◆ノンカイに戻って
ワット・ミーチャイ・ターに着いて外に居たネーンに尋ねるも、ここのプラマート和尚さんは不在のようで、石橋正次似の比丘が「和尚は明日帰って来るから、今日はここに居てくれ」と招かれたのはクティ1階の倉庫らしい部屋だった。狭く汚い部屋だったが、寝られるスペースがあれば充分有難い。
今日12月17日は満月の前日で、ここの寺の比丘は皆、頭剃ったばかりで表皮が目立っていた。そこでまだ剃っていない我々は、石橋正次似比丘に剃髪をお願いすると、すぐに準備に掛かってくれて、この寺ではバリカンで刈るので早い。藤川さんの後、私の番。久々に床屋さんに来たような心地良さ。毛だらけなので、すぐ水浴びしなければならないが、体調不良の中、サッと浴びたが水が冷たく寒かった。
熱あり腹痛あり、風邪か下痢か、どっちの薬飲めばいいのかも分からない。日本の薬は効かないとみたか、藤川さんが「ここの奴らに薬局連れて行って貰え」と言うが、立って歩く元気すら無い。どうか今持っている薬で収まって欲しいと祈る。
さっきの石橋正次似の比丘が私の様子見て薬持って来てくれたが解熱剤の様子。まず熱下げようとこの薬飲んで、いつもながら一般的には早いが、藤川さんが「もう寝るか!」と言って、夜8時を回って眠りにつくことになる。今日は10回以上トイレに行っただろうか。
◆腹痛の原因!
翌朝は4時前に鐘が鳴り、藤川さんは顔を洗って、本堂での読経に行く準備。私はお腹の調子が悪いので、寝続ける。
藤川さんが「お前は一昨日の朝か昼飯の時にその辺に置いてあった水飲んだんちゃうか?」と言われて、チェンウェー寺でそう言えば飲んだ。朝は置いてなかったが、昼時に置いてあったポラリスを飲んだ。そんな何日も放りっぱなしの水ではないはずだった。しかし、
「誰が手を付けたか分からんものは絶対飲んだらあかん。ワシらのワット・タムケーウのメーオは毎日飯時に瓶(かめ)の水飲んどるが、あれは雨季に溜めた雨水で、あんなもんワシらが飲んだら一気に下痢やな。お前はあれ飲んだようなもんやぞ。あいつらは子供の頃からあんな水飲んどるんや、ワシらと抵抗力が違うんやぞ!」
綺麗に見えても誰が置いたか分からん水には手を出してはいかんと反省。これは食中毒に掛かったのだ。熱や吐き気、下痢が続くもの当然か。正露丸では治らないかもしれない。参ったなあ。
◆鹿うノンカイの托鉢、再び!
藤川さんの起床で、早く起こされたネイトさんも読経を聴きに行った様子。5時30分に私も起き上がり、托鉢の準備をする。托鉢中にお腹が痛くならないようにトイレは済ませておく。それでも下痢便は突然襲って来るから、1時間程耐えられるか、お腹に相談しながらの集団托鉢への参加である。
6時15分頃にミーチャイ・トゥン側の托鉢の列がやって来た。先週あちら側に居た我々がこちら側の寺に居るから何か気マズイが、誰も怪訝な表情はしていない。すんなり列に入れてくれて先週と同じパターンで進む。プラマート和尚が出張中なので、私は“4番目”になった。サイバーツ(寄進)する信者さんは63件あった。なんと私の几帳面さ、数えてしまうのである。こんな状況で頭の中がなんと暇な私。
折り返し帰る時は、ミーチャイ・トゥン側の比丘と話しながら歩く。無事にラオスから帰って来たこと、ビザが取れたこと、今は事情あってミーチャイ・ター側に居ることを話して砂利道入るところで別れます。あちらはここから痛い痛い砂利道がある。今はこちら(ミーチャイ・ター)で良かったと安堵する。
このイサーン地方とラオス・ビエンチャンでは托鉢以外に在家信者さんが寺に料理を届けに来る習慣があります。その事情をビエンチャンに居た時、ワット・チェンウェーで、ブンミー和尚さんに尋ねていた藤川さん。
それは、
「ラオスでは、1975年の社会主義革命の後、新政府は仏教活動を禁じましたが、庶民がそれに反発し、政府に協力しなくなり、政策が予定どおり進まなくなりました。困った役人は、結局は暗黙に仏教活動を認めましたが、公には禁じられているものだから、政府のお偉いさんや役人達は比丘に食事を施したり、お寺にお布施をしたりなどの徳を積むことができなくなり、自分達がいちばん困ったようです。それで、市の役人やその家族は表立って托鉢などに参加し辛いので、こうして毎朝、料理を届けに来られるのです。」
ということのようだった。これが国境に関係なく、昔からこのイサーン地域に根付いているのだろう。
《このブンミー和尚さんの話は「オモロイ坊主のアジア托鉢行」より引用。こんな話しをしていたのは確かで、藤川さんが頷いていたのを覚えていますが、私は上の空であった。》
◆ネイトさんの実力!
相変わらず食欲は沸かないが、少しでも詰め込もうとすれば何とか胃に入ってくれる。その後、ネイトさんを我々が食事したサーラー(葬儀場、講堂)へ朝食に誘ってデックワットらの輪に加えてあげます。新入りでは食べ難いだろうと終わるまで一緒に居てあげるも、そこは国際感覚の社交性あるネイトさん。積極的にイサーンの言葉で話し掛け、早速デックワットと笑いながら食事に入っている。私の気遣いは無用だったようだ。
昼食も少々しか胃に入らず、体調も悪いので部屋で寝ていたり、メコン河眺めに河沿いに行って日記書いたりしていると、近所の子供らが4~5人、元気にボール蹴って遊んでいる。こんな光景、どこの国にもあるんだなあ。
ネーンが土手の下の船着場まで下りているからその様子を見に行ったりもした。ネイトさんもやって来て他愛も無い話をするが、私のキックボクシングの話にも付き合ってくれたり、ここに至る因果も話せばしっかり聴いて返してくれる対話は楽しいものだった。
そんなこと話しているうちにまたお腹の調子が悪くなる。今日もすでに10回以上トイレに行っただろうか。これがお腹に細菌が潜伏する食中毒なのか。
夕方6時30分からの読経も、先ず鐘が鳴らされ、本堂で読経が始まる。後から後から比丘やネーンが集まって来るので、遅刻者続出。30分ぐらい続いた読経が終わると辺りはすでに真っ暗。外で読経を聴いていたネイトさんにネーン達がなついて群がっている。アメリカ人でもイサーンの言葉が出来て社交性があれば人気者間違いなし。私には誰も寄って来ない。この差は大きいな。
◆ネイトさんの出家が決定!
この寺のプラマート和尚さんが、夜9時前に帰って来たようで、我々は挨拶に向かいます。我々3人を泊めて頂きたいことと、ネイトさんを出家させたいことを藤川さんが申し出ます。
その後は流暢なイサーンの言葉でネイトさんが御挨拶。
普通はアメリカ人がいきなり尋ねて来ても門前払いとなるか、人格を見られた上で、何らかの条件が付けられるだろうが、こういう仲介役がしっかりした身元の近しい仲であれば大概のことはOKとなるもの。
難なく“面接”はOKされると、24日頃に得度式が予定されることになる。我々は20日の夜行列車で帰るので、得度式には参加出来ないが、ここから先は彼がしっかり務めることだろう。
どんな比丘となるのか、藤川さんの“第2の弟子”の成長が楽しみである。滞在日数の少ない中、我々がやってあげられることは何か、ネイトさんの出家への準備が進んでいきます。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」