この連載も10回目になります。闘争の歴史を記述するのは、あくまでもわたし個人の視点によるものであって、100人がいれば100の史実と真実がある。という歴史観から自由ではありません。とはいえ、歴史関連の著書もある史家のひとりとして、なるべく事実に即したものを書き残しておきたい真摯さは持っているつもりです。
そこで、書ける範囲で三里塚闘争の実相を記しておきたいと思う。三里塚闘争において闘争の実効性の大半を占めたのは、実力闘争がもっぱらであった。機動隊を前面に立てて空港建設が行なわれたかぎりで、それは共産主義革命をめざす政治党派が意図した以上に、農民の怒りを根源にした、自主的で必然的な判断・意志によるものだった。三派全学連をはじめとする新左翼の闘争の先鋭化はしたがって、三里塚芝山連合空港反対同盟の実力闘争によって培われたものだ。
以下はゲリラ闘争の記録である。自慢げに華々しい戦記物を書くつもりはない。ふつうの人間が戦場に置かれたとき、どんな行動をするものか。すくなくともわたしたちは、三里塚の地で疑似戦場を体験していたのだ。人が命を落とす戦争というものの怖さを、わたしも掠(かす)るように体験した。その意味では、戦争体験と言えるかもしれない。じっさいに複数の仲間が三里塚で死に(自殺をふくむ)、敵であった機動隊員も4名が殉職しているのだから――。
◎[参考動画]映画『三里塚に生きる』特報(第一弾予告編)(Kobo Sukoburu 2014年7月7日公開)
◆都市ゲリラ
ゲリラ行動の原則は敵の弱い環を叩く、戦術の基本から準備される。たとえば空港公団の設備の警備が手薄な場所。ビジネスビルの一角に、たまたま空港公団に関連する事業所の事務所があったなら、その事業所があるフロアのトイレなどが狙い目だった。なにくわぬ顔をしてエレベーターに乗ってフロアに降り立ち、ガソリンが入ったビール瓶にウエスを浸したものに、火の点いた蝋燭を立ててくる。時限発火装置などという技術開発はなかったから、ガソリンに火が付くかどうかはわからない。翌日、夕刊紙に「トイレでボヤ」という記事を見つけたゲリラ実行者は、ひそかに成功を快哉するというわけです。ただ、見出しの「過激派のイタズラか?」に少々傷つく。これはしかし、典型的な都市ゲリラだ。監視カメラが設置されているいまは、もう使えない戦術だろう。念のために付記しておきますが、わたしがやったゲリラではありません。
◆死者の出る野戦
77年5月の岩山大鉄塔破壊のときは、大学のサークル連合の合宿からもどったばかりで、仲間から「おまえ、やっと来たか」と言われた記憶がある。鉄塔の跡地では旗竿を構えたまま隊列を組んで、機動隊に迫ろうとすると猛烈な放水を浴びた。お腹にまともに受けた瞬間、身体がふわっと浮くような感じだ。ウィーンというモーターの音がして、暑いと感じられる5月の日差しのなか、放水のしぶきが肩にはじける。ちょっとシャワーを浴びたような快感と、戦場にいる臨場感。つぎに盾を持った機動隊員が前進してきて、そのまま追い立てられるように道路から排除された。
翌日は朝から千代田農協の構内で、鉄塔撤去への抗議集会だった。と同時に、周辺で機動隊との衝突がはじまった。集会をしている買う場内にもガス弾が飛来して、たまたまそれに当たった労働者が昏倒する。機動隊と対峙するデモ隊の脇から、突如として走り出てきた赤ヘルが火炎瓶を投擲する。機動隊のジュラルミンの盾が、サーッと後退する。随所で竹槍で機動隊と激闘が繰り広げられる。投石もすさまじかった。そんな攻防が昼過ぎまでくり返されたのだった。その日、臨時野戦病院に防衛線を張っていた東山薫さんが、ガス弾の直撃をうけて死亡したのは、連載の初期に書いたとおりだ。その翌日、ゲリラの襲撃をうけた機動隊員が殉職した。相互に犠牲者が出て痛み分けの様相だが、三里塚闘争が「戦死者」をともなう闘いなのだという実感で気分が重なった記憶がある。
◆トラックで乗り付けて、火炎瓶をフェンスに投げつける
開港前のゲリラ闘争は、集会の開催などとは関係なく行われていた。夜半にトラックで警備の手薄なフェンスに乗り付け、鉄柵に火焔瓶を叩きつける。ボッと燃え上がる炎を背に、トラックに飛び乗って逃走する。現地集会がひらかれる時以外は、ヘリコプターが動員されるのは稀で、空港の中からパトカーや警備車両が出動することもない。いわば三里塚の闇の中をやりたい放題のゲリラだった。
その様子を、警察無線の傍受で何度も聴いたことがある。「第5ゲート付近、火炎瓶事件が発生」「トラックで逃走の模様」「警備出動の可否を上申」などいう会話が聴こえてくる。じっさいに、警備車両が出動して、某党派の団結小屋を捜索したこともあった。「トラックのエンジンが熱いかどうか、確認せよ。エンジンを確認せよ」という警備本部からの指令で、現場班から「エンジンは……、冷えています」の応答があった。
ゲリラに使った車両を、そのまま団結小屋まで回送するゲリラはありえない。その夜の内に、空港の警備圏外に脱出しているはずだ。だがそれも、まだNシステムがない時代だからこそ可能だったゲリラであって、90年代にはいると物資の搬入も幹線道路を避けなければならなかった。後年、自転車ツーリングで元ゲリラ要員といっしょに利根川サイクリングロードを走ったとき、河川敷の道路経由で物資を搬入したと聞かされたものだ。
警察無線を盗聴していて、よくわかったのは現場の最高指揮官が「参事官」ということだった。参事官(本庁課長・警視長クラス)は本庁のキャリア組で、派遣された各県警の本部長を歴任したあとに、本庁にもどって警視庁長官レース(審議官・警視監クラス)に臨む。したがって自分よりも年上の県警幹部を叱咤しまくり「ヘリを飛ばせろ!」と叫ぶ。その下命をうけた県警幹部が「〇〇参事官から、かさねてヘリ出動の要請あり」などと連絡が入る。そんなやり取りは滑稽で、しかし迫真のものだった。
昼日なかにトラックではなく、徒歩で山野を逃げたこともある。もう開港していたから、飛行阻止闘争という意味合いで滑走路の延長上で黒煙を炊くというものだった。山林火災にはならないよう、古タイヤや灯油をつかった大きな焚火である。黒煙が上がれば、飛行機の離着陸に影響があるだろうというものだが、近くにいるわたしたちが煙たい思いをするだけだったかもしれない。もうもうと黒煙があがると、機動隊が大挙してそれを消しに来る。そこを待ち伏せして襲撃するというわけではなく、なにしろ少人数だから逃げる。無許可で大きな焚火をしただけだから、刑事犯罪ではないと思われるが、とにかくゲリラ闘争らしく逃げる。田んぼの畔を走り、小川を飛び越えて山林に隠れる。逃走地点は決めてあって、3時間ほど逃げた地点に迎えのクルマがやってくる。この場合はクルマをゲリラに使ったわけではないので、そのまま団結小屋にもどって夕食ということになるのだった。
やはり飛行阻止闘争で、凧をつかったことがある。凧にアルミ箔を貼って、それで管制室のレーダーが妨害されるのかどうかはわからないが、凧揚げで飛行を阻止するのだ(笑い)。小さいころに凧揚げをやった経験のない学生はダメで、うまく揚げた学生が賞賛されたものだ。(つづく)
◎[参考動画]東峰地区(mogusaen 2016年5月28日公開)
▼横山茂彦(よこやましげひこ)
著述業・雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。主著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)、『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)