3・11からまもなく9年、「復興五輪」と銘打った東京オリ・パラの開催まで1年をきった。国は「復興五輪」で、福島の事故は終わったものしようと企んでいる。そんな中で避難者の存在が消されようとしている。原発事故の被害を無かったものにするためだ。しかし実際は、今も福島や関東など高線量地域から、被ばくを逃れてきた人たちが大勢いる。

そうした避難者らが現在、どんな状況に置かれているかを同通信では追っていく。第1回目は、森松明希子さん(45)です。

森松明希子さん

◆「私は幸運にも避難できたが……」

「2011年の3月11日、金曜日でした。私は家で、生後5ケ月の赤ちゃんをベビーチェアに乗せながら、ゆったりした時間を過ごしていました」。

あの日のことをそう話し出す森松明希子さんは、事故当時、福島県の郡山に夫と3才の息子、生後5ケ月の娘と4人で暮らしていた。事故でマンションが壊れ、夫の勤務する病院へ避難し、1ケ月間不自由な生活を余儀なくされた。

関西出身で、中学校の修学旅行で広島、高校で長崎を訪れており、「被ばく」の意味を知っていた森松さんは、原発が爆発したと知り、原爆でまき散らされた放射能のことを思い出し、遊び盛りの上の子には、外遊びを禁じていた。休日は新潟や山形のありふれた公園で、子供を外にだして遊ばせるためだけに、往復3時間かけて出かけるような生活だった。

事故後10km圏、20km圏へと「屋内待避」が命じられるなか、福島第一原発から60km離れた郡山にも放射能が広がるのは時間の問題だと思っていた。夫の車のガソリンを満タンだったので、いつ逃げるべきなのか、いつ避難指示を政府は出してくれるかと思っていた。

しかし地元のニュースは「通行止めだった道路が開通した」「●●スーパーが再開した」「〇〇病院が通常通りの営業時間に戻った」などばかり。原発が爆発したニュースは、全国一律で報じられる事以上の詳細は、放射線量も放射能汚染から身を守るべきことも伝えられなかった。

地元のローカル局の報道は、原発が爆発したニュースも一瞬画面に映しだされたが、4月に入ると小中学校や幼稚園の入学式・入園式が通常通り行われると報じ始めた。避難は政府の指示に従って、汚染の激しい原発に近いところから順番に、というのが合理的だと考えて順番を待っていたが、一向に被ばくに対する警鐘も注意喚起もなされないなか、子どもたちを一歩も屋外に出さないという生活に極度のストレスが溜まった。

幼稚園が休みになるゴールデン・ウイークに外遊びさせられる場所を求めていた森松さんに、実家の関西にいくことを進めたのは夫だった。両親、親戚らが住む関西に向かったのは、5月の連休だ。そこで初めて関西のローカル局のテレビの情報番組を見た。番組で福島とチェルノブイリの比較をやっていた。福島では知ることのない情報だった。郡山に残る夫と電話で話し合い、避難を決意、そのまま5月の長い連休を使い、母子避難の準備を一気に進めた。

「私は目の前に3才と0才の子どもがいたから、避難を決意できたのかもしれません。あと関西は土地勘もあり、両親や親戚もいたし。子どもが就学していたら、できなかったかもしれない」と森松さんは話し、さらに「私は子どもを守りたい一心で避難した。私の目の前には、守りたい子どもがいる。だから我慢できる。守りたい子どもが目の前にいない夫は、どうやって精神状態を保っているのだろう」と、仕事で福島に残り続ける夫を思いやった。

勤務医の暁史さんは、家族、とりわけ子どもたちとのコミュニケーションをとるために、毎週でも大阪に行きたい思いでいっぱいである。しかし患者の様態が急変することもあり、早め早めに予定を決めるのは難しい。月に一度が精いっぱいの時もある、勤務が終わった金曜日、夜行バスに飛び乗り、朝大阪に着く。土、日を家族と過ごし、日曜日深夜バスで福島に戻り、朝到着したそのまま仕事に就く、ということもしばしばあった。

◆支援が切られ、泣く泣く帰った仲間……

事故後、自主避難者へも住居などに行政の手が差しのべられたが、それも2017年で打ち切られた。森松さんが代表を務める東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (通称サンドリ)は、月1回、避難仲間や支援者が自由に集まり、情報交換したり、とりとめのないおしゃべりをする「イモニカイ」をやっている。そこへ集まるメンバーも最初のころからは随分変わってきたという。避難元に帰った人、福島には戻らないが、実家のある宮城に移った人、関東近郊に移った人など、さまざまだ。

「帰った人の理由はさまざまです。戻らないと離婚させられるという人もいた。一番多いのは、やはり経済的な負担が大きいからだと思います。でもそうしたことは人には言いにくい。こちらも聞きにくい。とにかく泣く泣く本意ではなく帰った人が多くいたことだけは確かです」。

◆メディアに伝えてほしいこと

「メディアの中には、私たちのことを取材してくださるところもあり感謝しています。でも、言いたいことも山ほどあります」と森松さんは話し始めた。

例えば「原発事故」という表現。事故はアクシデント、「それはちょっとしたアクシデントだね」という軽い感じに思われがちだ。チェルノブイリ被害国ではカタストロフィー(大惨事)という。森松さんは、「放射能ばらまき事件」と言うようにしている。今でこそ声を大にして、そのように表現することができるようになってきたが、8年前そう言うと、大バッシングにあったという。「放射脳」と揶揄されたり、「非国民」呼ばわりされたり……。

2つめは、「自主避難者」というメディアがつけた表現に起因すると森松さんは分析する。「自主」は 「自主トレ」などのように一見前向き、主体的に聞こえるし、そういう先入観を植え付ける。または「やらなくてもいいのに、わざわざ自主的にやっている」という印象もある。しかしそのことで、福島が未だに放射能に汚染されている「実態」が隠されてしまう、と森松さんは危惧している。

「私たちは汚染があるから、福島から出て来たのです。『自主』ではなく『自力』避難と言って欲しいくらいです。また、国連の勧告でも指摘されている通り、原発避難者は国内避難民(IDP)に該当します。政府には保護義務があるということ、国際社会から日本という国はどのようにみられているかということを、もっとマスメディアは報じるべきです」。

◆「風化」ではなく、被害事実の矮小化と隠蔽

事故から8年経ち、原発関連や福島の汚染状況などを伝えるメディアが徐々に減っている。こうした傾向は、来年の五輪開催へ向けて一層強まるだろう。人々はそれを「風化」という。しかし森松さんはきっぱりこう言う。

「『風化』ではありません。風化とは、形あるものがなくなっていくこと、時の経過とともに忘れ去られることです。放射能汚染の事実も被害の実相も、放射能が目に見えないことを良いことに被害の実相も認知されていない。つまり風化ではなく、それは単なる事実の矮小化と隠ぺいです」。大阪に避難するまでの2ケ月間、放射能に襲われるという被ばくの恐怖を「肌感覚」で感じてきたからこそ、そう言えるのだという。

「私は『歩く風評被害』といわれた時もあります。でも『風評』ではなく『実害』です。確かに線量は下がったが、放射能は土壌に深く積もったまま。そこに住まわすことを『人体実験だ』『モルモットだ』という人もいる。福島の人たちを差別するなという人もいる。以前に「フレコンの前で子育て、私ムリ」という川柳を作りました。これを読んで辛い人もいるのだからという批判も受けました。ですが、私は、でもこれ以上事実が封じ込められてはいけない、『私はフレコンバッグの前で子育てはしたくない』と誰もが堂々と被ばくを拒否する権利をコトバにできる社会であるべきだと思ったのです」。

原発賠償関西訴訟 第24回口頭弁論は11月21日(木)大阪地裁にて

◆子どもとともに裁判へ

森松さんの頭の中には、泣く泣く戻ったママたちのこと、様々な事情で避難できず福島にとどまった人たちのことが、いつもあるという。お金が欲しいだけなら、個人で訴えることもできるが、福島にとどまった人たちも救われる、そして避難した私たちも含め、すべての被害者が救われるための施策に結びつけたい、そして同じ過ちを繰り返さないで欲しい。

そんな思いから、「避難の権利」を求めて、2013年9月17日、大阪地裁に提訴、「原発賠償関西訴訟原告団」の代表も引き受けた。第一次提訴者数は27世帯80人、森松さんの家族は子ども2人と森松さんと夫の4人が原告となった。現在原告は238人、うち3分の1が子どもだ。

「私たちは、国が『国策』で進め、万が一にも事故を起こさないと公言していた原発から無差別に漏れ出た放射能のことを問題にしています。国策で進めてきたのだから、避難したい人には避難させ、その生活を保障する、そういう制度がつくれればと考えています」と裁判の意義と将来の展望を語ってくれた。

最後に、9月19日、東電の3役員に原発事故の刑事責任を問う裁判で、3人に無罪判決が下されたことについてお聞きした。

「東電は『万が一』といいます。17メートルの津波が来ることがわかっていたなら、万が一でも万が三でも(原発を止めないにしても)やるべきことがあったはずです。実際ちゃんと対策し、被害を免れた原発もあるのですから。ただあの判決を見た人たち、つまり市民社会が、今度はどう本気になって動くか、あるいは世論がどのように喚起するのかが、カギになると思います」。

森松明希子さん

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。最新刊の『NO NUKES voice』21号では「住民や労働者に被ばくを強いる『復興五輪』被害の実態」を寄稿

〈原発なき社会〉を求める雑誌『NO NUKES voice』21号 創刊5周年記念特集 死者たちの福島第一原発事故訴訟

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