◆ブンカーンに到着
ブンカーンへの寄り道は仏門とは関係ないが、過去に藤川さんが語った話題の中には、やや関連してくる人間模様があった。
ノンカイの都市部から昼頃出発した暑くて窮屈なバスは、だんだん人里寂しくなるような田舎道を通って、2時間近く掛かってブンカーンに着いた。今、横浜で出稼ぎ労働しているプット(仮称)という友達に5年前に連れられて来たバスターミナル広場に到着すると、見覚えある小さな時計台があって間違い無く着いたことが認識できた。
すると、地元民とは見えないのであろう私に近づくトゥクトゥクの運ちゃん。私が先に「この辺にホテルはあるか?」と聞くと「ある!」と応えられた。ならば泊まるところの心配は無さそうだ。ホテルに行くと思ってトゥクトゥクを出そうとした運ちゃんに「この辺に郵便局はあるか?」と尋ねた。「あるがどうした?」と言う運ちゃんに「そこに行ってくれ!」と指示。
プットのお姉さんが勤めるのがその郵便局であるはずだった。郵便局は日本の田舎の古い木造の郵便局とさほど変わらない造りの局内で、窓口でお客さんの応対をしていた職員の顔を見てすぐプットのお姉さんと分かった。次に並んだ私と対面となり、プットから送られていた手紙にあるお姉さんの名前を尋ね、私の身分を明かすと、5年前に私が訪れたことを思い出して笑顔になって、すぐ窓口の内側に招いてくれた。
ここはタイの田舎の郵便局。日本のような警備上の仕切り線は緩い。旦那さんもここに勤めていて、早速「今日は泊まって行け!」と言ってくれた。先日に続き“そう言って欲しかったよ”と心で思いつつお世話になることにした。
夕方4時30分まで勤務と言うので近くを散策。メコン河沿いを歩くと、ノンカイ都市部から見る対岸とあまり変わらないのがラオスの風景。近くのお寺も2ヶ所覗いて見た。小奇麗で静かな佇まい。「ここで再び出家できたら誰にもバレずに過ごせるなあ」といった悪知恵も頭を過ぎってしまう。そこは私の知り合いの誰もが、とてもここまで来る縁は無いだろうと思える人里離れた静かな集落なのである。
◆家族の心配
夜はこのプットの家でしっかり御馳走になった。飲めぬビールも一杯だけ付き合い、家族は他にプットとソックリの妹さんと、前回来た時はまだ2歳ぐらいだった女の子も大きくなっていた(親戚のオジサンや子供も出入りして、もう記憶が曖昧で家族構成は分からない)。
プットが日本でどんな環境で仕事しているか、ただ元気にしているかという、どこの国の親兄弟も同じような心配。手紙のやり取りや国際電話は来るので、様子が分からない訳ではないが、私が持って行ったわずかながらの写真と、直接知るその暮らしの様子を話してやると興味津々に聴き入り、辻褄合う話に置かれている環境は安心できるものと喜んで貰えた。
もし私の両親が、私がタイで出家したことを知ろうものなら、安心できる環境か、ちゃんと帰って来られるのか、その様子を詳しく知る者を探して食い入るように聴くだろう。もしそんな事態に陥っていたとしたら応えてくれるのは高津くんと春原さんしかいないな。そんな親が思う心配を考えてしまった。無事にタイの旅を終えようとしている今、帰国後は実家に行かねばならないとも思ってしまう、この一家に促されるような思いだった。
◆貧困の国とは!?
タイで最も貧困のタイ東北部から日本へ出稼ぎに来る“じゃぱゆきさん”といった女性の話題が続いた1990年代でもあったが、フィリピンボクサーやタイボクサーによる不法就労が増えた時代でもあった。
「日本で稼いだお金を持ってタイの田舎に帰り、両親に捧げる。生活苦だった両親や幼い兄弟達が潤い、進学できたり、車やバイク、電化製品が買え、家も建て替えることが出来た。」といった貧困の中での親孝行物語が本に書かれたり、テレビなどの報道で語られたりして、藤川さんは「ワシはそんなもん信じとらん」と言っていたものだった。
私も比丘の姿でバンコクに出た時、藤川さんが町田さんや小林さんに話していたのが、「イサーン(タイ東北部)の人は本当に貧しいんか? 自然に適った風通しのいい高床式住居があるのに出稼ぎした奴らによって綺麗で密閉された日本式住居が増えて、その結果エアコンが必要になるやろ。我々日本人の高度経済成長で作り上げた文明が彼らを羨ましがらせて、本来の幸せを壊して来たんやないか? 毎朝、坊主(比丘)に寄進する飯は、貧乏な家でも一人の一日分は用意できる訳や。これが本当の貧しさか?」と言っていた話が蘇える。
このブンカーンの街を歩いてみても、それなりに雑貨屋や市場はあり、友達の家で頂いた料理は、私がお客さんだからそう振舞ったのかもしれないが、アナンさんの家と変わらない質と量があり、家は木造の古そうな家だが広く、犬も飼われていて貧乏とは言えない中流家庭であった。
プットはなぜ出稼ぎ労働することになったのだろうか。以前、「仕事が無いから」とは言っていたが、バンコクでのムエタイ関係のビジネスを辞めた後、グレード低くなる暮らしはできないプライドがあったのかもしれない。
藤川さんが言っていた、「出稼ぎしたお金で“まず両親を楽させる”という奴は、ほんの2~3パーセントや。他は“まず自分が贅沢したい”為の出稼ぎ労働者、バンコクに出ておる娼婦も同んなじやな」。
私が比丘であった期間、お金を払って食事したことは一度も無かった(飲み物は買ったが)。タイは貧富の格差が広がり、干ばつで農作物が育たないタイ東北部では貧困が続くと言われた1990年代前半に、「本当の意味では貧困ではない」というのが、藤川さんの考え方で、“本当の幸せとは何か”を説いていたのも長き比丘生活での課題だった。藤川さんと会わなくなってからいろいろ思い出すが、各地を歩いた藤川さんの話は信憑性があるものばかりだった。
◆三度ラオスへ渡る
この地にも暫くのんびり過ごしてみたい気もあったが、ひとつ役目も果たしたところで他人の家に意味無く長居も出来ないから、もうラオスに渡ることにした(後に考えればこの地域からラオスに渡る道は無かったかなと思うが、当時は限られたルートしか分からなかった)。
旦那さんにバスターミナルまで送られる中、「今度来た時は4~5日泊まって行け!」と言ってくれた。「じゃあ今からもう暫く居ていい?」と思っても口には出さずも、こんな僻地はお寺も含めていいもんだった。
またバスに乗ってノンカイ都市部へ戻り、トゥクトゥクに乗って、そのままタイ・ラオス友好橋へ向かった。あまり遅くなってはいけない。ホテルには極力泊まらないケチケチ旅行だから、行く先は前回訪れたワット・チェンウェーなのである。
3度目の国境越えであるが、職員かただのオバサンか分からぬ人達の指で示す方向へ行って、タイ出国手続きを経てバスに乗り、橋を越えればラオス入国手続きを経てタクシーの運ちゃんに群がられることになる。もうすっかり慣れた感じもあるビエンチャンに三度渡ったところだった。
▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」