7月26日オウム真理教の元幹部6人に対する死刑が執行された。 林泰男氏、豊田亨氏、広瀬健一氏、岡崎一明氏、横山真人氏、端本悟氏である。これで13人いたオウム真理教関連の死刑囚は全員が処刑された。
「死刑に対するわたしの考え」は、以前本通信で述べたので繰り返さない。別の観点からあの時代を振り返り、オウム真理教とはなんだったのか、簡単に答えが出るものではないけれども少し考えてみたい。YOUTUBEには当時のテレビ映像がいくつもアップロードされている(法的には違法だそうだが、その問題は横に置く)。その中に「朝まで生テレビ」で4時間にわたりオウム真理教と幸福の科学が出演している映像があった。オウム真理教からは麻原彰晃氏、上祐史浩氏ら幹部が、幸福の科学は景山民夫氏ほか幹部数人が出演している。その他の出演者は、西部邁氏、大月隆寛氏、島田裕巳氏、石川好氏などである。
まず、印象深いのは番組の冒頭で司会者が「モノとお金が溢れるこの豊かな時代に」とのフレーズを何度も繰り返していることだ。収録は1991年だからいまから27年前だ。今日、2018年に同様な番組が製作されたら「モノとお金が溢れるこの豊かな時代」と時代を描写する表現が用いられることはないであろう。四半世紀のあいだに日本は実感としても「モノとお金が溢れる豊かな時代」ではなくなったことは大きな変化だ。そしてオウム真理教だけではなく、「宗教ブーム」とよばれるほど、若者が精神世界や非物質的世界に興味を示し、かつ行動(入信)する現象は、「モノとお金が溢れる豊かな時代」だったからこそ生じたのではないかと感じる。
「朝まで生テレビ」をはじめ、いくつか麻原彰晃氏や上祐史浩氏が出演する番組を見た。意外な発見があった。オウム真理教の教義や、修行の様子は、素人目にもかなりインチキ臭く、怪しさに溢れているけれども、彼らが他の出演者と交わす会話は、実に理路整然としており、とくに上祐史浩氏の弁舌は筑紫哲也氏や、有田芳生氏、江川紹子氏などを凌駕している。また刺殺された村井秀夫氏の語り口も同様にわかりやすい。ヨガを出発点にしたオウム真理教は、麻原彰晃氏の個性と彼の実に巧みな組織拡大戦略が、功を奏して短期間で1万人以上の信者を抱える宗教に成長した。その脇には、凡庸なテレビ出演者などとの議論では、一歩も引けを取らない「ディベート技術(能力)」を備えた極めて優秀な幹部の存在を無視することはできないであろう。
それに対して「朝まで生テレビ」で西部邁のダラダラぶり、大月隆寛の的の外し方が逆に際立っている。のちにこの二人は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーとなり、その主張が、今日の「幸福の科学」と、うり二つに変遷していったのは、偶然ではあろうが、まったくオウム真理教の本質に肉薄できていない(西部は露骨にオウム真理教に興味を抱いている姿も印象的である)。
その点で91年当時「幸福の科学」幹部が語る自らの正当性は、実に薄っぺらであり、我田引水が多く、聞いていて頷かされる場面はない。景山民夫氏の語る「善行を行うのがためらわれる時代への問題意識」にしても、なにも「幸福の科学」でなければ解決できない課題ではない。議論全体に根拠が薄く、みずからの「思い込みを断定的に語っている」印象を強く受ける。大川隆法氏にしても、語りが上手であるとは言い難い。神であろうが仏であろうが、歴代の有名人の霊を下ろしてきて話をさせる手法の出版物は、相変わらず上々の売れ行きであるようだが、あまりに節操がなく、少なくともわたしにたいしては、まったく説得力がない。
わたしにとっては、繰り返すがオウム真理教の教義や修行の姿(映像で見る限り)は、滑稽の極みであり、何の魅力も感心もわかない。しかし約30年前には多くの高学歴の若者が大挙して出家信者として入信し、果ては国家転覆までを企図するに至った力の終結の源はなんだったのか。北野武が喜んで麻原彰晃氏と笑談している映像もある。
「朝まで生テレビ」におけるオウム真理教と幸福の科学の対比は、オウム真理教は「確信に満ちた運命共同体」であるのに対し幸福の科学は、あくまでも世俗の宗教の域にとどまっていることであろう。今日、幸福の科学は極めて反動的で、自民党も喜びそうな政治的メッセージを多く発している。「幸福実現党」の選挙における成績は、まったく芳しくないが、地方都市のあちらこちらに創価学会のように立派な建物が出来上がっている。沖縄では綺麗な海沿いに幸福の科学の建物があり、リゾートホテルかと見間違うほどだ。
つまり、幸福の科学はその名の通りいくぶん「科学」的な時代のマーケッティングに、長けており、一見特異、過激な主張をしているようでも、既成の法体系、国家の枠から逸脱することが勘定には合わないことを理解している集団であろう。対するオウム真理教は出発当初には仏教に基本を置き、ヨガの修行などを中心としていたが、麻原彰晃がどうしたことか「ハルマゲドン」などと言い出したので、もとより現生(現世)利益を捨て、物質拝金文明を嫌っていた信者は、急激に精鋭化した。象の帽子をかぶり女性信者が踊っていた選挙戦は、どう見ても当選が見込まれるものではなかったが、あの選挙で麻原彰晃氏は「勝てる」と本気で考えていたようだ。既にその時点で大いなる錯誤が発生しているのと同時に、彼らは「国家を敵」だと認識し始めたことだろう。
主義主張の如何を問わず「国家は敵」である意識は、集団を精鋭化し、構成員が信者ではなく、「兵士」に変わりうる可能性を持つ。仮にではあるが、麻原彰晃氏の解くイデオロギーや現状認識が、あれほどに荒唐無稽ではなく、一定数の一般人にも受けいれられる理論であれば、彼らの企てた「国家転覆」や「無差別テロ」は「革命」という名に取って代わられていたかもしれない。しかしオウム真理教はハード面での武装の進展とは逆に教義はますます混乱を極めてゆく。行く先は圧倒的な弾圧しかないと悟ったとき、彼らが破滅覚悟で敢行したのが「地下鉄サリン事件」だったのだろう。
では、いまオウム真理教の残党である「アレフ」は危険であろうか。わたしはそうは思わない。オウム真理教には麻原彰晃氏の教示が不可欠であり、麻原彰晃氏なきオウム真理教は力を持たない。
それよりも、わたしたちは重要な見落としをしていないだろうか。麻原彰晃氏に比しても、荒唐無稽さでは引けを取らない人間が長く最高権力者の座に居座ってはいまいか。法治国家では最高法規の憲法を「解釈改憲」などとクーデター的に実質無化する輩が君臨してはいまいか。軍事費を毎年増額し、軍事国家化を着々と進める予算に直面してはいないか。国会における与野党の議席構成はどうだ? 与党と明確に非和解な政党は存在するか。若者はなにに熱中しているのだろうか。あるいはもう若者は「熱中」することを忘れたか。そこに「HINOMARU」などという曲をひっさげた人気バンドが登場して、コンサートで浮かれてはいまいか。破綻が確実な国家財政を度外視して、目先の利益確保を11万人の「タダ働き」(ボランティアというらしい)でアウブヘーベン(止揚)を試みる五輪という大儲けのショーを東京の殺人的暑さの下で行おうとはしていないか。原発4機爆発事故を経験しても、あらかた忘れてしまってはいないか。
わたしたちは、気が付かないうちに「国家真理教」に入信させられてはいないだろうか。
▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。