大阪市の環状線・新今宮駅前に建つ「西成あいりん総合センター」(以後センター)は、通称「釜ヶ崎」と呼ばれるこの地域に住む人たちにとって必要不可欠な場所である。しかしこの間建て替えの動きが急速に進み、施設の一部「あいりん職安」と「西成労働福祉センター」は、3月11日南海電鉄高架下の仮施設に移転が終了、労働者らの寄り場である1、3階は3月31日に閉鎖されることが決まっていた。しかし4月3日現在、センター1階は開放されたままだ。何が起きたのか? 3月31日15時から4月1日朝4時までの現場の様子を釜ケ崎から報告する。
◆「閉鎖は決定事項だから」を繰り返す大阪府と西成労働福祉センター
3月31日のセンター閉鎖に対して、釜ヶ崎公民権運動と釜ヶ崎地域合同労組は「現センターを4月1日以降も開放しろ」と要求、1月25日、2月19日、2月26日、3月5日、3月15日、3月26日と6回にわたり交渉を続けてきた。
建て替えの理由は「耐震性に問題があり、倒壊する危険性がある」だったが、交渉の中で1、3階を閉鎖したあとも、センター上の医療センターは移転までの2年間、市営住宅は全員退去するまで閉めないことが判明、ならばその間だけでも1、3階も解放しろと要求していた。しかし大阪府と西成労働福祉センターは「閉鎖は決定事項だから」「大阪府が決めたことに従うだけ」を繰り返すのみで交渉は決裂、そのまま31日を迎えることとなった。
31日当日、「釜ヶ崎公民権運動」「釜ヶ崎地域合同労組」の呼びかけで、15時からセンター1階に大勢の人たちが集まってきた。コンクリの地べたに敷いたブルーシートの上でダンボールや毛布を敷き座り込む人、底冷えするなかストーブで暖をとる人、その横で将棋を指す人、ジャンベやアルミ缶を叩く人、それぞれがそれぞれにその時を待っていた。
センターは通常早朝5時にシャッターを開け、夕方18時に再びシャッターを降ろす。そのあいだ野宿者は子どもらに石を投げつけられたり、通行人に火の付いた煙草を放られることなく安心して休める。 普段狭いアパートに住む人たちが仲間とゆったり談笑したり、「あそこで炊き出しやってるで」「エエ仕事あるで」と情報交換も出来る。
しかし31日のアナウンスは「今日18時に閉めたら、再度開くことはありません」と何度も繰り返していた。「明日はシャッター開かんのか? センター入れんのか?」と新たに集まる人たち。
◆18時過ぎシャッターが降り始めると……
18時過ぎシャッターが降り始めると「閉めるな!」という声があちこちから飛んだ。南東側のシャッターが降りかけると、大勢がそっちへ殺到、シャッターの真下に身体を横たえる人、続いて座りこむ人が続出……騒然とする中、降りかけたシャッターが止まった。
青い腕章をつけた大阪府の職員は、無言のまま「あなたにこの建物からの退去を命じます」のチラシを配り、プラカードを掲げる。ジャンベや太鼓の音が鳴り響く中、あちこちで「話し合いに応じろ」「責任者出せや」「どないなってんねん」と怒鳴ったり、職員に言い寄ったり、誰かに指揮された訳でもなく、みなそれぞれに怒りを口にし、行動にした。
しかし断続的に交渉に来る大阪府労働局の職員は「シャッター閉鎖は中止しない」と頑なに繰り返すだけ。
◆平行線のまま「非暴力・不服従」で抗う
20時過ぎに出された4回目の「退去命令」には、最後に「退去しない場合には警察に通報します」と書かれていた。これまでの交渉でも彼らは、近くに大阪府警の警官や私服警官を多数待機させ、隙あらば弾圧しようと狙っていた。しかし当日集まったみんなは一貫して「非暴力・不服従」で闘おうと確認しあっていた。「難しいこと言うな。どういうこっちゃ?」「ぜったい手あげたらアカンで! でもお上や権力の言いなりにはならへんで、ということや」。
21時過ぎ、長丁場になることが予測され、味噌汁、おにぎり、コーヒーなどの炊き出しが届く。23時過ぎ、大阪府商工労働部の副理事でサトウ氏が部下を引き連れ釜ヶ崎地域合同労組委員長の稲垣氏に話しにきた。いよいよ最後通告かと思い、労働者や支援者も周囲に殺到、現場は一時騒然となったが、話し合いは平行線のまま睨み合いが続く。
そんな中、稲垣氏が「こうした事態を引き起こした責任はあなたたちの側にある。まずは謝罪しろ」と前置きしたうえで「3階までとは言わないが、1階はこのまま開けろ」と提案。疲れ切った顔の職員らは「少し休憩取りながら考える」と戻って行った。
◆日付が変わり午前1時半、職員が戻ってきた
日付が変わり4月1日午前1時半、戻ってきた職員が「今の状態ではシャッターは閉められない。大阪府としては撤収するしかない。今日(4月1日)はシャッターを閉めない」と告げにきた。
稻垣氏は「①今降ろしたシャッターはそのままでも、開いているシャッターは閉めないこと、②3階に上がれなくても仕方ないが、1階のトイレ、水道などが使える様に回復していくこと、③今後も話しあいを継続させること」の3点を要求した。
その後4時まで現場で総括集会を開催。3月31日のセンター閉鎖を事実上阻止できたことについて、稲垣氏は「相撲で平幕力士が横綱に勝ち、金星をあげたようなもの。我々の力は微々たるものだが、労働者が多く集まってくれた。情報を聞きつけた支援者も大勢かけつけてくれた。みんなの力が結集したからやれたことだ」と総括した。
◆センター閉鎖で利用者たちがどう困るのか、想定出来なかった大阪府と大阪市
この闘いの中で気づかされたことがある。1つは、大阪府、大阪市は、一部の有識者、支援団体、労組、地域住民との「話し合い」のみで「住民の合意を得た」と思っていたことだ。3月31日付けサンスポで、現場で対応したセンター職員が「これまで閉鎖について地元と合意形成を進めてきており、この事態は想定外だった」と話している。
センターには常時50人から100人以上の人たちが様々な形で利用しているが、センター閉鎖でその人たちがどう困るのか、彼らは想定出来なかったということだ。そうした彼らのセンター利用者を無視(軽視・蔑視)出来る感覚は、新センターが出来るまでの「代替場所」として用意した場所(「新萩の森予定地」)を見ても明らかだ。砂利敷きの土地にテントと長イス、簡易トイレが設置されているだけ、何かの式典か、運動会でもやるのかと思った。当然だが、吹きっさらしのここを利用する人はほとんどない。
◆向こう側にいる人たち──どちら側に立つかで見える風景は違ってくる
もう1つは、シャッターが下りる瞬間、シャッターを挟みこっち側にいた人たちと向こう側にいた人たちの違いだ。向こう側には国、大阪府、大阪市の職員、私服警官などが多数と、「何が起きるのか」と集まる野次馬的な人たちがいた。しかし、その中に普段は「反権力」「反弾圧」を声高に訴える人たちがいたことには正直驚いた。
釜ケ崎に関心を持ち抗議に参加した支援者からも「なぜあの人が向こうにいるの?」と聞かれた。私に聞かれても困るが、彼らが発信しているSNSでは、抗議する人たちを「他所からきて事情もしらずに騒ぐ人たち」と書かれていたそうだ。辺野古で座り込む人たちを「内地から来た過激派だけ」と非難する人たちと似てはいないか。
どちら側に立つかで見える風景も違ってくるだろう。あの時とっさにシャッター真下に寝転んだ男性はこう話す。
「俺は部屋がある。でも野宿の人ら、雨降ったらどうするねん?」。
ちなみにセンターは4月1日午前0時に西成労働福祉センターの管理が外れ、現在管理者不在であることが4月2日夕刻に判明した(土地は国と大阪府の所有)。ガードマンが一斉に引き上げた、あの時から。そしてセンターはこの瞬間も開いている。生活苦しい人、困っている人、みんな、釜のセンターに来たらええねん。
▼尾崎美代子(おざき・みよこ)https://twitter.com/hanamama58
「西成青い空カンパ」主宰、「集い処はな」店主。