、連合赤軍事件で殺された同志に謝罪し、不本意な形で生き残り人生を破滅させた人にも謝罪しなければならない。赤軍派に人生を狂わされた関係者全員に謝らねばならないと考えている。これは、そこに向かう会になるべき。連合赤軍関連で殺されたり自殺した人の写真も飾るべきだ。私にとって赤軍派は後悔と贖罪以外の何者でもない。それを生み出した第二次ブントと塩見孝也について、第二次ブント時代の意義は認めねばならず、塩見は当時の有力な指導者であったろう。新左翼の代名詞『実力闘争』の思想は日帝打倒・プロ革・社会主義革命という新左翼路線であり、この直接民主主義は現在には自己決定権といわれるものかもしれない。また、アジアとの連帯も以降、日本に根付いてきた。過渡期世界論は塩見が最初に定義した。帝国主義から社会主義への過渡期であるなどといわれたが、ロシア革命以降、民族解放闘争、社会主義革命はアジアにおいてなされ、アジアの闘争と結合するという時代認識は現代も引き継がれていると思っている。赤軍派の罪は大きいと同時に、第二次ブントと塩見の果たした役割を高く評価せねばならない。我々70年代闘争の世代が最後に何を残さねばならないか、反安保闘争をはじめとする人民闘争、民族・女性・部落差別問題、労働者階級の下層の問題が大きいだろう。新左翼がその運動のなかでよい体質、実力闘争、自己決定権は堅持しながらも悪い体質を払拭して交わっていったこと。その先には、人民民主主義、革命的民主主義の運動が目の前にある。アジアとの連帯、日中の帝国主義・覇権主義に反対するなかで朝鮮・韓国・台湾・香港などの独立・自己決定権を守る闘争と結合していくことで70年闘争も生きていく。ソ連の崩壊は帝国主義の崩壊だが、中国・ベトナムの変質、朝鮮の信じられないような現実。マルクス・レーニン主義の総括も我々の責務。人民闘争の発展のためには、70年闘争の正負の経験、新左翼の内ゲバとリンチの体質。苦い経験を教訓として、今の運動を担っていく新たな世代の人にぜひ、闘争の発展に成功してほしい」。
よど号の現在のリーダー・小西隆裕さんのメッセージは、彼らと会って朝鮮から帰国したばかりの「政治的遭難者」を対象とする救援連絡センター事務局長・山中幸男さんが代読。最後に、懲役20年の判決を受けて現在、東日本成人矯正医療センターにて服役する重信房子さんのメッセージを、頭脳警察で1969年の赤軍派日本委員会が出した『世界革命戦争宣言』を叫ぶような歌にしたり、重信さんとの共作を含むアルバム『オリーブの樹の下で』を発表しているPANTAさんが代読した。重信さんからのメッセージは、『情況』誌編集長だった大下敦史さんの(1月2日・がんによる)死や、チェ・ゲバラの「我々を夢想家だと呼ぶなら、何度でもイエスと答えよう」「2つ、3つ……数多くのベトナムをつくれ、これが合言葉だ」という言葉にも触れるなどし、次のように続いた。
「私たちは十分に社会を知らず、人民に学ばず、知らず、常識すら理解していない若者だったため、敗れるべくして敗れたのだと思います」
「最後に『20年か、きついなぁ、15年なら待てるけど、その5年はきついなぁ』といっていたとおり、先に逝かれました」
「過ちを前向きな力にしたいという点で、ともにありました」
苦々しい思い出を振り返る人、参加を拒否した人もいらっしゃった。小冊子には大下さんから塩見さんへの追悼文(聞き取り中心のまとめ)も掲載されている。
わたしが過去からの学びを現在の運動に生かしたいと考えていることは、いつも述べているとおりだ。だが、さまざまな方のメッセージを聴きながら、結局、現在の運動に対し、特に格差・貧困という大きな問題に対し、理解しているのかどうか、今、何をしているのか、が問われるのではないかとも思った。第二部「時代を語る会」には参加しなかったので、そこでどのような総括や議論の発展があったかは、まだ知人にも聞いていないのでわからない。ただし少なくとも、塩見さんは、私たちの世代ともよく会い、話した。もちろんほかにもそういう方は多くいらっしゃるし、現在さまざまな活動に携わっている人も多い。格差・貧困の背景に国際情勢・関係はもちろんある。わたしたちは説教を聞きたいのでなく、ともに語り合い、ともに活動を進めたいだけだ。そういった意味で、『救援』誌の追悼文やFacebookでも触れたが、塩見さんはわたしにとって特別な人である。そして、お別れ会参加者に知人や仲間が多く参加していることによって、塩見さんを通じて知り合った人がいかに多いかを改めて実感させられた。わたし個人が運動をはじめた原因の3分の1から4分の1くらいは、塩見さんとの出会いと交流が占めているのではないかとすら考える。複雑な思いはわたしにもなくはないけれど、塩見さんにはまだまだ本当に、わたしたちの活動から目を離さないでほしいと、そう思っている。
▼小林蓮実(こばやし・はすみ)[文/写真]
1972年生まれ。フリーライター、エディター。労働・女性運動等アクティビスト。『紙の爆弾』『NO NUKES voice』『現代用語の基礎知識』『週刊金曜日』『neoneo』『情況』『救援』『現代の理論』『教育と文化』ほかに寄稿・執筆。