◆武士とは何者なのか

奈良王朝の貴族の叛乱をみると、彼らがほとんど独自の兵力を持っていないことがわかる。橘奈良麻呂の乱や恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱は、兵を動かす手続きの段階で露見している。あるいは自分の縁故がある国(仲麻呂の場合は八男が国司を務める越前)に拠点を構えようとして討ち取られている。つまり貴族たちは私兵ではなく、公的な兵士である軍団を動員しようとして失敗したのだ。それがよくわかる以下のような称徳帝の詔勅がある。

「王臣の私家の内に兵器を貯ふるは官に進ましめ、關国(関所のある伊勢国・美濃国・越前国)百姓及び餘国の有力人を王臣の資人に充つことを禁じたまふ」(『續日本紀』巻二十六)。

自宅に兵器を貯えたり、関所を設けている国の人々、およびその他の国の有力者を警護役にすることを禁じる。つまり独自の軍事力を持ってはいけないというのだ。律令制は厳格な官僚組織の規程であり、文書による手続きも煩雑だった。それゆえに、兵を動員しようとすると露見してしまうのだ。貴族たちの叛乱が未然に封じられたのは、独自の兵を持たなかったからにほかならない。平安京を遷都した桓武天皇は、兵役をともなう防人の軍団制を廃して健児の制のみとした。律令国家は禁裏と国府の警護いがいの軍事力を廃止したのだ。江戸時代と並んで、平安期は平和な世紀だったといえよう。

しかるに、院政を敷いた上皇たちは北面の武士という、独自の軍事力を持つようになる。当初は叡山など寺社の僧兵たちの強訴を警備するためだったが、やがて朝廷内部の政争・政変に使われるようになる(保元・平治の乱)。桓武天皇の系譜をもつ平氏、そして清和天皇の系譜をもつ源氏、および藤原氏の系譜が各地の国司や郡司、荘園の荘官となり、地元に勢力を貯えていく。これが武士の誕生である。有力な農民が一党をかまえて地侍となり、地頭などの職を得た武士の系譜はこれらとは異なる。

◆武家の勃興と政変

源氏物語

実力をたくわえた武士をあやつり、そしてその武力に翻弄されたのが後白河法皇である。保元の乱で天皇として実権をにぎり、荘園整理などに辣腕を振るうと、在位3年で譲位した。権謀術数に長けた法皇の治世は、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇の五代30年にわたった。

源氏と平氏の力で勝ち得た皇位だったが、平氏(清盛)が台頭すると、一転して院政を停止されてしまう。源氏(義仲・義経)が平氏を京から追い落とすと、それに一味して院政を保つ。のちに源頼朝から「天下一の大天狗」と呼ばれたのは、つねに源平の間をゆれ動き、義経に頼朝追討の宣旨を出したかと思えば、頼朝が有利とみると義経追討を命じる。その一貫しない政治態度を評したものだ。ぎゃくに言えば、政治的なセンスに長けていたといえる。頼朝が熱望した征夷大将軍の職を、法王は死ぬまで与えなかった。

◆東西権力の激突

後鳥羽帝

後鳥羽天皇は安徳天皇が平氏とともに都落ちしたので、後白河法皇の詔により即位した。在位15年にして上皇となり、土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の三代23年にわたり院政を敷いた。そしてその院政は一貫して、鎌倉幕府との戦いであった。上皇は『新古今和歌集』(隠岐本)の撰者として名高く、蹴鞠、管弦、囲碁、双六と多芸な、いわば百科全書的な人物だった。そして武芸もその嗜みのひとつで、新たに西面の武士を設けて武芸の習いとした。激しい性格で、盗賊捕縛の第一線に立ったこともあるという。

後鳥羽上皇は当初、三代将軍の源実朝と縁戚になって、幕府との提携を模索していた。後白河院から継承した荘園群について、地頭が徴税を怠るなど思うに任せない領地支配を、鎌倉幕府の力で解決を図ろうとしていたのだ。

しかしこの策は、北条氏をはじめとする有力御家人の抵抗に遭った。そして頼みの実朝が暗殺されると、幕府との提携に陰りがさす。上皇は尼将軍北条政子の求める宮将軍宣下、すなわち鎌倉四代将軍に皇族を就ける上奏を退けた。ぎゃくに上皇は、院に近い御家人の処分の撤廃。あるいはみずからの寵姫・亀菊の所領の地頭を罷免するよう求めるのだった。御家人の賞罰や地頭の任免権は鎌倉幕府の武家統率の根幹であり、ここに朝廷と幕府の対立は決定的となったのである。かくして後鳥羽上皇は倒幕計画を練ることになる。

上皇は幕府呪詛の祈祷を始めるとともに、親幕派の西園寺公経らを捕縛し、京都守護職の伊賀光季を射ち滅ぼした。ついで執権北条義時(政子の弟)追討の院宣が発っせられ、院宣に従うならば褒美は望み次第とされた。承久の変の勃発である。これにたいして、北条政子が東国武士団の前で演説をした。かつて都の平氏に仕え、惨めな思いをしていた過去を思い越した東国武士団は結束し、19万という大軍で上皇軍を破る。後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。天皇の時代から、武士の時代に変わった瞬間である。

◆天皇親政の実現

後嵯峨天皇が後継を明らかにしないまま崩御したことから、後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の系譜から、天皇が交代で即位することになった。これが皇統を分かつ両統迭立である。

ところが第九十四代・後二条天皇と第九十六代・後醍醐天皇の代に、大覚寺統において後二条系と後醍醐系の皇位順序で紛争が起きる。後宇田上皇の「処分状(譲り状)」である。皇位決定者である治天の君になれないことに不満を感じた後醍醐天皇は、卓抜した能力を発揮して有力な人材を集めた。訴訟処理機構の整備や諸税をはじめとする経済政策、関所の廃止などを実施など、朝廷そのものの権益を拡大するものとなった。それはたちまち幕府の規制と衝突した。

両統迭立をふくむ既存の政治システムの破壊が、武力でしか達せないことに思い至った後醍醐は、後宇田上皇の死を待っていたかのように、倒幕計画をめぐらせる。だがこれは事前に漏れてしまう(正中の変)。7年後の元徳3年、天皇の倒幕の意志を知った幕府は、長崎高定らを派遣して討幕派を取り締まる。後醍醐は三種の神器を持って笠置山に逃れた。のちに隠岐に配流となる。

いったん倒幕運動はついえたかにみえたが、嫡男の護良親王が吉野で兵を挙げ、楠木正成が河内で挙兵すると、幕府軍は窮地に立った。幕府の命令で西上していた足利尊氏が後醍醐側に付くと、京都は討幕派が六波羅探題を陥れた。さらに新田義貞が鎌倉を攻めて、ついに鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐天皇の「建武の中興」である。

しかしながら、親政を実現した後醍醐天皇の政権運営は貴族政治への回帰だった。倒幕に参加した武士団が離反し、とくに足利尊氏が鎌倉で反建武政権派となったのは決定的だった。京都を追われた後醍醐は吉野で南朝をひらき、ここに南北朝争乱が始まるのだ。南北朝の騒乱は、室町時代のなかばまで尾を引きずる。

◎《連載特集》横山茂彦-天皇制はどこからやって来たのか
〈01〉天皇の誕生
〈02〉記紀の天皇たちは実在したか
〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体
〈04〉武士と戦った天皇たち

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業。「アウトロージャパン」(太田出版)「情況」(情況出版)編集長、最近の編集の仕事に『政治の現象学 あるいはアジテーターの遍歴史』(長崎浩著、世界書院)など。近著に『山口組と戦国大名』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『男組の時代』(明月堂書店)など。

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