◆寄進を深く受け止める
日々の出来事はやや前後するが、年明けた1月3日、軽四トラック荷台に6僧が乗せられ、昼のニーモンに呼ばれて行った。田舎道の広々したところに牛や鶏が放し飼いされている農家の敷地内に、信者さんが大勢と、他の寺の比丘も数名来ていた。
新年のお清めらしき儀式で、地べたに茣蓙が敷かれた所に座って読経が始まる。昼食もそこで寄進された。幾つも美味しそうな料理が出され、生菓子にフルーツ、アイスクリームまで出された贅沢なほどの量だった。私より年輩のオジサンがせっせと食材を運んで我々比丘に差し出してくれる。水が無いと気が付くと、それも駆け足で持って来てくれる気の利きよう。これら全て徳を積む行為なのだ。
しかし、その働く姿を見てフッと考えてしまった。ノンカイから帰る途中に藤川さんが、「ああいう人らが、ワシらに飯くれて何とも思わんか?、ワシは申し訳ない気持ちになる、飯食わせてくれて、ワシは詐欺みたいなもんやと思う」と言った言葉が改めて蘇えってくる。
黄衣纏っているだけで、こんな豪華なタダ飯食って、お布施貰って帰るんだ。料理運ぶオジサンに申し訳なくなった。俺って本当に詐欺だな。情けなくなって泣きそうになってしまった。本当に涙出そうになった。堪えた。こんなところで何でこんな感情になったのだろう。藤川さんの言葉が分かっていたつもりが心からは分かっていなかったのだろう。比丘でなかったら、これらの行為は受ける立場にはない。
安易に出家したことを恥じてしまう。こんな反省の念を抱えてカメラなど捨て、真面目に修行を積もうと思ったら3年ぐらい修行すべきだろう。そんな想いから短期出家のつもりが何十年と続いた比丘も居るのかもしれない。
◆わがままな心の内
そんなカメラを捨てられない私は、コップくんに還俗の相談をすると、還俗すると決めたら、和尚さんにその気持ちを伝えればいいらしい。但し、自分から還俗する日を決められない。散々客寄せパンダとなっていた我々日本人。還俗なんて認めてくれないのではと不安が過ぎる。
それと同時に再出家も頭を過ぎっていた。こんな寺より品のいいノンカイの寺で再出家するとしたら、それは可能か。そんな我がままな望みは誰かに言い出せることではなかった。
還俗する相談は、やや年輩のイアットさんにも聞いてみた。コップくんと同様の意見ではあったが、その2~3日後、朝食の場で「もう和尚さんに還俗願いはしたのか?」と口に出してしまうイアットさん。これで周囲に知れ渡ってしまった。
メーオくんは「還俗しなくていいよ、ずっと居ろよ!」と言ってくれるし、サンくんも「まだ早いよ!」と言う引止めが多かった。メーオくんはやたらと和尚さんの部屋を出入りしているから、薄々和尚さんにも伝わったようだ。
以前も藤川さんが、日本での不動産業で億(円)単位のお金を日々動かしていたことや、タイでの事業で稼いだ財産を、ほとんどタイでの妻などに渡して離婚後、出家した話を信じない奴らばかりで、資産の一部を残しておいた200万バーツ(1千万円弱)ある預金通帳を、「メーオに見せてやったら、一、十、百、千、万と目を疑うように桁を数え直して、目が点になっとったわ!」と笑う。
その後、「和尚が遠回しに、“ウチの寺もでっかい仏像置いて、立派な寺に増築したいなあ”と普段と言うことが変わってきたから、予想どおりメーオが喋りおったとはすぐ分かった」と言うほどメーオくんは和尚さんにとって周囲を探るバロメーターであったことは確かなようだ。
そして1月8日、和尚さんに正式に還俗を願い出た。「相談があります。今月末に還俗したいのですが……」と言ったところで、「ウン、いいよ!」という素っ気ない返答。すぐ運気の本を開いて、「生年月日は? いつ還俗したいんだ?」と聞かれ、「27日がいいです」と応えると「27日は良くない、28日にしろ!」と言う和尚さん。
それはちょっと苦しい、29日は伊達秀騎のムエタイ試合があるのだ。
「29日にチェンマイに行く用があるので」と言うと、「じゃあ25日にしろ!」とあっさり決まってしまった。運気と言うより六曜(大安、仏滅など)に近い気がするが、意外な決め方だった。
更に、「ネイトは1月22日に来る」と藤川さんから新たに聞いたばかりで、比丘としての再会は果たせそうだった。
夕方頃、藤川さんが掃除が終わるのを見つけたところで、還俗願い出たことを伝えた。藤川さんに相談せず決めたことが、ちょっと後ろめたかったが、普段からあまり話さないのだから、もう気を遣わなかった。それと「還俗後、いずれノンカイの寺でもう一回出家できたらなと思います!」とだけ打ち明けた。すると、「もう一回やったら、足洗えんようなるぞ。ここの和尚に対しても失礼に当たることや」と言う。
ある意味、戒律違反で、藤川さんがこの寺で再出家する前、前年一時出家した籍のあるスパンブリーの寺に出向いて再出家することを報告すると、そこは理解を示す和尚さんで問題なかったが、通い慣れた、かつて渋井修さんが在籍したバンコクのパクナム寺の和尚さんに話したら、「それはスパンブリーの和尚に対し、失礼に当たることだ」と言われたらしい。
この時、私はまだ再出家に掛かる意味、責任を理解していなかった。場を変えて足りない修行を積み重ねて比丘生活の締め括りをやりたい愚かな気持ちしかなかったのだった。
◆依頼が絶えない
残り少なくなっていく比丘生活にも葬儀が頻繁にあり、また葬儀の撮影を頼まれる日もあった。寺に居てカメラを持って歩くことは頻繁にあった訳ではないが、皆からカメラマンとしての印象は強かったようだ。
ノンカイでも藤川さんに言われていたことだが、「お前、タイで葬式カメラマンやれ、人は毎日死んでいくからどっかで必ず葬式はあるぞ、お寺幾つも回って契約取ってやってみい。今だけでもこれだけ頼まれるんやから売り込めば仕事増えるぞ。出張撮影、車の手配も助手も要るなあ!」と、勝手に話を膨らませる。ビジネス戦略は常に鋭い勘が働く人だったが、鈍感な私はそんな気にはなれなかった。
◆阪神淡路大震災発生!
1月17日の夕方、庭掃き掃除をしていると、藤川さんが「兵庫で地震あったらしいぞ!」と言いながらラジオを持って現れた。毎日聴いて居られたNHKニュースである。後に詳しく知る阪神淡路大震災だった。
「1132人が死亡」という声に、これは相当な震災だったことに驚く。最大震度6。死傷者はその後も増えた。
「ワシ、京都に帰ってみようかな、娘らが心配やし」と言う藤川さん。
そうそう実家に帰ることはないタイで出家した身だが、我が娘夫婦や孫のことは心配だろう。
「我が身の命はいつ終わるか分からん。皆、当たり前のように明日がやって来ると思うて、どこ遊びに行こうか、何食おうかと、呑気に過ごす奴が多いやろが、明日が必ずやって来ると言えるか?、震災で死んだ人も、今日死ぬとは思って居らんかったやろう。日々が諸行無常や!」
こんな話は何度となく藤川さんに言われて来たこと。こんな災害が他人事ではないと思うと、やっぱり悔いの無い日々を送らねばならないと改めて思う。しかしこれも心からは分かっていないんだろうな、我が身にも災難に見舞われるまで。
まあ考え過ぎず、ここでの残り少ない比丘生活を頑張ろうと思うところだった。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」