初めて読んだ自叙伝は吉川英治の「忘れ残りの記」だった。中学生の頃だったかと思う。多くの人の例に漏れず「三国志」や「宮本武蔵」に夢中になったが、長編小説はお金がかかるので、短めの本作を図書券で買い、お釣りを小遣いにする意図からだった。
他の吉川作品を読んでも、著者の事は何もわからなかった。中学生でも読みやすい文体から、現代の人だと思っていた。なぜ一度もテレビに出演しないのだろうなどと思っていた。明治生まれの人だということも、自分が生れるずっと前に亡くなっていることもそれまで知らなかった。
そこには、頭の悪い私でもすぐ理解できる直接の経験が書かれていて、悩んだ時にどうすればよかったのか、人生の挫折を味わった時にどうしたのか、とても分かりやすく書かれていた。どういうわけか幼少より兄にひどく嫌われ「なぜ生まれたのか」と自問していた、自分のために書いたのだとすら思っていた。きっと吉川英治の文章が優れていたのだろう。
それから自叙伝、自伝的小説というものに夢中になった。夏目漱石はどの作品も面白かったが「草枕」「道草」は他とは違った楽しみがあった。太宰治であれば「晩年」が秀逸だ、と勝手に思っている。最も感銘を受けたのはサマセット・モームの「人間の絆」だった。西洋でキリスト教を捨てることの困難や覚悟を知り、芸術家が生きることの困難、人生の失敗、挫折、堕落、知りたいことは何でもあった。人として生きることを学ぶのに、時代も国も関係ないのだ。タレントなども少し人気が出るとすぐ自伝本を出しているが、見出しに書かれるような酷い貧乏や荒れた生活が面白いのではない。その中で何を思い、どのような行動したかが上手く表現されていなければ退屈だ。
多くの偉人から多くの人生を学んだにもかかわらず、今も失敗を繰り返しながらどうにか生きている。人間、いくら知恵をつけたつもりでも、悩み落ち込み反省をしながら、ただその日を生きているのだと感じる。漱石に言わせれば「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」のだ。
そう考えると生きるのが少し楽になる。どれだけ頑張っても片付かないなら、もっと肩の力を抜いてもいいんじゃないかと。大変な仕事を抱えていようが、どれだけ理不尽な目に遭おうが、どうせ解決しないのだ。ましてやこちらとら完璧ではない人間だ。
どうにも悩みが続き、心が晴れない時はまた自叙伝なりを読む。誰だって同じことで悩んでいるのだなあと思う。吉川英治は「老来なおさらもどかしい幼稚が失せない」と書いている。70歳近くにしてまだ幼稚だと自認していたのだ。辛い時、こういった言葉を思い出しては、気を楽にしている。解決しない問題を抱え、幼稚なまま老人になっても、まあいいだろう。
(戸次義継)