◆藤川さんもデックワットも居ない理想の一人部屋が近くなる
仲のいい奴ほど還俗者が増えていく11月下旬、私の存在感が違った形で表れました。
寺の行事に振り回されながら、その様子に変化が見られる中、11月20日過ぎた頃のある日、「明日の朝は6時から9僧でニーモン(比丘を招く寄進)に行くから托鉢は行かなくていい」と前日にアムヌアイさんから言われるも、「私が行っても仕方ないだろうに」と思い、「読経出来ないからメンバーに入れないで欲しい」と言っても「日本人比丘に来て欲しい」のだと。それは藤川さんのことを指して言っているんじゃないかと思うも、私も含むのだという。
1台の車の固い荷台に比丘がギュウギュウ詰めに乗って向かった先は、観光地風のレストランがある土産物売店のようなところ。お店開きのお清めのようなニーモンでした。そこで読経後、食事になるのかと思ったら仕出し弁当のような料理を差し出され、持ち帰るだけ。特に日本人比丘が必要とは思えないのに、私をメンバーに含む意図は、和尚さんが企む客寄せパンダとなって、「ウチの寺は国際的じゃ、日本人比丘が二人も居る!」と言っているのだろうか。それに加え、「メンバーに入れてやってるんだから、さっさとお経覚えろよ!」とプレッシャー掛けられているのかもしれません。
午後はアムヌアイさんに着いて2人で広い境内の水撒きも続け、夕方の疲れてくる頃、境内にリヤカー式カキ氷屋がやって来ると、アムヌアイさんが奢ってくれて休息。結構体力回復するもんだ。身体が軽くなった感じ。けどカキ氷にアイスクリームが掛かったものを、比丘が午後、食べていいのだろうかと思う。
翌朝は竹の筒に入ったカーオラーム(蒸した餅米の甘いお菓子)売りが来て、みんな寄って集って買って食べていたが、そんなもの食ったら昼飯食えんだろうに。でも美味そうで私も欲しかった。物売りが寺に入って来るのは、比丘相手の商売にもなり、木陰で休息する場でもあるのです。人力三輪タクシーも同様。そのまま比丘が利用して外出することもありました。
またある日の朝は、アイスパン屋が来ました。コッペパンにナイフで縦に切れ目を入れ、アイスクリームを挟んで練乳が掛けられたような冷たく甘いパンである。これも結構上手い。若い比丘は続々買って食べる者多かった。
その日は私がブンくんに奢ってやりました。ブンは30日に還俗する奴。短い間だったが、彼にはいちばん世話になり、黄衣の纏い方やそれぞれの呼び方、分からないこと聞けば、大体は教えてくれて、覚えた方がいいという日々行なうお経や、葬式で使うお経の範囲を読経本に記入してくれた奴。この部屋が空いたら私がこの部屋に入ることを相談すると、ブンくんも賛成。今迄の部屋はデックワットが出入りする共同部屋。サイバーツされた信者さんの心がこもったお菓子や果物を、高校生デックワットが勝手に持って行くのでどうも落ち着かなかった。小学生デックワットは性格いいが、やっぱり何かと一人部屋がいいのである。
◆葬式カメラマン!
25日にアムヌアイさんがやって来て、「ハルキはカメラマンだろ?葬儀を撮れないか?」と言われ、和尚さんが「頼んでみてくれ」と言ったらしく、私は葬儀を撮る“カメラマン”となりました。翌日もアムヌアイさんが「今日も頼む!」と言って来たり、和尚さんがいきなり部屋をノックして「オーイ、撮ってくれんか!」と言う日もあるほど。と言っても当然“プロカメラマン”ではなく、黄衣を纏った修行僧に変わりはない。日本では僧侶が副業を持つことは可能だが、タイ仏教では許されません。
部屋で準備して葬儀場に向かう際は、心はカメラマンに戻り、一眼レフカメラを構える。カメラなんて持ったこと無い奴らが、「あれ撮れこれ撮れ!」と煩いが、そういう素人意見は無視していちばん前まで行って記者会見でも撮るようにカメラを構える。元々、撮影は上手くはない上、信者さんのいる手前、比丘として振舞いに気を付けながらシャッターを押す。比丘の役目を果たしていない私が、寺の役に立っていることに、少し安堵の気持ちが沸いていました。
この連日の葬儀の重なりで、クティのホーチャンペーンにもお婆さんの遺体が運ばれて来て、後日ここで葬儀だという。遺体に寄り添っていた娘さんらしい人が去り際に急に泣き出し、送り人となる人生の節目を見ること多いこの数日。
翌日もこの遺体のある棺桶の前で普通に朝食。身近にこんな遺体があっても怖くも気持ち悪くもないが、朝早く起きてトイレに行く際はまだ暗く静まり返ったクティに棺桶がある。そこを横切る際に、ややビビッてしまう自分が居る。ただ手を合わせて通り過ぎるのみ。
連日の葬儀の中、数日前に還俗したラスくんとパノムくんが訪れました。ジーンズ姿で現れると、ずいぶん変わった人相と人格に見えます。ラスくんは「パンサー3回経験したんだ」と言う。私が3月に藤川さんを尋ねて来た時のこと覚えてるようだった。他の一時僧に混じっていると気が付かなかったがベテラン比丘だったのだ。
パノムは私の部屋に来て、「還俗してから女買いに行って来たぞ、ハルキは還俗したらどこの店行くんだ?」と言い出すアホである。「オレはなあ、バンコクの1000バーツする高級店だ!!」と負けずに自慢だけするも何か虚しい。
◆和尚さんと取引き
後日、写真屋さんに行って、葬儀撮影フィルムを同時プリントではなく、現像後にスリーブ上にチェックを入れて「これプリントして!」とお店のオバサンにフィルムを差し出すと、「手出しちゃダメでしょ!」と窘められる始末。フィルムをジッと凝視していると比丘の立場をすっかり忘れ、女性に手渡しする行為に発展。うっかりしてしまった。オバサンも笑っていたが、こんなことも起こる比丘の日常です。
プリントした写真は約100枚。買ったアルバムに入れて和尚さんに差し出すと、その量に驚き「いっぱい撮ったな、幾らだった?」と言う和尚さん。経費は出してくれようとした様子ながら、そんなものすべてタダ(無料)渡しである。
その代わり、お願い事を立て続けに三つ言わせて貰いました。30日のブンくんら3人の還俗式を撮ること。空室となるブンくんの部屋に移ること。ビザ取得の為、寺在住証明書類に和尚さんのサインが要ること。いつもの簡単な「ダーイ」ではない、ちょっと“間”があるものの、「分かった、許可してやろう!」と言う返事。
「キヨヒロは旅が趣味で、ハルキはカメラが趣味か!」とでも思ったろうか。写真代は日々のタンブンで受けたお布施を使ったまでである。
◆続く還俗者!
27日の朝は、小太りのブイくんが還俗。飯を食う同じ輪を囲んだメガネのブンくんと同じ気心知れた奴だった。
そう言えばブイが、「ハルキがキヨヒロ(藤川さん)と話してるの見たこと無いけど話すことあるのか」と言われたことがありました。無視された日々だったから周囲からはそう見えるのだろう。こうして私の出家後、6僧が還俗して行きました。後日、更に5僧ほどが続くのでした。
寂しさが増す中、気になるのは近づくラオスのこと。相変わらずの黄衣の纏いの下手さ、足の痛い裸足の托鉢は、それらがあまり気にならなくなった頃でした。そして葬儀カメラマンやったことから、また新たな注文を受けてしまいます。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」